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幻想千夜一夜  作者: Ming
13/16

賢者の石 2 【イグノラ】

 赤子はワイズマンが考えていたよりも手がかからなかった。ほとんど夜泣きもせずに、ハイハイをするまでは大人しくしていることが多かったためだ。

 しかしハイハイをするようになってからは、山小屋の中をあちらこちらと動き回り、ものすごい勢いで移動するようになり、目を離せなくなってしまった。

 暖炉のそばに近寄らないように新たに柵を作らざるを得なかったり、腰縄を括り付けておく必要が出たりと、なかなかのやんちゃぶりを発揮し始めたのだ。

 一番困ったのは掴り立ちを覚えた頃だ。なぜかワイズマンの尻尾が気に入ったようで、机の脚や壁ではなく尻尾に掴り立ちあがろうとするのだ。

 振り向いて抱えようにも太く短い尻尾につかまる赤子を抱き上げようと振り向こうと動けば振り払ってしまいそうで怖い。これをやられるとワイズマンは下手に動けなくなる。

 そうなると仕方がないので、赤子が手の届く場所までやってくるまでじっと待つしかなくなる。

 赤子は尻尾を伝い、足を伝いワイズマンの手の届くところまで来ると、ワイズマンを見上げ褒めろ!と言わんばかりのやり遂げた感満載の笑顔を見せた。

 赤子を抱き上げながら、ワイズマンはそろそろこの子の呼び方も考えないといけないなと考える。

 人の子としてしっかりと教育していくつもりである以上、名前がないのは致命的にまずいだろう。


「君はまだこの世界事を何も知らんだろう。愚者(fool)……無知な者(ignorance)……語呂が悪いな。フーリィ……イグノラ……そうだな、イグノラとしておこうか。今日から君の名前はイグノラだ」


 ワイズマンはそう言って、イグノラをベッドへ戻し、やりかけの作業を再開した。

 今までは山小屋でイグノラを1人にすることができない以上、山菜の採取や狩り、ヤギの乳搾り、畑仕事までイグノラを抱くか、籠に入れて目を離さないようにしてきた。

 しかし両手が使えないのはさすがに不便すぎるため、イグノラを抱いたまま両手が使えるよう動物の皮を縫いスリングを作ることにしたのだ。

 外側は丈夫な熊の毛皮を使い、間に貴重な綿を挟み内側に柔らかい雪兎の皮を縫い付ける。北の山の冬は冷えるし雪も積もるため、防寒は十分にしてやる必要があるだろう。

 その後も尻尾と足元にじゃれ付くイグノラを構いつつ、スリングを作る作業を続ける。


「まぁ、こんなもんか」


 夕刻になり、ようやくスリングが完成した。幾分不格好ではあるが、内側は温かく丈夫に作られている。

 作業が終わり、夕食の支度をする。イグノラは乳を卒業して乳粥を与えている。

 さすがに一人で食べることはできないが、寝返りしかできなかった当初と比べると、何とも成長の速いことかと思う。

 せっかく作ったスリングだが、数か月でサイズが合わなくなる可能性もありそうだ。

 口の周りをベタベタにして乳粥を食べるイグノラを見て、ワイズマンはそう思うのだった。



 翌朝、ワイズマンは早速スリングにイグノラを納めると、外出することにした。季節はそろそろ積もった雪から春の草が顔を出す頃だ。

 この季節にしか取れない山菜や、薬草などを採取するために腹側にイグノラを、背には山菜を積むための籠を背負い、鎌を片手に山に踏み入った。

 冬の間は雪も深く、あまり外に連れ出すことは無かったためか、イグノラは山の様子をもの珍しそうにキョロキョロと見回している。

 時折、一定のところをじっと見つめて「だー」とか「あー」とか楽しそうに声も出している。


(もしかしたらこの子には、伝承にある”7つ扉の山妖精(アースキン)”が見えているのかもしれないな。もしそうなら、それはとても幸せなことだな)


 このところ、ワイズマンはイグノラに何でも話しかけるようにしている。

 当然、意味は通じてはいないだろうが、話しかけることで覚える言葉というものもあるだろう、という単純な考えからだ。


「イグノラ、見てごらん。この草は打撲や湿疹、切り傷や火傷に効く。ツワブキと言ってな、この葉の部分を火であぶってから細かく刻んで使うんだ。乾燥させた根茎を煎じれば中毒にも利く。覚えておくといい」


 もちろん、イグノラは理解しているようには見えない。それでも、ワイズマンは構わず話しかける。


「こっちはイワブキだ。この葉が美味いんだ。イグノラも早く大きくなって食べられるようにならないとな。お、こっちはウドの新芽か。こっちも採っておくか」


 薬草や山菜を採りながら、いちいちそれをイグノラに見せ、効能や食べ方を丁寧に説明していく。

 そして採取を続けながらワイズマンの足は北の尾根へと向いた。

 一時間ほど歩いて辿り着いたのは大木の根本に石が詰まれて作られた50cm程の塚だった。

 塚には蒲公英や、大葉子などのロゼット葉の草が咲き、周囲を彩っている。

 その前で、背負っていた籠を下すとワイズマンは塚の下で眠る男に祈った。


「約束通り、預かった子は元気に育っている。イグノラ、この人がお前を命を懸けて守ってくれた人だ」


 イグノラは不思議そうに塚を見つめている。スリングの中でもぞもぞと動いたので、少し出してやることにした。

 イグノラを降ろすと塚に掴まって立ち上がり、ペチペチと塚を叩いては嬉しそうに声を上げている。

 それは何よりもイグノラを守って死んだ男の供養となったのではないだろうか。

 そんなことをワイズマンが考えていると、やがて気が済んだのか、イグノラは振り向くと両手を挙げて抱っこしろ!と言わんばかりに「あー!あー!」と声をあげた。

 掴まり立ちを覚えて間もないその足はグラグラと揺れてなんとも頼りない。

 その足が一歩、前に出た。そのまま倒れそうになるところをワイズマンはさっと抱えて持ち上げる。


(この子が1人で立ち上がり歩き回るのも、そう遠くない未来の話のようだ。そうしたら、またここに報告に来るのもいいだろう)


「そろそろ帰るとするか」


 再び、イグノラをスリングに納めて山を降りることにした。

 行と違うルートをたどり、山を見回りつつ昨日の内に仕掛けておいた小動物用の罠を見て回りながら帰路に着くことにした。

 運が良いことに1つめの罠で雪兎が、3つ目の罠で山狐がかかっていたので、その場で血抜きをする。

 ワイズマン自身は雪兎も山狐の肉も問題なく食べるが、肉食の山狐よりも草食の雪兎の肉の方が美味く感じる。

 雪兎の血は革で作った血専用の袋に入れて持ち帰ることにした。ブラッドソーセージを作ったり、肉食獣を狩る際の罠に使うためだ。

 そんなことまで丁寧にイグノラに説明していく。


 ワイズマンがそれを見つけたのは麓の村の猟師たちが”狼の追込み場”と呼ばれる崖付近まで来た時だった。人と狼と思われる足跡が続き、それが崖付近で乱れていたのだ。

 名残雪にはまるで赤い花が咲いたような血痕が残っており、弦の切れた弓といくつかの荷物が散乱している。

 崖下を覗き込むと途中に生えた木に男が一人引っかかっているのが見えた。ここからでは生きているのか確認はできないが、下まで落ちていなければ生きている可能性はある。

 ワイズマンは一つ頷くと背負った籠を降ろし、持っていた縄を肩に担ぐと、太い指でがっちりと岩を掴みながら躊躇なく険しい崖を伝い下へと降りて行く。

 イグノラは、まだ付近に狼がいる可能性がある以上、置いておくわけにはいかないためスリングで抱えたままだ。

 やがて、男が引っかかっている付近まで来ると、片手で身体を支えたまま男の襟首を掴むと肩にひょいと担ぎあげた。

 そのまま縄で男の身体を落ちないように巻きつけると、再び危なげなく崖上まで戻った。

 男の怪我の状態を見ると足に咬みつかれたのか、下履きに血が滲んでいるようだが、他に目立ったが外傷は見当たらない。息もしている。

 簡単な止血だけすると、周囲に落ちていた男のものと思われる荷物と、山菜を入れた籠を担ぎ山小屋へと急いで帰ることにした。

 山小屋に戻り初めにしたことは、男の下履きをナイフで裂いての傷口の確認だ。傷はまだ新しいが、この先膿む可能性がありそうだった。

 山小屋の裏に生えているシブキの葉を詰み、水でよく洗った後に水を含ませた布に挟み軽く火で炙る。葉が柔らかくなったところで傷口を水で軽く洗い流し、葉を覆うように張り付けて上から先ほど裂いた下履きの一部を包帯替わりに巻いて固定した。

 シブキの葉はツンとした独特の臭気があり嫌われることもあるが、消毒作用があり膿み傷にもよく利く。

 当座の手当てとしてこれだけやっておけば、傷がこれ以上悪くなることはないだろう。

 手当中はイグノラもスリングの中で大人しくワイズマンの作業を見ている。賢い子だ。

 後は、男が気付かないうちに”精霊の戻り岩”まで送り届けてやらねばなるまい。


 陽が高い内に行った方がいいだろう。上手くいけば今日中に麓の村人が見つけてくれるかもしれない。


 そう判断すると、バンブー材を利用して作った水筒に水とイグノラ用の乳粥を入れて再び男を担ぐと山を降り”精霊の戻り岩”へ目指した。

 予定通り、日が暮れる前に”精霊の戻り岩”到着すると、岩を背に男を座らせてやり、持っていた荷物をその脇に置いてやった。

 男の様子が見える場所場所に身をひそめると村人が訪れるのを待つことにする。

 その間は、水筒に入れた乳粥を少しずつイグノラに食べさせてやりながら時間を過ごした。


 やがて陽が傾き始めた頃に、男は無事、供物を上げに来た村人に気付いてもらうことができた。

 村人は男を心配しつつ、岩に向かって感謝の祈りを捧げ、持ってきていた供物を置くと、男を背負った。

 その時、スリングから出し抱いていたイグノラがワイズマンの鼻先を手でペチペチと叩きながら嬉しそうな声を上げ始めてしまった。

 慌てて村人に見つからないように、イグノラを抱え大きな身体を小さくするワイズマンに対して、こんな山奥で赤子の声が聞こえたのが不思議だったのだろう。村人はあたりをきょろきょろと見回しはじめた。

 人差し指で必死に「しー!」とイグノラを静かにさせようとするワイズマンだが、それが却って面白いのか却ってきゃっきゃと騒ぎ始めてしまう。

 仕方なしに動いてしまう茂みには目をつぶり、姿だけは見られないように素早く移動し、山小屋に引き上げることにした。


 村人はと言うと、突然楽しそうな子供の声が聞こえたと思ったら、茂みの揺れが、常人ではありえない速度で離れて行き、子供の声もそれに併せて遠ざかって行ったように見えた。

 しばし呆然としていた村人だったが、怪我人がいることを思い出すと男を担ぎ村へと戻っていった。

 村の入口付近で、同じ村の顔なじみを見つけると怪我人を運んでもらうのを手伝ってもらうことにした。


「おーい!”戻り岩”に怪我人がおったぞ!運ぶのを手伝ってくれんか!」

「お、こいつは猟師村のやつじゃないか」

「そのようじゃのう、まぁ怪我の手当てはしてあるようじゃ。見たところ他に大きな怪我もないし心配ないじゃろう、一先ずは村長のところに運ぼうかと思うとる」

「それがよいじゃろ。前に怪我人が見つかったのは12年も前じゃったか」

「よく覚えておるのう、たしかそんな頃じゃったな」

「わはは、まぁ娘が生まれた年のことじゃったからな」


 猟師の顔色は悪くなく、どうやら傷の手当ても適切に行われていることもあり、村人二人の会話は明るい。

 やがて村長宅の前まで来ると、大声で村長を呼んだ。


「おおい!村長よ!”戻り岩”の怪我人じゃ!」

「猟師村のもんじゃ!」


やがて村長宅から白い髭を蓄えた痩せ気味の老人が出てきた。


「おう、ご苦労じゃったな。山の精霊様にはまた感謝をせねばのう。おい、誰ぞ猟師村に使いに出てくれんか」


 村長の言葉を受けて、若い男が一人「まかせろ」と猟師村に向けて走りだした。


「とりあえず、こんなところでは何じゃ。家に怪我人を入れてやらねばな」

「おうよ、それとじゃな、怪我人を見つけた時に精霊様の声を聞いたぞ」

「なんと、本当か」


そうして、男は怪我人を見つけた時の様子を村長に話して聞かせた。


「もしやそれは精霊様のお子様じゃったのでは」

「もしそうなら、喜ばしいことじゃ!」

「なら、次からは子供が喜ぶようなものもお供えして差し上げたらどうじゃろうか」

「おう!それはいい考えじゃ!」


 ”戻り岩の精霊様に子供が生まれた”という話は小さな村にあっという間に広まり、その後猟師村から怪我人を迎え来た者にもその話は伝わることとなった。




「どうしてこうなった……」


 次の日、ワイズマンが”精霊の戻り岩”の様子を見に行くと、木彫りのおもちゃや焼き菓子、このあたりでは珍しい絵本など今までとは違う、明らかに子供向けのお供えがしてあった。


「まぁ、これはこれで助かるが……」


 これはどうかと思わないでもなかったが、結局そのお供え物は有りがたく持ち帰ることにし、代わりと言っては何だが、礼のつもりで山奥でしか採れない薬草をいくつか置いて行くことにした。


 山小屋に帰り食事作り、イグノラを湯で洗ってやり、陽が暮れれば、イグノラを寝かしつける。

 珍しく愚図るイグノラを見て、そう言えばと今日もらってきた荷物から絵本を取り出した。

 人の作る本を見るのはどのくらい振りだろうか。大きな手で丁寧にページをめくり、久しぶりに見る文字を目で追いイグノラに絵本を読み聞かせてやることにする。

 その本は、遥か昔、西に存在したという砂の国の物語だった。そこに住む砂漠の民の子が砂の妖精サミアッドとさまざまな冒険をする冒険譚だ。

 静かな声でゆっくりと本を読み聞かせている内にいつの間にかイグノラからスピスピという寝息が聞こえてきている。

 本と目を静かに閉じ、しばらくはその寝息とパチパチという暖炉で爆ぜる薪の音に耳を傾ける。


 イグノラが来る前の100年は薪の音のみを聞いていた。今では山小屋の中に自分以外の命があり、その面倒を見ている。

 それを考えるとこの半年は、変わり映えの無かった100年と比べてなんと目まぐるしいことであったか。己の環境がずいぶん大きく変わったと思う。

 変わったのは環境だけではない。ワイズマン自身もずいぶん変わった。以前は孤独でも何とも思わず、騒がしいのも好むところではなかったが、目まぐるしい変化のある今の落ち着かない生活を、ワイズマンは結構気に入っていた。


 本来なら、自分のような者に人の子を育てるのは、その子のためにならぬのだろう。

 しかし、長年一人で過ごしてきたワイズマンにとっては、自分を必要とし、どうやら懐いている様子のイグノラが何とも可愛くて仕方なくなっていた。

 同時に、ずっとこのままではいけないという葛藤もある。別れの時は早かれ遅かれやってくるだろう。それは分かっている。

 一時は麓の村へ預けることも考えたが、既にそれが出来なくなっている自分に気が付いていた。イグノラがいなくなった次の100年をどう過ごせばいいのだろうか。


 (今は考えまい)


 手放せない以上は、イグノラを託してくれた騎士の男の願い通りに健やかに育てるのみだ。

 その時、イグノラが何かを探すように手を前にだし、にぎにぎと指を動かし始めた。それをみて、ワイズマンは自分の小指を握らせてやる。

 握られた小指はイグノラの口元に引き寄せられちゅうちゅうと吸い始めた。それに苦笑しつつ見つめていると、やがて気が済んだのか握っていた手が緩み、再び可愛らしい寝息が聞こえてくるのだった。



 翌日、ワイズマンが朝食の準備をしていると、起きていたイグノラがいつものように尻尾で掴まり立ちを始めた。

 動かずにじっとしてイグノラが正面に回ってくるのを待つことにする。やがて正面に立ったイグノラは、いつものように得意げにワイズマンを見上げた。

 朝食の準備をする手を止めて抱き上げてやる。機嫌よくワイズマンの鼻づらを小さな手でペチペチと叩くイグノラ。


「わぁ……わーじゅ」

「!!」


 にこにこと笑うイグノラにワイズマンは声が出せなかった。今、確かに”ワイズ”と言った。


「わー……じゅ!」

「あぁ、あぁ。俺がワイズだよ……」



 ワイズマンは己の目から溢れる涙に、しばらくの間気が付くことは無かった。

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