2-8.深紅姫の峡谷探検Ⅰ
――「あ、あー。良し、これくらいの音かいや?」と、幼い子供の声が暗闇に溶けてゆく。ヒト種の可聴域まで音域を調整した彼女は、にぎにぎとその小さな紅葉のような手を開閉した。
「ふむ、久方ぶりの食事だったからか。吸えるだけ吸って来ただけあって、魔力が溢れよるの。何時ぶりか、フォルロッジの外の空気は……ふあぁ」
森林地域最深部『最果ての峡谷』で、人型の異形は大きく一度伸びをした。
鋭い八重歯を舌でちろりと舐めながら、その羽で巨大な峡谷の上を飛行する。
夜の峡谷は不気味なほど静まり返り、都市に近い下層の森林迷宮では喧しい魔物の鳴き声も聞こえない。
優雅に宵闇の飛行を楽しみながら、彼女はキョロキョロと辺りを見回して。
だがやはり、彼女の長い記憶の中でも見たことの無い地形が広がるばかりのようで、早々に飽きて空を見上げ始める。
彼女が器用に仰向けで飛行し、瞬く星を深紅の瞳に映していると――それは、唐突にやってきた。
ガッッッッ!!!! と。
ヒト並みの決して大きいとは言えない彼女の体が突如、上下から万力のような圧力に曝される。
「ガルァァァァッ――――!!」
「――ひぎにゃぁ!? 痛い痛いっ、こら、何をするかッ!!」
――灰と茶の斑模様、岩と見紛う大きさの質量体が弾丸さながらに飛び出す。
峡谷の岩肌に擬態した『亜飛竜』が、電光石火の速さで彼女の体に噛みついていた。
ヒトを容易に咥え込む顎に、上級以上の風魔法に匹敵する翼の風圧。
そして、そんな怪物に襲われた彼女は――場にそぐわない素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「ああ、驚いた――脅かすでないわ!! 何だったかの、余は手前をいつぞ文献で見たことがあるのだが。そうだ、確か竜もどきじゃな。独りで狩りとは……余と同じで、はぐれかいや?」
「グルァ……!?」
閉じようとする顎に、彼女の柔いはずの腹はあり得ない抵抗をし続ける。
貫き、獲物の味を噛み締めるはずだったはぐれ亜飛竜は、戸惑うように小さく吠え、さらに顎に力を入れる。
噛まれたまま、亜飛竜の推進力に晒され続けて辟易した様子で――「おい。痛いと言っておろうが、聞き分けのない」と、彼女がおもむろにその小さな手で、自分の太腿ほどの太さはあろうかという牙を掴んだ。
「『紅血装』」
牙をしっかりと掴んだまま、紅を差したような色の唇が、小さくそう呟く。
瞬間――彼女の白い皮膚に、全身の血管が浮き上がったかのような深紅の文様が描かれた。
「ギィィィィィッ!!!!」
――バキィッッ!! と音を立て、彼女の華奢な指が亜飛竜の硬い牙に食い込み罅を走らせる。
非力と断じた獲物の予期しない反撃に、堪らず亜飛竜は悲鳴を上げる。
しかし、その飛行速度は緩まらず、巨大な峡谷に沿ってどんどんあらぬ方向へ。
「この。まだ止まらぬかッ、いい加減にせんと……」
血管文様が彼女の背中までを覆いつくし、漆黒の翼が紅くドクンと一度脈打つ。
瞬時に翼が巨大化し、亜飛竜のそれを優に超える。
――バァン!!!! と、羽ばたかせるというよりは、空気を力の限り殴りつけたような音が響き。
ビタァッッ!! 両者は空中で静止した。
「ふんっ……!!」
突貫を止めた後、彼女はゆっくりと握った亜飛竜の牙を開くようにぎぎぎと力を込める。
大きな翼による莫大な推進力という大雑把さは、方向転換等の精緻な動きを利かなくする。亜飛竜は押すも引くも、手詰まりだった。
そのまま上下の牙に対抗するように――ゆっくりと亜飛竜の顎が強引に開かれてゆく。
果たして異形の少女は、怪物の咬合力を腕の膂力のみで上回った。
あんぐりと開いた顎から亜飛竜の口内を覗き込み、「……ふむ、初めて見る景色だの」と呑気に呟く。
「『余も一人で寂しかったからの、手前を眷属にしてやる。喜べ』」
ヒトの音を失った彼女は、血管の鎧を纏ったまま言う。
――羽を瞬時に伸縮させ、必要十分に空気を叩き。彼女は顎の間から逃れ亜飛竜の背へと飛び乗った。
身じろぎ一つの抵抗も許さぬ間。小さな口でその首元へガブリと噛みつく。
獲物を感知した彼女の八重歯が鋭く伸び、大きな亜飛竜の首の半ばまで突き刺さった。
「『従属血牙』」
伸びた八重歯の先から、彼女は自身の体液を亜飛竜に送り込む。
――ドクン!!!! と、亜飛竜の鼓動の音が拡大されて峡谷に轟き始め。
二度、三度――十度目にして、その音は止んだ。
彼女が伸びた八重歯をゆっくりと引き抜き終えると、役目を果たしたように元のサイズに戻る。
付着した亜飛竜の体液を長い舌で舐め捕ると、彼女はうゔぇぇと苦い顔をした。
「『手前は不味いな、そしてやはりヒトの血でないと魔力が湧かん……といっても、もう都市には住めんしなぁ……まあ、冒険者あたりから血を分けてもらおうかの』」
すっかり従順になった亜飛竜の背に乗りながら、魔族の少女――吸血鬼の真祖は、楽し気に竜もどきに話かける。
「『聞け。余はヒスティメラ=ヴラドという。手前が発声できるかは知らんが、覚え置け。よろしくの』」
その言葉にグォォと一声、もはや主を得てはぐれではなくなった亜飛竜が返事をした。
***
『最果ての峡谷』のほんの手前。
切り立った崖を下ろうかという所で、動きやすい皮鎧に身を包んだ猫獣人の茶色の尻尾がピィン!! と逆立つ。
「うそ……うそニャ、亜飛竜が従う生物が居るニャんてッ!!」
彼女は人差し指と親指で輪っか――OKサインを作り、その輪っかを通してヒスティメラと亜飛竜が居る方角を覗き見ていた。
吸血鬼と亜飛竜の戦闘を見ていた猫獣人の女は、その結末を見て狼狽える。
「ティリャン殿っ!! どうなされた、あの魔族はどうなった!? 遠見の加護で何を見たッ!?」
尋常ではない彼女の様子を見て、重厚な鎧に身を包む蜥蜴獣人がガチャガチャと音を立てながら駆け寄った。
「にゃぅっ、あっ、大体ま、魔族がどうしてここにっ!? と、ともかく今すぐ木都ウィールに帰還するニャっ!! あれは、てぃりゃー等にどうにかできる存在じゃニャぁ……っ!?」
近づく蜥蜴獣人の存在など気にもかけない様子の、ティリャンと呼ばれた猫獣人。それだけヒスティメラの存在は圧倒的で――そんな吸血鬼が、ゆらりと、闇夜に怪しく深紅に光る瞳をティリャンの方に向けたのだ。
――気取られた。
「ヤバいニャぁっ!! ドライ、逃げるニャ!!」
そう感じた瞬間、茶色の毛並みを逆立てて彼女は相棒に叫んでいた。
「な……まさか、感づかれたというのですか!? 奴は小生等から、優に5KMは離れているのですぞ!?」
狼狽える蜥蜴獣人と共に、彼女はヒスティメラを刺激しないようにゆっくりと後ろ歩きで崖から離れていく。
――異様な雰囲気を纏った吸血鬼は、OKサインを同じように覗き込み、ティリャンを見つめて微笑んだ。
「にゃぅ、ッッ……にゃははっ、今、てぃりゃーは魔族と見つめ合っちゃってるニャ――ドライ、ここはてぃりゃーが耐えるニャ。逃げて」
「それなら小生がッ……!!」
暗に自分が身代わりになると言っているティリャンに、ドライと呼ばれた蜥蜴獣人は納得いかないと地を尻尾で打ち鳴らす。
有無を言わさず、ティリャンは首に掛かっている鉄製の階級章をドライに押し付けた。
ティリャンの階級は鉄等級、対してドライの階級は一つ下の胴等級。
猫獣人の女戦士は、自分の方が強いから残って然るべきと主張していた。
「……相分かったッ!! 必ず、助けを呼んで戻るッ!!」
「うニャぁ、エルヴィーラ様によろしくニャっ!!」
自分の弱さに歯噛みするドライだったが、即座に表情を改め、言い放って背を向けた。
ティリャンもそれを聞き、木都ウィールを治める王女の名を口にする。
ウィール内で軍事と政治の全てを統括するエルヴィーラ・ケーニッヒは、同時に冒険者組合内で名を馳せた冒険者でもある。
――金等級。英雄いや女傑とでも言うべき、一騎当千の戦力を冗談交じりに当てにして、ティリャンはドライを見送った。




