1-25.親だから
密着していた互いの体から、しゅるりと衣擦れの音がした。
心地よい圧迫感が、母の抱擁がケルンの体から去ってゆく。
消えてゆくミゥの余熱に、ケルンは名残惜しい気持ちになる――だが、この歳で母に甘えすぎるのも流石に気恥ずかしいというものだ。
子供っぽい「もっと」と言いたい気持ちを、ぐっと押さえて我慢した。
「――体に傷は無いみたいだけど、外套が汚れてるね。魔力の残滓も残ってる……リセリルカ様のかな、光魔法と……あとはなんだろう」
抱き締めるという行為の中で、ミゥは息子の状態を調べていた。
照れているのか、もじもじとした様子のケルンを開放しながら、ミゥは微笑みを浮かべる。
一歩引いて、同じ目線の高さから、その顔を見つめた。
今までの、どこか自信のなさげな、全部をあきらめているような。
見ていて辛かった、息子の顔が。
だが今は、違っていた。
(ああ、嬉しいなぁ……やっと、良い顔をする様になったね。ケルンはリセリルカ様と会って、どんな経験をしたのかな? ケルンの"やりたい事"って、何だろう?)
「ケルン、どうだった?」
ミゥから発された、質問一つ。
それは、今日ケルンが体験した出来事のすべてに対する問いだった。
長い時間をかけて――今日聞いた声、生まれた感情をケルンは追想する。
「……世界って、俺が思ってるよりずっと、ずっと広いんだって、思い知れた」
思い起こすのは、激動の数刻だ。
蔑まれ、地の底を這いずっていたケルン。
何も見えない暗幕の中で、どこか諦めながら、それでもと空に向けて手を伸ばしたその指先に。
眩い程の光と、全てを焼き焦がす熱量を持った金色が触れたのだ。
そこからは、押し寄せる怒涛の未体験。
はじめて触れた魔法という概念。
身を竦ませる鳴き声、悍ましい羽音――はじめて知った魔物の恐怖。
確かな剣の重み、手に絡みつく、手ごたえ。『同族殺し』の罪。
苦しくて、辛い体験だったかもしれない。
それでも、金色が運んできた『世界』の調べは、少年の胸に小さな覚悟の種火を宿らせた。
這いずるのは、もうここまで。
見えなくても、耳を澄ませ。
転んでもいい、立って歩け。
飛べないのなら、何かにしがみ付いてでも上ってゆけ。
彼女が居る、その高みまで。
ケルンは、そんな風に思うから。
「リセリルカ様――とても、強かったでしょ。でも、彼女はケルンと同い歳なんだよ?」
ミゥは微笑みを浮かべ、ケルンを見ながら、諭すように言う。
母のその台詞から、ケルンのとある考えは半ば確信に変わっていた。
――ああ母さん。やっぱり……分かってた。
俺とリセが出会ったのは、偶然なんかじゃなかったんだ。
あの時、盗賊の塒での、魔法具を通しての通信の中で。
母さんとリセは、互いを知っている風で。それでいて、何か取引をしている様だった。
母さんは、やはり俺とリセを合わせたかったのだ、何としてでも。
リセの人となりを見て、強さを見て。
同い歳で、これだけすごい女の子がいるんだと、諦めてる場合じゃないと、伝えたかったんだ。
俺が、いつまでも這い蹲ったままでいたから。
盗賊の塒の中で、あの時聞いた母さんの言葉の裏は、そうなんだ。
「……うん、知ってる。同い歳なのに、リセがどれだけすごいのか。全部は分からないけど、すごいことだけは、確かに分かった」
見えてはいないその白磁の双眸で、ケルンはミゥの目を見つめる。
その黒で縁取られた真白の瞳に、確かな輝きが宿っていて。
ミゥは温かい眼差しで、同じ色の目を以って、その視線を迎え入れた。
「同い歳の女の子にできて、ケルンにできない事ないんだよ」
いつだって明るい、勇気をくれる母の言葉。
見えていなかっただけで、ケルンはいつでも支えられていた。信じられていた。
自分自身を信じられなくても、母は息子を信じていた。
「……そうかな。俺、やってみたいと思ったんだ。できなくても、意地でも、リセの隣に立ってみたいって」
「できるよ、ケルンなら――」
ミゥは、自分の白髪とは異なる色を持つ、ケルンの黒髪の上に手を置いた。
愛し気に目を細め、その髪を梳く。
「いつだって子供を信じるのが、親ってものだから」
***
「……あれ、父さん?」
とととっ、石畳を叩く音がケルンの耳に届く。
いつだって急ぐことなく、一定のリズムで踏みしめられていたその音が、だが今は異なっていた。
音が伝わる間隔は短く、軽い。
「あ、そうだ、ケルン。紹介したい人がいるの」
「え? じゃあやっぱりこの足音は――」
ケルンの耳に届いていた足音が、すぐ近くで止まる。
不安げな顔をした赤髪の少女が、ミゥを見つけて声を掛けた。
「あの、ミゥさん? いいんですか、テインさん放置しておいて……あっ」
聞き覚えのない少女の声が、ケルンの耳に届く。
リセリルカの金声玉振のそれとはまた違う、少しハスキーな声。
ミゥの傍に居るケルンに気づいたのだろう。エイシャは申し訳なさそうな顔を浮かべて、ケルンを見た。
「エイシャ、この子は私の息子。ケルンって言うの……今はまだ、目が見えないけど。仲良くしてあげて?」
ミゥが優しくケルンの背を押し、エイシャの前へ立たせる。
ケルンは見えない目を見開いて、真っすぐ、声のした方へ目線を向ける。
そんな目線を受けて、エイシャはたじろいだ。
「えと……今はまだ? いえ、それより、良いんですか。私は……」
ケルンという少年を危険な目に合わせた、その張本人は。
紛れも無い、エイシャ達盗賊団だ。
その事実が、どうしても少年に対する引け目を生んでしまう。
「エイシャさん、ごめんなさい。店内じゃなくて、家の中で、母さんと父さん以外のヒトと会うなんて思っても無かったから。ケルン・ツィリンダーです、よろしくお願いします」
敵意のないその自己紹介を聞いて、エイシャは悟る。
同時に、少女はミゥの方を見た。
ケルンの母である彼女も、エイシャをじっと見つめていて。
――きっと、こう訴えかけてきていた。
あなたが、何であったかを言うも言わないも、あなたの自由だと。
ただ、言うのならば自分で言いなさいと。
エイシャの返答が遅いことに、疑問を感じたのだろう。
目線はそのままに、ケルンは首を傾げる。
何も知らないような、純粋な少年を見て、赤髪の少女は傷だらけの腕を掻き抱いた。
「……エイシャです、家名はありません。よろしくお願いします」
エイシャは、何も言わずにケルンの挨拶を受け取った。
***
「――エイシャは、白魔法の才能があるみたいなの。だから弟子として、暫く家に置いておくことにしようと思って」
ミゥからケルンに、補足でエイシャという少女についての説明がされた後。
挨拶を終えて、ケルンは重要なことを思い出していた。
壊れた店先で待たせている、王族とその従者のことを。
「……ああ、そうだ!! 母さん、リセと従者のエリーさんが表で待ってるよっ」
「ええっ!? ケルン、早く言ってよ!! ああどうしよどうしよ、とりあえず母さんテイン叩き起こしてくるからっ」
わたわたとした様子のミゥが、その場で意味もなくクルクルと回転する。
「ミゥさんッ……!! なんで、そんな、あははっ……!!」
そんなミゥの行動を見て、エイシャがテインの時と同じようにまた小さく吹き出した。
その声を聞きながら、ケルンも小さく笑う。
どうやら、エイシャという少女は、母さんや父さんと波長が合うのかもしれないと、そんな風に感じていた。
「……あ、そうだ。エイシャ?」
「あははっ……!! はぁ……、何ですか、ミゥさん?」
工房へ行きかけていたミゥが、その足を止め、エイシャに話しかける。
ただ、その雰囲気は先ほどまでのふわふわしているものではない。
笑顔は消え、瞳を鋭利に尖らせる。
ちょいちょいとミゥはエイシャを手招きし、耳打ちをした。
「エイシャは、お店に出てきちゃダメだからね。最悪、殺されちゃうかもだから……今から私たちが会うヒトは、王族なの。ケルンと同い歳だけど、世界で上から数えたほうが早い位には、強いヒトだから」
「ッ……!! わかり、ました」
ぽかぽかと、平和な陽気の中。
そんな雰囲気にそぐわない話をされて、エイシャは夢から現実へ戻された気分だった。
「多分リセリルカ様は、盗賊団員は出来るだけ殲滅したいと考えるはずだから。だから、あなたがそうであることを……ごめん、そうであったことを、知られちゃいけないの」
「……それは、殲滅したいと考えるのは。そのヒトが王族だから、ですか? 盗賊団は、ヒトの敵だから?」
エイシャの問いから、一瞬の間。
ミゥは、表情の一切を消し去って言う。
「そうでもあるけど、打算的なところが大きいかな。私達ツィリンダー家とリセリルカ様は、共謀して盗賊団を炙り出したの」
「――魔法具と、ケルンを餌にして」




