そうですか、婚約破棄ですか。あなたは何も知らないのですね
「エレノーラ! お前との婚約を破棄する!」
王宮の舞踏会場に、王子グラシエルの声が響き渡った。
楽団の演奏が止まり、集まっていた貴族たちが一斉にこちらを向く。
私は手に持っていたグラスをテーブルに置いた。
「……理由をお聞きしても?」
「理由だと? お前は自分の胸に聞いてみろ!」
なるほど。理由を説明するつもりはないらしい。
「お前はいつも私の行動に口を出し、私の交友関係にまで干渉してきた! もう我慢の限界だ!」
「そうでしたか」
「それだけではない! 私の愛するミレーヌを侮辱したという話も聞いている!」
隣に立つミレーヌ嬢が、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
私は彼女を見た。
「侮辱した覚えはありませんが、そうお感じになったのであれば申し訳ありません」
「なっ……!」
グラシエル王子が言葉に詰まった。
どうやら、私が泣き叫んだり、必死に弁解したりすることを期待していたらしい。
「それで、婚約を破棄なさるのですね?」
「そうだ!」
「承知いたしました」
「……は?」
「婚約破棄をお受けいたします」
私は軽く頭を下げた。
「今までありがとうございました、殿下」
会場が静まり返った。
グラシエル王子は、口を半開きにしたまま私を見ていた。
「ま、待て! お前はそれでいいのか!?」
「はい。殿下がお決めになったことですから」
「後悔するぞ!」
「そうならないよう、気をつけますわ」
私はもう一度頭を下げ、その場を離れた。
背後から王子の怒鳴り声が聞こえてきたが、振り返る必要はなかった。
これでようやく、両親から頼まれて引き受けた仕事が終わったのだから。
***
そもそも、私とグラシエル王子の婚約は、私たち二人の意思で決まったものではない。
三年前。
王宮から、私の父に一通の手紙が届いた。
差出人は国王陛下だった。
その内容は、簡潔にまとめるとこうである。
『我が息子の婚約者になってもらえないだろうか』
父は手紙を読み終えると、頭を抱えた。
「……エレノーラ。お前に頼みがある」
「お断りします」
「まだ何も言っていないぞ!」
「お父様がその顔をなさるときは、たいてい面倒なお願いですもの」
父はしばらく黙っていたが、やがて深々と頭を下げた。
「頼む。国王陛下からのお願いなのだ」
事情を聞くと、私はますます頭が痛くなった。
グラシエル王子は、容姿も身分も申し分ない。
しかし、性格に問題があった。
自分の失敗は他人のせい。自分の希望は絶対。他人の意見を聞くことは負けだと思っている。気に入らない相手には平然と嫌味を言い、相手が怒れば「冗談も通じないのか」と笑う。
当然、貴族の令嬢たちからの評判は悪かった。
過去に何人もの婚約候補がいたが、相手の家から辞退を申し出られたり、本人が婚約を拒絶したりして、話がまとまらなかったという。
「このままでは、あの子はまともな結婚もできない」
国王陛下は、父にそう打ち明けたらしい。
「王太子としての立場もある。誰か、あの子を支えてくれる者が必要なのだ」
そして、私の名前が挙がった。
私は幼いころから、他人の機嫌を取ることが得意だったわけではない。ただ、相手が何を言おうと、自分が正しいと思わないことまで認める必要はないと考えていた。
それが、王子の相手には都合がよいと思われたのだろう。
「エレノーラなら、あの子にも流されず、うまくやってくれるのではないか」
国王陛下は、父を通じてそう頼んできたのだった。
「……つまり、私は王子の教育係兼、機嫌取りですか?」
「そこまで直接的には言っていなかったそうだ」
「では、遠回しに言ったのですね」
父は否定しなかった。
私は長い長いため息をついた。
王命に近いお願いである以上、簡単には断れない。父の家にも事情がある。
結局、私は条件を提示した。
王子が私の意見を聞かず、こちらの尊厳を踏みにじるようなことをした場合、婚約を解消できること。
そして、婚約中に私が王子の失敗をすべて引き受けるような立場に置かれないこと。
国王陛下は、その条件を認めた。
そうして私たちの婚約は成立した。
もちろん、グラシエル王子本人には、そんな事情は一切説明されていなかった。
彼は自分が選ばれたのだと思っていた。
そして、私がどれだけ我慢しても、それを当然のことだと思っていた。
三年間、ずっと。
***
婚約破棄の翌朝。
私は父と母とともに朝食を取っていた。
「本当に、これでよかったのか?」
父が心配そうに尋ねる。
「はい。契約に従って婚約を解消しただけです」
「陛下には、こちらから説明しておこう」
「お願いします。私はもう、王子殿下のお相手をする必要はありませんから」
母が少し困ったように微笑んだ。
「あなたには苦労をかけたわね」
「いいえ。三年間で、他人の話を聞かない人間との付き合い方は十分に学べました」
「それは……今後の人生に役立つのかしら?」
「できれば役立ってほしくないですね」
私たちは顔を見合わせて笑った。
そのころ、王宮では大変なことが起きていたらしい。
***
「グラシエル! お前は何を考えている!」
国王の怒声が、執務室に響き渡った。
「何を、とは?」
「エレノーラ嬢との婚約を破棄したそうだな!」
「ええ。私が決めました。あの女とは合わなかったので」
グラシエルは、悪びれもせずに答えた。
「……合わなかった?」
王妃がこめかみを押さえた。
「お前は、あの子がどれほどの苦労をしていたか、まったく理解していないのですね」
「母上まで何をおっしゃるのですか。婚約者を変えることくらい、王族にはよくあることでしょう」
「お前の場合は違う!」
国王が机を叩いた。
「我々が、エレノーラ嬢のご両親に頭を下げてお願いしたのだ!」
「……は?」
「お前の性格では、普通に婚約者を探しても誰も引き受けてくれない。だから、事情を説明したうえで、あの子に頼み込んだのだ!」
グラシエルの顔から笑みが消えた。
「そ、それは……」
「エレノーラ嬢は、こちらの事情を理解して条件を提示してくれた。その条件を守る限り、婚約を続けると約束してくれたのだ!」
王妃も静かに続けた。
「私たちは、お前が少しでも人の気持ちを考えられるようになることを期待していました。あの子なら、少なくともお前に流されず、意見を言ってくれると思ったのです」
「しかし、あの女は私に従わなかった!」
「従わせるために婚約者を用意したのではありません!」
王妃の声が鋭くなった。
「お前は、自分の思い通りにならない相手を、すぐに敵だと決めつける。そんな人間が、どうして誰かと家庭を築けると思うのですか?」
「……」
「それに、お前は婚約破棄の条件を確認したのか?」
国王に問われ、グラシエルは顔を上げた。
「条件?」
「婚約中に相手の尊厳を踏みにじる行為があれば、相手にも婚約を解消する権利がある。お前は自分から婚約を破棄したのだから、当然その結果を受け入れなければならない」
「そんなもの、私は聞いていない!」
「お前が契約書をろくに読まずに署名したからだ!」
グラシエルは言葉を失った。
国王は、深く息を吐いた。
「もう、お前を王太子として扱うことはできない」
「な……!」
「王位を継ぐ者に必要なのは、他人を従わせる能力だけではない。自分の行いに責任を持ち、他人の話を聞き、間違いを認める能力も必要だ」
「私は王太子ですよ!」
「だからこそ、許されないのだ!」
国王は立ち上がった。
「今日から、お前は王宮を出て暮らせ。自分で生活し、自分で人間関係を築き、自分の行いがどのような結果を生むのかを学んでこい」
「父上! お待ちください!」
「待たん!」
グラシエルは、その日のうちに王宮から追い出された。
持ち出せたのは、わずかな私物と、当面の生活に必要な最低限の金だけだった。
王族としての身分は残されたものの、王宮の権威も、召使いたちの世話も、父の庇護も失った。
そして、彼が真っ先に頼ろうとしたミレーヌ嬢は、彼のもとを去った。
「だって、あなたが王太子でなくなったら、私と結婚する意味がないでしょう?」
彼女はそう言い残したという。
グラシエルは怒り狂ったが、彼女を引き止めることはできなかった。
彼はようやく、自分が周囲の人々から何を得ていたのかを知り始めた。
誰もが自分を愛していたわけではない。
王子という立場に従っていただけの人間もいた。
そして、自分の性格を知ったうえで、それでも支えようとしてくれた人間を、自ら追い払ってしまったのだ。
もっとも、彼がその事実を素直に認めるまでには、ずいぶんと時間がかかったらしい。
***
数か月後。
私は父から、グラシエル王子の近況を聞いた。
「今は王都の外れで暮らしているそうだ。仕事を探しているらしいが、なかなかうまくいかないようだな」
「そうですか」
「……少しは気になるか?」
私は紅茶を一口飲んだ。
「いいえ。もう婚約者ではありませんから」
「冷たいな」
「お父様。私は三年間、十分に温かく接したつもりです」
父は苦笑した。
「それもそうだな」
私は窓の外を眺めた。
婚約破棄をした王子が、家から追い出された。
少しばかり気の毒に思わなくもない。
けれど、私は彼の母親でも、教師でも、ましてや人生の責任を負う者でもない。
彼がこれからどんな人間になるのかは、彼自身が決めることだ。
「さて、お父様。次の縁談のお話ですが」
「ああ。今度はお前の希望を最優先にしよう」
「そうしてくださいませ。もう、誰かのために無理をする婚約はごめんですから」
私は笑った。
今度こそ、自分の人生を自分のために生きよう。
誰かの失敗を背負うのではなく、誰かの期待に応えるためだけでもなく。
ただ、自分で選んだ道を歩くために。




