第二章 ⑤
あの後、あたしたちはシェイディアから北西へ続く街道を歩き続けた。
二時間弱で到着する予定の道程を半分ほど過ぎ、森を抜けて草原に出たときだった。
「あぁ~……やっぱり太陽の光は眩しいねぇ」
「そうだなぁ……すごく気持ちいい」
そんなことをあたしたちは呟いていた。この世界の太陽を見るのも、随分久しぶりな気がしたから。
「同感だ……んっ?」
「シュン、どしたん? 何か見っけたんか?」
シュガーが、シュンの反応を見て尋ねる。シュンは辺りを見回し、三角の耳をピクピクと動かしていた。その様子を、シュガーはうっとりした表情で眺めている。
「……なんだかんだ言うても、シュンは可愛ぇなぁ~」
普通ならば聞いて脱力しそうな言葉だったが、それを聞いてもなおシュンは剣呑とした表情を崩さない。
まるで、何かを警戒しているかのような……。
「まずいな……少し厄介な奴が近づいてくるぞ。いつでも戦えるようにしてくれ」
どうやらその通りだったようだ。この様子だと、かなり手強い存在と対峙するのだろう。
「お、おう」
「分かった」
リュウはその場に身構え、あたしもすぐに想創出来るように集中し始める。シュガーもその空気を察したらしく、強張った表情で身構えた。
視界に広がるのは、澄み切った青空と長く続く草原、そしてその先にうっすらと見える建物と海――おそらくあれがアズポートだろう。
しかし、長閑な風景とは裏腹に、張り詰めた空気と静寂があたしたちを包み込む。
ざわっ……ざわっ……。
「っ!」
小さな物音にシュンは即座に反応し、あたしとシュガーを庇うように前に立ちはだかった。
リュウはシュンの前に出て、素早く呟く。
「想創。〝木刀〟」
リュウの左手に想創光が集まり、そして消える。すると、見慣れた木刀が姿を現した。
それを両手で持つと、体の前にすっと構える。
リュウの想創を見計らったシュンは、こちらも同じように呟く。
「想創。〝爪強化〟」
呟きとともにシュンの両手に想創光が集まり、一瞬で掻き消える。
そこには、普段の五倍以上はある爪が伸びていて、太陽の光を受けて輝いていた。
ざわざわっ……ざわっ……。
「「後ろかっ!」」
二人同時に振り向きながら同じことを言うと、こちらに向かって駆け出した。それを見ていたあたしとシュガーも後ろを振り返る。
「ガルルル……」
あたしたちの後ろ――つまり森の中から一匹の狼が現れた。
あたしたちの世界に存在するオオカミは、体長一メートルから一メートル半位しかないはず。しかし、あたしたちの目の前に立っている狼の体長は、ゆうに三メートルを超えている。
こんな大きな狼、今まで見たことが無い。
「……フィアウルフか。思ったとおりだ」
シュンが苦々しく呟くと、気を張り詰めつつ解説をしてくれる。
「こいつは雑食の獣で、時に己よりも大きい獲物を喰らうときもある。
凶暴な性格と、獣にしては想像力が高く魔術も使えるのが特徴だ。
一説では、妖精と獣の雑種という考えもある」
「……めちゃくちゃ強そうだな。殺さずに戦うなんて出来るのか?」
「それは九割方無理だと思っておけ。手加減したらこっちが殺される」
物騒な話をリュウとシュンが交わすと、フィアウルフはこちらに一歩ずつ近づいてくる。
「ガルルル……」
大きな体に見合う巨大な目は血走っていて、全体的に灰色の毛は逆立っている。
きっと、相当空腹なのだろう……。
「ひとまず、奴の筋力はものすごく高い。爪と牙には注意しろよ……行くぞ!」
「お、おぅ!」
二人はフィアウルフへと駆け出し、同じ言葉を同時に叫ぶ。
「「想創! 〝速度上昇〟!」」
二人の体が想創光に包まれ、すぐに消える。視認は出来ないけど、今の二人にはとてつもない敏捷力が宿っているはずだ。
まずはシュンが目にも留まらぬ速さで突撃し、長い爪を巨体目掛けて振り下ろす。
「うおらぁぁぁっ!」
猛スピードで振り下ろした爪はフィアウルフに直撃――しなかった。
「グルアッ!」
傍目で見ていても、何が起きたのか一切分からなかった。
ただ一つ、シュンの頭上にフィアウルフが浮かんでいるのははっきりと捕らえた。体を反らし、巨大な前足を振り上げてシュンの頭上に振り下ろそうとしている。
あの一瞬で、一気に形勢が逆転していた。
「させるかぁっ!」
一足遅れて――いや、こうなることを予測し、あえて動きを遅らせたリュウは、空中に浮かんでいるフィアウルフに向けて跳躍し、上段から木刀を一気に振り下ろす。
「グルオッ……」
今度こそ攻撃を避けられなかったフィアウルフは、強力な一撃によって地面に叩きつけられた。
しかしすぐに体を起こすと、二人と距離を置くために大きく跳び退った。
一回の跳躍でおよそ十メートルもの距離を跳んでいるところを見ると、途轍もない脚力を持っていると分かる。
「ちっ……あれぐらいじゃ倒れないか」
リュウが悪態をつくと、シュンは小さく首を横に振る。
「だが、純粋な人間があのスピードを持つフィアウルフに、一撃入れられただけでも大したものだ。
逆に言えば、安直に突撃した俺はまだまだ甘っちょろいな」
短い会話の後、二人は視線を交わすと無言で頷き、フィアウルフに向き直る。
フィアウルフは低い唸り声を上げ、こちらを威嚇していた。
あたしも援護したい。けど、あたしの想創は基本的に範囲攻撃なので、むやみに使ってしまうとどちらかに直撃しかねない。ここは二人に任せるのが得策だろう。
「くっそ~……強ぇ」
「はぁ、はぁ……しぶとい奴だ」
「ガルルル……」
その後もフィアウルフと二人は何度かぶつかり合っていたが、どうやらリュウとシュンは劣勢みたいだ。
表情にも疲れが見え始めている。
「二人とも、頑張って!」
あたしは遠巻きにエールを送る。リュウは少し笑ったが、やはり疲れを隠し切れていない。
「……なぁ、ウチには何も出来ることないんか? じっと見とるだけなんて、イヤや」
隣に立っているシュガーが、俯きながらあたしに尋ねてきた。
そういえば、先輩は〝シュガー〟としてこの世界に来てから、まだ一度も想創をしていないはず。
……もしかしたら、シュガーなら何とかできるかもしれない。
「シュガーは、何か〝なりたいもの〟とかある?」
もし返事に具体的な例があれば、それをそのまま成長種族に出来る。
それを思っての質問だったのだが、シュガーは少し考えるとあっさりと返事をした。
「正直言うとな、そんなものあらへんねん。ウチはウチのままでえぇわ」
「そ、そうなんだ……」
これは困った。だとすると、シュガーはこの先ずっと純粋な人間としてこの世界で過ごさなければならない。
それが都合の悪い事かと聞かれると、別にこの世界で過ごすのに都合が悪いとは一概には言えない。
しかし、あたしたちはこの先戦いの多い旅になるのだ。出来れば能力は高いほうが、いざというときに己の身を守ることが出来る。
純粋な人間では、少し心許ないような……。
「じゃあ、何か〝得意なこと〟ってある?」
ここは想像の世界、イメージしやすい事柄が戦闘に使えるのなら、たとえ純粋な人間だとしても戦うことは出来るだろう。
流石に、想創もせずに戦わせるのは無理だろうし。
「得意なことなぁ……うーん」
シュガーは頭を抱えて悩み始めた。お願いだから、いい返事をして……。
「せや、えぇこと思いついたっ! ……想創! 〝ハリセン〟!」
ハリセン? 何のことか分からず疑問符を浮かべているあたしを余所に、シュガーの右手に想創光が集まる。
光が消えると、そこには一振りの紙で出来たハリセンが握られていた。
何故ハリセン? 聞こうとする前に、シュガーはしたり顔で口を開いた。
「ウチの得意なことはっちゅーと、鋭いツッコミやなぁ!」え~……ボケだと思ってたよ。
「……じゃなくて! 他には無いんですかっ?」
心中の考えにツッコミを入れつつ、再度シュガーに尋ねた。
攻撃の手段は手に入れたかもしれないが、あまり強そうには見えない。むしろすごく弱そう……。
シュガーはさらに考え込むと、すぐにハッとした表情で顔を上げた。
「後はな、他人や動物を従えるんは得意や。みんなウチによぅ懐くからなぁ……」
「それだっ! シュガーがフィアウルフを手懐ければいいんだよ!」
あたしの叫びに、シュガーは表情を輝かせた。あたしも同じくらい輝いていたことだろう。
「せやなぁ! セインは頭えぇなぁ~。よっしゃ、ちょいと待っとりぃ!」
嬉しそうな声を上げたシュガーは、ハリセンを片手にフィアウルフの下へと向かった。あたしもいざという時のために、駆け足で後を追う。
「くっ……これ以上は無理かっ」
リュウは、木刀を地面に突き刺して屈んでいた。かなりの体力と想像力を消耗したのだろう。
「はぁ、はぁ……もう、出し惜しみはしないぞ。想創――」
「ちょい待ちっ!」
シュンが本気の想創をしようとしたとき、シュガーが割り込んだ。突然のことにシュンは驚き、言葉を止めてしまった。集まりかけていた想創光が、辺りに散らばって消える。
「しゅ、シュガー! 何故こっちに来たんだ! 早く――」
「ちょい待ち、言ぅたんが聞こえんかったんか?」
シュンが反論するも、シュガーの放つ剣呑な空気に圧倒されて、黙り込んでしまう。
傍から聞いていても、身震いするような覇気を感じた。
……すごい存在感だ。人が従うのも納得出来る気がする。
シュガーの声を聞き、リュウ、シュン、あたし、そしてフィアウルフさえもが黙り込んだ。当の本人はそんな雰囲気の中、つかつかとフィアウルフの目の前まで歩く。
一歩一歩近づいてくるシュガーを目にしたフィアウルフは、すぐに我に返りシュガーを威嚇する。
「グルルル……」
しかし、シュガーは臆することなく近づくと仁王立ちし、ハリセンを差して口を開いた。
「……じぶん、お遊びもえぇ加減にせんとあかんで? ウチの言ぅとること、分かるな?」
脅しつける口調ではなく、どちらかと言えば諭している感じだった。
しかしフィアウルフは威嚇を止めず、犬歯を剥き出して唸っている。
「グルオゥ~ッ!」
「はぁ……ウチの言ぅことが聞けんか。しゃあないやっちゃなぁ」
大きく溜息をついたシュガーは、呆れ顔のままフィアウルフの目前まで近づいた。
シュガーが手を伸ばせば、巨大な頭に触れられそうな距離――逆に言えば、フィアウルフが首を伸ばせば華奢な体を丸呑みに出来る距離だ。
そんな至近距離に近づいたシュガーは、ハリセンを握りなおした。
「なん」
一言呟くと、ハリセンを頭上に振り上げる。
「でや」
さらに呟くと、ハリセンがゆっくりと振り降ろされる。
まさか……嘘でしょ?
「ねんっ!」
最後に思い切り叫ぶと、初めはゆっくりだったハリセンの動きが急に加速し、フィアウルフの脳天に直撃した。
紙製のハリセン故に鈍い音などはしなかったが、小気味良い音を響かせながら、フィアウルフの頭を地面にめり込ませた。
一瞬の出来事に皆が唖然としている中、シュガーは頭の半分が地面にめり込み、視界に星を輝かせているであろうフィアウルフをまたしてもハリセンで差し、偉そうな口調で告げる。
「これはお仕置きや。痛い目に遭いとぅないなら、悪戯を止めてウチの仲間になりぃ?」
ビクッと震えたフィアウルフは、顔面を地面から引き抜くと同時に大きく後退した。
まだ諦めていないのかな? そんな不安を抱いたとき、フィアウルフは大きく頭を垂れた。
その行動が指す意味とは、つまり……。
「本当に……手懐けちゃった」
あたしは正直なところ、出来るとは思っていなかった。あれだけ凶暴そうな獣が人の言うことを聞くなんて、ありえないと思っていたから。
しかし、シュガーは己の持つ覇王の如き気迫で、フィアウルフの心を打ち負かしたのだ。
フィアウルフはゆっくりとシュガーに近づき、そしてその場に座り込んだ。
それを確認したシュガーは、左手を差し出して一言。
「お手っ!」
フィアウルフはゆっくりと手を伸ばし、シュガーの左手に自分の右前足を乗せた。
「よーしよし! じぶん案外えぇ子やなぁ!」
表情を輝かせたシュガーは、フィアウルフの頭をわしゃわしゃと撫でた。
撫でられているフィアウルフに、先程までの警戒心はまったく無く、目を細めて小さく唸っていた。
「……あの凶暴な性格で知られるフィアウルフを手懐けるなんて、この世界じゃ誰でもやろうとはしないぞ。
まだ秘境に住むワイバーンの方が、テイミング出来る可能性は高いしな」
「マジかよ……シュガーって、実は俺たちより強いんじゃないか?」
「……否定出来ないかも」
シュガーの幸せそうな表情を眺めながら、あたしたちは呆然とした表情で呟いた。
「せや! こいつに名前付けたらんとあかんなぁ~。どんなんがえぇかなぁ?」
ふと、シュガーがフィアウルフの頭を撫でながら、あたしたちに問いかけてきた。
どうもこの人は名前を付けるのが苦手らしいので、必然的にあたしとリュウが知恵を絞ることになる。
「狼かぁ……かっこいい名前をつけるなら〝フェンリル〟辺りが妥当じゃないかな?」
「セインもそう思うか? 俺も真っ先にその名前が思い浮かんだぞ」
フェンリル――北欧神話に出てくる邪神ロキの第一子で、途轍もなく凶暴な狼のような怪物だったと言われている。北欧神話の中でも結構有名な話なので、あたしもリュウもよく知った名前だった。
この強さなら、名前負けもすることは無いだろう……多分。
シュガーはその名前を聞くと、満足そうに頷いた。フィアウルフも文句はなさそうで、相変わらず落ち着いた表情でシュガーに撫でられている。
「ほぉ……なんや分からんけど、えぇ名前やな!
ほんじゃ、じぶんはこれからフェンリルっちゅう名前や! よろしく頼むで?」
「……心得た」
フィアウルフも低い声で返事をし……えっ?
「な、な、何で言葉が話せるの~っ!?」
あたしは思わず叫んでしまった。だってこの狼、さっきまで一言も話してなかったよね?
「……話をしては悪いか? お前、ただの人間のくせに生意気だな」
「な、なんですって~!」
この狼……相当曲者かもしれない。こんなに毒を吐く生物を、おそらく外の世界でも見たことがない。
そもそも、シュガーだってただの人間じゃない!
「まぁまぁ、喧嘩は止めや? ……フェンリルも、セインをあんまり虐めんといてぇな」
「申し訳ない、我が主」
フェンリルはそう言うと、またしてもシュガーの前で頭を垂れる。
この狼、ご主人様に対しては忠誠を誓うらしい。これじゃあ反論も出来やしないよ……。
「フェンリルはお利巧さんやなぁ~」
そんなことを言ってシュガーはまた頭を撫でる。
感じの悪いあの狼は、撫でられながらこちらを見てニヤリと笑っていた。なんかムカつくなぁ……。
先程から置いてけぼりを食らっている男二人は、遠目にこちらのやり取りを見ていた。というより、本当にどこか遠くを見ているような……気のせいかな?
「……シュン、気付いたか?」
「あぁ。空から近づいているな……心配ないだろうが、一応警戒しておけ」
何かボソボソと話しているけど、あたしの耳にはまったく届かない。どこか険しい表情をしているけど、まさかまた何かが来るのかな?
そんなあたしの予感は、やはり的中してしまうのだった。