第一章 ④
「すみませーん!」
あたしは和菓子店〝坂本屋〟の前に来ていた。
眼科での視力検査も終わり、その後の時間は暇だったから龍馬君に会いに来たのだ。鞄の中にはきちんとミカドを入れたから、時間があればまた〝幻界〟に行くことが出来る。
すぐに龍馬君のお母さんが出てきた。あたしを見ると表情がパッと明るくなる。
「いらっしゃいませ~……あら、聖子ちゃんじゃない! 龍馬に用?」
「ま、まぁそんなところです」
昨日に続けてお邪魔したのに、嫌な顔一つせず笑顔で歓迎してくれる。あたしのお母さんが嫌いなわけじゃないけど、こんなお母さんだったらいいなとしみじみ思った。
龍馬君のお母さんは少し困ったような表情をすると、頬に手を当てながら口を開いた。
「えっとね……龍馬は今お出かけ中なの。
聖子ちゃんには悪いんだけど、今日はいつ帰ってくるか分からないのよね~。伝言があったら伝えておくけど、どうする?」
「あ、そんなに急ぎの用事じゃないので大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
そっか……龍馬君はお出かけ中なのかぁ。だったらまた明日でもいいかな。
「では、失礼しました~」
あたしは出来るだけ、平静を装って店を出た。あからさまにがっかりしては、龍馬君のお母さんにまた要らぬ気を遣わせてしまうだろう。
うん、今日は早く帰って小説でも読もう。
あたしはそんなことを考えながら歩いた。駅までの道程はさほど遠くないけど、今の気分で歩いていたら結構時間が掛かりそうだ。下手したら二倍の時間は掛かるかも……。
「ちょっと待って!」
ふと、急に叫び声が聞こえた。声のした方に振り向くと、龍馬君のお母さんが手を振りながら駆けてくるのが見えた。多分あたしに向けて叫んだのだろう。
あたしは歩みを止め、振り返って歩き出した。程なくして龍馬君のお母さんと合流したが、だいぶ息が上がっている様子だった。
あたしは心配になって、声をかける。
「大丈夫ですか? あたし、何か忘れ物でもしたでしょうか?」
両膝に手を付いて息を整えていた龍馬君のお母さんは、小さく首を横に振った。忘れ物をしていたわけではないらしいが、走らせてしまったことに申し訳なさを感じる。
少し落ち着いた様子の龍馬君のお母さんは、あたしの肩をがしっと掴みながら口を開いた。
「はぁ、はぁ……あのね、実は龍馬、昨日の女の子に連れられて学校に行ったみたいなのよ。はぁ……やっぱり、聖子ちゃんに黙っておくのはいけないかなって思ってね」
同時に、意味ありげなウィンクを送ってきた龍馬君のお母さん。きっと、あたしの気持ちにも気が付いているのだろう。ありがたいことだ……って――
「ええぇぇぇぇぇっ!」
嘘、でしょ? あの先輩と、一緒に学校に? なんで?
様々な疑問があたしの頭を駆け巡ったけど、わざわざ龍馬君のお母さんが伝えに来てくれたということは、女性として何か感じ取ったのだろう……恋愛方向に。
「……学校、ですよね?」
あたしはきっと、ものすごい表情で尋ねていたのだろう。龍馬君のお母さんは、あたしに圧倒されているみたいだったけど、それでも小さく頷いた。
でも、そんなこと構っていられない。あの先輩には大きな借りがあるけど、それと龍馬君は関係ない。絶対に阻止しないと……龍馬君を奪われてしまう。
「貴重な情報、ありがとうございました。今から龍馬のところに行ってきます」
「き、気をつけてね~」
返事を聞く前に、あたしは走り出していた。急がないと、手遅れになりそうな気がして……。
どれくらい走っただろうか……あたしは一度だけ龍馬君と一緒に学校に行ったことがあって、その道をほとんど勘で進んできた。
歩けば三十分は掛かる道だけど、今のあたしにそんなことを気にしている心の余裕は無かった。急げ、とにかく急げ……。
時刻は三時過ぎ、龍馬君が出て行ったのが正午過ぎなら、もういなくてもおかしくはない。けど、そんなことを考える暇もなく走り続けた。
だいぶ疲れてきたけど、このペースで走り続けたらあと十分以内には学校に着くだろう。いつもは走ることが苦手なのに、こういうときにはしっかり走れるから不思議だ。
私立夢見ヶ丘高校は、小さな山の上に建っていて、学校までの道程は一つしかない。山の麓にある交差点を曲がると、後は直線で学校まで迷うことなくたどり着く。
故に校門も一つしかなく、もし二人が出てくるとしたら間違いなく、この道で鉢合わせすることになる。流石にそれは気まずかったので、あたしは交差点の近くにあるコンビニに入った。
窓際の雑誌コーナーで、自然を装って雑誌を読みながら、交差点を眺めていた。あたしの予想通りなら、そのうち龍馬君が先輩と一緒に、もしくは一人で降りてくるだろう。
学校からはちらほらと部活終わりの生徒が数人出てくるが、龍馬君の姿は見当たらない。
「むぅ……遅いなぁ」
十分ほど待った頃だろうか、やっと龍馬君が降りてきた。
……先輩と一緒に。
「いた……なんか仲良さげなんだけど。何話しているのかなぁ」
信号に差し掛かると、二人して横断歩道の前で止まった。龍馬君は普通なら、信号を待たずに直進して帰宅するはずなのに、その気配は無い。
だとすると、あの先輩と一緒に横断歩道を曲がって、別の場所に行くのだろうか……。
「……ちょっと尾行してみようかな」
信号が変わって渡り始めたのを見計らい、あたしはコンビニを出ると交差点へと向かった。今の格好は、白地に花柄のワンピースと、愛用しているオレンジ色のスニーカー、そして小さめのハンドバッグ。少し派手かも知れないけど、多分バレないだろう。うん。
あたしはすぐに信号を二回渡ると、ギリギリ二人を視認出来る距離を保ちつつ、後ろから追いかける。時々携帯を触りながらも話をしていて、今のところは気付かれていなさそうだ。
「むぅ……なんかすごくいい感じだよ~。あたし的には嫌な感じだけど」
そんなことをぼやくと、二人は少し先の角を曲がった。あたしは見失わないように少し駆け足になって追いかける。少し距離が縮まってしまうけど、きっと問題ないだろう。
あたしも角を曲がると、三十メートル先位に二人は並んで歩いていた。先程までは大通りだったけど、少し細めの路地に入ったので人通りはだいぶ少ない。
ここからは慎重に追いかけないと、二人に気付かれてしまう。気をつけよう。
二人はさらに数分歩き続けた。あたしも同じ位歩いたが、やはり運動不足が祟って、結構疲れが脚に来ている。時刻は三時ジャスト、いつもならおやつにケーキでも頬張っている時間だ。
そんな事を考えていたら、小さくお腹が鳴ってしまった。
「近くに誰もいなくて良かったぁ……」
小さく呟きつつ、前方に意識を向けた。今尚話を続けているようで、時々先輩が腹を抱えて笑っている。
一体、どんな話をしているのだろうか……。
「それより……ホント何処に向かっているのかな? 早く着いてよ~」
あたしもさらに歩き続けた……多分二十分は歩き続けているだろう。
電車に乗る時間を除くと、あたしがいつも通学するときに歩いている時間は十分にも満たないのだ。脚もそろそろ限界を迎えてしまいそうになる。
あたしの心が折れかけたとき、ふと先輩が足を止めた。龍馬君も一緒に立ち止まり、先輩が指差す方を見て口をあんぐりと開けている。
何をそんなに驚いているのだろうか……。
「あっ」
すると、急に龍馬君がこちらを向いたので、あたしはすぐに近くにあった電柱に身を隠した。ここに偶然電柱が無かったら、尾行がバレていたところだ。
「危なかった……気付かれてないよね」
ほっと胸を撫で下ろしつつ、電柱の影から少しだけ覗きこむ。姿は見えなくなっていたけど、きっと先輩が指差した方向に行ったのだろう……すぐさま追いかけた。
あたしは駆け足で進み、角を曲がり――切れなかった。
「きゃあっ!」
「はぁ……やっぱり天宮か、ってうわぁ!」
角を曲がった途端、龍馬君が目の前に現れたのだ。突然の事にあたしは足を止めることが出来ず、思い切り龍馬君の体へと飛び込んでしまった。
ただでさえ夏場の暑さが応えるというのに、突然の出来事であたしの体は沸騰したやかんの如く、頭から煙が昇った――ように感じた。とにかく、体が火照っているということだ。
「あ、天宮っ、とりあえず離れてくれ」
「ひゃあ! ……ごっ、ゴメンっ!」
とりあえず謝った。勢いで抱き締めてしまったものの|(とはいえ、冷静に考えてあたし的にはラッキーな出来事だったかもしれないけど)、龍馬君にとっては迷惑だったかもしれない。それに尾行がバレてしまった以上、逃げも隠れも出来ない。
「別に謝らなくてもいいけど……あまりに尾行が下手だったんでって、萌先輩がめちゃくちゃ笑ってたぞ。
携帯の画面越しに丸見えだったそうだ」うわぁ……最悪だ。
「じゃあ、最初から気付いていたの? あたしの尾行に」
龍馬君は数瞬迷い、あたしの質問に苦笑しながら答える。
「別に最初からではないけど……学校前の交差点を渡ってすぐの曲がり角で、萌先輩が気付いたらしい。あの人妙に鋭いから、今度からは気をつけろよ?」
「はぁ……もう尾行なんて二度としないんだから」
あたしは盛大に溜息をつくと、龍馬君は再度苦笑しつつ口を開く。
「そのほうがいいかもな。……そうだ、ついでだから天宮も一緒に、萌先輩の家に寄ってくれないか? 俺一人だと、多分居心地悪いからさ」
「ふーん……別にいいよ、ってええぇぇぇぇぇっ!」
先程の龍馬君と同じくらい、あたしは愕然とした表情を見せた|(と思う)。
なんで? なんで龍馬君があの先輩の家にお邪魔することになっているの? ……訳が分からない。
「えーと……とりあえず、どういう成り行きでこうなっているのか、説明してくれない?」
「それは……カクカクシカジカで」
それから数分間は、龍馬君の話を聞いていた。話を聞く限り、あたしにとって脅威になり得る出来事は無かったみたいだけど、流石に女の子の家に招かれるのはあたしも見逃しがたい。これは何が何でも、あたしが一緒に行かないとダメだな。うん。
「なるほど……それで、あの先輩は今何処にいるの?」
龍馬君は先程の方向を指差しつつ、あたしに向けて話しかける。
「ほら、あそこ。今部屋を整理しているところだそうだ」
指差す方向を見てみると、そこには言葉に詰まる光景が広がっていた。
そこには家があった。特別大きくもなく、小さくもない普通の二階建ての家だ。
しかし、屋根や壁の色が尋常じゃないくらい個性的だった。なぜなら、どちらも強烈なピンクと赤色のストライプで彩色されていたからだ。
あたしは今まで、こんな超現実的な家を見たことが無い。
「……すごいね~」
「だろ? 絶対近所で噂になるだろ……」
あたしと龍馬君がひそひそと話していると、その家の玄関ドアが勢い良く開いた。ちなみに、ドアも外壁と同じくピンクと赤のストライプだ。
「龍馬~! 準備出来たで~……おっ、昨日の何とかちゃんやんけ!」
「天宮ですっ! あ・ま・み・や、ですよ!」あの人、何処かわざとらしいなぁ……。
「おぉ、そかそか。じゃあ龍馬、天宮ちゃんも連れて来やぁ!」
「分かりました~! ……というわけだ。許可も貰ったし、さっさと行こうぜ」
「……そうだね」
先程から思っていたけど、何だか今日の龍馬君は心なしか機嫌が良さそうだ。
普通、誰かと共に行動しているときは面倒くさそうな表情をしているのに、その様子が感じられない。先程の話からして、今日は生徒会のお手伝いに行っていたらしいけど、何か心境に変化があったのかもしれない。
嬉しい反面、少し複雑だ。
あたしと龍馬君は呼ばれるがまま、先輩の家の玄関ドアを開けた。