三国志 RE:GENESIS ーThe Birth of a Heroー
“When the world bows to fate, a true hero dares to defy it.”
***
荊州を追われた劉備軍は、曹操の大軍から逃れ、長江のほとりに身を寄せていた。
兵は散り散りになり、軍勢は見る影もない。
頼みの綱は、江東の孫権との同盟交渉に向かった諸葛孔明ただ一人。
そんな絶望的な状況のなか、劉備玄徳は義弟の関羽雲長と合流していた。
「いや、だからさあ、関羽ちゃん。ちょっと考えてみてよ」
「……何をですか、兄者」
「孫権だよ、孫権。あの若造がさ、俺たちと同盟なんか結ぶと思う?」
「孔明殿が交渉に赴いております。望みはあるかと」
「望みって何よ。何を根拠に言ってんの、それ」
「それは……」
「だって俺たち、負けたんだよ? それも、もう見事なくらいに! 荊州から追い出されて、兵隊も散り散りでさ。そんな連中が突然やって来て、『一緒に曹操と戦いましょう』って。いやいやいや、誰が乗るのよ、そんな話!」
「しかし、曹操の脅威は孫権にとっても――」
「分かってるよ! それくらい俺だって分かってる! でもさ、だったら孫権が曹操に降伏しちゃったらどうするの? 俺たち、どうなるの?」
「……それは」
「ほら! 答えられないじゃない!」
関羽は長い髭を撫でながら、深々とため息をついた。
「兄者。孔明殿も、我らのために尽力しておられるのです。そこまで仰るのは……」
「いや、孔明もさあ! あいつもどうなのよ!」
「……孔明殿が、何か?」
「いや、頭いいのは分かるよ。話もうまいしさ。天下三分だとか、なんか立派なこと言ってたじゃない。でも現実見てよ。俺たち今、何分してる? 天下どころか、飯を三人分用意するのだって大変なんだよ!」
「兄者……」
「そもそもさ、あいつが来てから俺たちどうなってる? たいして好転してないよね? むしろ前より酷くなってない?」
「それは曹操の軍勢があまりにも強大で……」
「ほら、また曹操! 何でも曹操、曹操って! そんなの最初から分かってたことじゃない! 分かってて軍師になったんでしょうが!」
「……兄者。それは、あまりにも理不尽です」
「理不尽なのは俺の人生だよ!」
劉備は膝を叩いた。
「だいたいさあ、みんな俺のこと買い被りすぎなんだよ!」
「……はあ」
「帝もさあ、曹操を倒したいから力を貸してくれとか言うわけよ。いや、俺に何ができるのよ!? 田舎で燻ってた博打好きの落第生だよ、俺は!」
「しかし、兄者は陛下の密勅に応じ、董承殿らと志を同じくされたではありませぬか」
「そうだよ! それでどうなった? 計画は失敗! みんな捕まって、俺まで曹操に追い回される羽目になったんだよ!」
「……あの時は、兄者は徐州へ赴き、難を逃れましたな」
「仕方ないじゃん! 他の奴らが下手打ったんだから! 俺だけ残って捕まれっていうの!?」
「いえ、そういうわけでは……」
「そもそも、何で俺に頼むのよ! 曹操のすぐそばにいたからって、この俺に何ができると思ったわけ!?」
「それは、帝も、兄者が同じ漢室の血を引く御方だからこそ……」
「血! また血! 血が何してくれるのよ! 曹操の兵隊が十万来たら、俺の血が十万人倒してくれるわけ!?」
「……そういう話では」
「一応さ、劉家の末裔だとか、盧植先生に学んだとか、そういう肩書きはあるよ? でもそれ、表向きのステータスだからね! 中身の俺とは関係ないから!」
劉備は大げさに肩を落とした。
「正味の俺なんて、草履売ってるのがせいぜいの男なんだよ。なのに、あっちこっちで呼びつけられてさあ。劉表のジジイまで、荊州を譲るだの、跡継ぎをどうするだの! 知らないよ! 自分の息子と相談して決めてくれよ!」
「兄者。劉表殿は兄者の器量を認めて……」
「器量って何よ! 俺、そんな立派なもん持ってないから! あの爺さん、人を見る目ないんじゃないの!?」
「……しかし、荊州を譲り受けておれば、今頃は……」
「何よ! 関羽ちゃんまで孔明みたいなこと言うの!?」
「いえ、それがしは……」
「だって、あの時も孔明の奴、どさくさに紛れて荊州を奪っとけとか言ってたじゃん! 何それ!? 人んちの親父が死にそうな時に、そんなことできるわけないでしょ!」
「……確かに、孔明殿は荊州を確保すべきと進言しておられましたが」
「でしょ!? でも俺には無理! 仕方ないじゃん! 劉表のジジイには世話になったんだから! 空気読めって!」
「……兄者」
「それで結局、荊州は曹操に取られて、俺たちはこの有様! ああもう、何なの俺の人生!」
関羽は眉間を押さえた。
「兄者。少し落ち着かれては……」
「落ち着いてられるかっての! そもそも、全部お前らのせいだからね!」
「……は?」
「お前と張飛のアホ! 何で最初に勘違いしたんだよ!」
「我らが、ですか?」
「そうだよ! なに、桃園の誓いって! 生まれた日は違っても死ぬ日は同じにしたいとか! バカなの!? 死ぬの!?」
「……兄者が言い出したことではありませんか」
「だから、あの時は若かったの! なんか世の中めちゃくちゃで、むしゃくしゃしててさあ。酒場で義勇軍を立ち上げて世直ししてやるとか、冗談言ってただけなの!」
「……冗談、ですか」
「そうだよ! 酒も入ってたし! 普通さあ、酔っ払いが変なこと言い出したら止めるでしょう!? それをお前ら、感動しちゃってさあ!」
「…………」
「そしたら、あれよあれよという間に兵隊が集まって、黄巾賊と戦うことになって! お前ら、どんどん敵将の首切ってくるじゃない! 何なの!? 何でそんなに強いの!?」
「……それは、兄者の大志に応えんがため」
「だから、それが勘違いだって言ってんの! お前らが強すぎるせいで、なんか長兄の俺まで凄い人物みたいに思われちゃって!」
劉備は両手を広げた。
「仕方なく義勇軍の大将やって、仕方なくあちこちで戦わされて、仕方なくここまで来ちゃったんだよ! 俺の人生、ずーっとそんなのばっかり!」
「……しかし兄者。黄巾の乱の後には、功を認められ、安喜県の尉に任じられたではありませぬか」
「そう! そうなんだよ! ようやく平穏な役人暮らしができると思ったのにさあ! そこからまたお尋ね者だよ!」
「……あれは兄者が督郵を縛り上げ、百叩きにされたからでは?」
「仕方ないじゃん!」
劉備は即座に言い返した。
「黄巾の乱の後で、どこもかしこもカツカツだったんだよ!? 民は食うや食わずで、役所だって金がないのに、あの野郎、賄賂だの何だのって!」
「……それで、鞭打たれたと」
「そうだよ! あんなのまともに相手にしてたら、みんな餓死しちゃうでしょ! 俺だって我慢しようと思ったよ!? でも、あんまりしつこいから、つい!」
「……つい、百叩きに」
「だから! 細かいことはいいの!」
関羽は天を仰いだ。
「……兄者。今さら申すのも何ですが、もう少し穏便に済ませる方法もあったのでは」
「あるなら教えてよ! 今からでも過去に戻って、あの時の俺に教えてやってよ!」
「……無理を仰いますな」
「でしょ!? 仕方ないじゃん!」
劉備は鼻を鳴らした。
「まったく、何で俺ばっかりこんな目に遭うんだろうねえ。あの時、お前らが止めてくれてたら、今頃どっかで草履売って平和に暮らしてたんだよ!」
「……兄者。今さら、それを仰いますか」
「今さらだから言ってるんだよ! こっちは人生かかってんだから!」
関羽は、しばらく黙っていた。
やがて、何かを決意したように口を開いた。
「……では兄者。いっそ曹操に頭を下げますか?」
「は?」
劉備は目を丸くした。
「いやいやいや! 何言ってんの関羽ちゃん! そんなの今さら通るわけないじゃん!」
「そうとも限りませぬ」
「なんでよ!?」
「かつて張繡と賈詡は、曹操の嫡男を死に至らしめました。しかし、後に降伏した際、曹操は両名を許し、重用しております」
「……え、そうなの?」
「はい。あの男は恐ろしい人物ですが、人材を求める姿勢だけは徹底しております」
「…………」
劉備はしばらく考え込んだ。
そして、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ、俺ダメじゃん」
「……は?」
「いや、だって人材が欲しいんでしょ? 俺、全然人材じゃないもん」
「兄者!」
「何よ! 事実じゃん!」
「しかし、曹操はかつて兄者を厚遇したではありませぬか! あれは兄者に、英傑たる何かを確かに見いだしたからこそ!」
「だからさあ!」
劉備は両手を広げた。
「結局、買い被りすぎなんだよなあ、あいつも!」
「……兄者」
「何が『天下の英雄は君と余だけだ』だよ! もうさあ、何言ってんの、この人って!」
「……それは、曹操が兄者を認めた証では」
「認めなくていいんだよ! こっちは静かに飯食ってんだから!」
「…………」
「あんまりバカなこと言うからさ、俺、箸落としちゃったもん!」
関羽の動きが止まった。
「……箸を?」
「そうだよ!」
「……兄者。あの時は、雷鳴に驚いた振りをしたのでは?」
「いや、雷なんかどうでもいいよ! 目の前のおっさんが突然『俺とお前が天下の英雄だ』とか言い出したんだよ!? そっちの方が怖いでしょ!」
「…………」
「しかも、あいつ、すっごい真顔なんだよ! 冗談じゃないの! 本気なの!」
関羽は額に手を当てた。
「……兄者。あの場面を、そのように解釈しておられたとは」
「解釈も何も、俺が当事者なんだから!」
「……ごもっともです」
「でしょ!?」
関羽は、それ以上何も言わなかった。
「……まあ、その話は兄者の胸にしまい、墓まで持っていっていただくとして」
「何それ!? 俺、なんか変なこと言った!?」
「言いました」
「即答!?」
関羽は咳払いをした。
「それより、現実的な話をいたしましょう。拙者はかつて曹操から格別の厚遇を受けておりました」
「そうだったねえ。あいつ、関羽ちゃんのこと大好きだったもんね」
「……言い方はともかく、事実です。拙者が口添えすれば、交渉の余地はありましょう」
「へえ?」
「我が軍には、張飛や趙雲といった精鋭がおります。外交に長けた孫乾殿、荊州の名士と繋がりを持つ孔明殿もいる。それらの人材と兵力を交渉材料にすれば、相応に有利な条件で降ることも可能かと」
「…………」
「少なくとも、孫権が我らを曹操との共闘相手として評価するかどうか、という不確かな話よりは、現実味があります」
劉備はしばらく関羽の顔を見つめていた。
そして、突然その肩を叩いた。
「いやあ、さすが関羽ちゃん!」
「……は?」
「もうお前が軍師やれよ!」
「……兄者?」
「いや、マジで! すっごい現実的じゃん! 孔明の奴、クビにしよう! あいつ、口ばっかりだし!」
「兄者!?」
「大丈夫、大丈夫! あいつの嫁だけ残せばいいから!」
「……は?」
「いや、黄夫人! あの人、頭いいじゃん! 孔明より使えるんじゃないの!?」
「兄者……。それはあまりにも……」
「だってさあ、考えてみてよ! あいつ、軍師になってから何した? 天下三分とか言って、結局俺たち今、天下どころか寝る場所もないんだよ!?」
「…………」
「だったら、お前と黄夫人に軍師やってもらってさ。孔明には家で子守りでもしてもらえばいいんだよ!」
関羽は深々とため息をついた。
「……兄者。どうか、その話も墓までお持ちください」
「ええ!? また!?」
劉備は不満そうに頬を膨らませた。
しかし関羽は構わず、話を先へ進めた。
「……では兄者。その方向で話を進めますか」
「ううん」
「……兄者?」
「やっぱやだ」
「……ええ?」
「曹操の奴に頭下げるの、やっぱやだ」
関羽は困惑した。
「兄者。先ほどまで、あれほど……」
「分かってるよ。分かってるって」
劉備は面倒くさそうに手を振った。
「いや、確かにさ。あいつ頭いいし、戦も強いし。政治だって俺なんかよりずっと上手いんでしょうよ。この国を立て直したいとか、古い価値観を変えたいとか、そういうご立派なお考えもあるんでしょうよ」
「……はい」
「それは分かるよ。分かるんだけどさあ……」
劉備は少しだけ声を落とした。
「あいつ、自分が賢くて正しいと思ってるからさ」
「…………」
「だから、弱い奴とか、邪魔になった奴とか、平気で消せるじゃん」
関羽は黙っていた。
ふと、かつて耳にした話が脳裏をよぎる。
董卓に追われていた曹操が、身を寄せた呂伯奢の家で、その家人たちを殺害したという逸話。
そして、曹操が口にしたと伝えられる言葉。
――寧ろ我、人に背くとも、人の我に背くを休むるなかれ。
自分が他人を裏切ることはあっても、他人が自分を裏切ることは許さない。
真偽のほどは定かではない。しかし、曹操という男を思うとき、関羽にはどうしてもその言葉が頭をよぎるのだった。
そして、徐州での惨禍。
父の曹嵩を殺された曹操は、仇討ちを掲げて徐州へ侵攻した。怒りに燃える曹操軍は各地を蹂躙し、無数の民が殺されたという。
父を失った悲しみも、怒りも、偽りではなかったのだろう。
だが、それだけだったのか。
曹操は、徐州を手中に収める好機とも考えていたのではあるまいか。
仇討ちという大義と、領土を奪うという打算。その二つが、あの男の中では矛盾なく結びついていたのではないか。
関羽には分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
あの時、徐州の陶謙に助けを請われ、曹操の大軍の前に立ちはだかったのは、ほかならぬ劉備だった。
まだ名もなき小勢力の長にすぎなかった兄者は、勝ち目などほとんどない戦いに身を投じたのである。
思えば、この二人の英雄の対峙は、あの時から始まっていたのかもしれない。
「いや、俺だって分かるよ? 戦なんだから、綺麗事ばっかりじゃ済まないしさ。偉い人には偉い人の事情があるんでしょうよ」
劉備の声に、関羽は我に返った。
「でもさ。だからって、何してもいいわけじゃないでしょ」
「…………」
「俺、そういうの嫌いなんだよね」
関羽は静かに兄を見つめた。
先ほどまで自分の人生を呪い、義兄弟の誓いさえ否定していた男である。
それが今、天下で最も強大な英雄に頭を下げることを拒んでいる。
関羽は、少し考えてから尋ねた。
「……しかし兄者」
「何よ?」
「それは、兄者が先ほどから仰っておられる『仕方ない』とは、どう違うのでしょうか」
「それとこれとは違うの!」
「……何が違うのです?」
「いや、だからさあ! 俺はしょっちゅう言うよ? 仕方ないって。そりゃ言うよ! だって仕方ないことばっかりなんだから!」
「……はい」
「でもさ、曹操の『仕方ない』は違うじゃん!」
劉備は身を乗り出した。
「あいつの『仕方ない』って、人を平気で踏み潰すための『仕方ない』じゃん! そんなの全然仕方なくないよ!」
「……それは」
「俺が貧乏くじ引くのは仕方ないよ! 運が悪かったんだから! でも、偉い奴が他人に貧乏くじ押しつけて、それを仕方ないで済ませるのは違うでしょ!」
関羽は答えなかった。
「いや、考えてみてよ。そういう『仕方ない』にさ、みんなが黙って『仕方ないですね』って言ってたら、どうなるのよ?」
「…………」
「それが今のこの国じゃん!」
劉備は吐き捨てるように言った。
「宦官が好き勝手やっても仕方ない。外戚が権力争いしても仕方ない。偉い奴が下の人間を踏みつけても、世の中そういうもんだから仕方ない!」
「…………」
「みんな、そうやって我慢してきたんでしょ? で、どうなったよ! 国、めちゃくちゃじゃん!」
劉備は苛立たしげに頭を掻いた。
「だからさ……誰かが言わなきゃいけなかったんだよ」
「……何を、ですか?」
「仕方なくないって」
関羽は、思わず兄の顔を見つめた。
「どんなにご立派なこと言ってても、そこを譲ったら同じじゃん! だったら、何のために今まで戦ってきたのよ! 何のために黄巾の乱から、ずっとこんなことやってきたのよ!」
劉備は言いたいことを言い終えると、大きく息を吐いた。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
関羽は、遠い昔の出来事を思い返していた。
黄巾の乱で義勇軍を立ち上げた時も、安喜県で督郵を打ち据えた時も、徐州で陶謙の救援に赴いた時も、兄はいつもそうだった。
理不尽なことを目の当たりにすると、黙っていられない。たとえ自分が損をすると分かっていても、結局は首を突っ込んでしまう。
そのたびに地位を失い、敗北を重ね、流浪の憂き目に遭ってきた。
そして今も、天下をほぼ手中に収めた曹操に対して、同じことを言っている。
――仕方なくない。
兄は昔から、何も変わっていなかったのだ。
「……兄者」
「何?」
「我らは、いつの間にか悪い意味で大人になってしまったのかもしれませんな」
「……は?」
「世の中の仕組みを知り、利害を量り、物事を穏便に収める術を覚える。それを知恵と呼び、分別と呼んで、己も一人前になったつもりでおりました」
「……うん?」
「しかし、時としてそれは、理不尽を正すことを諦め、ただ世の流れに迎合しておるだけなのかもしれませぬ。その責任も、犠牲も、力なき民や後の世に押し付け、目先の安寧を得る」
関羽の脳裏に、かつて目にした洛陽の惨状が蘇った。
董卓によって焼き払われた都。黒く焼け焦げた宮殿や家々。瓦礫の下に横たわる無数の亡骸。
住む家を失い、わずかな家財を背負って荒野をさまよう人々。泣き叫ぶ子供を抱き、行く当てもなく立ち尽くす母親の姿。
権力者たちが己の利害を争うたび、その犠牲を強いられるのは、いつも何の罪もない民であった。
「そのようなことを繰り返してきたからこそ、この国は少しずつ歪み、ついには今日の惨状を招いたのでしょう」
関羽は、まっすぐに兄を見つめた。
「兄者は、その過ちを繰り返してはならぬと、そう仰りたいのですな」
劉備は、しばらく目を瞬かせていた。
「……いや、なんか小難しく高尚になったけど、まあそんな感じ?」
関羽は思わず笑みを漏らした。
「……はは」
「まあ、俺のこんな意地なんてさ。子供の駄々みたいなもんだけどね」
劉備は照れ隠しのように頭を掻いた。
「いえ。それがしは、そうは思いませぬ」
「……え?」
「英雄とは、必ずしも天下を取り、大業を成し遂げた者ばかりではありますまい」
関羽は静かに続けた。
「たとえ志半ばに倒れようとも、その生き様が人の心に何かを灯し、後の世へと受け継がれてゆく。そういう者もまた、英雄と呼ばれるのではありませぬか」
「…………」
「我らの戦いも、決して無駄ではありませぬ。たとえ何一つ成し遂げられずとも、後の世に、そのような馬鹿者たちがいたと語り継がれるだけの話にございましょう」
劉備は、しばらく黙っていた。
「……そんなもんかねえ」
やがて、困ったように笑った。
「いい年したおっさんどもの、痛い反抗期とか言われちゃうんじゃないの?」
「言いたい者には、言わせておけばよろしいのです」
関羽は穏やかに答えた。
「現に、拙者如きにも伝わっておりまする」
「…………」
劉備は、何とも言えない顔をした。
「……そうなんだよなあ」
「……はい?」
「なんか、伝わっちゃってんだよね」
関羽は苦笑した。
「……兄者」
「いや、だからさ。俺、そんな大したこと言ってるつもりないんだけどねえ」
劉備は、ばつが悪そうに頬を掻いた。
「つーか、流石、関羽ちゃんだね。俺や張飛と違って学があるというか。いや、ほんと大したもんだよ」
「いや、まあ……」
「つーか、お前、何なの?」
「……は?」
「いや、前から思ってたんだけどさ。何で田舎のおっさんが漢帝国のエリート軍人より遥かに強いの?」
「……それは」
「曹操とか、めちゃくちゃ厚遇するじゃん! あいつだって名だたる武将をいっぱい抱えてるわけでしょ? なのに何でお前なのよ!」
「いや、それは拙者にも……」
「どうすりゃお前みたいなのが生まれるの? 何食って育ったの? それで何で俺の部下なんかやってんの?」
「……兄者」
「俺が勘違いされてるのって、ほとんどお前のせいだからね!」
「いや、まあ……」
関羽は困り果てた。
つい先ほどまで、兄の言葉に感銘を受けていたはずなのだが。
どうしてこうなるのだろう。
その時だった。
「あ、いたいた! 玄徳さーん!」
聞き覚えのある、妙に軽い声が響いた。
二人が振り返ると、そこには羽扇を手にした諸葛孔明が立っていた。
「おお!」
関羽が顔を輝かせる。
「流石は孔明殿! もう孫権との同盟を取り付けられましたか!」
「いやいやいや、違いますよ!」
孔明は笑顔で手を振った。
「ちょっと忘れ物しちゃって! 取りに戻りました!」
「…………」
「…………」
劉備と関羽は、揃って固まった。
「……は?」
最初に声を発したのは劉備だった。
「いや、何やってんのよ!?」
「ですから、忘れ物ですって」
「忘れ物って! お前、もうとっくに呉に着いてなきゃいけない時間じゃない!」
「いやあ、そうなんですよねえ」
「そうなんですよねえ、じゃないよ! 遅刻じゃない! もう言い訳できないほどの、とんでもない遅刻じゃない!」
「まあまあ、玄徳さん。そんなに怒らなくても」
「怒るよ! そりゃ怒るよ! 先方にどう申し開きするのよ!?」
孔明は羽扇をひらひらと振った。
「成せばなる、成さねばならぬ何事も。ポジティブシンキング、ですよ!」
「じゃかましいわ!!」
劉備の怒声が響き渡った。
関羽は、またしても額に手を当てた。
「……して、孔明殿。忘れ物とは?」
「ああ、これです、これ!」
孔明は懐から数冊の書物を取り出した。
「嫁の指示書……もとい、恋文です!」
「…………」
劉備の目が細くなった。
「……今、指示書って言ったよね?」
「言ってませーん」
「言った! 絶対言った!」
「いやいや、恋文ですよ。愛する妻からの、心温まるラブレターです」
「嘘つけ! 絶対、呉での交渉について事細かく指示が書いてあるんだろ!」
「そんなことありませんって」
「じゃあ見せろよ! 何巻あるんだよ、それ!」
「いやいやいや! 人の恋文を見るなんて、玄徳さん、野暮ですねえ!」
「何が野暮だよ! 関羽ちゃんも聞いてたよね!? 指示書って言ったよね!?」
劉備が振り返る。
関羽は、遠い目をしていた。
「……はあ」
「はあ、じゃないよ! 証人になってよ!」
しかし孔明は、そんな二人のやり取りなど意に介さない。
「いやあ、しかし、こんな無駄話をしている場合ではありませんね」
「誰のせいだと思ってんのよ!」
「私は至急、呉に向かわねばなりませんので。それでは玄徳さん、雲長殿、ごきげんよう!」
孔明は爽やかに笑い、くるりと背を向けた。
「ちょ、ちょっと待てコラ!?」
劉備が叫ぶ。
「お前、ぜってえクビにしてやるからな!」
「はいはい。それでは!」
「曹操を撃退したら、あのクソ田舎に蹴り返してやるからな! 覚えてろよ!」
孔明は、ひらひらと羽扇を振りながら去っていく。
「何が三顧の礼だ! 天下三分の計だ! 人待たせて昼寝してやがったの、俺、まだ根に持ってんだからな!」
その背中が見えなくなるまで、劉備は怒鳴り続けた。
関羽は、黙ってその様子を眺めていた。
曹操の大軍は、今も迫っている。
孫権との同盟が成立する保証もない。
兵は少なく、領土もなく、明日の食糧さえ心許ない。
それでも、兄は曹操に降ることを拒んだ。
天下のために、弱き者を踏み潰すことを当然とする世の中を、仕方ないとは認めなかった。
関羽は、ふと桃園の日を思い出した。
あの日、自分たちは何を誓ったのだったか。
生まれた日は違えども、死す時は同じ。
あの誓いを結んだことを、関羽は一度たりとも後悔していなかった。
「……ふう」
深いため息が漏れる。
「ちょっと関羽ちゃん! 何ため息ついてんの!?」
「……いえ、何でもございませぬ」
「いや、絶対なんか思ってるでしょ!?」
「何も」
「嘘つけ! お前まで俺をバカにしてんのか!?」
「滅相もござらぬ」
「だったら何とかしてよ! 孔明の奴、絶対またやらかすって! 俺、もう嫌だよ、こんなの!」
関羽は、静かに空を見上げた。
長江の向こうには、曹操の大軍が待ち構えている。
天下の行方を決する戦いが、間もなく始まろうとしていた。
「……兄者」
「何よ!?」
「やはり、拙者は兄者についてまいります」
「だから、そういうのが重いんだってば!!」
劉備の悲鳴が、秋の空に響き渡った。
――赤壁の戦いまで、あと僅か。
〈完〉




