旅立ち
「それにしても、大したものね。あれだけの戦いの傷が、あっという間になくなってしまうなんて」
悪神慈喰との戦いを終え、地平から昇った太陽が花枕の街を照らし出すのを見て、静利は感慨深げに呟く。
先の戦いによって破壊された街は、人々が邪神と呼ぶ結一神――神無の火属性の陽たる〝再生〟の力を帯びた炎によって完全に復元され、まるで何事もなかったかのような整然とした姿を取り戻している。
「この街と人々が失った十年を取り戻すのは容易ではないでしょうけれど、ひとまずは安心ね」
悪神の意識支配から解放され、隔離されていた花枕とその住人は解放されたが、その間の記憶や情報は存在しない。
これから外界から入ってくる真実に花枕の人々は戸惑い、しばらくは混乱するだろうが、それも一時の事だろうと静利は考えている。
「そうですね」
その未来が明るいことを信じているであろうことを感じさせる穏やかな笑みを浮かべる静利の声に、同じように花枕の街へ視線を向けていた命が淑やかな微笑で応じる。
「それで、お別れは済んだかしら?」
街を一望できる小高い丘の上に立ち、そよ風にその長い髪を揺らした静利が視線を向ける先には、静かに鎮座した墓石の前に向かい合う神無の姿があった。
この場所は、花枕に置かれた霊園の一つ。
遺骨や遺品も残っていないが、両親の最期を見届けた神無は、安らかな死出の旅路を願って二人の墓標に手を合わせていた。
「はい」
黙祷と追悼を奉げ、目を開いた神無がゆっくりと腰を上げるのを見た静利は、不意にその口を開く。
「ありがとう」
突然の感謝の言葉に、目を丸くした神無に、静利はわずかに気恥ずかしそうにしながら、言葉を選んで言う。
「あなたのお陰で、この街は悪神から解放された――あなたが、この街を救ったのよ」
神無がいなければ、悪神慈喰を倒すことはできなかった。今、静利が生きているのも、この街が解放されたのもそのためだ。
真実を知ったとはいえ、神を滅ぼす神たる邪神に天伺官として感謝の意を述べるのは憚られるが、その功績に礼を尽くすことをおろそかになどできなかった。
「静利さん……」
その言葉に、胸を締め付けられるような感覚を覚える神無を、命が慈しむように目を細めて見守る。
そんな中、静利は神無へとゆっくりと歩み寄り、感激に胸を震わせているその手を包みように自らの手を添えていく。
「本当にありがとう」
自身の手に触れる静利の細くしなやかな指と滑らかな肌の感触に、神無は感激に胸を震わせる。
静利の言葉に深い感慨を覚えた神無が感動を噛みしめていた次の瞬間、それを全て断じるように冷たく重厚な金属製の音が響く。
「……へ?」
無機質なその音で我に返った神無は、ゆっくりと視線を落とし、自分の手に嵌められた手枷を見て目を丸くする。
それはどう見ても手錠。霊力を封じる呪符が刻み込まれた天伺官が持つ拘束用具だった。
「邪神『神無』。一級天伺官の権限に於いてあなたを拘束します」
突然のことに理解が追いついていない神無に対し、静利は凛とした眼差しと共に澄んだ声音で告げる。
いかにこの街を救ったとはいえ、あれほどに強大な力を持つ悪神を討伐した神無を放っておけるはずはない。
静利の判断と行動は、職務に忠実であると同時に、至極真っ当なものだった。
「このまま皇都まで同行してもらいます――あなたもよ。いいわね?」
神無に対して宣告を下した静利は、その視線を命にも向けて同行を促す
確認をするような言い回しだが、静利の言葉は有無を言わせない命令に等しいものだった。
(もっとも、こんなものが彼を封じておけるとは思えないけど)
そう言いながら、静利は心の中で小さく呟いて枷を嵌められて困惑している神無をその双眸に映す。
いかに霊力を封じる術が刻まれているとはいえ、今の神無ならば力任せに破壊して逃れることも可能だろう。
神無を拘束したのには、その天巫である命を従わせるための人質のような役目もあるのだが、それが無意味であろうことも、静利は予測していた。
「神無様、いかがなさいますか?」
手錠をかけられた驚きと衝撃で目を点にする神無とは対照的に、命はその淑やかな居住まいを崩さずに言の葉を紡ぐ。
「神無が望むなら、力ずくででも拘束を解く」という意味を持つ言葉だが、それが実行されるとは、それを述べた命自身も思っていないことを、静利は確信していた。
なぜなら、敵対にも等しい意味を持つ言葉を発しながらも、命は霊器を顕現させることもせず、臨戦態勢を取ることもなく、戦意すら発していないからだ。
それでも先の問いかけをしたのは、神に仕える巫女として、その意思を問うためだろう。
「まぁ仕方ないよ。皇都へ行った歌恋のことも気になるし」
そして、そんな命と静利が考えていた通り、神無はこの状況を受け入れて、嘆息混じりに苦笑する。
「かしこまりました」
神無がそう答えるであろうことを見越していた命は、その決定に従う意志と共に恭しく応じる。
「……そう」
そのやり取りを見届けた静利は、淡泊な声で呟くと神無の手に嵌めた枷の戒めを解く。
「――っ! いいんですか?」
自分を拘束するための手枷を外した静利の判断に、神無が目を丸くして訊ねる。
「あなたのことは、信用しているつもりよ」
その言葉を受けた静利は、用済みになった枷を懐へしまうと、神無に背を向けるようにして呟く。
その後ろ姿から表情をはっきりと読み取ることはできなかったが、その声音は穏やかで神無は命と顔を見合わせて微笑み合う。
「――それに、邪神のあなたがその気になれば、こんな枷なんてなんの意味もないでしょう?」
そんな二人のやり取りを背で感じた静利は、どこか他人事のように聞こえる声音でそう締めくくる。
静利が指摘したことは間違っていない。「枷」はあくまでも人間を捕えておくためのものであり、神となった今の神無を封じておくには力が足りない。
まして、命が神無を結一神として覚醒させれば、どんなことをしても封じることはできないだろう。
先ほど神無を拘束できたのは、二人がそれに抵抗するつもりがないからだということを、静利は正しく理解していた。
「ただ、あまり勝手な行動はしないこと。私の言うことを聞くこと。――いいわね?」
「はい」
静利に釘を刺された神無は、命と顔を見合わせて頷く。
「じゃあ行くわよ。今日の内に列車に乗りたいわ」
隔離から解放されたことで、外界との往来が可能になった花枕の街を見て歩き出した静利に、神無と命が続く。
その最中にふと足を止めて振り返った神無は、先程まで自分が手を合わせていた墓標を見て言う。
「行ってきます」
今日まで育ってきた街を巣立つ寂寥感と期待に彩られた声で墓標――天に召された両親と式である妖狐が眠る場所へ告げた神無は背を向け、今度こそ一度も振り返ることなくこの場を後にするのだった。




