神臨の祝詞
「あれが……霊器!?」
神無が顕現させた黒白の矛を見た静利は、青褪めた表情でそれを見る。
(なんて強大な力……まるで底が見えない)
形状そのものは珍しくはない。だが、その質素で簡素な外見とは裏腹に、その内側に内包されている力は、半神となっている静利を震え上がらせるような「なにか」があった。
「…………」
自身の霊器に目を輝かせ、その感触を確かめるように軽く手の中で転がした神無は、一度息を吐くと、その矛を一閃させる。
その一振りの斬撃によって、命を呑み込んでいる石炎の拘束が両断され消滅する。
「っ!?」
天巫の力を以ってしても容易に脱出ができなかった石化炎の牢獄が簡単に打ち破られたことに目を瞠る静利の前で、解放された命は恭しく神無に一礼する。
「ありがとうございます」
「気にしないで。それより――」
お礼を述べる命に、これまで助けられてばかりだった神無は簡潔に答え、蛇のような身体をくねらせている宿儺曼荼羅へ向き直る。
先程の一撃で神無の霊器の力に危機感を強めたのか、宿儺曼荼羅はその鬼の形相を一層険しくしていた。
「――ッ!」
それに神無が気付くが早いか、咆哮を上げた宿儺曼荼羅の身体から強大な瘴気の渦が放たれ、世界を軋ませる。
大地が砕けて舞い上がり、かと思えば木々が捩じれて砂へと変わり、破壊と暴虐がその周囲に広がる。
「――っ、なんて力……」
六本の腕の中に収束された瘴気が圧縮され、その胸の前て小さな――しかし、あまりにも強大な力を持った力へと変質する。
(これを防ぐには、私と彼女の力を合わせるしかない)
「邪神の天巫! 私達で力を合わ――」
そこに込められたあまりに規格外の瘴気の密度に戦慄した静利は、その力を防ぐために即座に命と力を合わせる決断を下して声を上げる。
「神無様、わたくしを信じてまっすぐに斬り込んでください」
「……え?」
しかし、その声が聞こえていないかのように淑やかな声音で神無に語りかけた命の言葉に、静利は言葉を失う。
「あなた、一体何を考えているの!?」
即座に我に返り、暴挙としか思えない命の言葉に非難の声を向ける。
「あれに?」
「はい」
当然、その言葉を向けられた神無自身も、太陽の輝きにさえ近しい強大な瘴気の力を前に及び腰になってしまっていた。
だが命は、そんな神無の不安を取り除くように深い信頼を感じさせる慈愛に満ちた眼差しと声音で語りかけ、そっと身体を寄り添わせる。
「わたくしがあなたをお守りいたします。なにより、わたくしがお仕えするあなた様ご自身のお力を信じてください」
(えぇ!? そんなこと言われても……)
そうは言われても、今日この瞬間に力に目覚めたばかりの力を信じ切ることが出来ない神無は、心中で困惑する。
命のことを信じていないわけではないが、眼前の悪神が収束する瘴気の強大さは、太陽に蟻が飛び込むようなものにしか思えない。
だが、そんな葛藤も迷っている時間ももはやない。六本の手の中に収束された強大な力が今まさに解き放たれんとしている中、神無にとれる選択肢は二つしかなかった。
一つは命の言葉の通りにすること。もう一つは命の言葉を信じずに逃げ出すこと。
そしてこの二つの選択肢において神無が選ぶものは決まっていた。
「うわああああっ!」
自身を奮い立たせるように声を上げ、駆け出した神無は、顕現したばかりの己の武器を手に、一直線に悪神へと堕ちた土地神へと向かっていく。
「天神地祇の在らせられます高き原、いと尊き御座にまします我が神に願い奉る。天の砌より、星の階を降りて、神籬にあもり賜う
我が声は神霊と人を繋ぐ導。我が言の葉は現と幽を結ぶ扉。霊の縁を辿りて、現臨し祀らん」
神無が走り出すのと同時に、命は手を合わせて霊力を高め、意識を研ぎ澄ませ、息を整えると厳かな声音で言葉を呟いでいく。
(これは、神臨の祝詞! 神を召喚し、顕現させる天巫の奥義!)
天巫は己が仕える神に魂を禊ぎ捧げているために、現神顕臨を行うことができない。だがその代わりに、自らが仕える神をこの世界に顕現させる力を持っている。
通常その力は、この世界に存在しない神に形を与えて現界させるものだが、命の場合はすでに「神無」という存在としてこの世に在るために、それが異なる形でその力を示すことになる。
「――っ!」
(力が溢れてくる……!)
瞬間、自身の中に二つ目の心臓が生まれた様な熱い脈動を覚えた神無は、それと共に全身に巡る力を感じる。
天巫たる命が神を呼ぶ力を発現させれば、それは神無の中に眠っている邪神の力を呼び覚ますことに等しい。
まるで巫女の祈りに神が呼応するように、人としての神無の存在の内側に眠っていた神としての力が、一層色濃く世界に示される。
(それに、なんだか戦える気がしてきた!)
そして力が高まると同時に、これまで感じていた魂さえも竦むような恐怖までもが神無の中から消え去り、そして自分が自分ではないものになっていくような感覚までもが湧き上がってくる。
戦闘の経験や技能などないはずなのに、自分がどう動けばいいのかを身体が教えてくれるように昂ぶり、知らないはずの自分の力も、まるで生まれた時からずっと使っていたかのように理解することができる。
自身の力の高揚と共に自身の霊器である矛の絵を握り締めた神無は、今まさに極大の一撃を放たんとしている宿儺曼荼羅へと向かっていく。
悪神へと堕ちた神が瘴気を収束させて作り出したのは、全てを呑み込み、無明の中へと葬り去る超重力の力。
咆哮と共に放たれた重力の渦が全てを呑み込む暗黒の星となって、その力の範囲を急速に拡大していく。
光さえも呑み込む暗黒の重力球は大地を、木々を、そして空さえをもその内側へと呑み込む。
「ウオオオォッ!」
しかし神無は、眼前に迫った暗黒の球体を前にしてもその足を止めず、それに向かって黒白の矛を突き立てる。
自身の内側にある恐れを振り払い、命を信じる心を高めるべく吼えた神無の魂を表した矛の刃が、悪神の生み出した暗黒を抉った。
神の力によって生じた暗黒の球体と神を殺す力を持つ邪神の矛がぶつかり合うと同時に、それぞれの力が相手の神の権能を討ち滅ぼさんとせめぎ合う。
その力がつり合い、霊力と瘴気が火花となって飛び散ると、矛の刃と暗黒の重力が拮抗して制止する。
「なんて力……!」
(神の力を霊器で防ぐなんて……! これが邪神の力、ということなの?)
神と霊器には、その格に天地ほどの開きがある。通常は、霊器のみで、――まして宿儺曼荼羅のように、格が高い神の力に対抗するのは不可能だ。
だが実際に神無の霊器は、宿儺曼荼羅が生み出した暗黒の重力球を受け止め、せめぎ合っている。これは通常ありえないことだった。
そんな静利の驚愕をよそに、神無の神を呼び起こした命は、呼吸を整えると同時に、自身の霊器である長杖――「玉盃」を振るう。
清冽な気配を纏い、紡ぎあげられた命の霊力は、玉盃から発せられた鈴の音を思わせる澄んだ清音と共に収束し、無数の閃光となって迸る。
命から放たれた無数の流星は、矛によって受け止められている超重力の暗黒へと突き刺さり、その力を弱めていく。
(そうか! 神を殺す邪神の力!)
それを見て、悪神へと堕ちた土地神が生み出した暗黒の重力が綻んだ理由に思い至った静利が心中で声を上げる。
「今です!」
そして、それによって、先程まで拮抗していた力のバランスが崩れたのを見て取った命は、神無に向けて鋭く声を発する。
その声が届くが早いか、命の援護によって暗黒球を削っていた矛の刃が先程よりも深く入り込んだのを感じ取った神無は、半ば本能的に力を解放する。
「ウ、オオオオオオッ!」
それは、意識してのことではなかった。ただ、暗黒の重力と、それを発現させている禍々しい瘴気の力を前にして、内心で不安と恐怖を覚えていた神無は、ここで力を出さなければ危険が生じると考えたに過ぎない。
それが、神を殺す邪神としての反応だったのか、人間としての生存本能だったのかは定かではない。
ただ、渾身の力を振り絞った神無の矛は、黒白の入り混じった力を吹き上げて、宿儺曼荼羅の重力を討ち滅ぼしていた。
「――っ」
だが、それでやられるほど宿儺曼荼羅も甘くはない。
土地神であると同時に、武神としての側面も持つ多頭多腕の蛇身悪神は、その手に顕現させた武器で神無を迎え撃つ。
一縷の勝機を見出した邪神の刃と、死を前にして逃れんとする悪神の刃。互いの力がせめぎ合い、大地を砕いて空を震わせる。
破壊の力の渦中にある神無と宿儺曼荼羅は、ここで切り崩された方が滅ぼされるのだと、最後の一閃を守り、そして相手に武器を届かせるべく力を振り絞る。
そして、その均衡は次の瞬間に崩れた。
「――っ」
宿儺曼荼羅の胸の中心から、緋色の劫火を纏った剣の切っ先が顔を出したのだ。
何が起きたのか分からないかのように、多顔にある全ての目を見開いた宿儺曼荼羅は、そのまま視線を動かして背後を見る。
そこにいたのは、真紅の翼を広げ、渾身の霊力を注ぎ込んだ太刀を背後から突き立てている半神の侍――「静利」だった。
「ごめんなさいね」
神無と命、神を殺す力を持つ二人を前に、さしもの悪神もその意識を奪われずにはいられなかった。
完全に自分の事を失念していた悪神に背後から剣を突き立てた静利は、静かな声で告げると同時に、渾身の力を以って真紅の炎を放つ。
「――ッ」
太刀の刃を伝って迸った真紅の神炎に体内から焼かれた宿儺曼荼羅は、苦悶の声を上げる。
神は神性を帯びた霊力によってその存在を成している。それは悪神であっても同じこと。
その存在を形作る歪んだ霊力たる瘴気が内側から焼かれ、浄化されればさしもの神もその存在を保っていられなくなるのは必定だった。
それを好機と取った命は、瞬時に新たな術を発動させ、真紅の炎に包まれてのたうつ宿儺曼荼羅を黒白の光で戒める。
神を滅ぼす邪神の力を借り受けて織り上げた術で悪神へと堕ちた神が封縛された瞬間、全てを呑み込む暗黒の超重力を斬滅した神無が姿を現す。
「神無様」
「う、おおおおおっ!」
術によって届けられる命の淑やかな声に背を押され、神無はそのまま最上段から矛で袈裟懸けに斬りつける。
その一撃を受けた宿儺曼荼羅は、神を滅ぼす力を持つ神無――「邪神」の力に破壊され、その中で消滅していく。
「――……」
自分が生まれ育った花枕の街とその一帯を守る土地神であった神が消滅していく様を寂寥感と共に見守っていた神無の目は、瘴気から解き放たれた宿儺曼荼羅が麗しい美貌で微笑みかけてくる姿を幻視していた。
艶めかしい美貌をした三面六腕の女神。――戦うための腕と、守るための腕、そして戦いながらも大切なものを見逃さず、守るべきものを見る顔を持った戦神にして慈母神たる女神――花枕を守る土地神の神々しく慈愛に溢れた姿が。
それは神無の勘違いだったかもしれない。だが、神無にはそれが瘴気から解放された土地神からの気持ちなのだと思えていた。
「か、勝った……」
宿儺曼荼羅が完全に消滅するのを見届けた静利は、神化を解除すると、呼吸を整えながら呆けたように呟く。
神格の差を鑑みれば、決して勝算が高いとはいえなかった戦いに勝利し、どこか現実味のない感覚が静利の胸中に湧きあがっていた。
「お見事でございました。神無様」
そんな神無の下に、春風に舞う花弁のように柔らかに歩み寄った命は、淑やかな微笑を浮かべて心からの賛辞と労いの言葉をかける。
「命達のお陰だよ」
そんな言葉に照れながら答えている神無の姿を見つめる静利の視線は、未だ険しさを失っていない。
(――邪神とその天巫……頼もしいけれど、危険ね)
宿儺曼荼羅は、本来たった三人で倒せるような神格の神ではない。たとえ静利が三人いても同じことはできない。
それができたのは、紛れもなくこの二人のお陰。実質そんな神を殺す邪神の力を見込んでこの戦いに望んだのだが、その力は驚異であると同時に脅威であると改めて認識せざるをえないほどのものだった。
「――っ」
その時、瘴気が鳴動し、静利と命は束の間の勝利に和らいでいた視線を険しいものへと変える。
そんな二人につられるように視線を向けた神無は、半瞬遅れてそこに広がっている降雨系に息を呑む。
「あれ、は……!?」




