第四章 ①
気が付くと、そこは久しぶりに見た一面ピンクの部屋だった。
先ほどまで一面真っ白な街にいただけあって、強烈な色彩にかなりの違和感を覚える。
俺の隣には天宮がソファの背もたれに背を預けて座っていて、向かい側には萌先輩が同じように座っていた。
今回は俺たちの意志で幻界を出た訳ではないので、皆が同時に目を覚ましたようだ。辺りをキョロキョロと見回す天宮と一瞬だけ目が合い、すぐに目を逸らされてしまった。
「あ、天宮……」
幻界を出たからといって、状況がよくなったわけではない。
俺は必死の弁解を試みようと口を開いたが、まだうっすらと涙を浮かべている天宮は聞く耳を持ちそうになかった。
「……ゴメン、あたし先に帰る」
持ってきた手提げにミカドを素早くしまうと、天宮はすたすたと玄関まで歩いていった。
数秒遅れて俺も立ち上がって追いかけたが、玄関には既に天宮の姿は無い。
「天宮……俺はっ……」
ここに至って初めて、俺の心に後悔の念が生まれた。
取り返しのつかないことをしてしまった悔しさが込み上げてきて、気付けば自分の太腿に拳を打ちつけていた。何度も、何度も……しかし痛みを感じることは無かった。
心の傷が、痛すぎて。
「龍馬っ! いっぺん落ち着きぃ!」
急に聞こえた鋭い声に振り返ると、後ろには萌先輩が真剣そうな面持ちで立っていた。
特別怒っているわけでもなく、ただ俺の目を彼女は見据えていた。
その言い知れぬ迫力に、いつの間にか俺の拳は動きを止める。
「……はぁ。とりあえず、冷静にならんとあかんわ」
「俺は、女性を、泣かせたんですよ? これからどうしろって言うんですか」
本当に、どうしようもなかった。
まずは仲直りをすべきなのだろうが、実行しようにもあの状態で話も出来そうにないし、そもそもどうやって謝ればいいのか分からない。
「しゃあないなぁ……龍馬、時間は大丈夫か?」
萌先輩の言葉に、俺は玄関に置いてあったピンク色の置時計に目を向ける。
現在の時刻は五時を少し過ぎたくらい。幻界に入ったのが三時半過ぎくらいなので、あちらの世界では七時間程度の時間を過ごしたことになる。
無論、こちらの時間では門限もまだ余裕があった。
「大丈夫、ですけど……」
「ほんなら、いっぺん座って話さんとなぁ。ほら、さっさとこっち来やぁ」
萌先輩は一足先にリビングへ向かうと、またしてもお茶を淹れ始めた。
苦い香りが立ち込める中、俺は言われたとおりリビングへと行き、先ほどのソファに腰掛ける。
しばらくして、萌先輩は自分の分だけお茶をお盆に載せてきた。彼女も向かいのソファに腰掛けると、ゆっくりとものすごく苦いお茶を飲み始める。
数分もしないうちに湯飲みを空にした萌先輩は、一息つくと先ほどと同じ視線を俺に送ってきた。
「――で、龍馬は何で天宮ちゃんが怒っとるのかは分かっとるの?」
天宮が怒っている理由……それは――
「俺が……彼女を信用していなかったから?」
ふと疑問形で言葉を発してしまったが、それを気にすることも無く萌先輩は静かに首を横に振った。
そして持っていた湯飲みをお盆の上に置く。
「それはちゃうな。ホンマに信用しとらんかったら、ザックに襲われたときにあんな上手いことシュンを助けられんかったやろ?
ウチかて理由はほとんど分かっとるから、先に謝っとく。……天宮ちゃんを怒らせた原因はな、実はウチの行動なんや」
急に神妙な面持ちで謝りだした萌先輩に、俺は言葉を返せなかった。
何故……何故、この人が俺に対して謝っているんだ?
「……訳が分かりません」
やっとのことで絞り出した言葉はかすれていて、自分でも上手く聞き取れなかった。
それでもきちんと聞こえていたらしい萌先輩は、目を瞑ると静かに語りだす。
「天宮ちゃんはな、ホンマは寂しかったんちゃうかな?
……シュンを連れて行く言ぅた時やって、ウチが無理に龍馬と一緒に行く言ぅて、一人で残したやろ?
あん時、きっとあの子は龍馬と一緒に行動したかったんやと思う。それをウチが我が儘言ぅて決めてもぅて、龍馬もその通りにした……せやから、あの子は信用されとらんって勘違いしたんやろな。
その後で龍馬があの子に、心配したつもりやろけど〝無理はするな〟って言ぅたやん? それってな、あの子にとっては〝足手まといだと思われた〟と同じやと思うねん。
まぁ、これは言葉の綾やけど」
「俺は……そんなつもりじゃ」
そう、俺はただデーテと戦ったときのように傷ついてほしくない、その一心で天宮を心配していただけなのだ。
でも、もし自分がそんなに心配されたら、俺もきっと同じ事を思うだろう。
「なぁ、龍馬?」
萌先輩の優しい表情が、今の俺にはものすごく辛かった。
過ちを犯してしまった後に触れる優しさほど、心の傷に染みるものは無い。
俺は出来るだけ情けない表情をしないようにし、努めて冷静に言葉を発する。
「……何ですか?」
「龍馬は、何でそこまで天宮ちゃんを心配するん?」
俺が天宮を心配する理由……何故かと聞かれると、正直ものすごく答えにくい。
あいつがか弱いこともあるのだろうけれど、きっとそれだけではない。
それこそ、中学の初めにあったあの出来事が今でも心に根強く残っていて、あいつだけは放っておけない、そんな気持ちにさせるのだと思う。
けど、その理由だけでは俺はまだ納得しきれない。もっと大事な何かがあるはずだ……。
「ふんふん……その大事な何かを、ウチが教えてあげたろか?」
訳知り顔で深く頷いているシュガーを見て、俺の考えはずっと独り言としてダダ漏れだったことに気が付いた。
恥ずかしくて目も合わせられない。
「……教えて、下さい。俺は何故、あんなにも天宮を心配してしまうのか」
俺が俯きながら発した言葉を聞いたシュガーは、おもむろに俺の手を両手で包み込んだ。
「な、な、何するん――」
「黙っとり! ……えぇか? 龍馬が天宮ちゃんを心配する理由、それはな――」
萌先輩が作り出した緊張感漂う空気の中、彼女は少し間を置いて言葉を発する。
「きっと、天宮ちゃんが龍馬にとって、すんごく大切な存在だからや」
「大切な……存在」
萌先輩の出した答えは、とってもシンプルだった。
そして俺は、そんな当たり前の事にさえ気付くことが出来なかった愚か者だ。
そう、俺にとって、天宮とはかけがえのない存在。唯一無二の友達なのだ。
だからこそ、失うのが怖いし心配だってする。そして、そんな存在だからこそ、守りたいと思えたのだ。
――爺ちゃんが見ていたら、きっと後でめちゃくちゃ怒られるだろうな。
「俺は……愚かだ。大馬鹿野郎だっ!」
萌先輩の存在に構わず、俺は精一杯の大声で己を罵倒した。
そうでもしなければ、また同じ過ちを繰り返してしまいそうだから……。
「せや、龍馬は大馬鹿野郎や。でもそれに気付けたんなら、龍馬はこれからどーすればえぇか……分からんとかヌカシたら後でハリセン百発入れたるからな?」
「俺がするべきこと……天宮に、俺の気持ちをきちんと伝えること」
天宮があんなに怒ってしまったのは、心配しすぎたのも原因の一つだが、何よりも俺が彼女に対して言葉足らずだったからだ。
そしてそれと同じくらい、俺は彼女の言葉を聞こうとしなかったからでもある。
だったら、一度きちんと話し合えばいい。包み隠さず、ありのままの気持ちを。
「うんうん、それでえぇ。
ま、今すぐっちゅうのも無理やから、場所とかはウチが手配しといたる。私立夢見ヶ丘高校会長の力、存分に見せたるでぇ?」
「あはは……頼もしいですね」
嫌な予感もするが……そんなことを考えて発した言葉に、萌先輩は敏感に反応し俺を横目で睨んでくる。
軽く焦っていると、彼女は溜め息混じりに口を開いた。
「はぁ……そんだけ軽口叩けるんならもう大丈夫やな。そんじゃ、今日はもう家に帰りぃ」
「そうですね……先輩、本当にありがとうございました」
俺は大切なことを思い出させてくれた礼にと、大きく頭を垂れた。
萌先輩は苦笑して、顔を上げるように促すと静かに口を開く。
「礼には及ばんわ。それに、元はといえばウチが悪い部分もあるし」
「そんなことないですよ。先輩が気に病む必要なんて、これっぽっちもないです」
結局のところ、俺の行動が彼女を泣かせる原因なのだ。全責任は俺にあるべきだろう。
そんな俺の言葉を聞いた萌先輩は少し複雑そうな表情をしていたが、すぐに笑顔に戻った。そのまま玄関へと歩き、俺は靴を履くとピンク一色のドアを開け放つ。
「それじゃ、また明日」
「うん、気ぃつけて帰りぃや~」
萌先輩の見送りを受けた俺は、そのまま外に出た。
明日こそはきちんと思いを伝えよう、と心に刻み込み、帰路に着こうとする。
その時、後ろから声がかかった。
「ちょい待ちっ!」
驚きつつも振り返ると、萌先輩が届かない手を伸ばして俺を引き留めていた。
何か忘れ物でもしたのだろうか、そう思った俺はすぐに玄関まで戻る。
「どうしたんですか?」
「あ、あのなぁ……最後に一つだけ聞きたいことがあるんや」
一体何を聞きたいのだろう……皆目見当も付かないが。
そんなことを考えながら、萌先輩の発する言葉を聞き逃すまいと耳を傾けた。すると、彼女は今までに何度も見た真剣な表情で口を開く。
「その~……正直に答えてぇな? 龍馬は、天宮ちゃんのこと、好きか?」
いきなりの質問に、俺は意図が理解できなかった。
先程よりは冷静になっているので、彼女が俺に対して究極の二者択一を迫っているという状況は分かったが。
聞かれた相手が赤の他人ならば、そして今のような状況でなければ、俺は適当にごまかしていたことだろう。
しかし、今の状況で彼女に対してごまかしは通用しない。それ以前に、ここで素直に答えることが出来なければ、俺は天宮のすぐ傍にいる資格などない。
すぐに言葉にすることは躊躇われたが、意を決して口を開く。
「……はい。俺にとって天宮は、唯一の友達なんです。好きに決まってますよ」
言葉にするとすげぇ恥ずかしいな、そう思いながら萌先輩からの反応を待つと、彼女は何故か苦笑いしていた。
俺、何か不味いことでも言ったか?
「あのなぁ……ウチとしては恋愛感情でどうか、っちゅう意味やったんやけどなぁ~」
「そっ、それは……」
恋愛、俺にとってはすごく苦手な分野だ。
正直なところ、今まで生きた中でその手の感情を持ったことはほとんどないし、どうにも実感が沸かないのだ。
以前母さんにも同じ事を尋ねられたが、その旨を伝えたら〝龍馬、本当に思春期?〟と軽く心配されたという、あまり人には言えない歴史もある。
俺が反応に困っていると、呆れ気味の萌先輩から口を開いた。
「……まぁ、別にえぇけどな。
ちなみに、龍馬は天宮ちゃんのこと、どう思っとるん?」
これまた難しい質問だ。けれど、萌先輩になら何を言っても大丈夫な気がした。
少しくらいは本音をぶちまけても構わないだろう。
「どう、って聞かれると難しいんですけど……どうも天宮は不器用だから、何というか守ってあげたいって思えるんです。
人前ではかなり物静かなのに、俺といる時は喜怒哀楽がはっきりしていて、天真爛漫って感じで、見ているとほっとして……はっ!」
俺は何を口走っていたのだろうか……気が付くと萌先輩がニヤニヤしながら、こちらを楽しそうな表情で見ている。
穴があったら入りたい、とはこのことに違いない。
「そんだけ動機があるんなら、恋心に発展してもよさげなんやけどなぁ……」
「……恋ってのが今一つ分からないんです」
答えを聞いた萌先輩は表情を和らげると、俺の傍に歩み寄って肩にポンと手を置いた。
「まぁ、龍馬にもいずれ分かるわ。でももし社会人になっても分からんかったら――」
分からんかったら……何なのだろう?
言葉の続きをじっと待っていたが、急に萌先輩は顔を朱に染めてそっぽを向いてしまった。
今の表情はかなり珍しい気がする。
「やっぱ今のナシ! ほら、さっさと帰りぃ!」
呼び止めたの先輩じゃないですか、なんてことは絶対に言えないので、俺は先ほどの萌先輩みたいに苦笑しながら踵を返して歩き出した。
奇抜な色の佐藤宅が見えなくなる前に一度だけ振り返ると、もう萌先輩の姿は無い。
「はぁ……眠い」
少しだけこみ上げた寂寥感をごまかすように呟くと、俺は帰り道をひたすら歩く。
幻界での行動がこちらの体力にも少しは影響するみたいで、普段なら一時間もあれば余裕で家に帰られるのに、今日は一時間半も掛かってしまった。
「ただいま~……」
丁度店じまいの時間に帰ってきたので、母さんはいつものように店先で箒がけをしていた。
「おかえり~。結構時間掛かったのね……それより、あの子と一緒に何をしていたの?」
母さんが期待の眼差しで俺を見てくる。
面倒くさいなと思いながらも、出来るだけ何も言われない無難な答えを返した。
「あの子? ……あぁ、萌先輩ね。生徒会の仕事を手伝っていただけだよ」
「まあっ! あの龍馬が女の子を名前で呼ぶなんてっ!」
しくじった……そんなところに喰いついてくるとは流石に想定外だ。
「意味が分からん! ……とりあえず、疲れたからもう寝るよ」
これ以上話を続けると、余計なことまで話してしまいそうだ。
今日は体も心も疲れているし、こんなときは寝るのが一番だろう。
そんな俺を見た母さんは、心配そうに一言。
「えっと……ご飯、食べる?」
「食べる! それから寝る!」
自分でも訳が分からないようなテンションで返事をし、久しく見る我が家へと入る。
そして宣言通り、大量に用意された晩ご飯を食べると、風呂にも入らず眠りに付くのだった。




