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はしくれの花の蕾

作者: 中田貴子

「はしくれの花」で書ききれなかった続きを思い切って書いてみました。

40歳の波子の物語です。

その花の名前はやっぱりまだわからない。

調べようにもどうやったらいいのか、相田波子には見当もつかなかった。

パソコンで検索しようにも、どんなワードで探したらよいのか…

ただたまに摘んで帰る小指の先ほどの大きさの黄色いバラのような花。

華奢で可憐でひっそりと咲く、誰にも見向きされていないようなその花の名前を、どうしても知りたい衝動に駆られる時が不意に訪れる。

そんな時波子は「…そうだよね…こんな小さなお花でも…ちゃんとした名前があるのよね…誰かに見つけてもらいたいわよね…ちゃんと誰かに…」なんて その名もわからない道路の脇にそっと生えている小さな花に、自分自身を重ね合わせるのだった。

地味で控えめなその花の「可憐」な部分も、40歳の自分と重ねるあたりが少し図々しく、厚かましさを兼ね備えていることに波子は気づかないフリをしたかった。

そういう時だけはたとえ現実が「おばさん」であっても、認めたくはなかった。

都合の良い時だけ「おばさん」でいることに特化したかった。

まだ正式な形で男性とお付き合いをしたことが一度もなかった波子には、そうすることがある種の救いというか逃げ道でもあった。

そして数時間前の出来事があまりにもドラマチックに思えて、その僅かな思い出を何度も反芻しては胸の高鳴りに悦びを感じていたのだった。

あの土手で立ち上がりの際、見知らぬ男性の股間に激しい勢いで頭をぶつけ、その後四十肩で受診した整形外科で再び再会しお互いの名前を知り、親友と信じていた会社の同僚のゆかりとの激突で傷ついたまま何となく足が向いたあの土手で、また逢えた高橋たけしに誘われるがまま手を繋いで焼肉を食べに行ったあの出来事。

生まれて初めて家族以外の男性と二人っきりで食事に行ったあの経緯。

波子はたけしの手が忘れられなかった。

大きくて温かく自分の手を包み込んでくれた、あの男性の手。

野球と仕事を一生懸命してきた働いている男の人の手。

小学校6年生の運動会のフォークダンスで順繰りと代わって行くパートナーの男の子達や、病院などでお医者さんに触診されたりする時とは一緒にしちゃいけないほど、波子にとってたけしと手を繋いで歩いたことが尊くて貴重な経験だった。

「…あれってさ…世に言うところの…デートだったのよねぇ…みんなやってるデートなんだよねぇ…デート…デートかぁ…あたし…知り合ったばっかりの人とデートしちゃったんだぁ…えへへへへぇぇ…デートしちゃった…うふふふふ」

ベッドに横たわりながら、一人デレデレが収まらなかった。

他の人には他愛ない普通のよくあることかもしれないけれど、40年間男性と付き合ったことが一切ない波子からすると、さっきあったばかりのそれは人生の中で一番になるくらい相当幸せな大事件だった。

初めてのデートなのに厚かましく「焼肉が食べたい」などとうっかり口走ってしまい、連れて行ってもらったお店で「こんなことこれっきりかもしれない。もう二度とないかもしれない。」なんて思い、お腹が空いているのに乗じて目の前の男性に「ドン引かれてもかまわない」精神で食べたい物をどんどん注文してしまった。

波子は焼肉好きと言ってもカルビばかりが大好きで 他の「タン」だの「ミノ」だの「ハツ」だの さらには「ホルモン」なんかは全く食べられなかった。

「サンチュ」や「キムチ」も苦手なので 結局カルビばかりと普通の野菜サラダ それに白いご飯とオレンジジュースのお子様っぽいものしか口に入れなかった。

たけしは波子に合わせて同じものを食べ、本当は「タン」だの「ホルモン」だの大好きなのだがあえて注文はしなかった。

波子はたけしのそんな細やかな気遣いを全く知らなかった。

知ろうとせずに自分の欲望の赴くまま、恥らうことも忘れテンションが高めの会話と食事を楽しんだ。

「付き合ってください」と一世一代の告白をしたたけしは 目の前でおいしそうに焼肉をほおばる波子が「…もしかして…波子さん…付き合ってくださいって…今食事にって意味でとったんじゃないだろうか?…俺はこれから先ずっとって意味で言ったんだけど…その辺…どうなんだろ?」と訝しげに見つめてた。

高橋たけしにゆかりとのことをスッキリほぼ全部話し終えた充実感でいっぱいだった波子は たけしの予想通りに「付き合ってください」がその場限りのものだと信じて疑っていなかった。

「…あたし…こんなおばさんだし…高橋さんだって…ただ一人でご飯食べるのがやなだけでしょ?…あたし誘ったの…誰でもいいから一緒にご飯食べたかっただけなのよね、きっと…」

波子は先のことなぞ 全く考えていなかった。

考えていたとするならば それは拗れたゆかりとの関係だけだった。

たけしと濛々と上がる肉の煙を挟みながらも うっすらゆかりのあれからが気になって仕方がなかった。

「…ゆかり…絶交なんて言っちゃったけど…大丈夫かなぁ?…妬け起こしてなきゃいいんだけど…」

食事の終盤 たけしとの会話に沈黙が混ざるようになっていた。

そんな時たけしは波子が自分につまらなさを感じているのではないかと、激しく焦って何とか会話を続けようと努力した。

波子はまさかたけしがこの沈黙をそんな風に考えているとは微塵も思っていなかった。

自分はただたけしよりも付き合いがずっと長く、お互いを知り尽くしているだけ知り尽くしているゆかりが心配でしょうがなかっただけだった。

「…ごちそうさまでした…おいしかったですねぇ…」

波子はそう言いながらバッグから財布を取り出そうとしていると、不意にたけしがそれを制した。

「…今日は…僕の…僕のおごりですからっ!…波子さん…急に誘ったのに付き合ってくれたし…俺に…俺にご馳走させてください!お願いします!」

「…えっ?…えっ?…いいんですかぁ?…だって…あたし…自分で食べた分は自分で払うつもりだったから…だから…バンバン頼んじゃって…」

「…いいんです!…最初っから僕は…僕はそのつもりだったんですから…」

「…あっ…あっ…じゃあ…あの…ごちそうさまでした…ありがとうございました…だけど…ホントにいいんですかぁ?…すみませ~ん…ありがとうございましたぁ…」

波子はたけしの思いがけなく男らしい申し出に深々と頭を下げた。

すっかり辺りが暗くなった帰り道 たけしは自身の中に持っている「男性論」を少しだけ波子に披露した。

「…やっぱり…男が払わなくっちゃ駄目なんですよ!…女性にお財布を出させるなんて…男として駄目なんですよ!僕には…僕には絶対にできないです…今までこんな風に自分から女の人を食事になんて誘ったことないですけど…ないですけどね…でも…いつかそういう時がきたら絶対にそうしようとずっと前から心に決めていたんです!僕は!…それが男ってもんでしょ?違いますか?…」

たけしの熱弁に「そう…ですかねぇ…」と戸惑い気味に相づちを打つものの 波子は「別に割り勘でもいいのになぁ…あたしだって働いてんだし…お金がないわけじゃないんだけどなぁ…」と思っていた。

だがそれを口に出してしまうとたけしに恥をかかせてしまうと思い、今度は手を繋がずに並んで歩きながらもジッと彼の「男性論」に耳を傾けていた。

たけしの「おごる」女性の第一号が自分なのが嬉しくて、ついニヤニヤしながら暗くてよく見えづらくなったたけしの横顔を見つめてしまうのだった。

そしてさらにいやらしいが「一回分の食費が浮いた」ことも嬉しかった。

波子の給料日が約一週間後だったからだった。


あの後家まで送り届けてもらうと、偶然にもたけしが同じアパートの下の階に住んでいることが判明した。

波子もたけしも口には出さないものの、「ええ~~~っ!!まっさかぁ…そんなドラマじゃあるまいし…嘘でしょう?…」と思っていた。

いつぞやベランダで聞いた歌声の主が「たけし」だったことも その時初めて知った。

同じ間取りの上と下に今までそれぞれ暮らしていたのに、波子もたけしもお互いの存在を全く知らずにいたのが不思議なようでもあったが、そのことについて深く追求しないことにした。

詳しく知ったところでただの「へぇ」で終わってしまうのが関の山だとわかっていたからだった。

駐車場にいつも停まっているあまり綺麗でない中古車が、たけしの車だと教えてもらった。

「…今度…その…よかったら…ドライブでも行きませんか?…」

波子は今回の焼肉デートだけでたけしとは顔は合わせてもこんな風に一緒に食事をすることはないとふんでいたので、まさか「次」の約束があるなんて。とドッキリした。

それと同時にお互いの連絡先の交換も、営業の名刺交換並みに普通に滞りなく出来たのも、自分達のことなのに信じられなかった。

もっともっとぎこちなくなりそうと予想していたので、波子もたけしも少々拍子抜け感が強かった。

「…今日は…ありがとうございました…あの…ご馳走様でした…また…また…またまた…逢いたいですね…きゃっ!恥ずかし~~~~!!…」

波子は深々とお辞儀をし一方的にお礼を言うだけ言うと、とっとと自分の部屋に走って戻ってしまった。

その後姿にたけしはデッカイ声で叫んだ。

「…後でメールしますねぇ~~!!波子さ~~ん!!」

遥か後方で微かに聞こえたその台詞に、波子のドキドキはさらに大きく鳴り響いた。


真っ暗な部屋に戻ると、すぐさま水道の水をごくごく飲んだ。

胸を押さえて一人ニヤニヤが止まらなかった。

…どうしよう…どうしよう…高橋さん…どうしよう…あたし…どうしたらいいんだろう…

高橋とのデートの余韻に浸る波子の中に、嬉しさと同時に不安と動揺が広がってきた。

改めて玄関側から自分の部屋の様子を見てみた。

…こんな部屋に高橋さんが来るかもしれないのよね…

ふと傍にあった姿見に映る自分の姿も目に入った。

折角高橋さんに食事に誘っていただいたのに、今の自分の格好に愕然となった。

地味な色の女性らしい色気も何もない洋服にメイク そしてバッグに靴。

よくよく考えてみると、波子は可愛らしい洋服を一つも持っていなかった。

あるのは無難なベージュや茶色、グレーに紺や黒なども無地ばかり。

可愛らしい花柄や水玉など避けているわけでもないつもりなのだが、そんな似たようなデザインのさほど流行り廃りがないものしかないことに気がついた。

一人暮らしを始めた頃は自分の部屋を自分の好きな可愛い物だけで埋め尽くそうとそれなりに頑張っていたのだけれど、年齢と共にドンドンその手の華やかで明るいイメージのものから遠ざかって久しかったことにも気がついた。

波子は男性との出会いなど、決して諦めている訳ではなかったけれど、自分の持ち物を改めて見直すと「…これじゃ男も寄って来ないよね…」というものでいっぱいだと思った。

憧れはあるもののなかなか買う勇気がないピンクなどは、部屋の小物に数点あるぐらいだった。

がっくりしたまま風呂に入ると、今度は鏡に映る自分の老けた顔や体が急に気になりだした。

「…ああ…なんか…すんごくばばあみたい…なんか…肌もゆるゆるだし…おっぱいもこんなに下だったっけ…」

波子はたけしと出会う前には一切気にならなかったことが、今更案外沢山あることを知った。

仕事に行く際、波子はきっちりお化粧を施して出勤している。

それが女性の身だしなみであり、社会人として当然のことと自身の脳内に刷り込んでいたからだった。

決して基礎化粧品ばかりに気を遣い、肌さえつるつるならば顔全体が綺麗になったつもりでいるようなタイプの女ではなかった。

だがそれにしても、やはり現実的に「老化現象」には抗えない自分がそこにいるのだった。

そうなると下着などもなんだかばばくさいように見えて仕方がなかった。

馴染みのスーパーの2階に入っている激安の衣料品店で、「わ~い!」とテンション高く購入した2枚組み199円の尻をすっぽり包むタイプのパンツじゃいけないように思えた。

まだいつたけしにお披露目する訳でもないのに、波子は先走ってそんな心配をしてしまった。

それが「…馬鹿みたい、あたし…」と思いつつも、「…明日…ちょっと見てこよっかな…」という気持ちにさせるのだった。

「…ふ~う…やれやれ…」

パジャマ代わりのダサいスウェットは楽でしょうがなかった。

そういう細かい「楽」を追求した加減も、いちいち今まで男性を遠ざけてきた要因であることをうっすら知っている波子だった。

波子は「もし自分が男性だったら」と考えた時、「やっぱり自分のような女はちょっと」と思ってしまうのだった。

ベッドに横たわると早速たけしからメールが来た。

「今日はありがとうございました。またデートして下さいね。どうぞよろしくお願いします。ちなみに僕は基本土日休みです。おやすみなさい。」

波子はたけしからのメールが嬉しいなんてもんじゃなかった。

今までメールの相手と言えば家族かゆかりそれに会社、後は通販とクーポンを送ってくるファミレスぐらい。

なので結構な頻度で携帯を通勤バッグに入れっぱなしのこともしばしば。

少しぐらいなら充電していなくても、たとえ充電が切れてしまっていても早々緊急事態が来ることもないので、波子は全然平気だった。

電話やメールの相手にだいたいの見当がついているし、新しく心が沸き立つような相手から来るはずもなかったのでそれで十分だった。

あまりにも平気すぎて、正直なところ少し自分が哀しくもあった。

そんな今までの生活がたけしの出現によって180度も変わるとは、夢にも思っていなかった。

知り合う前の自分の生活が一瞬思い出せなくなるくらい、波子は最早たけし一色になっていた。

それは急に「たけしが好き」という訳では全くなく、ただ「男性と交際する自分」が嬉しいだけでもあった。

生まれて初めてちゃんと男性と一対一で向き合って食事をして、手も繋いじゃったことでウカれあがっていた。

「…あれってさ…世に言うところのデートだったのよねェ…」とはしゃいでも仕方がなかった。

そして、男性と付き合うことがこんなにも楽しくてバラ色なのを、初めて知っただけの波子だった。

明日の会社帰り、早速可愛らしい洋服や下着、バッグや靴など見てこようと決めた。

その為にお金をちょっとだけ下ろそうとも思っていた。

たけしとの次のデートに燃える波子だった。

こんなにも一人の男性と逢う為に色々準備しなくちゃと張り切る自分がなんだか愛しく、それと同時に世の中のだいたいの女性がこんなに素敵な気分を味わっているのかと知ると、自分もその仲間にちょっとだけ入れた悦びでいっぱいになった。

そうなるとゆかりのことなど、脳内に1ミリもなくなっていることにまだ気づかなかった。

色んな計画やたけしとの妄想で、波子はその夜なかなか寝付けずにいた。

こんな眠れない夜は随分久しぶりだった。


次の朝、「家の前でもしかしたら逢えるかも…」と少しだけ緊張していた。

そのせいで何度もトイレに走ってしまった。

だが、結局出勤で家を出る時、下の階のたけしに逢うことがなかったので、波子のテンションは急降下し、現実はそうそう上手くいくもんじゃないのを改めて思い知った。

いつもなら心をほぼ「無」の状態で出勤できていたのに、今朝は心がざわめいていた。

帰りの楽しいショッピングのことで頭がいっぱいだったからだった。

今日もゆかりは会社を休んでいた。

それどころか若い女性社員から「…そういえば、山崎さん会社辞めるそうですねェ…」なんて聞かされてしまった。

「…ええ~~~っ!!うそぉ~~~!!…いつゥ?いつの話ィ~…」

波子は会社中に響き渡るほどの大声で叫んだ。

…ゆかりが会社を辞める…嘘でしょ?…なんで?なんで?…それって…もしかして…あたしのせい?あたしのせいな訳?…

そうなると一日中、朝とは全く違った形で心がざわついた。

仕事をきっちりこなすも、心はどこかふわふわと宙を漂っているような感覚だった。

あの日からゆかりの姿を見かけていない。

それどころか連絡もできていない。

…あんな風に激しくやりあったんだもの、今更どの面下げてゆかりと向き合えっていうのよ…

波子はやり場のない怒りや哀しみで立っているのもやっとだった。

今朝家を出るまであんなにウキウキとし、帰りにはたけしとのデートに備えた物を買いに行こうと張り切っていたのに、今はどこからもそんな気持ちは湧いて出てこなかった。

どんよりとした暗いトーンで会社を出ると、波子は予定していた買い物を取りやめて真っ直ぐゆかりの家へ向かった。

モタモタしている心よりも体が先に動いたからだった。

ピンポ~ン。

出てくる気配が全くないゆかりだった。

だがドアを挟んだ内側にぴったりと張り付くようにゆかりがいるのを、波子は敏感に感じ取っていた。

「…ゆかりィ~…あのさぁ…あたし…波子だよぉ…あのさ…この前は…ホントにごめんね…酷いこと言っちゃって…ホントにごめんなさい…あのさぁ…許してもらおうとは思ってないんだけどね…だけど…どうしてもちゃんと謝りたかったんだぁ…だって…やっぱり…ゆかり…友達だもん…あんたはそう思ってないかもしれないけどさぁ…あたしは…ゆかりの親友だから…絶対絶対親友だから…」

「…ううう…ひっく…っく…」

「…ゆかり?…どしたの?…どっか痛いの?…大丈夫?…」

波子は中のゆかりが心配で堪らなかった。

ドア越しのゆかりが泣いているようだったから。

「…あっ…ねェ…ゆかり?…ゆかり?…ねェ…大丈夫?ねェ…あのさぁ…仕事辞めるって聞いたんだけど…ゆかり、ホントなの?…ホントに会社辞めちゃうの?…なんで?なんでさ…なんかあったの?もしかして…あたしのせい?あたしのせいで会社辞めちゃうの?…そんなのお願いだからやめて!あたし…ごめんね…ゆかりのこと傷つけちゃってたんだね?そうなんでしょ?…だからさ…ごめんね…あたし土下座でもなんでもするから…だからゆかり辞めるなんて言わないで…お願い…」

「っく…ひっく…ひっ…ひっ…」

ゆかりは泣きながらも波子の声に耳を澄ませていた。

「…なんで?…ゆかりなんで辞めちゃうの?…またさぁ…一緒に働こうよ!…あたし…ゆかりがいなかったら…ゆかりがいなかったらさぁ…」

波子はついに声に詰まってしまった。

それ以上ゆかりに何か沢山沢山言いたくても、涙が邪魔して続きが口から出てこなかった。

ドアの向こうから微かにすすり泣くゆかりの声が聞こえてきたが、待っても結局開けてくれることはなかった。

空の色が紫とオレンジの綺麗なグラデーションになる頃、少し向こうに5両編成の通勤通学電車がガタゴトと通り過ぎていくのが小さく見えた。

波子の鼻によそのお宅から漂うおいしそうな焼き魚と、また違うお宅からのカレー、さらには甘じょっぱい煮物の匂いが入ってきて、そろそろ空いてきたお腹を刺激した。

そろそろ家に帰る子供たちの「バイバ~イ!」の可愛らしい声が、あちこちから聞こえてきていた。

波子はとぼとぼと力なくゆかりの部屋を後にすると、中のゆかりは「波子ぉ~~~!!…波子ぉ!ごめんねェ~!…ごめんねェ~~~!!…波子ぉ…波子ぉ…ホントにごめ~~~ん!!…」と叫ばずにはいられなかった。

だが、その声は親友を本当に失ってしまった哀しみいっぱいの波子の耳には、届くことはなかった。


いつもの帰り道、波子はぼんやりと歩いていた。

途中薄暗い中、あの可愛らしい黄色い花を見つけると波子はその場にしゃがみこんでジッとその花を見つめた。

そうっと小さな花びらに触れてみると、その衝撃で黄色い花びらがはらりと下に落ちてしまった。

「…あっ…ごめんね…お花さん…花びら…取れちゃったね…ホントにごめんね…」

波子は散った花に小さく謝った。

そしてヨロヨロと立ち上がると、真っ暗な自分の部屋にゆっくり戻って行った。

高橋たけしは家の近くでフラフラと力なく歩いている波子を見かけたが、何故だか声をかけることができなかった。

それほどまでに波子は憔悴しきった様子だった。

部屋に辿り着いた波子はペコペコにお腹が空いているにもかかわらず、着替えもしないでそのままベッドに傾れこんだ。

なんの気力もなかった。

ゆかりとの別れのショックが、波子をそんな風にさせていた。

…どして?ゆかり…どしてなの?…そんなにあたしが憎いの?そんなにあたしが悪いの?…ゆかり…ゆかり…

波子はゆかりを憎みきれなかった。

それでもまだどこかでゆかりと仲直りが出来るかもしれないと信じていた。

たとえそれが波子の一方的な願いだとしても、ゆかりがそこまで酷く醜い人間だとは思いたくはなかった。

それは決して上からの目線ではなく、ずっと仲良しだった親友としてそう思っていたし、思いたかった。

かれこれ20年、波子の人生の半分も知っていて何かと一緒に行動することも多かったある種の「情」がそうさせていた。

泣き疲れたのか、波子はそのまま朝まで眠ってしまった。


あれから何故かたけしからの連絡は途絶えていた。

だが波子はそれほどダメージを受けなかった。

それよりもゆかりとのことの方が、よほど大きな衝撃だった。

そして、たけしには申し訳ないが波子の脳内にはあれほどドキドキしたたけしがどこにもいなくなってしまっていた。

あの激しく本音をぶつけあった日以来、波子とは会うこともないまま、ゆかりはひっそりと退職していた。

それを後になって上司から聞かされて知った時、波子は一層深い闇に飲まれそうになっていた。

化粧も身だしなみも適当でどうでもよくなっていた。

心の中に大きな穴がぽっかり空いたままだった。

波子は辛うじて仕事に行くものの、すっかり生気を失ってしまっていた。

どん底を這い回るような生活だった。

季節が巡り、秋の気配と日が暮れるのが早くなってきたが、波子は暖かかった季節と同じく川からの風がひんやり吹き付ける河川敷を歩いて帰っていた。

そしてたけしとの思い出の土手の階段に腰掛けると、キラキラと小さな星が煌いているような向こう岸の街の明かりをぼんやり見つめた。

退職と聞いてすぐ、波子は仕事帰りにゆかりの家に立ち寄ったが、時すでに遅し。

ゆかりはどこかへ引っ越したらしかった。

新しい住所は教えてもらえなかった。

電話もメールも繋がらず、波子とゆかりの縁もそれっきり切れてしまっていた。

波子はそれ以上深くゆかりを追わなかった。

ゆかりも追ってほしくないだろうと思ったからだった。

波子はゆかりの気持ちがやっぱりちゃんとわかっていた。

土手の歩道を自転車にのろのろ乗りながら、ゆっくり犬に散歩をさせているおじさんが通った。

おじさんの自転車のかごに入ったラジオから、微かに昔の曲が流れてきた。

波子は無意識でその曲の続きを歌い始めていた。

波子は歌うのが好きだった。

その外国の曲は「いつまでも君は友達」という歌詞だった。

波子は歌詞の内容がわかるその曲に涙が止まらなくなっていた。

静かなテンポのその歌を今回はずっと低いテンションのまま歌った。

歌い終わる頃、辺りは真っ暗で河川敷は人がまばらになっていた。


電気が消えている真っ暗い部屋のポストに、切手も貼っていない封筒が入っていた。

波子は何気なく手に取り、ベッドに横になってそれを開けた。

表に「波子へ」とだけ書かれてある手紙はゆかりからだった。


波子、ごめんね。

あたし…やな女だったね。

あんなに酷いこと言っちゃって…ホントにあたしやな女だね。

ホントにホントにごめんなさい。

家のお父さん…脳梗塞で入院しちゃってさ、お母さん一人で世話するの大変だし、お姉ちゃんは子供達がまだ小さいから…身軽なあたしに白羽の矢が立ったの。

波子のせいで仕事を辞めた訳じゃないから。

気にしないでね。

では…波子がいっぱい幸せになりますように…ゆかり。


手紙には短くそれだけ書かれてあった。

「…ゆかり…ゆかり…あんた…馬鹿だよ…ホント…なしてさ…なして?相談してほしかったよ…ゆかり…」

波子はゆかりがやっぱりそれほどまで悪い女ではなかったことに安堵した。

どうにも抑えきれない気持ちが高ぶり、また激しく声を上げて泣いてしまった。

開け放っている窓から、下の階にいるたけしにその声が聞こえるほどだった。


たけしは波子にどうアプローチしたらよいのか、彼なりに考えを巡らせて悩んでいた。

「…波子さん…なんか元気なさそうだったけど…あれっきりだし…」

再び波子と接触したくてしょうがなかったが、一体どうしたらよいのか、いい考えがまるで思い浮かばないまま。

モヤモヤとした気持ちだけがたけしの中でいっぱいに膨れ上がるのだった。

「…あ~~~…波子さん…泣いてる?…どうしたんだろ?なんかあったのかな?…どうしよう…あ~~~気になる…気になるなぁ…そだ…メール…」

たけしはメールしようと携帯を持ってみるも、なんて出したらいいのかそのまま固まって長考してしまった。

「ああああ…駄目だ!駄目だ!何にも思いつかないィ~~~~!!…あ~~~だけど波子さん泣いてるしィ~~~~…ああ…もう…いいや…」

居ても立ってもいられず、たけしは部屋を飛び出して行った。

ピンポ~ン。

泣いていた波子は「…誰?今頃?…」と思いながら、めんどくさそうに玄関のドアを開けた。

普段なら女の一人暮らしということもあって、まずはちゃんとのぞき穴からドア向こうの相手をしっかり確認し、大丈夫ならようやく開けるのだったが、今はそれを怠って簡単にドアを開けてしまっていた。

「…なっ…波子さんっ!…」

波子は目の前にたけしが立っているのが不思議だった。

「…あっ…高橋さんっ…どうしたん…」 

波子がそこまで言いかけると、たけしが怒ったように「駄目じゃないですかぁ!すぐにドア開けちゃ!…強盗とかだったらどうするんですかぁ!…今は俺だから良かったものの…波子さんっ!駄目ですよ!ホント!…」と強い口調で言ってきた。

たけしの剣幕な態度にたじたじになりつつも波子は申し訳なさそうに、「…あっ…ごっ…ごめんなさい…ごめんなさい…あたし…あたしっ…」 そこまで言うのが精一杯だった。

そしてたけしを見つめると涙の大きな粒が後から後からこぼれ出た。

「…あっ…あ~っ!…波子さん…ぼっ…僕は…その…あなたを責めた訳じゃ…」

たけしは最後まで言わずに、目の前で泣く波子を慌ててギュッと抱きしめた。

「…あのっ…あのっ…高橋さんっ?…高橋さんっ?…」

波子は突然の出来事に戸惑うと、心臓が急に早鐘のように激しく打ち付けてきたのを感じた。

こんな形ではあるけれど、波子は生まれて初めて男性に抱きしめられた。

いや、本当は幼い頃、よく父に抱きしめられていた。

だがそういう意味ではなく、ちゃんとした大人の好意を寄せている男性に抱きしめられるのは初めての経験だった。

波子はたけしの胸に抱きしめられるのが心地よかった。

そして、ゆかりとのことで哀しみのどん底だった自分を深い沼の底から救いだしてくれたように思えた。

その時の波子にとってたけしは「救いの神」のような存在だった。

以前のたけしの手も頼もしかったが、それよりもさらにたけしの胸板が頼もしく感じられた。

二人が厚い抱擁に身を任せていると、空から予報どおりの大きな雨粒が音を立てて落ちてきた。


玄関先でちょっとの間抱き合っていたが、急に二人ともハッとなって体を離した。

我に返ると自分達がいかに大胆だったかを思い知る運びとなり、そうなると波子もたけしも頭のてっぺんから蒸気が噴き出るほど血圧が一気に上昇するのがわかった。

波子は仕事から帰ったまんまの服装だったが、たけしは風呂上りのリラックスしきった首周りがビロビロに伸びたよれよれのどうでもいいTシャツに下はトランクス一丁姿だった。

お互いが冷静になると、今度はたけしの格好に注目が集まった。

たけしは波子に自分のだらしない姿をさらしてしまったことを激しく後悔した。

だが、ビロビロのTシャツは数年前に購入したもので、決して高い訳じゃないのだが何故か肌なじみや着心地がよく、特に気に入っている物でもないくせに着た後つい洗濯機に放り込んでしまい、そうなると洗って干してまた着ちゃって。の繰り返しで、捨てるタイミングを故意になくしているつもりもないけれどいつまでも腐れ縁のような関係を続けているのだった。

波子は失礼を承知の上で「…ごっ…ごめんなさいっ…」と謝りつつも、ついくすくすと笑ってしまった。

久しぶりに心から湧きあがった笑いだった。

たけしは恥ずかしくて堪らないものの、波子の笑顔が見られてそこそこ満足だった。


「…あっ…あのっ…ここじゃなんですから…どうぞ…部屋…散らかってますけど…よかったら…どうぞ…」

波子は生まれて初めて家族以外の男の人を部屋に招きいれた。

「…えっ…あっ…えっ?…いいんですかっ?…えっ?…俺…こんな格好だけど…」

たけしと波子は揃ってたけしの格好を見た。

「…あっ…やっ…やっぱり…駄目ですよっ…波子さん…だって…俺こんな汚い格好だし…波子さんのお部屋が汚れっちゃうから…じゃっ…俺、戻ります…さっきは…その…なんていうのか…そのっ…」

「…謝らないで…謝らないでください…どうか…謝らないで…」

しどろもどろのたけしに向かって、波子はすかさず小声でそう言った。

波子はどうしても謝られたくなかった。

たけしに謝られてしまうと、さっきの抱擁がまるでやっちゃ駄目なことのような気がしてしまうからだった。

生まれて初めての心地よさを本人に否定されてしまうのが、波子はとても辛かった。

男の人の胸がこれほどまでに安心できる場所だと、波子は今まで全く知らなかった。

後ろ髪を引かれる思いで、たけしは自分の部屋へ戻っていった。

波子はつい今しがたのドラマチックな出来事を回想した。

たけしとは何度か近すぎる距離で接触している。

だが今日のは、これまでのそれらとは大きく差をつけるほどロマンチックだった。

波子はたけしの匂いも忘れられなかった。

お父さんやお兄ちゃんとは全く違って、たけしの匂いが好きだった。

冷静になるとたけしの男らしい印象もさることながら、波子は自分のことが気になりだした。

たけしに抱きしめられた時、自分の髪や体から発せられる匂いが臭くなかっただろうか?だの、少し散らかった玄関や部屋の様子や匂いなど、急に心配事でいっぱいになった。

だがそれよりもやっぱり、先ほどの熱い抱擁がいつまでも体の感覚として残り、波子は自分の着ていた洋服に微かについたたけしの匂いをまとっていたくて、なかなかお風呂に入ることが出来ないでいた。

部屋に戻ったたけしも、自分の大胆な行動に心臓がドキドキしていた。

「…どうしよう…俺…あんなことしちゃったけど…波子さん…謝んないでって…あ~~…なんだろ?この感じ…波子さん、いい匂いだったなぁ…なんか華奢であれ以上強くしてたら…骨折れちまいそうだったなぁ…」

心であれこれ呟くも、はたと自分の適当すぎるいでたちを思い出し見ると、途端に「ああああああ…」とうなだれてしまうのだった。

着やすくて楽なTシャツには腹の辺りに乾いた米粒が2~3粒塊になってくっついていた。

そうなるともう「嫌われちゃったかなぁ…」と心配がよぎるたけしだった。

外は雨が強くなって、一雨ごとに季節が進んでいくのを感じた。


波子の心は知らず知らずのうちにたけしのことばかりになっていた。

今まで生きてきた40年でこれほどまでに胸を焦がすような経験は、学生時代の一方的な片思いだけ。

だがやっぱりあの時とは違うのを、波子はうっすら感じ取っていた。

大人になってから一時的に「素敵」と好きになっては、次の瞬間にはもう忘れているような軽くて薄っぺらいものばかりだったので、一人の決まった人を四六時中と言うわけでもないけれど、常に考え意識するなんて経験は本当に初めてだった。

誰かを好きになる情熱に持続性がなかったし、一人でいるのに慣れきっていたので恋をするのにこんなにエネルギーを使うのをよく知らなかった、というよりもすっかり忘れてしまっていた。

波子はたけしにもっと自分を好きになってもらいたい欲が出始めていた。

それと同時にたけしに何かしてあげたい衝動も目覚めてきていた。

「…まずは…」

波子はつい先ほど招きいれようとしていた自分の部屋を、思い出したかのように急に片付け始めた。

下の部屋のたけしにうるさくならないよう、掃除機はかけず細心の注意でそろそろと拭き掃除を中心にやり始めた。

せっせと夢中で掃除をしていると、ゆかりとのことでかなり溜まっていたモヤモヤがだんだん薄くなっていくのがわかった。

3時間ほど掃除に没頭すると、部屋が見違えるほど綺麗になった。

そうなると波子はなんだか元気いっぱいになってきていた。

「…明日お休みだから…デート用の服でも買いに行っちゃおうかなぁ…それとも…あっ…そうだ…いいこと思いついちゃった…」

波子はふと思い出したかのように、たけしにメールした。

「高橋さん、明日暇ですか?もし良かったら一緒に河川敷をお散歩しませんか?」

ベッドで横になり、週末の面白くないテレビをつけっぱなしでうつらうつらしていたたけしは、不意に鳴った携帯に驚いて目を覚ました。

「…波子…さん?…」

たけしは何事もなかったかのように爽やかなメールの文面が嬉しくてしょうがなかった。

「オッケーです!是非ご一緒させて下さい。天気が少し心配ですが…行きましょう!行きましょう!」

すぐさまの返信が波子は照れくさいように嬉しかった。

「…そっか…今、雨降ってんのよね…あたし…馬鹿だぁ…雨なのに…お散歩行きましょうって…ばっかだぁ…」

自分で誘っておいて、波子は外の天気をまるで気にしていなかったことを激しく後悔した。

慌ててテレビをつけ、dボタンを押して天気予報を確認すると、どうやら雨は夜中のうちにあがって明日はいい天気らしかった。

それがわかると波子はホッとしたが、すぐさま「何着よう?」と慌ててしまった。

結局あれこれ着るものや持ち物、履物など吟味に吟味を繰り返し、ようやく全て決まったのは日付が変わってからだった。

お日様の中でたけしと逢う約束をした波子は、久しぶりに潤い成分が凝縮されたパックをして、何かあっても良いようにとりあえず無駄毛の処理も念入りに行ってから眠りについた。


たけしが起きたのは5時だった。

波子から誘われたことが嬉しすぎて、あまりよく眠れなかった。

窓を開け、外を見ると雨はすっかり上がっており、夜の間に冷やされた空気がほんのり暖かい部屋の中にさーっと入ってきた。

「…寒っ…」

たけしは無用心なヨレヨレのTシャツにトランクスだった為、いきなりの冷たい空気に少しばかり驚いてしまった。

だが、空が青く澄み切ってお日様が顔を出しているのを確認すると、早速張り切って動き始めた。

波子が起きたのは10時過ぎだった。

自分で張り切ってたけしをお散歩デートに誘ったくせに、前日たけしを招いても全然恥ずかしくないようにせっせと掃除をしてしまったり、その後は着るものをあれこれ悩みに悩んだり、ゆかりとのことで沢山泣いた疲れもあって、普段よりもだいぶ寝坊してしまったのだった。

起きるなり波子は自分に腹が立った。

よくよく思い出せば、小さい頃から遠足や旅行の前にはしゃぎすぎて、当日寝坊や遅刻も何度かしたことがあった。

一人暮らしを始めてからは会社に一度も遅刻することなんてなかったのに、プライベートで大事なデートの日にそんな失態をしてしまう自分が情けなかった。

起きたての短い時間はとほほな気分だったが、「こんなんじゃ駄目だ!」となると大急ぎで支度を始めた。

たけしはどのタイミングで波子を迎えに行こうかやきもきしていた。

上の階から聞こえる足音が波子の慌てて準備している音だとわかっていたので、本当に困ってしまっていた。

それと同時にたけしはなんだか嬉しくてニヤニヤが止まらなかった。

波子は用意ができあがると、電話やメールで連絡するのを忘れ、真っ直ぐ下の階のたけしの部屋に向かった。

ピンポ~ン。

チャイムを鳴らすと中から笑顔のたけしが出てきた。

「…あっ…おはっ…おはおうございます…ってもうお昼近くですけども…」

波子は緊張のあまり「おはよう」と言えず、「おはおう」と言ってしまった。

すぐにハッと気づいて顔が真っ赤になるのを、手で覆い隠した。

「…おはようございます、波子さん…今日…あのっ…晴れてよかったですねェ…じゃっ…行きましょっか…」

たけしはさりげなく波子の手をとり、歩き始めた。

波子はそんなたけしに強引さも嫌悪感も感じることなく、むしろ嬉し恥ずかしな乙女気分だった。

「…あっ…あのっ…高橋さん…じゃなくって…たけしさんって…呼んだら駄目ですか?…」

波子は意を決したようにたけしに尋ねてみた。

「…えっ?…ああ…ああ…むしろ大歓迎ですよ…いやぁ…嬉しいなぁ…って…すっ…すいませんっ…俺、ずっと波子さん波子さんって…勝手に名前で呼んじゃってて…」

「ううん…たけし…さん…あたし…波子ですから…男の人に下の名前で呼ばれるのって…なんか新鮮だったから…あたしも嬉しくって…えへへへ…」

「…そっ…そうですかぁ…よかったぁ…もしかしたら怒ってるかもって…だけど、つい…ホント…俺こそすみませんでしたっ…」

たけしは立ち止まり、手を繋いだまま波子に礼をした。

雨で濡れている河川敷にお日様の光が当たってキラキラと眩しかった。

「…波子さんっ!…波子さん…波子さん…」

「はい、なんでしょうか?…たっ…たけしさんっ…」

「波子さん…これから…そのっ…そのですねェ…そのっ…なんていったら…そのっ…」

「…あっ!…」

何かを見つけた波子はたけしの手を振りほどくと、小走りで土手の草むらまで行ってしまった。

「…なみっ…波子さんっ?…どうしたんですかぁ?…」

「…あっ…ああ…ごめんなさい…たけし…さん…あのっ…あのね…これ見つけたもんだから…ここにも生えてたんだぁって思っちゃって…」

たけしを一瞬忘れていた波子は慌てて振り向き、土手に咲いている黄色い小さな花を指差した。

「…可愛いなぁ…」

「ねっ!…可愛いお花でしょう…あたしね…このお花大好きなんです…通勤の途中の小道にいっつもいるんだけど…たまにね…摘んで家に持って帰るんです…お花には可哀想なんだけど…」

たけしは照れながらもキラキラした眼差しで小さな花の必死に説明する波子を、優しく見つめた。

二人で小さな花をじっくり眺めていると、急に波子が思い出したかのようにたけしを見た。

「あっ!…そういえば…たけしさんさっきなんか言いかけてましたよね…ごめんなさい…あたしったら…ホントにごめんなさい…で…その…あの…ですね…さっき…なんて言ってたんですか?…よかったら…もう一回教えていただけるとありがたいんですけど…」

下から覗き込むように波子は恐る恐るたけしに尋ねた。

「…えっ!…ああ…そうでしたっけ…え~と…え~と…あれっ?…俺何言おうとしたんだっけ?…あれっ?…」

たけしは本当に何を言いたかったのか思い出せずに焦った。

慌てた様子のたけしを波子はジッと見つめた。

そして心の中で「なんかこの人いいなぁ…」と思った。

休日の河川敷はサッカーの練習の学生達やランニングや自転車の人、それに犬を散歩させている人に家族連れなど、それぞれが思い思いの活動に勤しんでいた。

たけしと波子もいつしかその景色にすっかり馴染んでいた。


最後まで読んでくださって本当に本当にありがとうございました。

拙い文章や読みづらい部分も多かったと思いますが、どうぞ温かい目で見守っていただけたら幸いです。

本当にありがとうございました。

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