第六章 ③
幻界 世界暦4055年 第十一の月 十一日
妙に甘い香りに鼻腔をくすぐられ、俺は静かに目を覚ました。
「ん……あぁ、そっか」
そういえば、昨日はセインに腕を絡め取られたんだっけ。それで仕方なく、そのままの状態で寝ちゃったんだよな。
これはもう不可抗力でしかないな、間違いなく。
自分自身に言い聞かせながら、ゆっくりと体を起こした。まだ腕にはセインの両腕が絡みついたままで、引き抜こうとしても力は一切弱まらない。
こんな状態で一晩寝たら、腕が鬱血していてもおかしくはなさそうだけどなぁ……。
他愛もないことを考えながら、ぴぃぴぃと鳥のさえずりが聞こえてきたので、今更ながら壁に掛けてある時計を見る。時刻は朝の六時半、もう起こしても問題は無いだろう。
「おーい、起きろ~」
拘束されている右腕は使えないので、左腕でセインの肩を揺さぶる。すると表情を少し歪め、不快そうにうーんと唸って更に寝返りを打つ。
思い切り反対の方向に寝返った所為で、俺の腕は急激に捻られて悲鳴を上げた。
「痛っ……頼むから起きてくれぇ」
筋肉が引きちぎられそうな感覚に耐えながら、情けない声をセインに掛ける。やっと言葉が通じたのか、もう一度うーんと唸ったセインはうっすらと目を開けた。
眼鏡が無い所為でまだ焦点が定まっておらず、俺の顔を見てもずっと眠そうに瞬きを繰り返している。
「ほれ、眼鏡」
未だ解けない拘束に半ば呆れつつ、俺はセインに眼鏡を片手で上手いこと掛けてやる。
俺の顔を見たセインは少し嬉しそうな表情をし、そして胸元に視線を落とした。両腕で抱きしめている俺の腕を確認すると、その表情は急に赤く染まっていき――
「あっ、そ、その……ふっ、ふぇぇぇん!」
「ちょっと待て、何故泣く?」そこは怒る所じゃないのか?
思わず本気で突っ込んでしまうが、セインは泣き止む気配を見せない。それに、泣きながらも腕を放そうとしないのは如何なものだろうか?
「ったく……朝から五月蝿いぞ、生意気娘」
気付けば、ついさっきまでシュガーの横で寝ていたはずのフェンリルが、不快感を顕にしてボソッと呟いていた。
しかし俺とセインが密着していて、しかもセインが大泣きしている場面を見た途端に態度は急変。
「おい、朝から何をしている? 主の前で不埒な行動は慎めよ、リュウ」
「違う、俺じゃない! 俺は――」
「ふわぁぁぁぁぁん!」
必死の弁解を試みるも、セインの泣き声は次第に大きくなっていき、フェンリルの耳にはとても届きそうにない。
しばらくすると、泣き声を聞きつけたラナとザックが入室してくる。
「朝から騒々しいと思えば……リュウって、見かけによらず大胆だよなぁ」
「……最低です」
せめてこの時点でセインが腕を放してくれたら、もう少しまともに弁解出来たかもしれない。
しかし未だに泣き続けるセインは、俺の腕をホールドして放す気配を全く見せない。
「はぁ……何故朝からこんな目に……」
盛大に溜め息を吐きつつ、泣き止むまでの間、左手でセインの頭を撫でていた。
徐々に落ち着きを取り戻したセインは、やっとのことで俺の腕を開放してくれる。思えば、昨日の晩にセインの頭を撫でなければ、こんな状況にはならなかったんだよなぁ……。
「……えっと、朝からゴメンね。あたしってばつい……」
「いや、状況的に謝るのは俺だと思うのだが……こちらこそゴメン。理由は話せばややこしくなるけど、聞きたいか?」
遠慮がちに尋ねると、目を閉じて小さく首を横に振った。深く追求されると思っていただけに、内心ではほっと胸を撫で下ろす。
しかし外野の人間は、好奇と不満の視線を俺に浴びせてきた。
「なぁなぁ、なんで同じベッドで寝てたんだよ? 教えろよっ!」
「……正当な理由が無いのなら、私は許しません」
掘り返すとまたセインが泣き出しそうだ、そう思った俺は、二人に急接近すると強制的に肩を組む。
セインには聞こえないように諸事情を話すと、ザックは残念そうな、ラナは安心したような表情を浮かべた。
「なぁんだ……面白くねぇなぁ」
「面白くてたまるか! ……まぁ、そういうことだから気にするな」
何とか誤解も解けたところで、むっくりとシュガーが体を起こした。
あれだけ騒いでいても寝ていられるなんて、今までどれだけ深く寝ていたのだろう?
「むあぁぁぁ……なんや、朝からおそろいで」
妙な唸り声を上げると、群がる顔触れを見渡し、怪訝そうな表情を浮かべる。
幸いセインが泣き止んでいたので、下手に探られることも無かった。
と、思ったのもつかの間――
「……セイン、結構泣いとったやろ? 涙の跡が残っとる」
「そっ、それは……」
俺はシュガーに悟られないよう、セインの表情をちらりと見てみる。別に目を真っ赤に泣き腫らしているわけでもなく、一目見ただけでは泣いた後とは分からない。
だとすると、彼女は本当に涙の跡で判別したことになる。
シュガーの洞察力もここまで来ると、本当に俺と同じ高校生なのか疑問に思えてくる。涙の跡なんて見えないだろ、普通は。
「ま、きっとリュウの仕業やろけどなぁ。……夜這いも程々にせぇへんとあかんで?」
「夜這いなんてしないわ! てか程々でもダメだから!」何を言い出すんだ、この人は。
この人は俺のことを全然分かっていない。俺はそういうことに興味がないし、そんなことをする度胸だってありはしない。
第一に、彼女でもない女性に手を出すなんて言語道断だ。
そんな心中を悟ったのか、シュガーはバツの悪そうな顔で手を小さく振る。
「冗談やて冗談! とりあえず、おはようさん」
「お、おはよう」
急に笑顔で朝の挨拶をされたので、咄嗟に挨拶を返してしまう。
それだけで先ほどの出来事はどうでもよくなってしまい、俺は気を取り直して昨日出来なかった話をすることにした。
つまり、今日の昼に行われるシュン奪還作戦の詳細だ。
「皆集まっているし丁度良い。朝早くから悪いけど、今から昼の作戦について話そうと思う。……いいかな?」
全員が小さく頷いたのを確認して、ベッドに腰掛けるように促す。
昨日と同じ配置で座った皆の視線が向くと、俺は視線を返して話し始める。
「昨日のおさらいだけど、敵勢力はラナの言ったとおり、メルクリウス十世率いる王都軍の騎士団だ。
少数精鋭なだけに、この人数なら付け入る隙は必ず生まれると――」
「甘いで、リュウ」
俺の言葉を遮ったのは、腕を組んで静かに聞いていたシュガーだった。言葉の意味が分からず首を捻っていると、シュガーは目を細めて解説を始める。
「えぇか? この街にはえーと……鮮血の広場、やっけ? そんな場所があるやんか。
これが意味するところ、リュウは分かるか?」
いきなりの質問に、俺は頭をフル回転させた。鮮血の広場が存在している、その意味、理由。
冷静になって考えているうちに、俺はある可能性に辿り着いた。
「……まさか」
「せや。きっとリュウの思ぅとることは正しいはず。……つまりな、この街の人間は例外なく雑種を嫌っとる、っちゅーわけや。
シュンかて雑種やから、そんな存在を助けるウチらのこと、街の人間はどう思うかねぇ?」
シュガーの言うことはもっともだ。昨日のおばさんを見ていても分かるとおり、この街の人間は尋常じゃないくらい雑種を嫌っている。
もしも忌み嫌っている雑種の処刑を邪魔したら、街をあげての暴動にも発展しかねない。
要するに、街全体を敵に回す可能性もあるということだ。昨日の昼にも同じことを考えていたはずなのに、完全に失念していた自分が恥ずかしい。
「シュガーの言うとおりだ。俺たちの敵は、もしかしたら街の人間になるかもしれない。
……けど、これは同時に大きなチャンスでもある」
シュガーと話しているうちに、昨日の考えが頭の中に蘇ってきた。
その内容を整理すると、目に映る四人と一匹に向けて伝える。
「シュンはいいやつだから、それを住民に知らしめてやれば、雑種差別反対を伝えられるかもしれないんだ。これは俺たちが旅をする目的として、やらなくちゃいけないことだ」
「……そう、だよね。雑種にも意思があって、それぞれの優しさを持っている。
そのことをきちんと伝えなくちゃ、世界を幸せになんて出来ないもんね!」
やけに張り切っているセインに対して微笑を浮かべると、俺は視線をラナに向ける。
「なぁ、ラナ。熾天使って、この辺じゃ滅多に見られないよな?」
「う、うん。……普通の天使でさえ、滅多に見られない」
突然の質問に戸惑いを見せたラナだったが、努めて冷静に答えた。
ラナの言うことが正しいのなら、これは切り札として使えるかもしれないな。
「そうか。……だとしたら、セインには少し頑張ってもらうことになるかも」
「あたしなら大丈夫っ。で、何をすればいいの?」
「そうだな、まず――」
かなりの長話をしている間に、俺はこのメンバーなら確実に作戦を成功することが出来る、そんな自信が湧いてきた。気が付けば一時間という時が流れていたが、今にしてみればかなり短く感じたものだ。
それはきっと、作戦の指示という真剣な空気の中、彼らとの会話に楽しみさえ覚えてしまったからだろう。
まず俺が大まかな作戦を提案し、ブレーンとなるラナが細かな指示をする。それをセインとザックが真剣に聞き、内容に無理があるときは、シュガーが絶妙なタイミングでその点を指摘する。フェンリルはかなりの古参であり、更に戦闘経験も豊富である故に、人員の配置を無駄なく組み立てていく。
必要ならば作戦の内容に浮かぶ問題点も指摘する。
このような流れが自然と出来て、会話がサクサク進んでいくことに、俺は心地よい緊張感を味わっていた。
これから友を救うために一戦交えるというのに、それに対する恐怖心や躊躇いなどは一切感じない。
俺はただ、一つの目標に皆で向かっていくことが、ひたすらに嬉しかったのだ。
幼い頃から人との関わりを避け、〝人と協力して何かを達成する〟という経験に乏しかった俺にとって、この話し合いはとても新鮮だった。
乾ききっていた心に潤いを与えられたような、少し感動すら覚える感覚。
こうしていると、人と関わるのも悪くないと、今更になって思った。同時に、今まで十六年生きてきて、このような経験が出来なかったことに、少し悔しさを覚えたりもする。
何はともあれ、今日の作戦は絶対に成功するはずだ。
……否、成功させなければならないのだ。
まだ俺たちの旅は始まったばかりなのに、幻界で初めて出来た友が殺されようとしている。作戦の失敗は、同時にシュンの死を意味しているのだ。
もうこれ以上、大切な人を傷つけさせはしない、絶対に。
「リュウ……大丈夫?」
「っ! ……あぁ。大丈夫だ」
長いこと考え事をしていた所為か、表情が険しくなっていたらしい。
心配そうな表情をしているセインに笑顔を送ると、俺はその場から立ち上がる。
時刻は午前七時十四分。そろそろ空腹を覚える頃合いだが、朝食には少し早い。
こんなときは、体を動かすに限るな。
「なぁ、ザック。ちょっと稽古に付き合ってくれないか?」
俺の言葉に、ザックは思い切り目を丸くする。別におかしなことを言ったつもりは全く無いのだが、一体どうしたのだろうか……。
「リュウ、お前よぉ……体力の温存とか考えないのか?」あぁ、そんなことか。
「そりゃ加減はするさ。ただ、ウォーミングアップしたいなって」
体を動かすには、それなりの準備というものが必要だ。今日は特に、強い相手と戦わないといけないのだ。
全くの準備なしで戦おうものならば、実力を充分に発揮出来ず、後に後悔することは目に見えている。
そんな俺の考えが通じたのか、ザックはやれやれといった表情で立ち上がる。そして部屋を出て行くと、すぐに小刀を装備して部屋に戻ってきた。
「言っとくが、想創は一切ナシの近接戦のみにしろよ。体を動かすだけなら、わざわざ想像力を消費する必要はないだろ」
「もちろんだ。……想創。〝木刀〟」
左手を目の前に突き出し、小さく呟く。想創光が左手に発生したかと思うと、一瞬で木刀が姿を現した。
想創までの時間は秒数にして、遂に一秒を切るほどになったのだ。
「うーん……シュガーのハリセンには敵わないなぁ」
そう、シュガーは更に早いのだ。俺がやっと一秒を切ったのに対して、シュガーは平常時で一秒を切っている。
これからの伸び代を考慮すると、俺がシュガーと並ぶには更に早くしなければならない。口で言うのは簡単だが、実際にやるとなるとそう上手くはいかないものだ。
そないなことないと思うけどなぁ、という呟きを聞き流し、俺は木刀を握り締める。
生身で持ち歩くのは気が引けるが、木刀を納める鞘もないので、帯刀だけすると部屋の外へ出た。
「気をつけてね~」
セインの声に手を振って返すと、俺はザックと共に階段を降りる。




