第四章 ②
「はぁ~……」
あたしは先ほどの出来事を思い出し、盛大に溜め息をつく。
こんなにも落ち込んだのは、結構久しぶりだと思う。
先輩の家を飛び出してから一時間、幸い駅が近くにあったので電車に乗り、そのまま帰宅したのがついさっきのことだ。
家にはお母さんがいるだけで、昴はきっと自主的にサッカーの練習をしに行っているのだろう。もちろん今日もお父さんはいない。
「平常心、平常心」
あたし自身でも、こんなに落ち込んでいるのは珍しいと思えるのだ。
きっとお母さんに気付かれたら質問攻めに遭うだろうし、悟られないようにしなくては……。
「あら、お帰り~。こんな時間まで何処に行ってたの?」
リビングに入ると、お母さんがキッチンに立って料理をしていた。
とは言っても、大きめの鍋にお湯を沸かしているだけで、傍に置いてあるのは素麺の袋だ。
まぁ食欲もあまりないことだし、麺類は食べやすくていいかも。
「ただいま。街に行ってウィンドウショッピングしていただけだよ」
適当な嘘を言っておくと、あたしは自室へ戻り手提げを下ろす。
中にはミカドしか入っていないけど、沈んだ気分で持てば重さも随分と増すものだ。
「……バカ」
あの時、なんで龍馬君は何も言ってくれなかったのだろう。あたしはただ、龍馬君の口から〝信用している〟という言葉を聞きたかった。
ただ、それだけなのに……。
少しだけ冷静になった今では、あの状況で龍馬君もパニックに陥っていたという可能性も考えられなくはないと思える。それでも、あの時は平静でいられなかった。
それはきっと、あの先輩の存在が強すぎるからだろう。
多分あたしは、龍馬君という大切な人があの先輩に惹かれてしまうのが怖かったのだ。
あたしになくて先輩にあるもの、それはきっとあのカリスマ性だろう。あの砕けた物言いに可愛らしい顔立ち、どちらもあたし目線で見ても魅力的だ。
それに比べてあたしは、長所など一つとして見当たらない。人と接するのは苦手だし、ド近眼だし、運動音痴だし……。
「やっぱり、あたしって魅力が無いのかなぁ」
呟いていると悲しくなって、あたしは枕に顔を思い切り埋めた。
さっき長いこと泣き続けたのに、またしても涙が溢れてくる。
「悔しい……うぅっ」
泣き虫も短所に付け加えないといけないな。前々から気付いていたけど、あたしはふとした瞬間にどんな状況でも泣き出してしまうことがある。
そう考えると、気が強くてしっかりしているあの先輩のほうが、もしかしたら龍馬君好みなのかもしれない。
「嫌いだっ……あたしなんて、大っ嫌い!」
嫉妬、なんだろうな。
完全無欠の先輩に龍馬君が惹かれていくことに、あたしはとても醜い嫉妬の念を抱いているに違いない。だから、そんな自分が嫌いだと思えるのだ。
あたしはしばらく泣き続けた。ずっと泣いていれば、そのうちに涙も枯れてしまうと思っていた。
けれど、滝のように流れる涙は留まるところを知らない。
「うわあぁぁぁっ……」
「聖子……どうしたの?」
しまった……お母さんに泣いているのがバレた。
この部屋は意外に遮音性が低く、多少の声でも外に漏れてしまう。それを利用して壁越しに会話していたのが今朝のことだが。
そしてあたしは、部屋に通じるドアに鍵をかけていない。
お母さんはいとも簡単にあたしの部屋に入り、あたしがうつ伏せに寝ているベッドへ近づく。
「ねぇ……今日の聖子は何かおかしいと思っていたの。外で、何があったの?」
「……ぐずっ。お母さん、気付いてたんだ」
帰ってきた時に言わないなんて、意地悪だなぁ。最初から言ってくれればいいのに。
何処まで話していいか分からなかったけど、今泣いている理由は幻界とはほとんど関係ないはずだ。
この気持ちを晴らせるなら……いっそ吐き出してしまおう。
「あのね……」
あたしはお母さんに今の気持ち――龍馬君が先輩に惹かれているかもしれないということ、それに嫉妬していた自分に自己嫌悪気味だということを洗いざらい話した。
「そっか……でも、それだけ彼のことが好きってことなのよね?」
「……うん」
そう、あれだけ酷いことを言っても、あたしは龍馬君のことが好きなのだ。
そして好きだからこそ、あたしは自身で放った言葉に強い罪悪感を抱いている。
――きっと、龍馬君もすごく傷ついたことだろう。
「でも、それって聖子の本音なんでしょ? だったら、きっと彼にも伝わるはずよ」
「そう、だけど……あたし、すごく酷い言葉を……」
また涙が目に溜まってこぼれそうになるが、お母さんはあたしを優しく抱きしめると、耳元で小さく囁きかける。
「確かに、根拠もなく信用していないって決め付けるのはよくないわね。
それで傷ついた彼は聖子のこと、どう思うかしら……」
「うっ……」
きっと、嫌われるだろうな。すごく感じ悪い女の子だと思われているはずだ。
さらに気分が沈んだあたしに、お母さんはあたしの頭を撫でながらさらに続ける。
「でも、本当に彼の気持ちを知りたいのなら、明日は出来るだけ冷たく接するといいわね」
「えっ、どうして?」
意味が分からなかった。てっきり〝彼はきっと聖子を信じているから〟みたいなことを言われると思っていたのに、お母さんの考えていることは謎だ。
しかしその答えは、直後にお母さんの口から語られる。
「例えばここで聖子が彼を許したとする。そうしたら、せっかく彼の本音が聞けるチャンスをみすみす逃すことになるのよ?
聖子もそういう駆け引きをそろそろ学ばないと……ね」
可愛らしくウィンクを決めるお母さんを見ていると、やっぱり経験豊富だということを実感させられる。
お母さんに惚れた男性は、皆苦労したことだろうな……。
「分かった。頑張ってみるよ」
力なくも微笑を浮かべて返事をすると、お母さんは長い抱擁を解いて立ち上がった。
無言のまま部屋を出るかと思いきや、こちらを振り向かずに一言。
「上手くいったら、いつか私に紹介するのよ?」
はぁ……お母さんには敵わないな。いっつも助けられてばかりだ。
「分かったよぅ。いつか……いつかきっと紹介するから」
「うん、それでよし。それじゃ、晩ご飯の仕度を手伝ってくれる?」
「仕方ないなぁ~」
気が付けば、あたしはいつも通り笑えるようになっていた。
胸のモヤモヤはお母さんに打ち明けたことで、きれいさっぱり無くなってしまったようだ。
あたしはお母さんの後を追ってリビングに行くと、一緒に晩ご飯の仕度(といっても素麺を茹でるだけなのだが)を始めた。
――明日は、上手くやらないといけないな。
夜、あたしは寝る直前にミカドを開いた。
最後に呼んだのはあたしとラナが話をしていた時だから、現在の状況を一応報告しておかないといけないと思ったからだ。
「ねぇ……さっきは急にゴメンね。ちょっと龍馬君と喧嘩みたいな感じになっちゃって」
あたしの言葉に反応して、ミカドの最初のページから文字が浮かび上がる。
『別に構わないが……何があったのだ?』
「なんていうか……あたし、あの先輩に嫉妬していたみたいなの」
少し表情を曇らせて言葉にすると、珍しく時間をかけてミカドからの応答が返ってきた。
『ふむ、さては龍馬の奴が萌になびいたと思っておるのだな?
うら若き少女にならそんなことは日常茶飯事だろう。別に気に病む必要はなかろうに』
日常茶飯事、かぁ……そんな経験今までしたことないもん。
「うん、今は結構落ち着いているよ?
あたしと龍馬君はきっと仲直りして、明日にはみんなで幻界に行っているはずだから、ミカドは心配しないで」
きっと、ミカドはあたしと龍馬君の関係が悪化して、二人で幻界を訪れることがなくなることを危惧していたのだろう。
もちろん、あたしのことも真剣に心配してくれたのだろうけど。
『そうか。……それより、今日のラナの話を天宮君はどう思う?』
声こそ聞こえないけど、あたしにはミカドがかなり真剣な口調で語りかけているのだと感じた。
この話題に関しては、未だに龍馬君たちに話せていないのだ。
「えっとね……明日にでも龍馬君たちと話したほうが良いと思うな。
あたしだけの意見じゃ、きっとミカドの納得行く答えにはならないよ」
ミカドはしばらく間を空けると、随分と簡潔に返してくる。
『それもそうだな。では明日に持ち越そうか』
ミカドも納得したところで、あたしは眠気を覚えたので話を終わることにした。
「そうだね……それじゃ、お休み。明日上手く仲直りできるように祈っててね?」
『あぁ』
短く返されたのを確認してから、あたしはミカドの表紙を閉じた。
それを机の上に置いておくと、すぐにふかふかのベッドに入る。
「仲直り、出来るといいな……」
小さく呟くと、あっという間に深い眠りに付いた。




