霊力を持たない青年
――いつも同じ夢を見る。
そこは果てしなく広がる大地。闇に覆い尽くされたかのような漆黒の空に、まるで血に染まったかのような雲の群れ。
その中に立つ自分は、その視線の先に存在する何かに対峙し、そして煌めく刃を抜き放つ
《参りましょう。――様》
いつも自分を呼ぶ柔らかな花の様な声は、名前の所だけが掠れている。
どれほど耳をすませようと、この耳にその声が届く事はない――。
※※※
「またこの夢……」
目が覚めた途端、視界に映る見慣れた天井を見上げた少年は、目ぼけ眼で見慣れた自室の天井を見上げ、疑念と不快感の入り混じった小さな声で独白する
年の頃は十代後半。やや童顔気味ではあるが、少年と子供の狭間にある年齢を感じさせる、およそ年相応の顔立ちをした黒い髪を持つ少年の名は、「榊神無」。
どこにでもいるという言葉で表現される、顔立ち、体型共にごく標準的な少年は、布団から抜け出すと窓にかかったカーテンを開き、朝日に照らされる街に視線を向ける
「さて、今日も頑張りますか」
神無の視界に広がっているのは、木造の家々が立ち並ぶ街並みと、遥か彼方にそびえ立つこの世界のシンボルである巨大な樹――「世界樹」の姿があった。
桃桜色の花を咲かせ、街の至るところから顔を出す神々しく厳かなその大樹は、世界を結ぶ世界樹、その本体が張り巡らせた根から新しく息吹いたものだった
この世界では魂が力を持ち、億千万の人間と八百万の神々が存在する
人は神を崇め、時に恐れ、神は人に豊穣と災厄をもたらす
そんな関係が当たり前のように、何千年、何万年と続いてきた人と神が在る地である――。
「あ、ようやく起きてきた」
二階にある自室から大あくびをしながら降りてきた神無を、やや呆れたような少女の声が出迎える
人形のように整った小顔に、大きな目。大人の女性への花開く前の少女の愛くるしさを詰め込んだような印象を感じさせ、背の中ほどまである髪をツーサイドアップにまとめたその少女の名は「榊歌恋」。――神無の妹だ
「ああ、おはよう歌恋」
腰に手を当て、唇を尖らせて出迎えた妹の姿に半分寝ぼけた様子で答えた神無に、当の歌恋は大きくため息をつく
「もう、おはようじゃないでしょ。そんなんで、私がいなくなってからやっていけるの?」
「当たり前だろ」
室内にある大きな鞄を一瞥した歌恋の不安そうな言葉に、神無は気楽な笑みを浮かべて応じる
「ちゃんと朝起きれる?」
「できるよ」
心配そうに見上げてくる歌恋の問いかけに、神無は事も無げに応じる
ここで少しでも不安を残すようなことになれば、妹が安心してここを離れることができない。そんなことにならないようにという配慮はもちろん、自分にはそれくらいできるという自信と確信が神無にはあった
「ちゃんとご飯食べれる? 出来合いのものでもいいけど、ちゃんとバランスを考えて食べるんだよ?」
「分かってる」
まるで母親のようなことを言って来るなと思いつつ、成長して家を巣立とうとしている妹の成長に眩しさを覚えて、神無は優しく目を細める
「歌恋の方こそ、皇都へ行っても無理すんじゃないぞ」
「分かってるよ」
先程とは逆に、神無に返される言葉に歌恋は心外だと心の端で感じつつも、くすぐったそうな笑みを浮かべて応じる
「頑張りすぎるなよ」
「うん」
「つらいこととかあったら、無理せず適当にね」
「大丈夫」
いい意味でも悪い意味でも無理をしてしまう妹に優しく釘を刺した神無は、そっと手を伸ばして歌恋の頭を撫でる
「――子ども扱いしないでよ」
「してないよ」
拗ねたように言いながらも、甘えるような視線を向けてくる歌恋に、神無は苦笑と共に肩を竦める
昔から、歌恋は神無よりもしっかりしていた。妹ではあっても、あらゆる能力で神無はこの可愛らしい妹に劣っている
だから何も心配はしていない。だが、何も心配していないことと、心配しないことは別の事だ。――もっとも、気恥ずかしくてそんなことを口にすることはないが
「さて、朝ごはんにしようか。列車の時間にはまだ十分あるよね?」
「うん」
そう言って言葉を交わした神無と歌恋は、これまでと、いつもと同じ――そして今日が最後になる朝の一時を過ごす
そんな二人を、少し離れた机の上に置かれた写真――幼い神無と歌恋を挟むように、精悍な顔立ちの男と緩やかなウェーブのかかった髪を持つ女性が映ったそれ――が、優しく見守っていた――。
朝食を終え、それぞれに出発の準備を整えた神無と歌恋は家を出る
この国の中枢である皇都へと向かうこともあってか、清楚さと華やかさを持つ落ち着いた色合いの服で少しおめかしをした歌恋は、それとは不釣り合いにも思える鞘に納められた太刀を腰に佩いている
対する神無は、ただそれなりの服を着ただけの格好。無難としか言えない平凡なそれは、歌恋と比べるとあまりに冴えないものだった
神無に戸締りを任せ、一足先に家の外にでた歌恋は、くるりと振り返って今日まで過ごしてきた家を見つめ、感極まった様子で言う
「――いってきます」
囁くように、噛みしめるように言った歌恋は、戸締りを終えて出てきた神無と共に街へと肩を並べて歩き出す
「こうしてお兄ちゃんといられるのも今日で終わりだね。寂しくて泣いちゃうんじゃない?」
「そんなことないよ。それはそっちでしょ」
瓦葺の民家が建ち並び、世界樹の桃桜色の花弁が舞う道を歩きながら、二人はゆっくりと駅への道を歩いていく
「この街ともしばらくお別れかぁ……みんな元気だといいな」
今日まで育ってきた街に別れを告げ、その景色を心に刻み付けようとばかりに、周囲を見回している歌恋の歩調に合わせて歩く神無もまた、妹の門出の日に感慨深く思いを巡らせるのだった
「霊は人間と違って長生きだから、大丈夫だよ」
「……そうだね」
神霊と人々が共存するこの世界では、至る所に人外の霊を見ることができる
低位の霊は、人から守ってもらったり、霊力をもらうことを対価に、掃除や簡単な雑用などを行ってくれる
中位の霊ともなれば、人を乗せて移動したり、低位の霊ではできない重労働や難易度の高い仕事をこなしている
時に人を害するものもいるが、少なくとも低位の霊は多くの場合人よりも弱く、有史以来良好な共存関係を築いてきた
『カレン』
『カレン』
脆弱であるが故に低位の妖魔たちの情報網は優れている。歌恋の瞳には、今日の出立を知っている小さく弱い妖魔達が映っている
おそらく兄の目には映っていない妖魔達に視線で挨拶をしながら、歌恋は神無にそれを気付かせないように気を配っていた
そうしている内に、二人は家から一番近い駅へと辿り着いていた。小さなその駅は、改札と乗り場しかない質素なもので、本当の意味での列車の発着場だ
二人が住んでいる場所は街の中心から離れているため、この駅は街の中を移動するためのもの。歌恋はここから、大きな駅まで移動して、そこから皇都へと向かうことになる
「あ。一つ大切なことを言い忘れてた」
「まだ何かあるの?」
改札を抜け、駅のホームへと移動したところで、ふと思い出したように話を切り出した歌恋に神無は、気だるげに呟いて視線を向ける
誰に似たのか、お節介で心配性で面倒見のいい妹に視線を向ける神無に、歌恋は悪戯気な笑みを浮かべて応じる
「私がいないからって、悪い女の人に引っかかっちゃだめだよ。お兄ちゃん、絶対女の人見る目ないから」
「そんなことないよ。――そもそも、僕に言い寄ってくる女の人なんているわけないんだから」
冗談めかした言葉に、苦笑混じりに答えた神無の顔を見つめた歌恋は、満足気に一つ頷く
「うん。その様子なら大丈夫だね」
「歌恋……」
その反応を見て妹がなんのために、そんな話を振って来たのかを察した神無は、感謝に目を細めて口を開く
「僕の事より、歌恋の方こそ、悪い男に引っかからないように気を付けた方がいいんじゃないの?」
場の雰囲気を明るくするべく、あえておどけた口調で言う神無の言に、当の歌恋は虚を突かれたような表情を浮かべる
学業も運動も成績優秀、街の中でも指折りの美少女な上に、人懐っこく人当たりがいいこともあって、歌恋は男子によくモテていた。
兄として妹のそんな話はよく耳にしていた神無からすれば、自分よりも歌恋の本能を心配したくなるというものだ
「ふ~ん。心配してくれてるんだ」
「…………」
それを聞いて、どこか嬉しそうに上目遣いに視線を向けてくる歌恋に、神無はあえて視線を逸らして無視を決め込む
そんな神無の様子を見て小さく噴き出した歌恋は、背筋を伸ばして敬礼する
「うん。最悪でもお兄ちゃんみたいな害のない人を見つけるよ」
「なんか、腑に落ちない言い方なんだけど?」
天真爛漫な明るい声音で言う歌恋の言葉に、神無は褒められているような、からかわれているような感覚を覚えて微妙な反応を返すしかなかった
そんな風に兄と妹が別れを交わしていると、楽しい時間の終わりを告げるように、列車がゆっくりとホームへ入ってくる
中級上位の霊によって動かされ長い車両の列なった列車は、比喩ではなく意志を以って駅の然るべき場所に停止する
空気が抜けるような音と共に扉が開くと、歌恋はほんの少し別れを惜しむような表情を浮かべ、その未練を断ち切るかのように列車の中へ足を踏み入れる
「じゃあ、行ってきます」
「――ん。気を付けて」
涙をこらえているようにも見える歌恋に優しく微笑み返した神無は、軽く手を上げてその門出を祝う
これから離れて暮らすことになる二人を象徴するように、その間を扉が閉ざし、動力源となっている霊が発する音とともにゆっくりと列車が動き出す
入口に立ったまま、窓から視線を向けてくる歌恋の姿が見えなくなるまで、手を上げてホームから見送った神無は、列車が小さくなるのを見届けてからゆっくりと手を下ろす
「――」
その口から零れる吐息は物悲しげな色を帯びており、今日まで一緒に暮らしていた妹がいなくなることへの寂しさを宿しているように見えた
「行ったようじゃな」
「……いつからいたんですか?」
その時、不意に耳元に届いた皺がれた老人の声に眉をひそめた神無は、わずかに斜め上に視線を向けて不満気に言う
「いつからって、お前らが家を出るところからじゃよ。二人の別れを邪魔するほど、儂も無粋じゃないからの~」
神無の言葉に軽い口調で言うのは、宙空に浮かぶ一メートルほどの老人。その身を火の玉のような揺らめくオーラに身を包んで宙に浮く老人は、好々爺とした笑みで神無を見据える
「それはどうも」
その言葉に、精一杯の皮肉を込めて言う神無の言葉など気に求めず、宙に浮く老人は列車が走り去った方向へと視線を向けて口を開く
「それにしても、さすがは歌恋ちゃんじゃの~。あの若さで、この皇国の中央に、天伺官候補として招かれるとは……儂も鼻が高いわい」
「なんですかそれ」
まるで自分の事のように自信満々に言う老人に、神無は冷ややかな視線を向けて視線を逸らす
歌恋が向かった「皇都」は、その名の通りこの国の中枢。そして「天伺官」とは、この国とそこに暮らす人々を守る者達の事だ
そこに迎えられたということは、中央――国の守りを司る者達が、歌恋の能力を高く評価したことの証左だった
「何しろ、この『花枕』の街始まって以来の天才〝武者〟じゃったからな。亡くなったおぬしらの両親も、草葉の陰で喜んでおるじゃろう」
「――……」
その言葉に、神無は胸を刺される様な痛みを覚えて、表情に陰鬱な影を落とす
「どこかの無能に、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわ」
本心ではなく、からかうような冗談めかした口調で予想通りの言葉を口にする老人に、神無は沈黙を返すしかなかった
この世界に住まう人間には、「霊力」という力が宿っている。
魂から湧き出すその力は、それを使う者に様々な神秘の力を与え、霊力が高いほど強力な力を使うことができる
先程の列車も、霊力を以って霊を制御、時には支配することによって安定した運航を実現しているのだ
この世界の生活は、霊力を前提に成り立っている。そのため、その使い方などを幼いころから学校で習うのだが、霊力の強さや性質は生まれながらに決まっており、才覚がある者とない者で顕著に差が生じてしまう
歌恋は生来この霊力が優れており、その才覚を認められて皇都へと招かれることになったのだ
そして、その霊力は様々な形質として用いられ、歌恋は「武者」と呼ばれる、霊力を肉体や武器に纏わせるスタイルを得手としているのだ
「あぁ、歌恋ちゃん。なんで儂を式神にはしてくれんかったんじゃあ~」
「それを僕に言われても……」
わざとらしく「よよよ」と声を出して泣いているような仕草を見せる老人に、神無は胸に刺さった棘の痛みを感じながら、苦笑を浮かべる
「他にも、儂のような精霊があの子の〝式〟になりたくてアピールしたんじゃがのぉ」
「そうですか。それは残念でしたね」
歌恋と契約し、「式」になり損ねた老人精霊の愚痴をそう言って聞き流した神無は、そのまま駅を後にする
この老精霊のように、意図的に姿を見せない限り神無の目には妖魔の姿は映らないため、その言葉の真偽は分からない
「おぬしは分かっておらんのぉ。わしらみたいなか弱い霊にとって、歌恋ちゃんのような力のある人間は貴重なんじゃぞ?
霊力は美味いし、儂らの力も単純に強化されて、多様化するんじゃぞ」
しかし、懸命に力説するその言葉も聞こえないふりをして、神無は駅を出ていく
「あ、おい」
「そんな名残惜しそうにしても、歌恋はもう皇都へ向かいましたし、才能がない僕に何を言ってもらっても、僕には何もできませんよ」
自分の言葉も聞かず、帰路につく神無の後ろ姿を見送る老精霊は、遠ざかっていくその背中を見て、軽く頭をかく
「ちょっと、からかいすぎたかの」
「――……」
そんなやり取りをしている間、神無は全く気付いていなかった
二人の姿を、少し離れた世界樹の枝の上から見据えている人影があることを。
その人物は、顔に白い面を付け、漆黒の狩衣に身を包んだ人物。街を吹き抜ける風にその身を晒すその影は、瞬き一つの間でその姿をくらまし、この街の――あるいは、この空の下のいずこかへと消え去っていくのだった――。