下
一体何が弟の食欲を引いたのかは分からなかった。それは人魚という大変ファンタジックでメルヘンなものだったからかもしれないし、自分が出したものを食べるという、他の物を殺さなくても生きていけるシステムに憧れたからかもしれなかった。
しかし、そんなこと僕にとってはどうでもよかった。弟が何かを口にしそうになっている。ものを食べたがっている。それは何よりも強い真実で、正しいことだ。
僕は一度弟を病室まで送ったあと、人魚さんの元へ駆け戻ってきた。
「どうしたの、地球人くんのお兄ちゃん」
息を切らし頬を染めて走ってきた少年は、この病院の中ではなかなか見物だったのだろう、少しだけ目の焦点が合った彼女はまじまじと僕を見た。
「にんぎょ、さん」
「なあに、地球人さん」
「人魚の涙……弟にあげても、いい、ですか?」
ぴくり、と彼女の肩が動いた。顔が徐々に下がり、長く細い髪がこけた頬を隠していった。
僕はそんな人魚さんを、じぃっと見つめていた。彼女の車いすは弟のそれよりも年代物で、ずっと前からここに居ることを表していた。それでも、僕は彼女が必要だった。人魚の涙が、必要だった。頬の温度が上がっていく。執拗に、それを求めていた。欲しがった。
水星に水がないことは、理科の授業でとっくに習っていた。太陽に最も近いちっぽけな星にあるのは土とクレーターだけで、人魚も、涙も、あるはずがなかった。そのくせ人魚さんは星の温度や一日が長いことを知っていて――そう考えると、なんだか可笑しい。
彼女がすうっと息を吸う。顔が上がった。
「いいよ」
僕は背中に隠し持っていたコップを彼女に向かって差し出す。中に入っているのは、グレープフルーツ風味のゼリーだ。数秒チャージと謳う、手軽に栄養をとれる便利なもの。ここに来る前病院内の購買で買い、弟の部屋にあるコップに移してきた。
人魚さんの涙は、本当に綺麗だった。
瞼をこじ開けたり、何度かまばたきをしたりした後、数滴の粒がプラスチック製のコップへと滑り落ちていく。それはまるでなにかの神聖な儀式のようだった。人魚が己を生かすために流す柔らかな涙はゼリーへと溶けた。もはや、ゼリー自体が人魚の涙と言ってもいいくらいだった。
「……はは」
これが――水星に住む人魚が食すなみだ、か。
僕はそれをそのまま、弟の元へともっていった。
弟は少しずつ、ものを食べるようになっていた。ゼリーに始まり、どろどろに溶かし甘くしたおかゆ、ミルク、透明な魚の刺身。人魚の涙と称せば、彼はなんでも食べた。最初は涙のように透き通ったものばかりだったけれど、少しずつ水分から固形物へと変えた。
一度食を覚えた彼の喉は、徐々に一般人のそれを取り戻していった。クロワッサンを大きく一齧りし、おにぎりをほおばり、サラダに口をつけ、ハンバーグをナイフで切り運ぶ。あんなに嫌がっていたのが嘘みたいだった。
「ん、確かに、何かを殺さないと生きていけない僕らだけれど――それも仕方ないかなって」
そんな、ありふれた妥協の台詞を吐けるくらいにまで、彼はなったのだった。
途中から人魚さんの涙はもらっていない。
「私は、水星からやってきた人魚なんだよ」
毎日のようにそう繰り返すようになった彼女とは、最近会っていない。何があったのかは分からない。それは僕らに関係すること、例えば僕が彼女を無意識のうちに執拗に追い詰めていたことだったのかもしれないし、他の、彼女自身に関することなのかもしれなかった。
ああでも――と僕は思う。彼女が涙を絞り出すたびに、僕が彼女に涙を求めるたびに、人魚さんはやつれていった。勿論単純な時間経過の問題もあるのだろう。しかし僕は何となく、彼女が弟のために自身の涙を搾り取っているような、彼女が涙を流すたびに自身の何かを零れさせているような、そんな感覚を感じ取っていた。
ある程度弟がものを食べられるようになった時点で、僕らは中庭に来ることをやめた。病室や廊下、他に日当たりの良い場所で、おしゃべりをした。
弟に必要だったのは、覚悟でも、説教でも、医者の診断でも、暖かな中庭でもなくきっかけだった。きっかけとしての涙だった。泪は――ただの、涙だ。
ようは、そんな話だったのだ。
まだ歩けるほどではないけれど、弟はもうすぐ退院する。人魚の涙を吸い取った彼はきっと、長生きするだろう。
人魚さんが病院の屋上から身を投げたことを知ったのは、数日後の事だった。