第三章 ⑤
先ほどの看板から百メートルくらい歩いた頃だろうか、緩やかにカーブを描いていた通りを越えた先に、染血の広場は存在した。
「うわ……マジかよ」
「ほらみぃ! ウチの言ぅた通りやんけ!」
「……この匂いは、血だな。数種類の血が混ざり合っている」
俺たちが目にしたのは、先ほどの噴水があった広場と同じくらいの大きさの空間だった。
しかし、今まで真っ白だった街並みとは裏腹に、この広場だけは真っ赤に染まっている。それもいわゆる燃えるような赤色ではなく、血のようなどす黒い赤色だった。
地獄絵図、とはこのことを言うのだろうか。中央に半径十メートルくらいのステージがあるこの広場を通る人間は、俺たち以外にほとんど存在しない。
「一体、何故こんな広場が存在するんだ? 景観を損ねるだけだと思うが」
「せやなぁ。血ってことは、ここで魚の解体ショーでもやるんやないか?」
そうだったらいい、と心の中では思っている。
しかし俺の思考は、考えたくもない一つの結論に辿り着いてしまっていた。
この仮定がもしも現実になるのだとしたら、ある意味では今日やるべきことをやり遂げたはずだ。
それを今言うべきか、それとも言わざるべきか……そんなこと、分かりきっている。
「そうかもしれないな。明日には巨大なマグロが捌かれるんじゃないかな?」
「おっ、ウチそういうの見たことないねん。是非とも見てみたいわぁ~」
うっとりした表情を浮かべると、シュガーは一人で中央のステージ上へと駆けていく。
そして何を思ったのか、そこでシュガーはクルクルと回って踊り始めた。
「あははっ! ステージ独り占めやわぁ!」
シュガーの楽しそうな表情を見ていると、明日の正午が来なければいいと心の底から思う。
シュンを奪還するにあたって、本当にセインとシュガーには危険な目に遭ってほしくない。
「……どうした?」
気付けば、下からフェンリルが声を掛けていた。
もしかしたら、俺の考えていることがこいつにも分かってしまったのかもしれない。
「お前はどう思う? この広場が存在する意味、そして目的を」
俺の質問の意味を察したフェンリルは、努めて小声で返事をする。
「ここはきっと……罪人の死刑執行を行うためだけに存在する広場だろう。
数種類ある血の匂いのうち、雑種の血が最も多いのはそのせいなのだろうな」
「……やっぱりか」
フェンリルとも意見が一致してしまった以上、もはや俺の打ち立てた仮定は九割方真実だと言っても構わないだろう。
細かいことは分からないが、この広場は死刑執行の為に使われる場所なのだ。
広場の舗装が全てにおいて真っ赤なのは、斬首刑などで血が染み込んだから……もしくはその返り血で白い街並みが汚されるのを嫌って、赤黒く塗装したかのどちらかだろう。
これならば〝染血の広場〟という名称にも納得がいく。そして同時に、明日の正午にシュンが処刑される場所もこの広場だという予測が出来るわけだ。
そのように考えもまとまった所で、俺はシュガーを呼ぼう口を開いた。その時――。
「そっ、そいつらを捕まえてくれ~!」
「「っ!」」
急に聞こえた声に、俺とフェンリルはすかさず振り向く。
先ほど歩いてきた通りからその声は聞こえてきて、振り向いた視線の先には、得体の知れない生物が歩いていた。
体の色は真っ黒で、手足や体が異様なまでに細い。それ以外に特徴といった特徴は無く、そんな生物が五体ほど歩いている。
そして全員が、市場に置いてあるはずの果物が沢山入った箱を抱えていた。
数秒遅れて、叫び声の主が息を切らして現れた。
きっとあの人は市場の人で、商品を盗まれたから仕事を放り出して追いかけてきたのだろう。
――だったら、やるべきことは一つだけだ。
「フェンリル、さっさとあのよく分からん生物を倒すぞ」
「……心得た」
シュガーはこちらの様子に気がついていないみたいだが、それはかえって好都合だ。
……シュガーを戦闘に巻き込まないで済むから。
俺は一振りの愛刀を想像し、そしてそれを具現化するために叫ぶ。
「想創! 〝木刀〟!」
すると、俺の左手が想創光に包まれ、徐々に刀の輪郭を形成していく。手の内に木刀の存在を感じ取った瞬間、俺はそれを左に振り払った。
その動作によって想創光が掻き消え、俺の左手には見慣れた一振りの木刀が握られていた。
「……行くぞ」
俺が獲物を見据えると、それに気がついた黒い生物がこちらに注目する。
顔となる部分にパーツの一切は存在せず表情は分からなかったが、相手もこちらを見ると持っていた荷物を放って身構えた。どうやらこいつらは好戦的な性格らしい。
「リュウ~! 何しとんのぉ~?」
どうやらシュガーもこちらで起こっている事に気が付いたみたいだが、それに構っている暇はない。
俺は呼吸を整えると、地面を蹴り出して間合いを一気に詰める。
「セアッ!」
一番近くにいた一体目掛けて、走った勢いを生かして逆袈裟に切り上げる。このまま行けば確実に当たる間合い――のはずだった。
「…………」
沈黙を貫く黒い生物は、俺の木刀が体に触れる寸前に小さく飛び上がると、そのまま地面に溶け込んでしまった。
「こいつ……まさか影なのか?」
呟きつつ動向を観察していると、地面に溶け込んだ黒い生物は一つの黒い水溜りのような形になった。その形のまま、そいつは地面の中を素早く移動している。
「こいつら、一体何なん? 気持ち悪いわぁ……」
いつの間にか俺の後ろに立っていたシュガーが、苦虫を噛み潰したような表情をする。
俺も全く以って同感だが、今は気持ち悪がっている場合じゃない。
「さて……どうやって倒すかな。これじゃ物理攻撃は受け付けないだろうし」
こういう時は基本的に魔術で戦うのが相場だが、生憎俺はそういうのが苦手だ。
シュガーはまだ戦闘経験が浅いから能力は分からないし、フェンリルも……あれ?
「フェンリル、お前って確か魔術使えるんだよな?」
以前シュンはフィアウルフについて、魔術も使えると言っていた。
あの時は近接戦に集中していたから分からなかったが、きっとフェンリルも使えるはずだ。
「多少は使えるが……この姿だと不安だな」
「まぁ、なんとかなるだろ」
軽く気休めを言うと、フェンリルはやれやれといった表情になりながら黒い影を見据える。
しばらく経つと黒い影は徐々に地面から出てきて、元の形を取り戻そうとする。そのタイミングを見計らってフェンリルは目を閉じ、可愛らしい声で小さく呟いた。
「想創。〝炎の息(フレイム・ブレス)〟」
いつぞに聞いたことのある単語を口にすると、大きく開けた口元に眩い想創光が集まる。
そして数秒すると想創光が消え、口の中には燃え盛る炎が充填されていた。
「ウォォォォォ!」
唸りながら吐き出した息は、一筋の炎となって黒い影目掛けて飛んでいく。その直線上にいた黒い影は炎に包まれると、声を出さずに数秒間蠢く。
後に輪郭にひびが入り、そして想創光となって周りに散らばった。
「……ふん、とりあえず一匹か」
フェンリルの表情に疲労は見当たらないが、この小さな体から放たれた炎であの影を倒せるのは結構すごいことだと思う。
敵にすると恐ろしいが、味方になるとかなり頼もしい存在だ。
「ナイスファイトだ、フェンリル」
賞賛を込めて親指を立ててから、残りの四体に向き直って木刀を構える。俺の攻撃は奴らに通じないが、フェンリルが攻撃するまでの陽動は出来るだろう。
もしもあの影に意思があるのだとしたら、仲間がやられたら黙っていないだろう。そう思っていたのだが、残りの影は攻撃してくる素振りも見せず、静かにこちらの様子を覗っている。
「ならばこっちから仕掛けるまでだ。……ウォォォォォ!」
またしてもフェンリルが息を大きく吸い込み、一筋の炎を吐き出す。今度は四体ともが近くに固まっているので、これが当たれば勝負は決まったも同然だ。
炎は徐々に四体の影に近づき、その小さな体を一瞬にして飲み込まんとする。
轟、という音を立てて炎が影を包み込んだ。
しかし、俺の目ははっきりと捉えていた……影が一瞬にして地面に溶け込む様を。
「ちっ……外したか」
フェンリルも感覚的に悟ったみたいで、息を止めると前方に向けて小さく唸る。
地面に溶け込んだ影は段々とこちらに近づいてきて、反撃の機会を探っているようだ。
「シュガー、こいつらはちょっと厄介だ。だから後ろに――」
「下がっていろ、っちゅー気か? ウチも戦うに決まっとるやろ!」
有無を言わせぬ勢いで言い放つので、俺はシュガーに一切の反論が出来なかった。
少しだけそんな予感はしていたけど、やっぱりおとなしく引き下がってはくれないか……。
「主は俺が守る。お前はお前の戦いに集中しろ」
足元から聞こえた頼もしい言葉で、やっと俺の頭から余計な考えは消えた。
シュガーがもし危険な目に遭ったとしても、俺かフェンリルが彼女を守る。それでいいじゃないか。
「想創! 〝ハリセン〟!」
シュガーの澄んだ高い声と共に、彼女の右手に想創光が集まる。
それは一瞬で細長い形を作り出し、シュガーが右手を振り払うと一振りのハリセンが握られていた。
――今まで気付かなかったけど、この人の想創は時間がすごく短い。なにせ、俺が最初に木刀を想創したときの半分くらいしか時間を使っていないのだから。
少しばかり感心しながらも、気は抜かずに前を見据える。先ほどまで地面に沈んでいた複数の影は少しずつ浮き上がり、地上に姿を現そうとしていた。
フェンリルはいつでも炎を放てるように息を吸い込み、シュガーもハリセンを中腰で構えている。
【変化。〝集結〟】
そんな緊迫した空気の中、突如何処からともなく声が聞こえた。
聞きなれない爽やかな男性の声に、俺は辺りをキョロキョロと見回した。しかし染血の広場には俺たちと果物を盗まれた男性以外はいないし、あの男性の声はもっと渋かったはず。
……だとしたら、一体誰の声だったのだろう?
「あれ……何なん?」
声の主ばかり考えていた俺は、隣から聞こえたシュガーの掠れた声で我に返る。
そっと腕を上げて指差した方向には、先ほどの影が三体集まっていた。
一見攻撃のチャンスが到来したとも思える光景に、俺は数秒遅れて違和感を覚えた。
――影が一体減っている。何処に消えたんだ?
その答えは、影の行動によって明らかになった。三体のうちの一体が想創光に包まれると、真ん中に立っていた影へと思い切り飛び込んだ。
そして影と影は一つになり、気が付けば先程よりも一回り大きい影が出来上がっていた。
つまり、先ほどの一体ももう一体の影と合体していたということだ。
合点がいって納得している間に、最後の一体が大きな影に想創光を纏って飛び込む。
すると、また一回り大きくなった影の身長は俺たちよりも少し大きくなり、細々としていた腕や脚も太くなった。
一見合体して強化されたように見えるが、これは俺たちにとって好都合かもしれない。
体が大きくなった分機動力も落ちているだろうし、的が大きいからフェンリルも攻撃を当てやすくなっているはずだ。
「ウォォォォォッ!」
フェンリルも俺と同じことを思ったのか、もう一度影に向けて炎を吐き出した。
一度の想創で三回もの攻撃を行っているからか、フェンリルの表情には苦痛のようなものが見える。
残された力を振り絞って吐き出された炎は、一直線に影へ向かって伸びていく。威力は先ほどよりも落ちているものの、当たれば軽傷では済まないだろう。
影はというと、迫り来る炎を目にしても避ける素振りを見せなかった。代わりに、肉付きの良くなった右腕を目前に差し出す。
次の瞬間、燃え盛る炎は影の右手の中に吸い込まれてしまった。
「なっ……」
目の前に広がる奇妙な光景に、フェンリルは驚愕の表情を浮かべて絶句していた。
それは俺もシュガーも例外ではない。
「嘘やろ? なんちゅー卑怯臭い手ぇ使うねん!」
シュガーは影の行動に猛抗議したが、相変わらず影は沈黙を貫いている。
そんなシュガーの抗議に答えたのは、またしても聞こえる爽やかな男性の声だった。
【クフフ……面白い反応をしてくれるので、私もやり甲斐がありますよ。
この影は単体でこそ無能な人形ですが、集まれば形ある闇となり、魔術くらいなら吸い込むことも出来るのです。
無論、限度というものはありますが】
「お前、一体何処にいる! 姿を現せっ!」
叫んでみたものの、俺はこのような現象にデジャヴを感じていた。
姿はないのに声だけが鮮明に聞こえる――そう、デーテの使っていた〝念話〟とかいうやつだ。
だとしたら信じがたいが、声の主は己の手下であろう影をこの街に侵入させ、何らかの方法で動向を確認し、さらに姿も見せず影に対して想創による強化を施したのだ。
これだけのことをやってのけるなんて、相手はかなりのやり手だと思われる。
【またまた、あなたも分かっているでしょう……私がこの場にいない事くらい】
そして相手は、俺の正体を知っている。そこから導き出される答えは……一つ。
「お前、デーテの仲間か? 奴はもう死んだはずだろう!」
シェイディアを出る前に交わした会話を思い出しつつ、俺は声の主に問いかける。
もし仮にデーテが生きているのなら、こいつから何らかの反応が返ってくるだろう。
【……察しが早くて助かります。そう、私は昨日まで彼の仲間でした。
あなた方が彼をたとえ三人がかりでも倒せるなんて、誰が思ったことでしょうか】
彼の声色は、悲愴とも憎悪とも取れぬ、今ひとつ感情の掴めないものだった。
どちらかと言えば、楽しんでいる感じすら窺える。
【しかし、彼が死んだ今でも私たち〝デモリショナー〟は活動を止めない。
つまり、私たちは彼の意思を引き継ぎ、これからもこの世界に恐怖と絶望を与え続ける】
「デモ、リショナー……」
デモリション――すなわち〝破壊〟を意味する言葉から発生した造語なのだろうか、声の主の所属する集団は分かった。
その集団の長こそ、あのデーテであることも。
この世界を〝生命あふれる希望の世界〟にするべく旅をしている俺たちにとって、デーテの意思を継承しているこの集団との戦闘は避けて通れない道だろう。
だからこそ、こうして敵の情報が少しでも知れたことは幸運といえるかもしれない。
【それはそうと、あなたは私とゆっくり話している暇などないと思うのですが?】
「っ!」
完全にこいつのペースに乗せられていた俺は、周囲の状況を把握していなかった。
ハッとして目の前を見ると、いつの間にかシュガーとフェンリルは影と交戦していた。シュガーはハリセンを片手に、時折強烈な一撃を影に浴びせている。
「こんにゃろ~! 何で攻撃が喰らわんのやぁ~!」
シュガーの放つあの強烈な一撃さえも、影に対しては無力だった。
影が腕を振り上げて反撃に出ようとすると、シュガーはタイミングよく後ろに跳んで間合いを取る。
そうして出来た空間に、フェンリルが強力な一筋の炎を放つ。
「ウォォォォォッ!」
しかし影の動きも柔軟で、右手を振り下ろしたにも関わらず炎が飛来する方向に左腕を突き出し、またしても炎を吸収してしまう。
シュガーとフェンリルのコンビネーションは完璧で、数時間前に主従関係を結んだとは思えないほど連携が成り立っている。
しかし、それさえも凌ぐほどあの影のポテンシャルは高い。
「リュウ! ボサっとしとらんで、じぶんもはよ戦いぃ!」
「主の言うとおりだ! 俺たちだけでは彼奴を倒せん!」
二人の言葉で俺の思考はまた戦闘へと戻り、改めて木刀を構えなおした。
ここで俺は今までの状況を頭の中で整理する。あいつに物理的な攻撃は喰らわず、遠距離から放つ高威力の炎もあの腕に触れれば吸い込まれてしまう。
――だったら、腕以外の箇所に魔術攻撃をゼロ距離で喰らわせればいい。
「フェンリル! 俺に向けて炎を吐けっ!」
何度も炎を吐き続けて疲労を隠せないフェンリルは、俺の発言に思い切り目を見開いた。
そして少し考える素振りをし、大きく頷く。きっと俺の思惑が、彼にも伝わったのだろう。
「ウォォォォォッ!」
その場に立ち尽くす俺に向けて、フェンリルは大きく息を吸い込むと一気に吐き出す。炎がものすごい勢いで迫ってくるが、不思議と恐怖は感じなかった。
俺は一歩右にずれると木刀を炎の通過する軌道にかざし、同時に小さく呟く。
「想創。〝速度上昇〟」
発声と同時に木刀が炎に飲み込まれ、そして俺の体が想創光に包まれる。
この想創も随分と使い込んでいるので、所要時間はかなり短い。
一瞬にして想創光が消えると、尾を引く炎は未だに木刀を飲み込み続け、俺の目の前の視界を遮っている。
確か、俺の体の延長線上には影がいたはずだ。
「……行くぞ」
気合を入れて言葉を吐き出すと、俺は燃えている木刀を両手で持ち体を左半身にする。
両手の木刀は左半身になっている俺の体の後ろに回し、前方から見ると木刀が体に隠れていて見えなくなる。剣道で言えば〝脇構〟というやつだ。
その体制で重心を低くすると、炎が目前を通過しきるタイミングをよく見計らう。
見立てではあと三秒後に炎が途切れるはずだ。
三、二、一……零。
その瞬間、奴との間合い――約五メートルを一気に詰めた。
「セイヤァァァッ!」
少しだけ熱気が溜まり陽炎が漂っている空間を、速度上昇によって強化された敏捷力の全てを使って前進。
その勢いを乗せて影の巨体を横に一薙ぎ……それだけで十分だった。
「…………」
結局最後まで沈黙を貫き通した巨大な影は、無言のまま燃え盛る木刀で文字通り一刀両断にされた。
切り口から一気に炎が燃え広がり、影が炎に包まれると共に上半身と下半身が離れ、そのまま想創光に包まれると割れて飛び散った。
決着は一瞬だった。
「よっ、しゃあぁ~っ! リュウ、フェンリル、よぅやったで!」
影が消えた途端、シュガーは諸手を上げて叫んでいた。
俺も同じように喜びたい気持ちはあったが、流石に行動に移すほど子供ではない。
その代わりといっては何だが、今や木炭となりつつある木刀を振り終わった体制から架空の鞘に収め、小さく右拳をぐっと握り締めた。
フェンリルはというと、かなり疲れた様子でその場に四肢を伸ばしてぐったりしていた。
「はぁ……この体はやはり燃費が悪いな」
そりゃそうだろう、と心の中でフェンリルに同情しつつ、俺は喜びの念を押さえて冷静さを取り戻す。
もうそろそろ、あの声が聞こえてくるはずだ。
そしてそいつは、俺の予想を裏切らない。
【やれやれ……まぁあなた方にはこれくらい倒してもらわないと困りますけどね。
力量試しで手こずっていられるようでは、話になりませんから】
……どうやら俺たちは試されていたらしい。
奴の意図することは分からないが、なんにせよいずれは剣を交えることになるのだろう。上等じゃねぇか。
「はっ、これくらいどうって事ないさ。
それより、コソコソせずに姿を現したらどうなんだ? 俺はお前の名前も聞いてないんだけどな」
俺の話し声を聞いているシュガーとフェンリルは怪訝そうな表情で俺を見ているが、そんなことをいちいち構っていられない。
【クフフ……そう易々と姿を現しても面白くないでしょう。あなたたちの戦いも見せてもらいましたし、私は一旦退くことにしますよ。
名前はまぁ、次に会った時にでもお教えします】
その言葉を最後に、爽やかな男性の声は聞こえなくなった。
「……何があったん? ウチに話してみぃ?」
不意に、背後から心配そうなシュガーの声がかかった。
やはりあの男性の声は俺にしか聞こえていなかったらしい。
俺はひとまず先ほどの影の正体、デモリショナーという集団の存在、そしてデーテが生きている可能性が高いという推測を二人に述べた。
「ウソ……やろ? だ、だってあいつはリュウが倒したはずやん!」
至極もっともな意見だった。しかし俺はある可能性を示唆する。
「それはそうだが……現にシュガーだって、ほとんど蘇生のような想創を使うじゃないか。
奴だって元はミカドの所有者だったんだから、それくらい出来てもおかしくはない」
「だが、主の想創は他人に使うものだろう。
お前が言っているのは、死に掛けの体で己を蘇生したということだぞ?
消滅寸前の奴が、そこまで想像力を保持しているとは到底思えん」
俺の意見は、あっさりとフェンリルに覆されてしまった。言われてみれば確かにその通りである。
しかし、俺たちはまだこの世界においての想創の限界を知らない。
もしかしたら、消滅すると同時に蘇生術をを発動させる想創があるかもしれないじゃないか。
それらの意見を口にしようと思ったが、このまま押し問答をしていても解決しないだろう。
「……そうだな。あいつが蘇ったとも限らないし、今はとりあえずシュンの奪還について考えることが先決だ。
そろそろ三時間経つし、一旦宿屋に戻ろう」
「せやなぁ。あーあ……なんかめっちゃ疲れたわぁ~」
両手を空に突き上げて伸びをしているシュガーに苦笑すると、俺はシュガーの目の前に左手を差し出した。
「さ、行こうぜ」
シュガーはキョトンとした表情をしていたが、すぐに口元に笑みを浮かべると俺の左手に小さな右手を乗せ、そして握る。
「なんや、リュウもやっと分かってきたなぁ~」
何が? と聞こうとしたが、シュガーが俺の手を引いて歩き始めたので結局聞けなかった。
フェンリルは軽い身のこなしでシュガーの肩に乗ると、体をシュガーの頭に寄り添わせる。
「ふふっ、フェンリルもおねむなんかや?」
肩に乗ってきた小さな体に、シュガーも負けじと頬擦りをする。フェンリルは少しの間気持ちよさそうにしていたが、しばらくするとぐっすり眠ってしまった。
よぅ頑張ったな。やっぱりフェンリルはよぅけ頼れる存在や。
静かに囁きかけたシュガーに、俺は胸の奥に熱いものがこみ上げる感覚を覚えた。
「……セイン、皆が帰ってきたよ」
「ふわっ? ……そっか、もう三時間経つんだね」
俺たちが宿屋に帰ってきたとき、セインは盛大に昼寝を楽しんでいたご様子だった。
ラナが起こさなければきっともう少し寝ていたことだろう。
「ただいま……セイン、話は聞けたか?」
気まずい空気は消えていないが、話しかけないと始まらない。
セインは俺の質問に少し暗い表情を浮かべて、小さくこくりと頷いた。
「うん。この世界のこととか、ラナたちのこととか、色々と聞いたよ。
それより……シュンは上手いこと隠せたの?」
「それなんだが……ちょっと事情が複雑になった」
一応会話は成り立っているのだが、まだぎこちない雰囲気を払拭出来ないでいる。
しかも、気のせいではないと思うが彼女は俺と目を合わせようとしない。
……俺、何かまずいことでもしたのか?
未だにセインの機嫌が優れない理由が分からない俺は、ひとまずそのまま放置しておくことにした。時間が経てば、いつもの通りに戻るだろう。
「そう、なんだ……いいよ。リュウから先に話して」
弱々しいセインの声に、俺は黙って頷くことしか出来なかった。
どんどん空気が暗くなる中で、俺はセインに三時間の間にあったことを全て話した。
シュンが役所に連行されてしまったこと、翌日の昼に死刑が執行されること、街を探索している間に謎の集団に襲われたこと。
「――と、いうわけだ。俺がしくじったからこんな面倒な展開になった。本当にゴメン。
……明日の昼しかシュンを奪還するチャンスは無い。もしかしたら危険な目に遭わせるかも知れないけど、協力してくれないか?」
全員の顔を一瞥すると、シュガーがすぐさま手を上げた。
「ウチは構わんけど……そもそも何処でやるか分からんやん?」
「そのことだが……」
ここでようやく、俺はフェンリルと共に辿り着いた結論を聞かせることにした。
シュガーはしばし目を見開いて驚いていたが、話が終わると盛大に溜め息をついた。
「あのなぁ……そーいう事ははよ言ぅくれんとあかんわ。
別に雰囲気が悪くなるとか、いらんことで遠慮せんでもえぇっちゅーに」
このやり取りだけで、俺の心の内は完全に見抜かれていた。一体何度目だろうか……。
「……悪かった。これからは出来るだけ遠慮せずに言わせてもらうよ」
「そうそう、それでえぇねん」
ウムウムと何度も大きく頷いたシュガーを見て、俺は改めてセインの方を向き直った。
シュガーの同意は得られたけど、セインはどうなのだろうか?
「セイン、今回の作戦はかなり危険だ。怖いと思うのなら、無理はしてほしくない」
もう怖い思いをしないで済むように、俺はそれだけを考えてセインに問うた。
しかし、この発言が俺とセインの溝をさらに深めてしまう引き金となってしまった。
「……信用されてないんだね、あたし」
「えっ……?」
俯きながら放たれたセインの言葉は、俺の予想だにしないものだった。
ここで俺はやっと、セインが珍しくものすごく怒っていることに気が付いた。
だが、それに気付いたときにはもう遅かった。
「シュガーにはそういうこと聞かないのに、あたしだけはいっつも心配される。
さっきだってシュガーの言うことはすぐに聞くのに、あたしの意見は聞いてもくれない」
「ま、待て。一旦落ち着け……それは誤解だ。
別に俺は信用していない訳じゃ――」
「だったらっ! ……だったら、なんで役所に行ってからすぐに帰ってこなかったの?
失敗したのをあたしに報告するのが怖かったから?
それって、やっぱり信用してないって事じゃないの? ねぇ……教えてよ」
涙を流しながら睨みつけてくるセインに、俺は軽くパニックに陥っていた。
今までこのような反応を見せたことが無かったから、どうしたらいいのか答えを叩き出せないでいる。
ここで下手な答えを返してしまえば、今度こそセインと俺の関係は修復不可能になってしまう恐れがある。
かといって無難な答えでは、きっとセインの納得行く答えが出せないだろう。
一体、どうしたらいいんだ……。
「俺は……俺は……っ」
お前を信用している、その言葉すらすぐに出てこない。
その反応を見たセインは、とうとうその場にへたり込んで泣き出した。
「ぐずっ……えぐっ……リュウの…………リュウのバカぁっ!
リュウはどうせ、あたしの気持ちなんて考えてないんでしょっ!」
宿屋全体に響くであろう大音量で叫んだセインは、そのまま滂沱しつづけた。
「セイン……」
俺は手を伸ばそうとして、その姿勢のまま固まってしまった。
自分でも理由がよく分からないが、体が全然動かない。
どれだけ力んでも、金縛りにでもあったかのように体は微動だにしなかった。
「バカぁぁぁぁぁ……」
聞こえ続ける嗚咽が俺の心を締め付け、そしてふと爺ちゃんに昔言われたことを思い出す。
曰く、〝男が女を泣かすのは最大の禁忌だ〟と。
再び襲い来るショックに、俺は激しい眩暈を覚えた。
倒れこみそうになりながらもその場で踏ん張り、やっと普通の体勢に戻ることが出来た。
永遠に続くと思われた冷たい時間は、ラナがセインを抱きしめて慰めることで少しだけ和らいだ気がした。
彼女の存在に感謝しつつ、俺はこれからどうやってセインとの関係を修復するべきかを考える。
ここまで来たら、普通に謝るだけでは許してくれないだろう。
『やれやれ……時間は大丈夫かと聞きに来たらこの状態だ。何があったのだ?』
真後ろから急に声がかかり、思わず振り返って跳び退る。
そこには、本日あまり姿を見かけなかったミカドが宙に浮いていた。
「ミカドっ! 丁度えぇ、一旦全員を外に送ってくれんか?」
嬉々としてシュガーがミカドに迫ると、その勢いに気圧されてミカドは少し後退する。
有無を言わせぬ気迫に負けたのか、ミカドはシュガーの言いなりになった。
『う、うむ。別に構わないが……想創! 〝脱世界:読者達|(アウト・オブ・ザ・ワールド:リーダーズ)〟!』
セインがミカドに振り向くのが見えたのを最後に、俺の視界は真っ白になった。




