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【枯れ尾花】【地域限定と銘打たれた、よくある量産品】【恋とはどんなものかしら】〈ホワイト・ライ〉
自分は人魚なのだと、彼女は言った。
地球から遠く離れた水星から、大きな尾をうならせソラを泳いできたのだと。
「力を使いすぎて、たどり着いたときには地球人の足になっていたんだけどねえ」
柔らかな、しかしすべてを攫って行くような秋の風が僕らを通り過ぎてゆく。少し肌寒いね、と人魚さんはどこか深い海を思わせるカーディガンの前を閉めた。中庭にすっと背を伸ばして立っている銀杏の木は枝に鮮やかな葉をつけ、地面には見事な絨毯ができている。二台の車いすに挟まれ、僕は一つだけあるベンチの真ん中で逃げ出せずにいた。
車いすの背もたれに体重を預けた弟が、その小さな口を開く。
「人魚さんがいたスイセイって、どんなとこ?」
かすれた声だった。
それもそうだ、弟はあまりにも物を口にしない。医者からは「そういうものなのだ」と伝えられた。僕らがどうこうできるものではなく、彼にしか解決できない問題。彼の奥底にある、レタスや豚、サーモンひとかけらに対する同情心をどうにかしない限り、僕らは何もできない。
「そうねえ、地球より熱くて、冷たいところ、かなあ」
自らの事を「人魚」と呼ぶお姉さんは、そんな風に答える。水星はねえ、お昼間は360℃もあって、とてもじゃないけれど外には出ていられないの。逆に夜は、マイナス170℃しかなくて、それでは私たちの尾は凍り付いてしまう。だから私たちは、いつも「夕方」を求めて移動しているの。
ぼんやりとしたどこか焦点の合わない瞳に、弟はちょいと力をかけたら折れてしまいそうなほど細い首をかしげる。ちょっと難しいかな、という彼女のからころとした笑い声を聞きながら、僕は弟のかさついた唇を眺めていた。
毎朝病室で手のひらほどのクロワッサンをごめんなさい、ごめんなさいと涙をこぼしながら食べる弟は、僕とどこが違ってしまったのだろうと思う。何か、彼が不幸な目に合ったわけではなかった。父も母も、確かに僕らと一緒に居る時間は長くはなかったけれど、ちゃんと愛してくれていたし、祖父母も優しい。お金だってたっぷりとある。食事の関係もあって学校には顔を出せなかったけれど、それさえなければ、大人しくも真面目で優しい生徒の一人であったはずだった。
「水星の一日はとても長いから、私たち人魚は自分たちに丁度良い気温である夕方にずっといるの。泳いで、泳いで、ずっと夕方に向かって泳いでいくのよ」
一体、何が違ったのだろう。
まだ幼いころに、祖父が鶏の頭をはねるところを見てしまったこと? 散歩途中で半年をかけ育ってきていた稲が大きな機械に吸い込まれ、その命を刈られていくところを目撃したこと? 麦踏み? 教育番組の実験ショウ?
何にしたって、僕らは食べていかなくちゃいけなかった。それは残念なことに当たり前で、どうしようもなく避けては通れないことだ。
それを、彼は避けた。いつからかは、もうずいぶん昔のこと過ぎて覚えていない。
小さい、いつまでたっても小さい弟。彼は執拗に食べるのを嫌がった。これ以上の苦痛などこの世には存在しないのです、とでも言いたげだった。少しずつ練習をして、なんとかクロワッサン一個を数時間かけて食べるようにはなったけれど、勿論、それでは生きていけなどしない。
「ここの一日は随分と早いのね……目を閉じて、開いたらもう朝なんだもの。朝が来て、昼が来て、夕方になって、夜になって、次にまばたきをしたらもう次の朝になる。地球の温度が人魚に丁度良くて助かったわ。そんなに速くは泳げないもの」
しかし、世界は彼に甘かった。栄養失調で病院に入れられた彼は、透明なチューブから運ばれてくる栄養で生き残ることができてしまった。今日も、今この時も。当然筋肉なんてものは発達しない。車いすを誰かに押してもらい、ゆっくりと一日を過ごしていく。僕は学校が終わった後、病院の中庭まで走って弟、それからいつもこの場所にいる人魚さんと話をする。
水星につながっているのであろう、高い秋の空を見上げる。このちょっと変わった、不思議な人達、世界の軌道から少しだけ外れてしまった、しかしどこにでもいるような人々の住む病院は酷く静かで、本当に地球なんだろうか、なんて疑ってしまう。
でも確かにここは地球だった。水星と呼ぶには少し夜が来るのが早すぎる。どんなに弟の歩みが遅くても、世界は知らんぷりをして夕方を連れてくる。
「人魚は」
と、弟は聞いた。
「人魚は、何を食べているの?」
やはり声はがさついていて、夕焼け空を飛んでいくカラスの声に消されかけていた。人魚さんは一瞬、声を詰まらせた。弟がものを、命を食べられないことを、知っているのだろう。迷ったあと、そうねえ、と笑った。
「泪を食べているのよ、地球人くん」
曰く、人魚はずっと、ずっと、それこそ寝ているときでさえ夕方に留まるべく泳ぎ続けているものだから、何かを育てている時間も、採っている時間もない。だから彼女たちは、自分たちが流す泪を食べるのだ、と。
「人魚の泪はねえ、落ちた瞬間、キラキラと輝いて、それはそれは甘酸っぱい香りを放つの。それを私たちは掬い上げて、のどに落としてゆく。ゆっくりと冷たくやわらかなそれが食道を通り、胃へと流れていく感覚がたまらないの」
それを、ずっと繰り返してゆくの。私たちにしかできない、でもありふれた食事。私たちが流したものは、私達が食べる。高らかに歌い上げるがごとく語る彼女の瞳は、しかし、やはりぼんやりとしていた。人魚さんは確かにここの住民なのだと、僕は思った。
――小さな弟の口が、小さく開いた。それは一瞬の事だったけれど、僕は決して聞き逃さなかった。
「……たべて、みたいかも」