第四章 ③
六月 二十八日 月曜日
「……眠れなかった」
あれだけ気合を入れて寝たにもかかわらず、目を瞑ると悲しげな天宮の表情が浮かぶものだから一睡も出来なかった。
きっと目元には、大きな隈が出来ていることだろう。
時刻は七時ジャスト、流石にもう起きる時間だ。どうせ寝ようと思っても寝られないのは明白だから、とりあえず体を起こした。
「……ヤベ、風呂入ってねぇ」
今日は平日で、急がないと遅刻してしまう。
そんな当たり前の事にやっと気が付いた俺は、せめてシャワーだけでも浴びようと浴室へ駆け出した。
「おはよう……あら、そんなに慌ててどうしたの?」
「おはよう。風呂入ってないの思い出したんだよ」
今日も母さんはキッチンで朝食の準備をしていたが、挨拶もそこそこに通り過ぎて浴室へ行くと手早くシャワーを浴びてすぐに出る。
所要時間約五分ってところか……烏の行水って、このことを言うんだな。
すぐさま制服に着替えると、まだ時間に余裕があるので朝食も食べることにする。今日は時間が遅いから婆ちゃんは食卓におらず、母さんと二人きりの朝食になった。
「いただきます」
俺はひたすらご飯をかき込み、いつも以上にガツガツと喰らう。
今日はかなり体力も精神力も使うだろうから、英気はたっぷり養わないといけない。
「あらあら、そんなにがっつくと体に悪いわよ?」
苦笑している母さんをよそに、俺はあっという間に出された山盛りのご飯を食べ終えた。
「ごちそうさま。んじゃ、行ってくるわ」
「気をつけてね~」
小さく手を振る母さんをちらりと見てから、俺は階段を降りて厨房へと顔を出す。
婆ちゃんはせっせと羊羹を型に流し込んでいる最中だった。
「婆ちゃん、おはよう。今から学校行ってくるよ」
こちらを振り向いた婆ちゃんは、器用にも羊羹を流し込みながら口を開く。
「おはよう。気をつけて行くんだよ?」
やっぱり婆ちゃんは頑張っているなぁ……俺も見習わないと。そんなことをしみじみと思いながら、俺は家を後にした。
「今日こそは、きちんと天宮と話さないと」
やっぱり緊張はするけれど、昨日萌先輩と出した結論を思い出すんだ。
大切なのは、きちんと面と向かって気持ちを伝えることだ。そうすれば、きっと天宮も許してくれる。
気合を入れるために両頬をバチンと叩くと、俺は駆け足で学校に向かった。
朝起きたときは遅刻するかもしれないと思っていたのに、いざ着いてみれば授業開始時刻の二十分前だった。流石に気合を入れすぎたか……。
俺は自分の席――日光のよく当たる窓際、前から三列目――に座ると、時間を潰すために持ってきた小説を開いて読み始める。
内容はもちろん剣や魔法がたっぷり出てくるファンタジーだが、天宮曰く〝ちょっとラブコメも入っているから龍馬君は苦手かもねぇ~〟らしいので、読みきれるか自信が無かった。
幸いそれ以外の部分がとても面白く、時々出てくる二人きりのシーンを恥ずかしながら読むことさえ気にしなければ、とてもよい出来だと思う。
「そういえば、天宮から借りた小説だっけ」
そんなことを考えながら、しおりの挟んである箇所から小説のページを捲り始める。
しおりは大分後ろに挟まれていて、物語はクライマックスに突入していた。
伝説の剣を求める旅に出た主人公は、途中で国に囚われていた一人の少女に出会う。
その後紆余曲折を経て心身共に成長し、遂に伝説の剣を手に入れようとしていた。
しかしそれまでの戦いで少女は致命傷を負ってしまい、助けるには伝説の剣に秘められた力を使うしかない。
主人公は大いに悩んだ。この剣の力があれば、使い方次第では世界平和を永久的に維持出来る奇跡さえも起こすことが出来る。
そしてその力は、人間一人を救う力と同等なのだ。今まで時に喧嘩をしながらも助け合ってきたパートナーを見捨てて世界を救うか、そのパートナーを剣に秘められた力の全てを使って救うか。
「どうなるんだろ……」
俺はドキドキしながらも、静かにページを捲った。
究極の選択を迫られた主人公は……少女の命を選んだ。
世界は人間の力で救うことが出来るけれど、少女の命は剣の力を使わないと救えないから。
そのとき主人公は、少女に対してこう言った。
〝君の命一つ救えなかったら、僕は絶対に世界なんて救えない。……君のいない世界なんて、生きている意味が無いんだ!〟、と。
「…………」
その言葉を聞いた少女は涙ぐむと、今まで募りに募っていた思いを全て打ち明けた。
すなわち、〝貴方のことが好きだ〟、と。
それを聞いた主人公も同じ気持ちだったらしく、沈み行く夕焼けを背景に、そっと口付けを交わした。
こうして無事生還した二人は、後に伝説の剣に頼らず世界を護り続けるために旅を続けた、という形で物語は終わった。
「……こいつ、格好いいなぁ」
同じ選択を迫られたとき、俺は同じ事を出来るだろうか?
そう思って、ふと頭の中に天宮の顔が浮かんだ。
俺にとって、天宮は……。
そんな考えが浮かんだとき、丁度よくチャイムが鳴って担任が教室に入ってきた。
「ほら、席に着け~」
担任の気の抜けた声を聞いた途端、考えも全て吹き飛んでしまった。
仕方が無いので、担任の話に耳を傾けることにした。どうせ聞いても意味の無い話だけど……。
『生徒諸君っ! おはようっ!』
「っ!」
そしてその放送は、あまりにも唐突だった。
急に放送のアナウンスが聞こえたと思ったら、突然聞き覚えのある声が叫んだのだ。
「うわ~……五月蝿いな」「なんだなんだ?」「この声……会長じゃね?」
HR中なのに、俺のクラスどころか他のクラスからもざわざわと声が聞こえる。
三年のクラスや隣のクラスから〝萌会長万歳っ!〟、という声が聞こえたのはきっと幻聴さ、うん。
それより……あの人、朝から何をする気なんだろう。とりあえずあんなにハイテンションで挨拶する会長とか今まで見たことないが。
少し間を置くと、またしても萌先輩の甲高い声が聞こえた。
『朝から悪いけど呼び出しするでぇ! 図書委員会の二人、つまり二年五組の天宮聖子ちゃんと二年七組の坂本龍馬君、至急生徒会室まで出頭しやぁ~?』
朝から呼び出しとは……呼ばれた生徒はさぞかし……大変、だ、な……。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
柄にも無く絶叫してしまったが、そんなことを気にする余裕は一ミリも無い。
周囲の視線が俺に注目しているが、それさえも俺にとっては些細な事だ。
「坂本が……何をやらかしたんだ?」「女の子と一緒に呼ばれるとか……ヤバいんじゃね?」「あ~あ……ご愁傷様」「図書委員会なんてあったんだ~」
クラスの皆が思い思いのことを言うが、今の俺にはおぼろげにしか聞こえない。
パニックを起こす寸前まで追い込まれたが、何とか平静を保つことが出来た。
「……先生、放送の通りなので今から生徒会室に行ってきます」
とりあえず担任に報告すると、俺は教室を出ようと足を動かす。
しかし動揺のあまり手と足が一緒に出ていることに気が付き、死ぬほど恥ずかしかった。
そんな俺に追い討ちをかけるかの様に、またしても萌先輩の放送が聞こえてくる。
『それと~、結構長くなると思うで、担任に授業いくつか休むって伝えといた方がえぇで?』
――授業サボってまで天宮と話をさせる気か? あの人何考えてんだ?
萌先輩の思惑を悟り、進む足が一気に重くなった。だとしたら、それ相応の心の準備をしなければいけないな……朝から天宮に会うのは想定外過ぎるぞ。
「……そういう訳なんで、よろしくお願いします」
ゆっくり歩いて教室の外に出ようとしたとき、俺はふと先ほどの小説を思い出した。
そういえば、あれは天宮からの借り物だったっけ。
俺は踵を返して駆け足で自分の机に向かうと、中から小説を取り出した。それを小脇に抱えると、萌先輩を待たせると怖そうだという結論に辿り着き急いで教室を出る。
生徒会室は四階にあるので、走れば三分以内には着くだろう。
「ちょっと待て、坂本龍馬っ! 貴様、授業中に我らの萌会長に謁見するなど、我ら親衛隊が見過ごすと思っているのかっ!」
……訂正、生徒会室まで着ける気がしない。
なぜなら俺の進路には、上の階や隣のクラスから現れた自称親衛隊(ざっと数えて五十人くらい。何故前より増えている?)が立ちはだかっていたからだ。
廊下にいる男子生徒は、誰もが例外なく殺気を放っている。まだ昨日の出来事を根に持っているのだろうか……。
「……はぁ。俺だって好きで会っている訳じゃないのに」
完全に本心を言ったまでなのだが、この言葉はどうも親衛隊の琴線に触れたらしい。
「きっ、貴様ぁぁぁぁっ!」
激昂した親衛隊のリーダーと思しき眼鏡男は、自身がこちらに向かってきていきなり拳を振り上げた。
いつもならこれくらいのパンチは避けられるだろうけど、あまりに突然のことで俺も反応がかなり遅れてしまった。
「ぐあっ……」
クリーンヒットこそ免れたが、避け切れなかった拳が俺の鼻を思い切り打ち抜いた。
痛さに怯んで体のバランスを崩し、その場に尻餅をつく格好になってしまう。
そんな大きな隙を眼鏡男は逃さず、廊下にいる男子生徒に向けて一声。
「親衛隊の同志よ、掛かれぇぇぇっ!」
「「「おぉぉぉぉぉっ!」」」
学校が揺れている、そんな錯覚に陥ってしまうほど親衛隊の連中の足音はすさまじかった。
このままでは、冗談抜きに殺されるかもしれない。
「くそっ……」
立ち上がろうとするが、あまりの振動に恐怖を抑えきれず足に力が入らない。
そうこうしている間に、隣のクラスにいた親衛隊の一人が、動けない俺の目の前まで迫ってきた。
「くそったれぇぇぇ!」
「ぐふっ!」
走ってきた勢いの乗った蹴りを腹部に浴び、肺から一気に空気が押し出された。
その場で咽ていると続々と他の連中もやってきて、大勢で俺を取り囲む。
「さて……どんな制裁を加えてやろうか」
これまでか、と思うのは小説の主人公だけだと思っていた。
信じがたいが、俺は今その場面の渦中にいるのだ……笑い事では済まないな、コレは。
これから襲い来るであろう激痛の嵐に耐えようと、俺は思い切り目を瞑り、借りた本を落とさないことだけを考えた。
「そこまでだっ!」
校舎内全体に響き渡るほどの透き通った女性の声……幻聴だろうか。
心なしか、世界も一瞬にして静まり返っている。
恐る恐る目を開けると、俺の周りにいた親衛隊の連中はその場に立ち尽くしていた。その表情は魂が抜けたかのように虚ろで、生気が一切感じられない。
何が起きたのか分からないまま、俺は声が聞こえた方向に目を向けた。
多分、上の階に通じる階段の辺りから聞こえたはずだ……。
「ふふっ、やっと大いに暴れてくれたか。……これでお前らを全員停学に出来るな」
クール以外の何ものでもない声を発していたのは、見たことの無い人物だった。
身長は天宮と同じくらいで、黒くて艶のある髪を一切弄っていない、とても凛々しい女性だった。
「林檎さん! 遅れてすみません……後は私たちに任せて下さい」
一気に静寂が包んだ校舎から一人の女性の声……間違いない、ゆりの声だ。
だとしたら、あの女性の正体は一体――。
「さぁ、立つんだ少年。萌の奴が生徒会室で待っているぞ」
女性はそう言うと、ツカツカと足音を立てて俺の方へ歩み寄ってくる。俺の周りにいた親衛隊の連中はというと、モーセの海割りの如く女性の通り道を自然に作っていった。
少し遅れて、後ろからゆりが姿を現す。
「龍馬君、大丈夫っ? うわぁ~……鼻血出てるよ」
「俺は大丈夫……それより、天宮は何処だ?」
あの人だかりの中で、天宮は巻き込まれなかったのだろうか……ものすごく心配だ。
「心配無用、渡辺が同じクラスだからもう着いている頃だろう」
渡辺……確か生徒会の会計だったはずだ。
だとしたらこのメンバーは生徒会というわけで、残る女性は俺の知る限り唯一人。
「あなたは……副会長の、鈴木さんですか?」
少し恐縮して問うてみると、女性は意外そうな表情を浮かべた。
「ふむ……私も一応朝会などで生徒の前に立っているのだが、初めて知ったような顔だな。
私は少し悲しいぞ、少年」
「す、すみません……それより、何故このような状況に?」
朝のHR中、廊下に五十人程の生徒が群がり、俺が窮地に立たされ、そして鈴木さんが現れてこの場は静寂に包まれている。
……この状況、全く以って意味が分からない。
「ん……詳しくは萌に聞いてくれ。とりあえず、急いだほうがいいぞ」
「分かりました。あの……ありがとうございます」
一礼すると、俺は言われたとおり生徒会室へと急ぐ。
あの後親衛隊の連中がどのような処分を受けるかはよく分からないが、鈴木さんは確かに〝全員停学〟と言っていたはずだ。
そんな恐ろしいことさえも、生徒会の人間は出来てしまうのだろうか……。
複雑な心境のまま走り続けると、やっとのことで生徒会室に辿り着いた。
これで扉を見るのは二回目だが、やはり大きいな。
「失礼します……」




