第二章 ⑥
フェンリルはシェイディアに続く森から現れたけど、彼らは空から現れた。
シュンとリュウが空を見上げたので、あたしもそれに習って空を見上げる。
すると、雲ひとつ無い快晴の空に、一つの巨大な影が風を切って翔け抜けた。それはそのまま空を飛び去り、消えていくのだろう……そう思っていた。
しかしその巨大な影は急旋回すると、そのまま垂直に下降してきた。あたしたちに近づくにつれ、徐々にその形を視認出来るようになってくる。
どうやら巨大な影の正体は、小さい――といっても人間が二、三人乗っても大丈夫そうな大きさだが――翼竜だった。
前脚の部分が翼になっていることから、おそらくドラゴンではなく、先程話題に出てきたワイバーンの類なのだろうと推測できる。
「……アレ、あのスピードで突っ込む気か?」
リュウは空を見上げつつ、慌てる様子も無く淡々とシュンに尋ねる。
「それはないだろうが、一応避ける準備だけはしておけ」
シュンもまた、何事も無いかのようにあっさりと答えた。その会話を聞いていたシュガーはフェンリルに近づき、巨大な背中に飛び乗った。
登りきれずジタバタしているところを、フェンリルは器用に体を揺さぶり、なんとか背中にシュガーを跨らせる。
「ふぅ……結構乗り心地えぇなぁ。いざというときは頼むで、フェンリル?」
「御意」
どうやら全員が逃げる準備を整えたみたいだ……あたし以外は。
「セイン! 早くこっち来い!」
いつの間にかだいぶ距離をとっていたリュウは、影の真下にいるあたしに向けて叫んだ。
上を見上げてみれば、あと数秒すればこの地点に到着、あるいは墜落するだろう。
「あ、あぁ……」
あたしは気の抜けた声を出すことしか出来なかった。本来は体を動かすべきなのだろうが、足が震えて動くことが出来ないのだ。
そうしている間にも、影の正体がくっきり分かるようになってくる。
翠色の鱗に包まれたワイバーンに鞍が取り付けてあって、そこに男と女が一人ずつ跨っていた。後部にはたくさんの木箱が括り付けられていて、どこか郵便屋さんを彷彿とさせる。
そんな風に冷静に分析していると、そのワイバーンに跨っている男が口をパクパクさせているのが見えた。流石に声は聞き取れなかったけど、唯一つ分かることがある。
このままこの場にいたら、確実にあの巨体に潰される。
やっとのことで足が動くようになったあたしは、今いる地点から少しでも離れるべく、広報へとバックステップした。
しかし慣れない行動が仇となり、足が地に付く前に体が倒れこんでしまう。このまま倒れたら、あたしは……。
シュンッ!
風を切る音とともに、傾いていたあたしの体が軽くなり、視界がものすごい速さで動いた。直後、あの巨体は地面に思い切り激突した。
数秒遅れていたらぺちゃんこだっただろう。
……あの状況であたしを助けてくれる人物は、あたしの中で一人と決まっている。
「ありがと、リュウ」
予想通り、あたしを抱えていたのはリュウだった。
「まったく……こっち来いって言ったら早く来いよな~」
「ゴメンね。あたし、足が竦んで動けなかったから」
最初は少し呆れていた様子のリュウだったけど、すぐに優しい笑顔に戻った。
「とりあえず、無事ならいいんだ」
はぁ……あたしはリュウのこの表情に弱いのだ。
いつもは冷静で笑顔もあまり見せないリュウなのだけど、たまに見せる温かい笑顔を見ることが出来るだけであたしはいつも幸せで――。
「あのさ……とりあえず降ろして良いか?」
「はぅっ! も、もちろん!」
今のあたしたちは、お姫様抱っこという格好だったらしい。流石にあたしも気恥ずかしくなって、すぐにリュウの腕から降りた。
「ご、ゴメンねっ! それより……」
「あぁ。こいつらは一体何者なんだ?」
まだ土煙が薄く立っている中、あたしたちは未だに事情が理解できていない。
何故ワイバーンがこちらに堕ちてきたのか。可能性としてはいくつか考えられる。
その一、偶然の墜落
その二、敵意を持っての先制攻撃
その三、操縦している人間がワイバーンの扱いに慣れていなかった
これくらいだろうか。とりあえず〝その二〟でないことを願いたい。
「おーい! リュウ、セイン! 大丈夫か~!」
土煙の向こう側からシュンの声が聞こえた。あたしもシュンの声に負けないくらいの声量で叫び返す。
「大丈夫だよ~! そっちこそ大丈夫~?」
「あぁ! だいじょ――ぐおっ!」
返事をしようとしたシュンの声が、突然苦悶の声に変わった。
数秒後、ブンッと風を切る音が聞こえ、そして金属同士がぶつかり合ったような音が聞こえた。
……これは只事ではなさそうだ。
「……嫌な予感がする。セインはここで待っててくれ」
隣に立っていたリュウが言い放つと、木刀を片手に土煙の中へと突入した。あたしも追いかけようとしたけど、先程のリュウの言葉を思い出して思い留まる。
時間が経つにつれ、徐々に土煙が晴れてきて今起こっていることが明らかになる。
最初に目に入ったのは、頭を地面にめり込ませて目を回しているワイバーンだった。これは意識を失っているみたいなので、特に気にする必要は無いだろう。
次に先程突撃を掛けたリュウ、そして真っ白な髪をツンツンに逆立てた不良のような男が、お互いに武器をぶつけ合っている光景が目に入った。
後ろでシュンが倒れていることから、あの時の声はおそらく彼に襲撃されたときのものだと推測できる。
「オラオラァ! テメェらの実力はその程度かよっ!」
「くっ……」
リュウが木刀なのに対し、白髪男は明らかに金属製の小刀を使っている。苦戦するのも無理は無いだろう。
シュンが後ろで倒れているのも、きっと突然の襲撃に対処できなかったからだろう。
そもそもこの世界に来てから今まで、シュンは一睡もしていないのだ。ただでさえ虫やデーテとの闘いで満身創痍だというのに、この長い旅路を歩き、フェンリルと戦闘を繰り広げている。
体力の限界があるはずだと、冷静に考えればあたしも気がつけたはずなのに……。
最後に、フェンリルに跨ったシュガーと、それに対峙している一人の少女がいた。
こちらも現実離れした深緑の髪を持っていて、背中からは淡い色の翼が二対二枚で生えている。きっと彼女は妖精なのだろうと、容易に推測できる。
「……じぶん、何のつもりや?」
「私たちはただ、あなたたちを襲撃しに来た。本当に、それだけ」
「グルル……我が主に手は出させんぞ」
短い会話の後、少女は腰のベルトから小さな棒を三本取り出した。一本だけ棒の先に緑色の宝石が埋め込まれていて、その棒を一振りすると他の二本が連結する。
先程まで小さな棒だったものが、一瞬で杖に変わってしまった。
「ほぅ……なんかおもろいモン持っとるなぁ。フェンリル、気ぃつけぇや?」
シュガーは、ハリセンを片手に狼に跨るというシュールな姿でフェンリルに指示を出す。
「御意」
短く返事をしたフェンリルは、体制を低くしていつでも襲いかかれるように準備した。
状況を確認したあたしは、まず何をすべきか悟った。とにかく、一刻も早くシュンを助け出して回復させねばならない。
あたしの想像は傷を治すことが出来るけど、果たして体力を回復させることが出来るのだろうか?
……今はそんなことを考えている場合ではない。
今のあたしでは、きっと助けに行っても攻撃対象になるだけだ。それならば、あたしもそれに対抗しうる〝火力〟をもって制すればいい。
あたしはあの姿を想像し、頭に思い描きながら叫んだ。
「想創! 〝成長種族:熾天使|(グロウトライブ:セラフィム)〟!」
叫ぶとともにあたしの体を想創光が包む。それは数秒で掻き消え、あたしの体は今までの姿ではなく、燃え盛る天使の姿に変わっていた。
「……シュン、待っててね」
小さく呟くと、今はいらなくなった眼鏡をローブのポケットにしまう。そして上空へと飛翔し、こちらからは攻撃が当てられて、あちらの攻撃は届かない位置に移動した。
それを見た襲撃者二人組は、息を飲んであたしを見上げる。
「まさか……成長種族? それに熾天使だと?」
「……すごい。あんなの初めて見た」
二人とも、驚きを隠せない様子だった。
視線がこちらに集まっている隙に、リュウはシュンを安全な位置に避難させる。やはり、あたしの考えていることをリュウは分かっている。
「こっちはOKだ! ……さて、この状況でもまだ諦めないか?」
リュウが白髪男に向けて問いかける。すると、白髪男は苛立ちを隠せない様子で、体をわなわなと震わせながら不機嫌そうに答える。
「諦めないか、だと? ワイバーンも使えず、逃げ道も無いこの状況でどうやって諦めろって言うつもりだよ!
……俺だってなぁ、好きでこんなことしてんじゃねぇんだよ!」
白髪男の激昂に、リュウが目を丸くしていた。
それを聞いていた少女は、悲しげな表情を浮かべつつも杖を構える。
「……ごめんなさい。でも、やらなくちゃいけない。……生きるために」
少女の言葉に、シュガーはやれやれといった表情で首を振り、そして少女の目を見据える。
「はぁ……まーたお仕置きせぇへんといかんのか。おイタが過ぎるっちゅうに」
すると、シュガーはフェンリルの背中から降り、ハリセンを片手に歩き出した。
「待て。そいつは明らかに〝風妖精(シルフ)〟だ。……純粋な人間では勝ち目が無い」
フェンリルが冷静に静止をかけるが、シュガーは一向に止まらない。そのまま歩き続けていると、少女が小さく呟いた。
「……想創。〝ウィンド・スラスト〟」
発声とともにシュガーの目の前に想創光が発生し、一瞬で掻き消える。次の瞬間、シュガーの華奢な体が目に見えない何かによって大きく突き飛ばされた。
数メートル宙を舞っていたけど、フェンリルがすぐに駆けつけてシュガーのクッションになる。
「大丈夫か?」
フェンリルがぶっきらぼうに、しかし心配そうに声をかける。
シュガーは無言で小さく頷くと、今度は立ったまま少女に話しかけた。
「じぶん、ウチを殺す気は無いみたいやなぁ!
そないまでしてウチらを襲う理由があるんなら、相談くらいは乗ったるで?」
言葉を聞いた少女は固まり、それが聞こえていた白髪男も体をビクッと震わせる。その機を逃さずに、リュウも木刀を地面に投げ捨てた。
「シュガーの言うとおりだ! なにも俺たちは、お前たちと敵対するつもりはない。
何か事情があるのなら、一度話し合ってみないか?」
リュウの言葉に、少女は完全に俯いてしまう。少しだけ見えるその表情には、もはや敵意を感じることはなかった。
数秒間の沈黙の後、少女は杖を大地にそっと置いた。あたしも大地に降り立ち、警戒を解くと少女が震えた声で口を開く。
「……本当に、信じてもいい? あなたたちの、こと……」
その言葉を聞いたシュガーは、慈母のような優しい表情を浮かべて少女に近づく。あたしたちが固唾を呑んで見守っていると、シュガーはその小さな体で同じく小さな少女を優しく抱き締めた。
そして目を見開いた少女の耳元にそっと囁きかける。
「当たり前やん。じぶんらはどう考えても悪いことするように思えへん……何か深い事情があるんやろ?
ウチらが助けたるから、何があったか言ぅてみぃ?」
シュガーの言葉と抱擁に、少女は静かに涙を流していた。
それを見た白髪男はわなわなと肩を震わせると、小刀を逆手に持ち感情をむき出しにして叫ぶ。
「そいつらの言うことを信じるな、ラナっ!
どうせ俺たちは奴らから逃げられないんだ……だったら、こいつらを殺して生き延びるしかねぇよ!」
ラナと呼ばれた風妖精の少女は、白髪男の言葉に戸惑いを隠せない様子だった。シュガーは抱擁を続けたまま、白髪男の前に立っているリュウに一言。
「……リュウ、代わりにお仕置きしたってや」
「あぁ。こっちは任せとけ」
無表情で返事をしたリュウは、自ら投げ捨てた木刀を拾った。
それを見た白髪男は、リュウに軽蔑のような眼差しを向け、中腰で小刀を構えたまま嘲るような口調で言う。
「はっ。俺が言うことを聞かなくなったら実力行使かよ。見下げた根性だぜ……ラナ! この状況を見ても、まだそいつらを信じられるのか?」
抱擁されているラナは白髪男に問われると俯き、しかし小さく首を縦に振った。
間近で見ていたシュガーは頭に手を置き、そっと深緑色の髪を撫でてやる。
「けっ……好きにすればいいさ。俺は絶対逃げねぇし、お前らにも負けねぇっ!」
白髪男が言い放つと、リュウは白髪男に哀れみのような視線を送る。
「……すまない。ちょっと痛い目を見るかもしれないが、我慢してくれ」
リュウにしてはそのままの本心だったのだろうけど、言葉にしてみればどう聞いても挑発にしか聞こえない。
沸点の低かった白髪男は怒りを顕わにし、小刀を振りかぶりながら上空へと跳躍した。
「ふ、ざ、けるなぁぁぁっ!」
そのまま落下のエネルギーを活かして高威力の斬激を繰り出す。
しかし、リュウにとっては隙だらけの攻撃なので、何事も無かったかのように左へ一歩ずれた。
そして落ちてきたところでリュウの木刀が一瞬で閃き、鈍い音を立てて白髪男を大きく吹き飛ばす。
「ぐえっ……」
カエルのような呻き声を上げて地面に落ちると、仰向けのまま意識を失った。
それを見向きもせず後ろを向いたまま、木刀を腰に納めつつリュウは背中越しに一言だけ呟く。
「大丈夫……峰打ちだ」
「木刀なのに、峰打ちもクソもあるんかいな?」
したり顔をしているリュウに、シュガーが冷静にツッコミを入れる。
抱擁を解かれ一部始終を見ていたラナは、心配そうに白髪男に駆け寄り、息があることを確認するとほっと胸を撫で下ろした。
状況がひとまず落ち着いたところでシュガーが口を開く。
「……さて、これからの行動やけど、ウチらは今からアズポートに向かうつもりや。
じぶんらが何処から来たんかは知らんけど、怪我人がおるし事情も聞きたい。街ならきっと医者の一人もおることやろ……どや、一緒に行かんか?」
ハリセンを弄びながら尋ねるシュガーに、ラナは小さく首を縦に振る。先程からの言動を見ていると、彼女はどうやら寡黙な性格のようだ。
しかし、それでも意思疎通を難なくこなしているシュガーはある意味すごいと思う。
「決定やな! ほんじゃあ……リュウがシュンを運んだってな?
フェンリル、じぶんはそこの白髪坊主を運んだってくれんか?」
「分かった」
「御意」
リュウとフェンリルは返事をすると、リュウはシュンを背負い、フェンリルは大きな背中に白髪男をうつ伏せに寝かせたまま乗せてやる。何とも器用な狼だ。
「……ザック」
不意に、ラナが小さく口を開いた。しかし声量が少なくて聞き取れない。
「ん? 何やって?」
「彼の名前。ザックって言うの」
「そうなんかぁ~。ほな、白髪坊主は止めたらんとあかんな!」
シュガーの明るい笑みに、ラナもつられて微笑んだ。
今更だけど、彼女の笑顔を始めてみた気がする。やっぱり顔立ちが良いからか、笑うととても可愛い。
「……羨ましいなぁ」
「どうかしたのか?」
シュンを背負ったリュウが隣から尋ねてくる。あたしはリュウの訝しげな表情を見ると、胸中にある複雑な心境をおくびにも出さず短く答えた。
「別にぃ~……想創。〝生誕種族(バース・トライブ)〟」
あたしの体が想創光に包まれ、一瞬で元の姿に戻った。
ローブのポケットから愛用の眼鏡を取り出してかけ、ヘアゴムで髪を纏めると、進むべき道を歩き始める。
「それじゃあ気を取り直して、アズポートまで急ごう。
早くシュンとザックを医者に見てもらわないと……それと本来の目的も忘れずに」
「それはいいんだけどさ……ワイバーンはどうするんだ?」
「……放置しておけば、そのうち勝手に逃げると思う」
「そうなんかぁ……それじゃワイバーンも達者でなぁ~!」
先程よりも少し賑やかになったあたしたちは、アズポートへの道をゆっくりと進み始めた。




