え
両腕を高く吊り上げられて、最早指先の感覚は無かった。嘔吐くたびに口の端から粘度をもった血が漏れて顎を濡らした。
薄暗い牢屋は汚物と血液と黴の臭いで嘔吐しそうなはずなのに、時折ふと甘酸っぱい梅の香りが鼻孔を通り抜ける気がした。
「一流さん。」
腫れぼったくて開けるのも億劫な瞼をこじ開ける。松明が揺れて陰になった顔はわからないが、声からして汐なのだろう。
「…ごめん。」
「謝らなくていいわ。」
毅然とした汐の声に安堵した。強い女性だ。一流がしでかした全てを乗り越える力が汐からは見てとれた。
「…この櫛、頂いたの。あなたが私に届けるようにって強く言っていたって聞いたわ。」
「ああ。…渚が、君に上げたいって。」
光を受けると陰影が梅の花を浮かび上がらせる、見事な彫細工の美しい櫛。
「…どうして渚さんを殺したの?」
断片的に思い出す。散った花弁のような死体。
死んだ渚は普段と何一つ変わらなかった。ただ生きている渚の中は、焼けつくように熱かった。
「好きだったんだ。」
渚は始め抵抗をした。悲鳴を上げ、拒絶し、痛みに呻いていた。
しかし一流が渚の細い首に手をかけたとき、渚は抵抗をしなかった。美しい顔は醜く歪むことなく、瞼は閉じられたまま渚は散った。
まるで一流を受け入れたかのようだった。その事実が、一流の体に幸福感を与えていた。
「…そう。」
薄く微笑む一流に、汐は目を伏せて別れの言葉を告げた。
「さようなら。」
足にくくりつけられたおもりが、一流を深い深い水底へと沈めていく。
肺の空気も無くなって、体中が酸素を欲して痙攣した。締め付けられるようなその苦しみは慣れ親しんだ恋心によく似ていた。
不思議な浮遊感の中、一流はそっと目を閉じた。




