土地神
「僕は、命のこと、信じていいんだよね?」
縋るように紡がれたその言葉からは、昨晩静利から言われた「邪神の天巫を信じてはならない」という言葉と、命が自分に霊力を使わせてくれた事実、何より命を信じたい神無自身の願いが感じられた
「神無様……」
その疑問に「もちろん」と答えるのはたやすい。だが、人を謀るものは、得てしてそう言うものであろうし、それ一つで神無の葛藤と疑念を吹き消すのは難しいだろう
昨晩静利が述べていた「甘言を以って迫ってくるものを軽々しく信じてはならない」というのは多くの場合真理であるのも事実なのだ
故に、命にできることはただ一つ。神無の信頼に応え、裏切らないこと
その覚悟を以って、神無の言葉を受け止めた命は、胸に手を当てて深々と黙礼する
「もちろんです。わたくしと、わたくしがお仕えする神に誓って、神無様の信頼を裏切るようなことは致しません」
神に仕える天巫にとって、自らが仕える神に誓うということは、最も重い約束であることと同義。
そして、霊力がないが故に自分の願いや想いを殺してきた神無が心から願うことに応えることこそ、邪神の天巫として、何より一人の女として命の願うことだった
現状、自身を信じてもらうに足る最大の誠意と敬意を以って応じた命に、神無も真剣な面差しで頷く
「うん。僕も、命のこと信じるよ」
「はい。――では、参りましょう」
一分にも満たないほどの短いやり取りの間に、すでに遠く離れてしまっている静利の後ろ姿を一瞥した命は、優しい声音で神無に語りかけると、二度の柏手を打って、自らの神の力を呼び覚ます
それに答えるように、神無の中にあった――否、神無そのものである邪神の力が魂の底から湧き上がり、身体に充溢していく
「……ッ」
「参りましょう、神無様」
身体の内側からあふれ出すこれまでに感じたことのない強い力に瞠目する神無に寄り添った命は、霊力をその身に纏って空へと舞い上がる
命に先導され、地を蹴った神無は、まるで自分の身体が空気になってしまったかのような軽やかな感覚を覚える
「うわ……っ」
そして、そんな神無の目に映ったのは、抜けるように青い空と地平線、そしてこれまで下から見上げているばかりだった花枕の街が眼下に広がる世界だった
(飛んでる……?)
そう錯覚してしまうほどに一跳びで高く飛び上がった神無は、次いで自分の身体が重力に引かれていく感覚に肝を冷やす
「お、落ちる!?」
「落ち着いてください。大丈夫です。神無様は特別な力を得たのではなく、本来の力を取り戻しただけなのですから」
そう言って耳元で囁く命は、神無とは違い重力に引かれていない
それは、命がこの世界に満ちた霊力から生まれた精霊であるからというわけではない。その証拠に先を行く静利にもそんな様子はなかった
「霊力とは、世界に自分の想願を表す力――すなわち、願いや想いを現実にする力なのです。十分な咒力さえあれば、空を飛ぶことも、重力の束縛を振り切ることも可能です」
神無に寄り添う命は、たおやかな声音で力の使い方を指導する
「わっ!?」
「そして霊力は、身体を巡る血液のようなもの。特別なことをする必要はありません。むしろそれを自分自身として受け入れるようにするのです」
近くにあった壁を蹴り、それを足場に再び飛び上がった神無に、命は目覚めたばかりの神の力を使う術を伝える
今の神無は、その存在に宿した神の力をその身にみなぎらせ、これまで知らなかった――この世界に生きる人間が当たり前に使えるはずの霊力を生まれて初めて本格的に行使している状態にある
だが、霊力とは何ら特別な力ではない。人に魂があるように、人に心があるように、人が生きているように、当たり前にその存在に宿っているものだ
だからこそ、その力を行使する最初の一歩はそれを〝使おう〟とすることではない。人が歩くように、息をするように自然に〝すでに知っている〟ことを知ることだ
「――ッ!」
命の言葉を意識し、できるだけ力を使うのではなく、いつものように身体を使う感覚に努めると、不意に周囲を流れる景色の速度が圧倒的に緩やかになっていくのが感じられる
それは、肉体の身ではなく精神や感覚にまで霊力が染み込んだことの証。霊力によって強化された肉体に感覚が追いつき、自分の身体として止揚を迎えたことの証だった
「できた」
「お見事です、神無様」
その感覚のまま、間近に迫っていた家の瓦を蹴って再び中空へ舞い上がった神無は、霊力が自分の力となった感覚に目を輝かせる
「……っ」
(すごい。これが、霊力を使う感覚! ――みんなが見てた光景なんだ……!)
眼下に流れていく景色。まるで空を翔けているような軽やかな動きは、これまでは全く知らなかったものだった
霊力を持たず、ただその力を羨望と憧憬の眼差しで遠くから見守っていることしかできなかった神無は、自分がその力を手にしたことに感動さえ覚えていた
「では、少しずつ速さを上げていきましょう。神たるあなた様ならば、慣れれば空を飛ぶことも可能になるはずです」
「うん。分かった」
そんな神無の興奮を冷まさぬように配慮しながら、冷静さを失わせないように声をかけた命は先行した静利を追う己が神と共に空を飛翔するのだった
「これは……」
念願の霊力を手にし、その力で花枕を進んだ神無は、命、静利の二人と共に土地神が祀られている社殿へと差し掛かる
花枕の社殿は、街を一望できる山の中に作られている。
悪しき力を阻む結界で覆われたその一角は、鳥居と階段で結ばれており、本来ならばそこにいるだけで身体が清められるような清浄な雰囲気に満ちている
――だが、それは本来であればの話。
「妖魔の巣窟じゃない」
眼前に広がる光景を前に、静利はその端正な顔を歪めて強張った声を絞り出す
眼前に広がった花枕の社殿は、禍々しい凶悪な瘴気に満ち満ちており、遠巻きにでも分かるほどに多くの妖魔が跋扈する魑魅魍魎の巣窟と化していた
「う……っ」
「本来、外的の侵入を防ぐための結界が逆に内側の瘴気を閉じ込め、外に漏らさないようにしていたのですね」
まだ足を踏み入れていないというのに、近づいただけで感じられる瘴気の濃度に顔をしかめる神無は、横から聞こえてきた命の厳かな声に理解を示す
「けれどそれだけではないわ。本来なら、これほどの異常になる前に都市が何らかの行動を起こしていたはず。
けれど、この街を司る者達が瘴気に侵されているために、こうして今まで放置されていたのよ」
そんな命の言葉を肯定しつつ、静利は都市とは思えない程に瘴気で汚染された街を見て顔をしかめる
仮に社殿に何らかの異常があったとしても、市長や見回りの天伺官が定期的にここを訪れる義務を怠っていなければ、これほど穢れるまで放置されるということはなかっただろう
本来なら、ここまで穢れるほど放置されているなどありえない。それはつまり、この穢れは確実に何者かの意思によって作られたということだった
(これでは、もう……)
天巫であると同時に精霊でもある命は、社殿一帯を覆いつくす濃厚な瘴気にその柳眉を顰める
「あの中は、強力な妖魔が跋扈する地獄よ。力を温存していては勝てないわ」
「はい」
命の胸中を図るように一瞥を向けた静利は、自身の魂を武器として顕現させた鞘入りの太刀を佩いて険しい表情を向ける
濃密な瘴気に満ちているほどその穢れの中心は強大な力を持ち、強力な妖魔が跋扈するるようになる。それらに携わる者にとっては当たり前の静利の忠告は、念のために神無へと向けられたものだった
「行くわよ」
天伺官である静利の声を合図に、息を呑んだ神無は、隣に寄り添う命の微笑に見守られながら結界へ覆われた社殿へと足を踏み入れる
「――っ」
(怖がっちゃだめだ。自分でここに来るって決めたんだから)
ことここに至って、昨日まで霊力を使うこともできなかった自分を思い返し自信を喪失しかけた神無だったが、ここに来た理由を思い返して足を踏み出す
静利は国に認められた一級天伺官。命は精霊であり、邪神の天巫でもある。二人と比べれば格段に能力が落ちるだろうが、自分から言い出した以上はせめて足手纏いにはなるまいと、神無は自分の中で決意を固める
社殿を覆う結界は、土地神を瘴気や妖魔から守るためのもの。そのため、人間にはなんの効力も発揮せず、素通りすることができる
瘴気で満たされ、結界そのものが変質していたりする可能性も考えられたが、結界は問題なく神無と静利、命の三人を透し、その内側にある神の領域へと招き入れる
「う……」
一歩結界の中に足を踏みいれた瞬間、静利はこの領域を満たすかつてない濃密な瘴気に柳眉を顰める
(間近で感じると、なんて凶悪な瘴気なの? これじゃあ、神無君は――)
結界の外からでも土地神の領域を侵食する瘴気の禍々しさは感じられたが、こうして実際に触れると、その悪性は想像以上のものだった
まるで触れているだけで自分の魂が根源から腐っていくような、そんな不快な感覚。訓練を積んだ天伺官である自分でさえそうなのだから、一般人である神無にはさぞ耐え難いものだろう
「うわ、空とか木とかが真っ黒だ。不気味」
「――あなた、平気なの?」
そう思って顔を向けた静利だったが、呼吸ごとに肺から染み込んでくるばかりか、立っているだけでも身体に侵入してくるような勝機を前にしても、神無は先程までと全く変わらない様子で佇み、あまつさえ余裕すら感じさせる言動を見せていた
「え?」
全く瘴気の影響を受けていない神無は、自分の反応に目を丸くした静利のといかけになんのことかわからずに首を傾げる
「神無様は我が神です。この程度の瘴気でどうにかなることはございません」
「く……」
それを見て、まるで我がことのように誇らしげに語る命もまた楚々とした所作を崩さずにいるのを見た静利は、言い様のない悔しさを覚えてしまう
「そんなことよりも――」
「ええ」
薄く紅を引いた花唇を開き、言の葉を紡ぎ出した命の声に、静利も凛と表情を引き締めて腰にはいた太刀に手をかける
「?」
その様子に首をかしげた神無だったが、瘴気によって黒く染まった森がざわめき、至る所から妖魔が顔を出すと、そこから立ち昇る威圧感に息を呑む
「怯えないで。怖がるのは構わないけれど、それに呑まれては駄目よ」
「はい」
瘴気の溜まったこの地は妖魔の巣窟。そこに人間が侵入すればこうなるのは必然だった
あらかじめその覚悟で侵入していた静利と命は、全方位を囲んでいる妖魔を見ても全く動じることなく、各々の霊器を手にする
「大丈夫です。わたくしが傍でお守りいたしますので」
「それにしても、予想はしいていたとはいえ、この瘴気――こんなの、街にいていいレベルの妖魔じゃないわよ」
桁外れの瘴気を宿した妖魔たちは、一体一体が滅多にお目にかかれないほどの強力な個体ばかり。それだけこの場所が高位の瘴気で淀んでいる証だ
先日街の中で戦った骸骨の妖魔と同等――あるいはそれ以上の強さを持つ妖魔がひしめき合う様を見て、静利はその緊張感を限界まで研ぎ澄ませる
「現神顕臨!」
これほどの妖魔の大群が相手では、力を温存するなどできない。一瞬が死に直結することを察した静利は、自身の魂を神格化させて最初から全力で戦うことを決意する
「神無君のことは任せたわよ!」
「はい」
半神化した魂から生じる霊力によって紅蓮の炎を喚起した静利は、真紅の翼を羽ばたかせて妖魔たちに向かっていく
「はあああっ!!」
人型、獣型、複数の獣が入り混じった混合型、あるいは人外型――どれ一つとして同じ姿をしていない妖魔たちが神の劫火を総べる静利へと一斉に襲い掛かっていく
いかに半神化している静利とはいえ、一度に戦うのは無謀としか言えないほどの数と質を備えた妖魔たちだったが、その時頭上に生じた無数の光球から収束された霊力の砲撃が降り注ぐ
(凄い。これが命の〝術〟――!)
天空から降り注いだのは、霊器の杖を携えた命によってもたらされた攻撃の術。それを爆風に艶やかな黒髪を翻らせる命の傍らで見ていた神無は、その力に息を呑む
「神無様。今の内に、霊力による戦闘の基本を覚えましょう?」
強力な妖魔を退けているにも関わらず、柔らかな声で語りかけてくる命からは、余裕めいたものが感じられるようだった
「霊力は大きく分けて、自身に効力を及ぼす『内功』と自分以外のものに効力を及ぼす『外功』があります
静利さんのような武者は、この内功を用いて戦っておられます――先程ここにくる時に神無様が身体に霊力を巡らせたのも内功です」
自身の身体能力や感覚、武器そのものを霊力で強化して戦っている静利を一瞥しながら述べた命は、霊器の錫杖の先から無数の閃光を放って妖魔を薙ぎ払う
「そして、このように自分以外の敵に効果を表すのが外功――即ち〝術〟です。この二つが霊力を行使する基本にして奥義です」
霊力の基本を攫いながらその力を示す命に、神無は意識を奪われる
命が説明したのは、真新しいことなどなにもない、誰もが知っているごく一般的な知識にすぎない
しかし、命と静利が見せるその力は凄まじく、霊力の片鱗を手に入れた神無にとって強く憧れを抱くものだった
「単純な能力の強化に留まる内功とは異なり、術は攻撃はもちろんのこと、防御、治癒、索敵などその種類は多様を極め、工夫次第で優れた力を発揮することができます」
そして、命が紡ぎ出した砲撃の術に打ち据えられた強力な妖魔たちは、その身に深い傷を負って苦悶の声を上げていた
「――さすが、神殺しの神の天巫の力ね」
神無と並び、霊器の杖を携えた命と視線を交錯させた静利は、意識を妖魔へと戻すと共に半神化した自身の力を纏わせた太刀で、生き残った瘴気の化生を両断する
いかに強力な術でも、ここまで強化された妖魔に一撃で致命的な損傷を負わせることは難しい
しかし、命は術士として優れている以前に、人々が邪神として恐れる神に仕える天巫。
ただ一柱でありながらこの世界の神全ての天敵ともいえる邪神の力は、霊力そのものの存在たる神と同質でありながら、それよりも劣る妖魔たちに対して、圧倒的なまでの殲滅力と殺傷力を発揮していた
『あの女を狙え!』
だが妖魔たちも愚かではない。命の術の力を目の当たりにしたところで、その危険性を正しく認識した妖魔たちは、一斉にその狙いを絶世の美貌を持つ黒髪の巫女へと変える
「ちょうどよいですね。少し、実践してみましょう」
「え?」
それを好機とばかりに微笑んだ命の言葉に、神無は思わず喉を詰まらせる
「わたくしが補助いたしますので、神無様はなんの心配もなさらず、存分にお力を振るってください」
「……っ」
自分の手に視線を落とした神無は、なんとか使えるようになった程度の自分の力に自信を持てずに表情を曇らせる
「神無様。霊力とは意志の力でもあります。できると信じることがその第一歩なのです
だが、そんな神無の不安を見透かしているかのように、命は戦場を忘れてしまうほどに穏やかな声音で、慈しむように微笑みかける
「ご自身を信じてください。自分の力なら、妖魔を倒せると信じることが戦闘において霊力の真価を発揮させるのです」
「でも……」
「大丈夫です。他の誰が信じずとも、わたくしは神無様を信じておりますから」
自分を信じ切れずに顔を伏せる神無に、神無自身よりも信頼を寄せる命は、霊力の障壁を正面に展開して妖魔たちの攻撃を阻む
「……っ」
ここまで命に信頼されているのだから、それに答えたいという思いが神無の中で強くなる
(僕は……)
神無は幼いころから、天伺官だった両親を尊敬し、憧れていた
霊力がないことで諦めていたその夢が、命の力で霊力を使えるようになったことで、神無の中で再び鎌首をもたげ始める
(ここでなにもしないなら、僕はもう何もできない)
たとえ何ができなくとも、自分にできることをしようと誓った神無が霊力を巡らせ始めるのを背中で感じた命は、信頼のみで彩られた微笑で応じる
「神無様、お願いいたします」
妖魔を阻んでいた結界を消した命は、半身をずらすことで、神無のために射線を確保する
それを合図に、命の背後で、手の平から霊力を放出して蓄積していた神無は、白とも黒とも取れるその力を、まるで球を投げるように妖魔たちの軍勢の一角へ向けて投擲する
「うわあああっ」
何とか自分の力を制御できる程度でしかない神無にとって、今できるのはただこうして放出した霊力を投げるだけ。
白と黒が内包されたまるで星空のような霊力の塊は、神無の膂力に比例した速度でただ放り投げられただけだった
「――ッ」
(なに、アレ!?)
しかし、それをその目に映した静利は、神無が投げた霊力の塊に、背筋が凍るような恐怖を覚えていた
それは、霊力の行使というにはあまりに拙く、術と呼ぶにはあまりに粗末なもの。だが、それを構築する力が秘める恐ろしさは、霊力を操る者ならば赤子にでも分かるほどのものだった
静利と同様に恐怖した妖魔たちは、咄嗟にそれに対して思い思いの方法で対処する。ある者は回避、ある者は相殺――そして、それによって破壊された神無の霊力は、一部の妖魔たちを呑みこんで消滅させる
「――ッ」
強力な妖魔たちを、瞬き一つほどの時間で消滅させた神無の霊力の奔流を目の当たりにした静利は、その顔を強張らせて、その力の痕を見る
(妖魔たちの霊力を喰らった――?)
そこまで広範囲ではないが、まるで抉り取られたように消失した大地は、神無の持つ力の恐ろしさを表すには十分すぎるものではあり、そして同時に「邪神」という存在を強く認識させてしまうほどに規格外で常識外れの力だった
「これ、僕が……」
「お見事です。これが神無様の神としての力の一端です」
自分の力を目の当たりにして信じ難いものを見たかのように目を丸くする神無に、命はお世辞ではない心からの賞賛を送る
天巫でありながら自らが仕えるべき神を持たなかった命にとって、ようやく見つけた信仰すべき神が現れ、その力を使っていることに感慨を抱くのも無理からぬことだった
(本当に、彼が邪神なの――!?)
形は違えど、喜びを露にする神無と命とは裏腹に、その力を目の当たりにした静利は想像だにしなかったその力に危機感を募らせていた
神無が邪神だと聞いても、今の今まで静利の中には疑念が強かった。むしろ、霊力がない心の隙を邪神の天巫にいいように利用されているというのが見立てだった
しかし、現神顕臨した自分でさえ手こずる様な強力な妖魔を一撃の下に大量に屠ってみせた神無の力は、静利の危機感を強く煽り、信じていなかった〝神無が邪神である〟という事実を、現実身のある可能性として考えさせるのに十分なものだった
(このままこの二人を一緒にしておくのは危険なのでは――?)
足元から這い上がってくるような恐怖と戦慄と共に、そんな考えが否応なく静利の脳裏をよぎる
しかし、そんな考えに囚われていた静利の思考は、次の瞬間一瞬にして奪われる
「――っ!」
背筋が粟立つような感覚が奔るのと同時、その本能的な感覚に従って、命が弾かれたように自身の眼前に、白と黒の入り混じった太極色の障壁を展開する
巫女として、自らが仕える神の力を借り受けて生み出された黒白の盾は、さながら天上の空のごとくに命の前に花開き、森の中を引き裂いてきた力の波動を受け止める
「――っ、この力は」
障壁を介して伝わってくる重厚な破壊の力に、命は絶世の美貌に苦悶の色を浮かべる
大地を引き剥がし、その余波だけで森を薙ぎ払うほどの力を持つその一撃が命の障壁と相殺して消失する
「命」
「お怪我はございませんか?」
そのあまりに圧倒的な破壊力を間近で感じた神無が声を上げると、漆黒の髪をなびかせた命が正面を見据えながら一瞥を向ける
先程のあの一撃を完全に防いで見せた命はその身体に傷一つ負っているどころか、服に汚れ一つつけていない。しかし、その身体は攻撃が来た方を向いたままであり、一瞬みせた花貌に浮かぶ表情が余裕のない心境を伝えてくる
「お気を付けください、神無様。あれは――」
命の声に導かれるように、その視線を送った神無は、そこにいる存在を目の当たりにして息を呑む
それは、あまりにも禍々しい異形の存在だった。
上半身は女性のようでありながら下半身は蛇。その身体にはネックレス、ブレスレットといった黄金の装飾を纏っている
身体にはタトゥーのように紋様が張り巡らされ、般若を彷彿と挿せる怒りの形相を浮かべた三つの顔を有するその存在は、六本の腕と蛇のような長い身体でとぐろを巻いて鎮座していた
長い髪を自らが発する気に煽らせ、爛々と光る眼でこちらを見据えながら、六本もある手の内、人体でいう両腕に当たる手で持った矛を携えるその姿は、見ているだけで心が凍てつくような空恐ろしさを感じさせる
「あれ、もしかして土地神!?」
その姿に委縮しつつ、その存在から漂う隔絶した力の気配に、この街に暮らしていれば知識として知っているこの土地を守る神の姿を重ねた神無は、恐る恐るその疑問を口にする
「――いえ、あれはもう土地神ではありません」
その神無の言葉に、命は厳かに響く淑やかな声音で肯定し、否定すると、静利がそれに続く
「瘴気によって歪んで、〝悪神〟へと堕ちたのね……!」




