第一章 ②
「いらっしゃいませー!」
俺はカウンターに立っていた。技術面では婆ちゃんや母さんの手伝いが出来ないので、俺に出来ることといえば掃除かお客様の対応くらいだ。
人見知りなのに、こういうときはしっかりと営業スマイルをかませるのだから不思議だ。
「あらあら、今日は坊やも店員さんなのかい?
じゃあ揚げ饅頭のこしあんを二つと、抹茶の水羊羹を四つお願いしようかねぇ~」
「かしこまりました。少々お待ちください」
俺はショーケースの中にある、揚げたてホヤホヤの揚げ饅頭を二つ手早く紙袋に詰め、さらに隣にあるクーラーボックスの中の水羊羹(抹茶味)を別の袋に詰めた。それらをすぐにお客様へと手渡す。
「お待たせいたしました。お会計は八百十円になります」
「早いねぇ~。最近の男の子はお手伝いなんてしないと思っていたけれど、坊やはよく働いているね。親もきっと大喜びでしょうに」
感嘆の言葉と共に小銭を受け取る。ご年配の方々が来られると、決まってそういうことを言われるから、俺としては反応に困ってしまう。
同学年の人間に見られたら、恥ずかしくて生きていけないだろう。
レジを打ち、出てきたレシートをお釣りの四十円と共に優しく手渡した。
コンビニなどでは小銭をよくレシートの上に置くが、俺はそんなことしない。がま口だと入れづらいし。
「ありがとうございました! またのお越しをお待ちしております!」
元気に挨拶をすると、お客様は軽く手を振りながら去っていく。俺も一応振り返した。
そのような感じで俺はカウンターに立ち続け、気がつけば時刻は正午を回っていた。そろそろ人が混み合う時間帯だろう。
しかし、俺の予想の斜め上を行く人間が俺の目の前に現れた。
「いらっしゃいませ! ……げっ」
「げっ、とは何なん? ウチが来たらマズいことでもあったんか?」
佐藤萌先輩。彼女は俺と天宮の世界を救ってくれた恩人なのだが、普通に会うなら問題ないのに、何故店番をしているときに限って現れるんだ……。
「……ご注文はお決まりでしょうか?」
「なんや、急にかしこまってからに。ウチはじぶんに用があって来たんや、龍馬」
……なにやら面倒なことに巻き込まれそうな気がする。スルーが吉だろう。
「ご 注 文 は お 決 ま り で しょ う か!」
ちょっと強く言ってみた。すると萌先輩は少し考え、ニヤリと笑って答える。
「んー、じゃあ坂本龍馬を一人」
「……生憎、そのような商品を当店では取り扱っておりません。他にはございませんか?」
とにかく関わらないようにすることを考えた。そろそろ他のお客様も来るし。
サラリと返された萌先輩はというと、先程の表情を豹変させ、涙をポロポロとこぼしていた。
「うぅ……ウチはただ、龍馬に付きおうて欲しいだけやのに。冷たいわぁ……」
「な、泣かないでくださいよ。ほら、俺の親とかが見てますから!」
まだ後ろを振り返ってはいないが、背後から母さんと婆ちゃんの冷たい視線をひしひしと感じている。
俺が泣かせた訳じゃないのに……いつだって責められるのは男なのだ。
「分かりました! 分かりましたから……ちょっと母親に聞いてきます」
そう言うと、萌先輩はすぐに笑顔になりやがった。女性ってやっぱりズルイ。
俺はすぐに母さんの下へ向かい、少しだけ出掛けてくる旨を伝えた。申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、そんなことよりも女の子を大事にしろとか言うのだろう……うちの家族は。
「もう女の子を泣かせちゃダメだからね! ……今度こそ紹介しなさいよ?」
「しねぇよ! するほどの関係でもないから!」
親に紹介するほどの関係って、例えばどんな関係なのだろう。うーん……よく分からん。
そんなことを考えつつ、エプロンを脱いで畳むと、すぐさま萌先輩の下へ向かった。
「……で、何の用事でしょうか? 今は天宮がいないので幻界には行けないのですが」
「構へん構へん。それより、ウチは龍馬に用事があって来たんや」
俺に用事って……何だろう? やっぱり嫌な予感しかしないのだが。
予感が的中しないように、俺は萌先輩にそれとなく尋ねてみた。
「では、今日は何をするんですか? まさか生徒会関係とか……じゃないですよね?」
すると萌先輩はキョトンとした表情になり、すぐに満足そうに頷いた。
「いやぁ~、ホンマ龍馬は鋭いなぁ! まぁそういうこっちゃ。
ウチは龍馬に、生徒会の仕事を手伝ぅてもらうために呼びに来たんよ。ほな行くでぇ!」うげ……予感的中だし。
背中をバシバシ叩かれながら、俺は萌先輩に半ば無理矢理学校へと連行された。
結局そこから三十分かけて歩き、気が付けば学校の校門前に立っていた。
俺は歩き慣れているのでなんてことはなかったが、萌先輩はヘトヘトになっていた。
「はぁ~……龍馬、ようここまで徒歩で来れるなぁ」
「まぁ、慣れてますから」
大きな溜め息をついた萌先輩は、肩に提げていた鞄から液体の入ったパックを取り出した。普通は凍っていたりゼリーが入ったりしているそれの蓋を開けると、ちゅーちゅーと吸って美味しそうに飲んでいる。
パックには〝にがり水〟と書いてあった。
「……あの~、それ何ですか?」
恐る恐る尋ねてみると、さも当然といった表情で萌先輩は答える。
「見ての通り、にがり水やで。この苦さが堪らんのや!」
ぐっ、と親指を立てながら片手で飲む姿は、CMに出演できるのではないかと思わせるほど輝いていた。そんなCMが流れていても、飲みたいとは思えないが。
そんな俺の心中を知らないであろう萌先輩は、鞄からもう一本同じ物を取り出す。
「ほな、お近づきの印に一本どや? 結構癖になる苦味やで?」
「いりません! てか、萌先輩はいつもそんなの飲んでるんですか?」
まさかと思いながらも尋ねてみると、萌先輩はまたしても満足そうに頷く。
「実は龍馬って名探偵なんちゃうん? そやで、ウチは苦いもの大好きなんや。
このにがり水はもちろん、青汁にゴーヤ、秋刀魚の肝なんかも好きやな」
「は、はぁ……」そこまで行くと味覚障害だろ、絶対。
〝苦党〟|(なんて言葉はあるのかどうか知らないが)萌先輩の行動に何も言えなくなった俺は、萌先輩が二本目のにがり水を飲み終えるまで待った。あぁ、見ているだけで口の中ににがりの苦味が広がっていくようだ……。
あっという間に飲み終えた萌先輩は、やっと本来の目的を思い出したようだ。
「あっ、こないなことしとる場合やないやん! はよ生徒会室行くで!」
萌先輩が小走りで校舎に向かうので、俺もその後を追った。
確か、この学校の生徒会室は図書室と同じ四階にあったはずだ。場所はおぼろげにしか覚えていないが、一度だけ一年のときに見学に行った覚えがある。あの時もいたっけ、この人。
昇降口で運動靴を履きかえると、萌先輩と合流してすぐに階段を昇った。
この学校は教室棟と別棟、体育館と三つの建物が存在する。図書室は別棟の四階にあるが、生徒会室は教室棟の四階にある。
いつもは登らない階段に若干の緊張を覚えつつ、四階にたどり着いた。
教室棟の四階は人の出入りが少なく、ここに用がある人間は生徒会の人間か、美術部の人間くらいだろう。俺には縁遠い空間だ。
無感動に感想を浮かべつつ、ひたすら萌先輩について行く。生徒会室は廊下の突き当たりにあり、扉の大きさから部屋の規模の大きさが計り知れる。明らかに他の教室よりも大きく、しかも鍵が二重に用意されていた。
その扉の前に着くと、萌先輩はスカートのポケットから小さな鍵を取り出した。
鍵には意外にも、可愛らしいキーホルダーがたくさん付いている。苦党なのに……。
「ほな、入るで」
萌先輩は鍵を開けようとして、その手を止めた。何事だろうか……。
「……そういや、鍵開いとるわ」あぁ……バカだ、この人。
「誰がバカやってぇ~!」
「ひはい! ひはいへふ、ほえへんはい!」何故心が読めるんだ、この人は!
しばらく俺の頬を引っ張っていた萌先輩は、俺がぐったりと脱力したのを見て、やっと手を離した。俺の頬は盛大に赤く腫れていた。
「全く……表情に出とるっちゅーに。これからは気ぃつけるんやな」
「すみませんでした」
この人、ただ明るいだけの人ではなさそうだ。頭は回るし観察力も結構鋭い、何も考えていないようでしっかりと考えている……そんな印象を俺は持った。
「んじゃ、気ぃ取り直して入るで!」
萌先輩は鍵を鞄にしまうと、今度こそ生徒会室の扉を開いた。
ガラガラっと小気味良い音を立てて開いた扉の向こう側は、いかにも生徒会室という感じだった。
中央に長机がいくつか並んでいて、椅子は七つ置かれている。おそらく生徒会の役職である会長、副会長、書記二名に会計二名、プラス生徒会顧問の椅子なのだろう。そして机の上にはノートPCが二台と大量の書類、そして湯飲みがいくつか置いてあった。
「あ~っ! もえもえ来たよ~っ!」
椅子に座っていたツインテールのちっこい女子が立ち上がり、すぐに萌先輩の前に立った。
俺と萌先輩を交互に見ると、俺に向けて頭をペコリと下げてお辞儀をする。
「初めまして、生徒会書記の田中ゆりだよ! 今日はヘルプで来てくれたんだよね? 本当にありがとっ!
えーと……坂本君だっけ? よろしくねっ!」
「は、はぁ……」まだ仕事の内容も知らないのですが。
彼女は見たところ、俺と同じ二年生のようだ。生徒会は原則二年生から立候補が出来るので、別に生徒会としては珍しい存在ではない。
しかし、〝生徒会書記〟という肩書きを持っているだけで、どうにも近寄りがたいオーラを放っている。
そんな俺の手を引いて、彼女は部屋の隅にあるホワイトボードの前へと誘導した。そこに書いてあったのは六名の名前。おそらく生徒会のメンバーなのだろう。
「今日は私ともう一人の会計しかいないけど、一応名前は覚えておいてね~」
随分と笑顔が眩しい女の子だ、と俺は思った。こういう方面の明るい女子はそこまで嫌いじゃないので、あまり気を遣わなくてもよさそうだ。
俺はホワイトボードを一瞥し、名前を順番に読み上げていく。
「えーと、会長は……まぁ萌先輩だな。
副会長は三年の鈴木林檎さん。
書記は二年の田中ゆりさん。
もう一人の書記は三年の高橋賢介さん……男もいるみたいだな。
会計は二年の田中まりさんで、もう一人の会計は二年の渡辺美穂さん。以上、っと」
読んで分かったことは、隣に立っている彼女は双子で、生徒会に二人ともいるということ。女性が圧倒的な比率を占め、唯一の男性が肩身の狭い思いをしているだろうということ。
これくらいだろうか……しかし、これを読んでいてモヤモヤしたのは何故だろう?
「ねぇ……どうかした? なんか考え込んでるみたいだけど」
ゆりが心配そうな表情で、俺の様子を伺っている。少し難しい表情をしていたようだ。
「いや、なんでもないです。気にしないで」
俺は目を逸らしながら答えた。赤の他人とここまで話が出来るとは思っても見なかったが、やはり相手の目を見て話すことは出来ないようだ。
ゆりはそれ以上の追求をやめ、話を元に戻した。
「そう? じゃあ、次に坂本君が今からやってもらう仕事を説明するね。
今日の仕事は、運動部や文化部の一学期分の部費を計算して、大会の成績とかを見ながらバランスを整えるんだけど……坂本君って計算は得意?」
「まぁ、人並みには出来ると思います。数字にもよりますが……」
ゆりは俺の返事を聞いて少し考え、小さい声で俺に告げる。
「もえもえほど頭悪くないなら大丈夫だよ~。
それじゃあ、電卓はそこに置いてあるしPCも自由に使ってくれて構わないから。初仕事、頑張ってね!」先輩、後輩にも頭悪いって言われていますけど大丈夫ですか?
そんなわけで、俺は一時間ほど電卓と睨めっこする羽目になった。
意外にも端数が多く、一つでもミスすると全体の結果が変わってしまうため胃の痛くなる作業ではあったが、それでもどうにか終えることが出来た。気が付けば、もう二時を回っている。
「はい、終わりましたよ」
俺がゆりに書類を提出すると、全体に目を通して確認し、そして大きく頷いた。
「うん、バッチリだね! それじゃあ、最後に奥の部屋にいるお姉ちゃんに書類を提出してくれたら、今日の仕事はお終いだよ~」
お姉ちゃん、とはおそらく生徒会会計の田中まりさんのことだろう。言われたとおりに俺は部屋の奥にある扉を開くと、そこにはゆりとよく似ている顔立ちの女子が立っていた。
彼女は俺に気が付いたみたいで、少し慌てながら挨拶をする。
「あっ、えっと、その……初めまして! 私は生徒会会計の田中まりと申します。
その書類はゆりに頼まれたものですね?」
双子といっても、内面は似ていないらしい。ゆりは明るく快活な感じだったけど、まりは静かで内気なイメージだ。
まぁ、会ったばかりだからまだ分からないが。
「はい、それじゃあお願いします」
俺が書類を差し出すと、まりは両手で丁寧に受け取った。
それを部屋の奥にある引き出しにしまうと、その近くにあった食器棚から湯飲みと急須を取り出し、ポットに入っていたお湯でお茶を淹れ始めた。どうやらこの部屋は、給湯室と書類の保管庫を合わせた部屋みたいだ。
まりは手早くお盆に湯飲みを四つと先程の急須、そしてそれと別に小さな急須を載せると、少し危なっかしい足取りで部屋を出ようとする。あぁ……コケそうだ。
「よいしょ……あわっ!」
予想通り、まりは足を滑らせた。俺はある程度予想していたおかげで、体が素早く動く。
俺は倒れ始めたまりを右腕で支えると、もう片方の手で落ちそうになっていたお盆を支えた。幸い、お盆もまりもそこまで重くなかったので、俺がバランスを崩すことは無かった。
多少お盆の上にお茶がこぼれたが、その程度の被害で済んでむしろラッキーだろう。
ほっと一息つくと、腕で支えていたまりを起こす。
「あ、あの……ありがとうございました」
俯きながら消え入りそうな声で口を開いたまりに、俺は慰めるように声を掛ける。
「これからは気をつけてくださいね? とりあえず、こいつは俺が運びますから」
そう言うと、俺は扉を開いて生徒会室の長机にお盆を置き、手早くお茶を準備する。すぐにまりも部屋から出てきて、先程載せた別の急須に、何やら毒々しい緑色の粉末とお湯を入れる。
初めてミカドに会ったときに戦ったナメクジを思わせるその色の粉は、やたらと苦い香りがした。きっと、萌先輩だけは特別苦いお茶なんだろうな……。
俺がお茶を淹れる様子を見ていたゆりは、驚いたような表情を浮かべていた。
「おぉ! 坂本君は雑務も出来るのか!
もえもえは素晴らしい人材を見つけたねぇ~」
四つの湯飲みにお茶が入ると、それぞれの机に置いていく。
ちなみに萌先輩は俺が作業している間から今まで、机に臥してずっと寝ていた。仕事丸投げかよ……。
お茶の香りで目を覚ました萌先輩は、寝ぼけながらも湯飲みを手に取る。
「うーん、やっぱりこの苦味がええなぁ……。目ぇ覚めるわぁ」
あっという間に飲み終えると、無言で湯飲みを俺に差し出す。きっとおかわりなのだろう。
しかし、小さな急須にはお茶が残っていない。これはまりに頼むしかないだろう。
「あの~……萌先輩のお茶がなくなったんですけど、淹れてもらえませんか?」
静かにお茶を啜っていたまりは、俺の声に反応して湯飲みを取りこぼしそうになった。
「はわっ! は、はい! 分かりました!」
そして俺から湯飲みを受け取ると、急須と例の粉末を持って奥の部屋へと引っ込んだ。俺、彼女に何かしたのかな?
「龍馬、ぎこちないなぁ。同い年なんやから、もっと仲よぅすればええのに」
「そだよ~。私もお姉ちゃんも龍馬と同じ学年なんだから、仲良くしようよっ!」
そうは言われても、やっぱりまだ人付き合いは苦手だ。この人たちは決して悪い人ではないのだが、いきなり仲良くしようと言われても困る。
だが、これは俺の苦手を克服するチャンスかもしれない。今までは天宮としかまともに話せなかったけど、これを機に人付き合いに慣れていけるかもしれないのだ。
迷った挙句、俺は意を決して口を開いた。
「……分かりました。じゃあ、これからよろしくお願いします、ゆりさん」
俺の言葉を聞いたゆりは、しかしまだ不満そうだった。
「うーん……とりあえず敬語はやめない? それにさん付けしなくてもいいよ~」
いきなりハードル高いなぁ……。
しかし、先程俺も呼び捨てにされているので、遠慮なく呼び捨てにすることにした。この人はきっと気にしないだろう。
「分かった。じゃあ改めてよろしく、ゆり」よく言った、俺!
「それで良し! もしかしたら、もえもえ権限でまた呼ぶことがあるかもしれないけど、その時は龍馬もまたお仕事手伝ってね?」
「……暇があったらね。ちなみに、まりさんも呼び捨ての方がいいのかな?」
俺の質問にゆりはうーんと唸り、そして薄ら笑いを浮かべながら答える。
「別に呼んでも構わないけど、お姉ちゃんは男に免疫がないからね~。
少し挙動不審になるかもしれないけど、龍馬は気にしなくてもいいよ」
「それは気にするだろ……。まぁ、あんまり他人行儀になると萌先輩に言われそうだから、出来るだけ普通に接するように、努力はするよ」
「よぉ分かっとるやないか~。流石はウチの見込んだ龍馬やで」
正直、天宮以外の人間とここまで人と話せるとは、思っても見なかった。今まで人付き合いを嫌ってきた俺だが、こういうのもたまには悪くないなと思った。進歩したな、俺。
だいぶこの部屋の空気にも慣れてきた頃、まりが部屋から戻ってきた。
急須からは湯気が立っていて、それに乗って苦い香りが漂ってくる。これは飲みたいと思わないな……。
「お、お待たせしました! 萌先輩、どうぞ……」
今回はコケずに持って来られたみたいだ。すぐに湯飲みに注ぐと、萌先輩に差し出す。
「おぉ、ありがとうな。まりも座ってはよ飲みぃ」
「は、はい」
まりは自分の席に着くと、両手で湯飲みを持ってお茶を飲み始めた。
数口飲んで一息ついたところを見計らって、俺は緊張を表に出さないようにさりげなく話しかける。
「萌先輩のお茶、注いでくれてありがとう。先輩の分は、あの缶の中身を出せばいいの?」
俺の声にまりは先程より過剰に反応し、赤面しつつ俯きながらぼそぼそと答える。
「は、はい。萌先輩のお茶は、特別に苦く作られています。
それじゃなきゃダメみたいで、普通のお茶を出すと飲まないんです」
先程のように慌てている様子はなかったが、やはりよそよそしい感じだ。呼び捨てにするのは難しいかもしれないな……。
しかし、こんな風に俺からコミュニケーションのとり方を考えるなんて、今まででは絶対にあり得なかった。今日一日生徒会の仕事を手伝っただけで、精神的にだいぶ成長したんだな、とつくづく実感させられる。
これで、俺の人見知りも治るかな……治るといいな。
「そうなんだ……またこの部屋に手伝いに来た時のために、きちんと覚えておかないとな」
俺の言葉を聞いた萌先輩は、ニヤリと笑いながら楽しそうに口を開く。
「おっ、今日の龍馬はやけに積極的やなぁ。
……どうせなら、このまま来期の生徒会に入ったらどや? ウチが推薦しといたるわ!」
ゆりも萌先輩に同調し、こちらは目を輝かせている。
「そうだよ~! 私たちも来期は続ける予定だから、龍馬も一緒にやろう?」
まりも言葉にはしないが、コクコクと頷いて同意した。
俺は非常に迷った。確か生徒会に入ると委員会を続けることが出来なくなるはずだ。
それはつまり、俺と天宮が過ごしてきた場所を、自らの手で捨ててしまうことになるのだ。
生徒会の人たちにはお世話になったし、多少の興味はある。しかし、天宮との居場所も失いたくない。
散々考えた挙句、俺は短く返事をした。
「まぁ、考えておきます」
その場しのぎの返事かもしれないが、バッサリと断るよりはマシなはずだろう。この件に関しては、一度天宮と話したほうが良いかもしれない。
そんな俺の気持ちを察してか、萌先輩は目を細めながらお茶を啜る。
「まぁ、焦らんでもええわ。選挙は二学期の中盤やから、それまでに考えとけばええねん」
「分かりました。その日までにはきちんと考えておきます」
俺と萌先輩のやりとりを聞いていたゆりは、相変わらず明るい表情で口を開く。
「でも、龍馬も前向きに検討してよね~。
私もまりも、龍馬のこと生徒会に向いていると思っているんだよ? そうでしょ、お姉ちゃん?」
いきなり話を振られたまりは、狼狽しながらも首を縦に振る。
「は、はい。坂本君は会計処理能力も高いし、お茶も淹れられるし、咄嗟の行動力も……」
そこまで言うと、顔を思い切り伏せてしまった。どうしたんだろう?
「あははっ! 龍馬はホンマこういうことは鈍いなぁ~」
めちゃくちゃ萌先輩に笑われた。鈍いって……何故だ? 全く分からん。
「まぁ……きっと龍馬もそのうち分かるよ。お姉ちゃんもそろそろ顔上げなよ~」
ゆりの言葉を聞き、まりはゆっくり顔を上げた。
何やら赤面しているようなのだが……俺、まずいことしたのかな?
「坂本龍馬にも分からんことはあるぜよ! って感じかなぁ~」
ゆりの茶化しに萌先輩は爆笑し、俺は呆れつつ言いたいことはきちんと言う。
「あのさ……出来ればそういうネタはやめてほしい。あの人と比べられている感じがしてね」
俺が苦々しい顔で呟くと、ゆりは大仰に驚いた後に首を横に振りまくる。
「そんなつもりじゃないよ! それに、そんな知らない人よりも、今こうして頑張ってくれている龍馬の方がずっといいと思うけどなぁ」
「まりの言う通りや。多分な、その名前には親の込めた想いとかいろいろ詰まっとるはずや。
苗字と名前が偶然一緒やからって、別に気にせんけりゃええ話やん?」
そうだ、俺は大事なことを忘れていた。
この名前は、爺ちゃんや婆ちゃん、それに母さんが俺のために付けてくれた誇り高き名前じゃないか。今更恥ずかしがることはないだろう。
考えを改めさせられた俺は、自分に向けて呟くように口を開く。
「……そうですよね。別に名前が一緒でも、存在は別物なんだ。俺は俺らしく、胸を張ってこの名前を名乗ればいい。恥ずかしがる必要なんてない」
その言葉を聞いていた生徒会メンバーは、皆一様に頷いていた。俺のことを認めてくれる、そのことがすごく嬉しかった。
今まで人付き合いが苦手だったのは、比べられるのが嫌だったからかもしれない。でも、この人たちのおかげで俺はもっと成長できるかもしれないと、そう思えた。
「萌先輩、ゆり、まりさん。本当にありがとうございます」
俺は心から礼を言うと、なんだか清々しい気分になった。
同時に、先程感じたモヤモヤ感の正体が少しずつ見え始めてきた。名前、苗字……。
「あぁ、そういうことだったのか」
「……どしたん? そういうことか、って」
礼を言った直後に何かに気付くという、変な行動を取った俺を見た生徒会メンバーは、訝しげな表情になって俺を見ている。視線に気付いた俺は、遠慮がちに萌先輩に尋ねる。
「あの、面白くない話かもしれないのですが――」
「おもろないなら却下」
言い終える前に却下されてしまった。厳しいなぁ……。
「うぐっ……じゃあきっと面白いです」
「ならええ。はよ話しぃ」
一度息を整えると、俺はゆっくりと話し始める。
「さっきホワイトボードに書いてあった生徒会メンバーの名前、何か引っかかるところがあったんですよ。
それがずっと分からなかったのですが、萌先輩が言った〝苗字と名前が偶然一緒やからって〟という言葉を聞いて、そのモヤモヤがはっきりしました」
「ほぉ……それは何なん?」
俺はそこで一旦席を離れ、ホワイトボードを見やすい位置に持ってきた。みんなが興味深げに見ている中、話を続ける。
「ここで苗字に注目して欲しいのですが、会長は佐藤、副会長は鈴木、書記は高橋と田中、会計は田中と渡辺ですよね?
これって、実は日本で多い苗字ベスト5なんですよ。以前図書室に置いてあった本で読んでいたから思い出したのですが」
俺の話を聞いていた全員が、驚きの表情を浮かべていた。
「そやったん? 確かにおもろいけど、偶然にしては出来すぎやなぁ……」
「そんなの全然知らなかったよ~……龍馬って意外と文学少年なの?」
「私も……知りませんでした。坂本君は物知りですね」
各々の反応を確認したところで、俺はホワイトボードを戻して席に着く。
渇いた喉をぬるめのお茶で潤すと、今度は萌先輩が口を開いた。
「じゃあさ、龍馬の苗字って何位なん?」
「えーと……確か三十八位です」
すぐに答えると、三人が先程よりも驚いていた。何かしたか?
「龍馬って、記憶力ええなぁ」
「そうだよね~。普通そこまで覚えられないよ~」
「……すごい」
別に普通だと思うけどなぁ……。そんな事を考えていると、机の置いてある時計のアラームがけたたましい音を立てた。
俺がびっくりしていると、萌先輩が立ち上がって柏手を打つ。
「時間やね! そんじゃ今日の仕事はこれでおしまいや。気ぃ付けて帰るんよ~」
そういうことだったのか。生徒会にも終業時刻はあるんだな……。
ゆりは机の上を片付け、まりはお盆に飲み終わった湯飲みを載せて片付けた。
あっという間に帰る準備が整い、二人は荷物を持つと萌先輩と俺に向けて別れを告げる。
「それじゃ、お疲れ様でしたっ! 龍馬もまた来てね~!」
「お疲れ様でした。……今日はありがとうございました、坂本君」