雨のち晴れ ──理奈という子の軌跡──
以前書いたノンフィクション小説のリライト版です
プロローグ:熱帯の雨音に揺られながら
タイの空は、泣き出しそうなほどに厚い雲に覆われている。
窓の外で降り始めたスコールが、マンションのベランダを激しく叩いている。かつての私なら、この雨音を聞くだけで「一生、晴れる日など来ないのではないか」と、暗い底に沈み込んでいただろう。
机の上には、数種類のお薬。これらが今の私の、穏やかな日常を守る杖だ。
三十歳を過ぎて、私は初めて「自分の取扱説明書」を手に入れた。ADHD(注意欠陥多動性障害)、そして双極性障害。これまで自分を苦しめてきた「そそっかしさ」も「生き急ぐような衝動」も、すべてに名前があったのだと知った時、私は鏡の中にいる自分と、ようやく握手できた気がした。
この物語は、理奈という一人の女の子が、土砂降りの雨の中を、泥だらけになりながら歩き続けた三十数年の記録だ。
いじめ、鬱、登校拒否、転職、失恋、借金、そして自己破産……。
約三十年で二度、自殺を考えた。けれど、現在はこうして平穏な家庭を築けている。誇張なしに、淡々と綴っていこうと思う。
国語力など大してないけれど、いつ不慮の事故で死んでもいいように、自分の軌跡を残しておきたい。
熱帯の湿った風を感じながら、私はゆっくりと記憶の糸を解き始めた。
第一章:〇歳〜一二歳
私が生まれたのは一九八五年。
中学生の頃、母から聞いた出生の秘密はあまりに衝撃的だった。
「そもそもがね、理奈ができたから結婚したのよ」
妊娠が先で、その後に結婚したという事実。今でこそ授かり婚と言われるが、当時は「できちゃった結婚」という言葉が浸透し始めた頃だ。何よりショックだったのは、父から「それがなかったら、こんな女と結婚しなかった」と愚痴をこぼされていたことだった。思春期の私は、自身の存在価値を疑うようになった。
母子手帳にはさらなる謎があった。表紙には「高田理奈」。
中を見ると、私より一学年上の日付で、四二〇〇グラムの女児の記録が二重線で消されていた。母の字だった。
母が言うには、当時吹奏楽部の一個上の先輩だった津島あさみさんが、私の種違いの姉だという。長女だと思っていた私は動悸が止まらなかった。後になって戸籍を調べると母には離婚歴があり、前夫との間に子がいたのは恐らく真実だった。
一九八四年、母が父・高田吾郎のもとに通い詰め、既成事実を作った。しかし二人は大喧嘩をし、父は書き置きを残して行方をくらました。妊娠を知った母は九州にある父の実家を訪ね、そこから慌てて籍を入れたのだという。
私は、児頭骨盤不適合による帝王切開で生まれた。
出生体重四四三五グラム。身長五三センチ。
女の子なのに、病院内でのニックネームは「曙」だった。
兵庫で「高田理奈」として二年間過ごした後、母の実家の跡継ぎ問題で父が婿養子に入ることになった。私の苗字を変えるためには家庭裁判所の許可が必要だった。
父は「いい画数だった高田理奈から不本意な岡部理奈になった」と漏らした。
名前の由来を調べた際、親から「名付け本から画数で選んだだけだ」と言われたのはショックだった。漢字自体に意味はないという。
自分の子供たちには、誇りを持てるような由来を話せるようにしたいと、この時強く思った。
一九八七年、妹の枝美理が生まれる。
私だけ二文字の「理奈」であることに、当時はコンプレックスを抱いていた。
この時の出産は、母にとって命懸けだった。帝王切開の際、妊娠高血圧症候群で大量出血が止まらなくなったのだ。「母と子のどちらを助けるか」という選択に、父は「子供を優先しろ」と即決したという。
結局、子宮全摘で二人とも助かったが、母はそのことの影響だと話していたが、ヒステリーになることもあった。当時は母をフォローする余裕などなく、私はただ「母が怒るのは私のせいではない」と自分に言い聞かせていた。
四歳の時、私立幼稚園に入園した。
片道五キロ以上の道のりを、幼稚園バスで通う。バスに乗る前はよく泣いた。まるで監獄へ運ばれる護送車に乗せられているような、どんよりとした気分だった。
給食の脱脂粉乳が非常に苦手だったこと、けろけろけろっぴのチョコをあげた小さな初恋、そして音楽隊の太鼓やマラソンが「辛い、辛い」と感じていたことばかりを覚えている。
市立小学校への入学後も、通学は過酷だった。田舎なので片道三キロを徒歩で通う。まだ水筒も持たせてもらえない時代だった。
五、六年生の頃、四・五キロの山を登った集落からタクシーで通学してくる片桐玲司くんがいた。それが羨ましくて仕方なかった。
玲司くんとはよくケンカをした。席が隣になった時は大騒ぎし、給食の牛乳を激しくシェイクされるなどの嫌がらせも受けた。私はよく泣いていた。これを「二度目のいじめ」と呼ぶことにする。
授業は退屈だった。筆箱のフタをパカパカさせ、椅子をガタガタさせては後ろに倒れて落っこちる。今思えば、周りに迷惑な子供だった。
一方で、当てられればハキハキと答え、テストも八〇点から一〇〇点を取っていた。通知表には「そそっかしさが勿体無い」とよく書かれた。
周りからは「理奈ちゃんは変わっている、普通じゃない」と言われ続けたが、当時はその意味が分からなかった。椅子や自転車、ブランコから派手に転んで、常に生傷が絶えなかった。
小学校一年の夏休みに書いた作文が、担任の付きっきりの指導で「先生が書いたような作文」として入賞した。私にはそれがつまらなかった。
それ以来、「先生に喜ばれることを書けば面倒がない」という可愛くない思考で、作文で賞を獲るコツを覚えた。たびたび賞状を貰っても、心では苦笑していた。
一度目のいじめ、相手は近所の斉藤賀世子ちゃん。小柄な私に対し、彼女は背が高く威圧感があった。
登校中には「昨日何をしたか」を事細かに話すよう命じられ、放課後は私の部屋の引き出しをチェックされ、気に入った物は「くれないとシメるよ?」と没収された。
親に相談したが相手の親に一蹴され、解決にはならなかった。
四年生の頃、勇気を出して「もう言うことを聞きたくない!」と喚いた。すると意外にも彼女は泣き出して「ママに命令されていた憂さ晴らしだった」と謝ってきた。彼女を許し、和解したが、プライベートを覗かれることはトラウマになった。五年生以降はクラスが分かれて疎遠になった。
第二章 両親と家庭環境
父・吾郎の生い立ち
父・吾郎は、静かな漁師町で七人兄弟の五男として育った。
生活は決して楽ではなかったようだ。勉強したくても「畑仕事をしろ」と祖母から拳骨を食らい、食べるものがない時は他人の畑の野菜をこっそり盗んで飢えを凌いだという。
中学卒業後、集団就職で故郷を離れた父は職を転々とした。若かりし頃の父は、当時まだ大型二輪の免許制度がなかったことをいいことに、ナナハン(七五〇cc)のバイクに跨り、スピードに溺れた。白バイを振り切るほどの無鉄砲さは、やがて大事故を引き起こし、病院のベッドの上で報いを受けることになった。
そんな父だったが、職を転々とする中で厨房に立っていた経験があり、魚を捌くのは手慣れたものだった。母に家事能力が絶望的に欠けていたため、我が家の食事や私の高校時代の弁当は、主に左官業を営む父の手によるものだった。
母・美智華の生い立ち
母・美智華は、江戸時代から続く農家の五女として生まれた。
実家である岡部家は、かつては近所から「新屋」と呼ばれるほどの家構えだったが、私の記憶にあるのはトタン壁が目立つ荒屋の姿だ。
母は、幼い頃に兄や弟を事故で亡くし、病弱な姉を持つ家庭で育った。祖母が多忙だったせいか、母はまともに家事を教わらないまま大人になった。私が物心ついた頃の母の姿といえば、洗濯物の山の前でため息をつき、父の隣で簡単な手伝いをするのが精一杯なものであった。
夏休みの昼食は、決まってインスタント麺か、油でべちゃべちゃの玉ねぎチャーハン。お中元の季節になると、茹でた素麺をわざわざ味噌汁に入れてさらに煮込んだ、どろどろの「素麺汁」が毎日食卓に並んだ。私はあの食感が、今でも苦手なままだ。
パチンコの影と、外にいた男
この家族を語る上で避けて通れないのが、ギャンブル、酒、そして借金だ。
幼稚園の頃の記憶。夕方になっても帰ってこない母を待ちながら、私は泣きながら窓ガラスの模様を指でなぞっていた。
「お母さん、帰ってこないの?」
パチンコにのめり込んでいた母は、夕方過ぎに帰宅しては祖母に叱られていた。
祖母が亡くなった後、私は親に連れられてパチンコ店へ行くようになった。玉が出たら「スーパーファミコンを買ってあげる」という言葉を信じて、爆音の中に座らされていた。
ある日、店内に飽きた私は一人で外に出て遊んでいた。少し離れた場所から、不潔な感じの男が私をじっと見ていた。
「お嬢ちゃん、オ〇〇ーって知ってる?」
直感で「危ない」と思った。私は「お母さんが待っているので行きます」とだけ言い、震える足で店内に戻った。この一件は、今も親には話していない。
膨らむ借金と、もやしの食卓
父の仕事は日当制で、雨が降れば収入は途絶えた。足りない生活費をギャンブルで増やそうとし、さらに深みに嵌る。その悪循環が我が家の日常だった。
母は訪問販売の口車に乗り、四十万円の布団や三十万円のミシンを勝手に契約した。月の手取りが十五万円程度の家庭で、借金の返済額は十万円に達していた。
食卓には、卵と炒めたもやし炒めだけが並ぶ日が増えた。私はいつもクラスで前から数番目の小柄な体格で、よく風邪を引いては寝込んでいた。
新しい服を買ってもらった記憶もほとんどない。毎日ボロボロのジャージで登校していた私に、小学校の修学旅行前、ようやく「オリーブ」の服が買い与えられた。一万円を超える会計に、父がひどく不満そうな顔をしていたのを覚えている。
それ以外は、知人からの「おさがり」だった。青い服に赤いスカートを合わせた私を、裕福なクラスメートは「恥ずかしくないの?」と嘲笑った。色彩感覚もファッションセンスも、当時の私には育つ余地などなかった。
家庭内では怒号が絶えなかった。父は何かにつけて「育ててやってる親が一番偉いんだ!」と怒鳴り散らした。
ある時、あまりに喧嘩ばかりの両親に、私は「どうして離婚しないの?」と尋ねた。父は吐き捨てるように言った。
「それはお前たちがいるから、仕方ないんだ」
私たちの存在が、父の自由を奪い、不幸の元凶になっている。そう言われた気がした。
親は平気で嘘をついた。借金の督促電話を無視し、居留守を使う。
猫の避妊手術代を惜しみ、生まれた子猫を山に捨てたと聞いた時は、絶望した。望まれぬ命を無駄に作り、無駄に捨てるその残酷さが、自身の境遇と重なって思えた。
酒とタバコの量は増える一方で、娘のバイト代にまで手を出す親。
「私はいつか、文章で世の中に訴えてやるんだから!」
泣きながら叫んだその言葉は、当時の私が持てる唯一の武器だった。
そんな劣悪な環境でも、給料日にはファミリーレストランへ連れて行ってくれた。一度だけ、砂浜にテントを張ってキャンプをしたこともあった。父なりに家族を楽しませようとした瞬間があったことも、また事実なのだ。
けれど、この貧しさと根暗さは、私を「いじめ」というさらなる雨の中へと追い込んでいくことになる。
第三章 暗い中学時代
憂鬱なチューバと、重い足取り
中学に入り、私は吹奏楽部に入部した。運動が苦手な私にとって、文化系というだけで消去法的に選んだ場所だった。
マウスピースを吹くテストで「筋がいい」と先輩に褒められ、断れないまま担当はチューバに決まった。しかし、ひ弱な私にとって二十キロ近い楽器はあまりに重すぎた。
本当はフルートのような軽やかな楽器に憧れていた。けれど、誰もやりたがらない重いチューバを、気の弱い私に押し付けたのではないか。合奏のたびに顧問の新里先生から「やる気あるの!」と怒鳴られ、私は心の中で「あるわけない」と毒づきながら、ただ謝るしかなかった。
三度目のいじめと、飛んできた雑巾
中学生活に慣れ始めた一年の初夏、再びいじめが始まった。相手は文村、堀川、六谷の三名。彼らは直接話しかけてくるのではなく、聞こえるように陰口を叩くタイプだった。
「おかぶ~、くっさ!」
「奥さん、お〜くさん、お〜くっさん、お〜、くっさ!」
彼らは私の苗字「岡部」をもじった「おかぶー」「奥さん」という呼び名と、「くっさ」という言葉をセットにして、鼻をふさぐジェスチャーを繰り返した。
私は本当に臭っていたのかもしれない。家庭の事情で洗濯物はいつも生乾きで、ストレスによる口臭もあっただろう。けれど、それを面白がる彼らの目は、私を人間ではなく、ただの反応を楽しむ「オモチャ」として見ていた。
決定的な事件は、廊下で起きた。背後から冷たく濡れた雑巾が飛んできて、私の頭を直撃した。
「あ、すいません!……プププッ」
ニヤニヤと笑う彼らを見て、視界が真っ黒になった。自分という存在が完全に否定された気がした。死んで逃げたい。遺書に彼らの名前を書けば、後悔してくれるだろうか。これが一度目の自殺願望だった。
失敗した登校拒否
ある朝、ついにキャパシティを超え、布団から起き上がれなくなった。
「登校拒否をします、って伝えておいて」
親にそう告げ、安堵したのも束の間。担任の久保先生が血相を変えて自宅へ乗り込んできた。
「俺がどうにかするから、とにかく学校に来い!」
拒否権などなかった。無理やり車に乗せられ、泣きながら保健室へ連れて行かれた。先生は「三人を校長室で叱っておいたから安心しろ」と言ったが、私にとって先生の介入は、優しさというよりノーを許さない脅迫のように感じられた。
父からは「いじめっ子なんて殴ってしまえばいいんだ」と言われた。それが正論だとしても、当時の私にそんな気力は一ミリも残っていなかった。
現実逃避としての非行
いじめの嵐が過ぎ去った後、私は心の空洞を埋めるように、同じ吹奏楽部の友人たちとつるむようになった。そして、スリルを求めて万引きという罪に手を染めた。
ストレスから逃げたい、誰かと連帯していたい。そんな浅はかな理由だった。五人で始めたお菓子の万引きは、やがて誰が一番多くパクれるかという競争にまで発展した。
当然、長くは続かなかった。ある夜、学校へ呼び出され、親の前でこっぴどく叱られた。店側の温情で警察沙汰にはならなかったが、帰宅後、父が悲しい目で放った言葉が胸に刺さった。
「人間どんなに落ちぶれても、お天道様に顔向けできないようなことはするな」
この言葉は、今でも私の倫理観の根底にある。
「理奈が誘ったからこうなった」と陰で囁く友人たちの視線に耐えきれず、私は一年の三学期に部活を辞めた。
二年、虚無と抜毛症
二年生の頃の記憶は、霧の中にいるように曖昧だ。
クラスの誰も信じられなくなり、自室で無意識に自分の髪の毛を抜き続ける「抜毛症」を発症した。眉毛もまつ毛も一切なくなり、頭には不自然な禿げができた。
精神科へ通い始めたが、そこで受けた言葉はさらに私を追い詰めた。
「勝手に涙が出るなんて普通じゃないよ、おかしい」
医師のその一言に絶望した。お金ばかりがかかる通院に罪悪感を感じ、私は自分から通院を辞めた。「自分で強くなるしかない」と、どこか吹っ切れた瞬間だった。
ちなみに当時の診断書には転換性障害とあった。記憶が飛び飛びなのもそのせいなのだろう。
三年、N高校への執念
中学三年の冬。私は「今の自分を知っている人間が一人もいない新天地」へ行くことを決意した。志望校は、少し離れた総合学科のN高校。
担任の大坪先生は、「うちは誰も行ったことがない学校だ。満点を取るくらい頑張らないと無理だぞ」と突き放した。
けれど、その言葉が私の心に火をつけた。
暗かった自分を捨てたい。その一心で、三年間分の勉強を頭に叩き込んだ。模試では学年二位をキープし、本番の入試でもほぼ満点を取った。
合格発表の日、大坪先生に報告に行くと、先生は進学校に受かった生徒たちの輪にいた。私の報告には「当たり前だ」と言わんばかりのそっけない態度だった。後で知ったが、N高校はそこまでの難関校ではなかった。先生は私を遠ざけたかったのか、あるいはただのスパルタだったのか。真相は分からないが、あの時の悔しさが私を合格へ導いたことだけは確かだった。
卒業を前に、音楽室の廊下で新里先生が声をかけてくれた。
「最近の理奈さん、なんだかとってもキラキラしてる気がするわ。今の理奈さん、素敵だと思うよ」
ずっと「おかしい」「普通じゃない」と言われ続けてきた私にとって、初めて自分を肯定してもらえた言葉。
私はその言葉を握りしめ、雨の降りしきる中学という檻を後にした。
第四章 友達に恵まれた高校時代
期待に胸を膨らませた新生活
N高校は、私を知る人間が誰もいない新天地だった。
中学までの「暗い岡部さん」というレッテルを脱ぎ捨て、ありのままの自分をさらけ出すチャンスだ。そう思うと、期待で胸が震えた。
通学は決して楽ではなかった。片道八キロの道のりを自転車で漕ぎ、そこからさらに電車に二十五分揺られる。けれど、その距離さえも私にとっては、忌まわしい過去から遠ざかるための必要な儀式のように思えた。
高校生活の滑り出しは順調だった。一学期に派手な女子グループから一週間ほど嫌がらせを受けたが、担任に相談するとすぐに収まった。中学のあの地獄に比べれば、さざ波のようなものだった。
クラスで最初に話しかけたのは、梨子ちゃんという子だった。
「ねえ、一緒にトイレ行かない?」
そんな他愛のない会話から始まり、連れ立って廊下を歩く。中学時代、孤立していた私にとって、そんな「普通の女子高生」らしい振る舞いが、たまらなく誇らしかった。成人して再会したとき、彼女から「あの時、理奈ちゃんに話しかけてもらえて本当に嬉しかったんだよ」と言われたときは、胸の奥が熱くなった。
放送部と文芸部──居場所を見つけた日々
部活は放送部を選んだ。運動会の放送で声を褒められた経験があったし、マイクを通して言葉を届けることに、どこか快感を覚えていたのだ。
入部してみると、部員たちの多くは眼鏡をかけ、どこか内気な印象だった。けれど、蓋を開けてみれば皆朗らかで、アニメやゲームの話題で盛り上がる。共通の趣味を持つ仲間に囲まれ、放課後の部室は私にとって唯一の安らぎの場となった。アナウンスの県大会に向けて皆で腹筋トレーニングに励んだり、文化祭の司会を任されたり……。忙しくも、自分の声が誰かに届く実感があった。
一方で、なぜか文芸部の部長まで掛け持ちすることになった。放送部でマイク慣れしているからと、友人の篠田に押し付けられたのだ。
文芸部とは名ばかりで、私は顧問の美人な先生を困らせることに楽しみを見出していた。提出を求められるたびに、わざと趣味の悪い、おどろおどろしい創作文を書いて出すのだ。先生が引きつった顔で原稿を読み、私がそれをニヤニヤしながら眺める。そんな歪んだコミュニケーションさえも、当時の私には「自分を表現する」手段の一つだった。
圧倒的な得意科目と、見えない将来
勉強の面では、高一の頃はまだ余裕があった。
特に化学は、教科書の内容がすんなりと頭に入った。あるテストで、平均点が五十二点という難易度の中、私は九十八点を取った。学年一位。ケアレスミスさえなければ満点だったはずの結果に、私は人知れず優越感に浸った。
けれど、高二に上がる頃、周囲が「将来の夢」を語り始めると、私の心には影が差し始めた。私は自分のやりたいことが分からなかった。ただ学校に来て、友達とはしゃいで、現実を忘れているだけで良かったのだ。
それでも、家に来る借金の督促から逃れるように、「弁護士になりたい」という極端な目標を掲げたことがあった。借金に苦しむ人を救いたい――それは希望というより、わらにもすがる思いだったのかもしれない。
大学進学を夢見て、進学コースを選んだ。けれど、現実は無情だった。奨学金を借りようにも、両親は共に金融ブラック。学費の工面すら絶望的な状況であることを、私は少しずつ悟り始めていた。
公園での叱咤──「甘えんなよ」
ある日の放課後、私は同じ放送部の栗崎に、やり場のない不安を打ち明けた。
「ねえ、栗崎……私、大学に行きたいんだけどさ。家が借金だらけで、督促の電話や訪問が毎日ですごくて……勉強に集中できないんだ」
同情してくれるだろうと思っていた。けれど、彼女の返答は予想外に厳しいものだった。
「……言いたいことはそれだけ?」
栗崎は、怒りに満ちた目で私を射抜いた。
「甘えんなよ! うちだって、お母さんが看護婦で必死に働いて、住宅ローンを返してるんだよ。私は先生になりたくて、勉強するしかないから頑張ってるんだ。借金があるから勉強できないなんて、ただの言い訳だよ!」
彼女の言葉は正論だった。けれど、住宅ローンを組めるだけの信用がある家庭と、自転車操業で崩壊しかけている我が家を同列に語られることに、私は言葉を失った。栗崎は彼女なりの熱意で励ましてくれたのだと分かっていた。けれど、私の心はしんと冷え込んでいった。
現実逃避としてのネット恋愛──カールの罠
家では電話が鳴り続け、玄関を叩く音が響く。そんな現実から逃げるように、私は当時流行っていた携帯サイトのコミュニティにのめり込んだ。ハンドルネームは「リィナ」。そこで出会ったのが、管理者である二十四歳の社会人、カールだった。
深夜の「テレホーダイ」の時間、暗い部屋で画面を凝視し、カールとチャットを交わす。彼は時に厳しく私を説教し、時に優しく声をかけてくれた。
「あー、仕事終わった。疲れたぁ」
そんな電話の声に胸を高鳴らせ、
「俺たち、離れていても今同じ月を見てるんだな」
なんてクサい言葉を真に受けて、私は彼に夢中になった。成績は急降下し、数学で赤点を取り、ついには「カールと結婚すればいい」という浅はかな思い込みで、二学期の初めに退学を決意してしまった。
引きこもり、登校を拒否する私を救ってくれたのは、先生と、家まで駆けつけてくれた友人たちだった。
「理奈ちゃんが辞めるなんて絶対嫌だ!」
泣いて引き止めてくれる彼女たちの姿に、私の凍りついた心が解けた。私はもう一度、卒業を目指すことを決めた。
けれど、その直後にカールからの裏切りが待っていた。
彼に新しい彼女ができたことを知り、問い詰めた私に、彼は冷酷な言葉を投げつけた。
「お前が勝手に勘違いしてただけだろ。もう電話してくるな」
さらに追い打ちをかけるように、彼とその彼女は私をチャットの別室に呼び出し、嘲笑った。
「リィナ、カールは実は女だよ? レズビアンなの。あんたには無理だよねwww」
それが嘘か本当かなど、どうでもよかった。信じていた世界が音を立てて崩れ、私は呼吸が止まるほど泣き狂った。
三百八十五万円という数字の重み
失意の中で、私は親に詰め寄った。一体、我が家にはいくらの借金があるのか。
書き出されたメモを見て、私は眩暈がした。
消費者金融三社、信販二社。元金だけで合計三百八十五万円。
当時はグレーゾーン金利の時代で、利息は二十九・二%、延滞利息は四十%に達していた。月の返済額は十万円を超え、手取り十五万円の父の給料では、返せば返すほど借金が膨らむ地獄だった。
電気や電話が止まるのは日常茶飯事。米さえもツケで買い、支払いに行き詰まっていた。
大学進学など、初めから夢のまた夢だったのだ。
友達が眩しくて、自分が惨めで仕方がなかった。けれど、私はあの時引き止めてくれた友人たちの顔を思い出し、なんとか数学の補習を受け、ボロボロになりながらも高校卒業という切符だけは手に入れたのだった。
第五章 転職続き失恋続き
土地買収と、束の間の安寧
高校卒業後、私は地元のドラッグストアでアルバイトを始めた。時給七百円。片道三・五キロを自転車で通う日々。仕事は決して楽ではなかった。特に倉庫から重いおむつのケースを運び出す作業は、体力の乏しい私には過酷だった。何度も脚立から転げ落ちそうになりながら、自分の無力さを噛みしめていた。
そんなある時、実家に思いもよらない転機が訪れた。県道建設のために、家の一部と畑が買収されることになったのだ。買収額は五百万円。それは我が家にとって、天から降ってきた救いの蜘蛛の糸だった。借金は一括返済され、壊れかけの冷蔵庫は買い替えられ、私の運転免許の費用も捻出された。
ようやく、雨が上がるのだと思った。けれど、ギャンブルという病に侵された両親にとって、その金はさらなる火に油を注ぐものでしかなかった。数年も経たぬうちに金は消え、父と母はまた、かつての自転車操業へと戻っていった。
京都の雨と、壊れた携帯
その頃の私は、束の間の自由を謳歌しようとしていた。京都の大学に通う親友、篠田の家へ十日間ほど滞在し、大好きなアーティストのライブを追って静岡や大阪を巡ったのだ。
静岡のライブ当日、某公園は台風の影響で激しい雨に見舞われていた。膝まで水に浸かりながら、全身ずぶ濡れになって音楽を聴いた。カバンの中で携帯が水没して壊れ、篠田ともはぐれてしまった。暗闇の中で泣きそうになったが、それでもあの時の「今を生きている」という熱狂だけは、私の心に鮮やかに残っている。
「頭がおかしいんじゃないの?」──繰り返される拒絶
九州に戻った私は、自立を求めて工場の派遣社員となった。市外の寮に入り、製品のエラーを目視でチェックする仕事に就いた。しかし、ここで私は自分でも理解しがたい「壁」にぶつかった。
何度教えてもらっても、数ミリの形の差を見分けることができない。一時間ごとのミスはリミットを超え、リーダーの叱責は日に日に激しさを増した。そして最後の日、彼女は冷酷にこう言い放った。
「こんな簡単なこともできないなんて、頭おかしいんじゃないの?」
その一言で、私の糸はぷつりと切れた。
私は、自分が正常な人間ではないことを突きつけられた気がした。翌朝、姿を消すことを詫びた書き置きを寮に残し、私は逃げるように実家へ戻った。
その後も、飛び込み営業、パチンコ店、家具屋の事務……。必死に食らいつこうとするたびに、私のADHD的な「そそっかしさ」が仇となった。
家具屋の事務では、お局さんから強烈なビンタを食らった。「前の人の方が良かったわ」と毎日比べられ、自分なりに考えた宣伝文句を口答えだと受け取られたのだ。
頬の熱さが引かないまま、私はその日、給料袋を握りしめて県外へ逃亡した。内容証明で「探さないでください」と退職願を送り、一年の引きこもり生活に入った。
三輪バイクと、一瞬の恋
引きこもりから脱却するために選んだのは、メール便の配達員だった。三輪バイク(スリーター)に乗って、風を切って走る。この仕事は、不思議と私の性に合っていた。
研修中、アクセル全開にしてバイクだけを走らせてしまったり、田んぼの溝に落ちたりもしたが、職場の人は温かく、私は初めて「仕事が楽しい」と感じることができた。事故を起こさないための安全運転の基礎を教わった。
プライベートでも、人生で初めて「ちゃんとしたお付き合い」をした。けれど、私の束縛とワガママが原因で、その関係はわずか二週間で終わった。
「どうして私の傍から、男の人は逃げていくんだろう」
絶望の中、私はさらに自分を追い詰める「選択」をしてしまう。ネットで見つけたリボ専用カード。月々の支払いが一定という甘い言葉に誘われ、私は無知なまま、借金の迷宮へと足を踏み入れた。
愛知への渡航、そして度重なる疲労からの帯状疱疹
二〇〇八年の春。私はカードで支払った車に乗り、愛知県のパチンコ派遣へと向かった。
しかし、現実は労働基準法無視の過酷な職場だった。休憩はフルタイムなのに十五分一度きり。ドル箱の上げ下げで身体は悲鳴を上げ、ついに極度の疲労から帯状疱疹を発症した。若い人が発症するのは、主に極度の疲労が原因だという。
そのまま六日間の入院が決まった。パジャマを取りに戻るためのわずか二キロの道のりが、果てしなく遠く感じられた。痛みで自転車を漕ぐこともできず、泣きながら一時間半かけて歩いた。
病室で一人、点滴の針を見つめながら、私は孤独と痛みに耐えていた。けれど、その間も私の心は、ある一人の男に救いを求めていた。
モリッペ──画面越しの幻想と、虚しい夜
その男、モリッペとは、一年間の引きこもり生活中にのめり込んだオンラインゲームで知り合った。爽やかな好青年という印象で、愛知に来てから一度だけ会ったことがあった。彼には現実に彼女がいることを知っていたが、遠い異郷の地で、本名も知らない彼だけが私の唯一の「繋がり」のように思えていた。
入院前、彼を私の部屋に招いた夜のことを思い出す。カラオケに行き、部屋で酒を飲んだ後。ベッドに入った彼は、私の下着の上から三〇分以上も体を触り続け、それ以上のことは何もせず、そのまま朝を迎えた。
「触らないと失礼だと思った」
それが彼の言い分だった。キスもなければ、愛の言葉もない。ただ「物」のように扱われただけの時間。彼女がいる彼にとって、私はその程度の暇つぶしでしかなかったのだ。
入院中、痛みに震えながら「お見舞いに来てほしい」とメールを送ったが、返信はなかった。
退院後、私に残されたのは膨れ上がったクレジットカードの支払いと、孤独な体。仕事はクビになり、頼れる人は誰もいない。
病室のベッドでネットを漁り、私は「寮付き・未経験歓迎」の求人を見つけた。もう、これしかないと思った。
辿り着いたのは、愛知県内の場末のようなバーだった。
仕事は、男性客の隣に座ってお酒の相手をすること。酔っ払ったオジサンから、当然のように胸を触られる。不快感がないわけではなかったが、当時の私の心はすでに死んでいた。
「好きな男から下半身を触られて、結局何も進展がなかったのだから。知らないオジサンに胸を触られるくらい、もうどうだっていい……」
そんな風に自分に言い聞かせ、ヤケになっていた。自分の体を「安売り」することで、かろうじて現実を生き抜くための現金を手にしていた。
けれど、夜の世界も甘くはなかった。最低時給が保証されるのは最初だけで、指名や売り上げがなければ手取りは二十万円にも届かない。慣れないお酌と下卑た視線に晒されながら、私は自問自答を繰り返していた。私は一体、何をしているのだろう、と。
おうちデート七日目の絶望
そんな暗闇のような日々の中で、一人の若い客に恋をした。隆祐という名の彼は、自分の大きな車を照れくさそうに自慢する、どこか憎めない男だった。
彼との時間は、私にとって唯一の救いだった。彼の家でデートを重ね、愛の言葉を交わし、身体を重ねた。今度こそ、本当の幸せを掴めるのではないか。私は勇気を振り絞って彼に告げた。
「私を、本当の彼女にしてほしい」
返ってきたのは、想像を絶する冷たい沈黙だった。
「悪いけど、付き合う気はないよ」
水商売の女なんて、所詮は遊び相手。そんな残酷な現実を突きつけられ、私はその場で泣き崩れた。
モリッペ、そして隆祐。なぜ、男たちは私の体だけを奪って、心を見捨てていくのか。私はその程度の価値しかない人間なんだ。
ボロボロになった心と体を引きずりながら、私は次の仕事、そして運命の出会いへと向かっていく。
「よーちん」との出会い──人生の雨が上がる時
そんな絶望の果てに出会ったのが、現在の夫である。
婚活サイトで知り合った彼は、私より七つ年上。最初は好みの顔ではないと思っていたが、初めて一緒に行ったハンバーグ店の味とともに、私の心は彼に惹きつけられていった。
彼は、あまりに優しかった。私のすべてを包み込むようなその穏やかさに、私は「帰りたくない」と泣いて彼を困らせた。
「これまでの辛い経験があったからこそ、今がより輝いているのかもしれないよ」
彼はそう言って、私の過去を肯定してくれた。家事能力の乏しかった私にお米の研ぎ方や包丁の握り方から丁寧に教えてくれ、根気強く自立を支えてくれる彼の優しさに、私は生まれて初めて「本当の居場所」を感じていた。
私は夜の仕事を辞め、彼と同じ市内にレオパレスを借りた。けれど、車代金、入院費、無職期間の生活費や引っ越し代で、私のリボ払い返済額は月2.7万円を超え、ついに限界を迎えていた。
自己破産と、再生への誓い
名古屋のコールセンターに勤め始めたが、やはりミスを連発し、品質管理のリーダーから「お水じゃないんだから」と蔑まれた。
初任給の明細を見た時、私は目の前が真っ暗になった。社会保険料を引かれた手残りは、家賃と定期代とリボ払いの返済を合わせれば、一円も残らない計算だった。
「もう、死ぬしかない」
二度目の自殺願望が頭をもたげた。けれど、私は最後の力を振り絞って、ネットで見つけた弁護士事務所の門を叩いた。
「岡部さんの場合は、自己破産ですね」
その言葉は、屈辱であると同時に、長い雨からの解放でもあった。
私は意を決して、彼にすべてを打ち明けた。自己破産の手続き中であること。彼は驚いたようだったが、突き放すことはしなかった。
「親元に戻るのが無理なら、うちに来ればいい」
二〇〇九年三月。私はコールセンターをクビになり、彼のアパートで同棲を始めた。
二十四歳。私は多くのものを失い、そして、たった一つの、かけがえのない「居場所」を見つけたのだった。
第六章 小松原理奈
喧嘩の果てのプロポーズ
二〇〇九年四月八日。
同棲を始めて間もない頃、私たちの関係に激震が走った。きっかけは、彼の携帯に残っていた、別の女性へ連絡を取ろうとした形跡を見つけてしまったことだった。
「信じられない! こんなの嫌!」
私は激しく取り乱した。過去の失恋の傷が、不信感となって溢れ出した。一方の彼は、連絡を取ろうとしただけで何の実体もないこと、もう二度としないことを必死に訴えていた。
重苦しい沈黙と応酬の末、彼が呆然とした様子で口を開いた。
「それじゃ、結婚、する?」
「……うん」
浮気疑惑からのプロポーズ。今振り返っても、これほど波乱に満ちた流れはないと思うが、私はその言葉に、自分を繋ぎ止めてくれる確かな「約束」を見た気がして、二つ返事で頷いた。
私は、自分の考えや感情を飲み込むのが嫌だった。親が仮面夫婦だった反動もあり、彼とは腹を割って話し合いたかった。だからこそ、私たちの毎日は穏やかなだけではなかった。互いに血の気の多い性格で、口喧嘩もしょっちゅうだった。けれど、どんなに激しくぶつかっても、彼は私を見捨てなかった。その度重なる「許し」の積み重ねが、私たちの絆を「夫婦」へと変えていった。
新居への引っ越しと、小さな兆し
入籍を控え、私たちは新居探しを始めた。単身寮扱いだった彼のアパートから出る必要があったからだ。
マンションもいくつか見学したが、最後に訪れた市内の一戸建てに、私たちは「これだ!」と直感した。当時の彼の年収は七百万円を超えており、ローン審査も難なく通った。(その後、家を買って子供が生まれる頃、リーマンショックで残業カット、ボーナスカットとなり五百万になる)マンションの二倍以上の広さがある一軒家。将来、子供が生まれたら、のびのびと育てられるだろう。迷いはなかった。
二〇〇九年十月。私はついに「岡部理奈」を捨て、「小松原理奈」になった。
新しい家、新しい苗字。すべてが新しく塗り替えられていく中で、私の身体にも密かな変化が訪れていた。引っ越しの段ボールを運んでいたその時、すでにお腹の中には、小さな命が宿っていたのだ。
長男の誕生──命を削る出産
新生活が始まってすぐ、私は妊娠に気づいた。エコー写真の結果を手に、ワクワクしながら報告した私に、彼は信じられない言葉を返した。
「えっ……冗談じゃない?」
彼のその一言に、私は激昂した。
「今ここで一生懸命生きようとしている命があるのに、よくもそんなことが言えるわね!」
彼にしてみれば、あまりに急な展開で心の準備ができていなかったのだろうが、当時の私には許しがたい暴言だった。
妊娠期間中は、凄まじいつわりとホルモンの乱れに翻弄された。食べづわりも重なり、体重は二十三キロも増加した。
二〇一〇年。出産は、三日間に及ぶ壮絶な戦いとなった。微弱陣痛が続き、分娩が進まない。陣痛促進剤の強制的な痛みは、身体を内側から引き裂くような恐怖だった。
十四時四十七分。ようやく長男が誕生した。けれど、安堵の直後、私は激しい出血に見舞われた。
弛緩出血。子宮が収縮せず、血が止まらなくなったのだ。
意識が遠のく中、助産師たちが私のお腹を力任せに押し、止血を試みる。あまりの激痛に身体が跳ねた。気がつけば、膣壁の裂傷をホッチキスのようなもので縫われていた。出血量は二リットルを超えていた。
翌日、私の血液検査の結果を見て、助産師が血相を変えた。
「小松原さん! 数値が五・七(Hb)です。今日から移動は車椅子ですよ。交通事故に遭った人並みの数値です」
交通事故並みの貧血。車椅子移動前の出産当日は、歩こうとするだけで意識が薄れ、廊下の手すりに縋り付いてようやく息をする状態だった。母乳の出も悪く、夜中に泣き続ける息子を前に、私は自分を責め続けた。
「母親失格だ」
心身ともにボロボロになりながら、私の「母」としての歩みは始まった。
年子の次男、そして三男への長い道
長男がまだ生後八ヶ月の時、次男の妊娠が発覚した。いわゆる年子である。
長男の時よりも酷いつわりに苦しみ、なぜか朝食にレトルトカレーばかりを欲した。後に生まれた次男が熱狂的なカレー好きになったのを見て、私たちは「お腹の中で自分で求めていたんだね」と笑い合った。
次男の出産は、長男の時が嘘のように早かった。病院に到着してからわずか一時間半、七時十八分の誕生だった。
それから、三人目の子を授かるまでには、四年の月日を要した。
「三人目不妊」という言葉が頭をよぎり、毎月肩を落とす日々。ようやく三男を授かったのは、私が三十歳になる直前だった。
三男の分娩もまた、有効な陣痛が来るまでに丸三日を要した。廊下をぐるぐると歩き続け、疲れ果てた頃。旦那が分娩室に入ってきた途端、まるで彼を待っていたかのように陣痛が強まり、わずか二十分で息子はこの世に滑り出してきた。
三男を取り上げた医師が、私の下半身を見てボソリと呟いた。
「あぁー、こりゃダメだね」
三人分の「いきみ」に耐え抜いた私の肛門は、限界を迎えていた。その代償は、数年後の手術という形で支払われることになる。
借金に震え、男たちに翻弄され、自分の価値を見失っていた「岡部理奈」は、もういない。
三人の息子たち。賑やかで、時に息が詰まるほど大変な毎日。
私は、命をかけて産み出した三人の息子たちの母であり、私を丸ごと受け止めてくれた旦那の妻、「小松原理奈」として、新しい人生の土俵に立っていた。
第七章 エトセトラ
鏡としての親族──酒と金と不倫と
私が生まれ育った「岡部家」の周辺には、いつもドロドロとした人間関係の澱が溜まっていた。
中学生の頃、母の長姉である伯母が事故で亡くなった。飲酒した状態で原付を運転し、大型タンクローリーに衝突したのだという。その葬儀の席で、母や他の伯母たちが口にしていたのは、故人への悼みではなく、罵詈雑言だった。
「あのタヌキババァ、死んでせいせいしたわ」
「本当にクソババァだったわね」
子供の私から見ても、それは醜悪な光景だった。故人が建てたささやかな家を妬み、祖母の五十万円程度の遺産分割を巡って、介護がどうだ、誰が家を守っただと、血を分けた姉妹が骨肉の争いを繰り広げていた。
おまけに、いとこのお姉さんは不倫の末に服薬自殺を遂げた。酒、金、浮気……。私の親族には、自らを滅ぼす種を抱えた人間が多すぎた。
だからこそ、結婚して初めて義理の両親に会った時、私はその温かさに打ちのめされたのだ。
「理奈ちゃんのことは全部、認めているからね。大丈夫だよ」
そう言って笑う義父母。相手のいないところで悪口を言い合わないのが「普通の家族」なのだと知った時、私はようやく、自分がいた場所がいかに異常だったかを理解した。
海外挙式の屈辱、そして絶縁
二〇一〇年。私たちは両家を招いて海外挙式を行った。妊娠六ヶ月、長男がお腹にいた私は、幸せの絶頂にいるはずだった。けれど、その式は両親の恥ずべき振る舞いによって、私にとって一生の傷となった。
母は「足が痛い」と観光を拒否し、花嫁を差し置いて白いワンピースを着て現れた。食事の席ではクチャクチャと下品な音を立てて食べ、周囲の目を凍りつかせた。
ホテルに戻り、私は耐えかねて父を電話で問い詰めた。
「どうしてそんなに偉そうでいられるの! 今回の挙式は私の旦那とご両親が三百万円も出してくれてるのよ。どうして謙虚でいられないの! 恥ずかしくないの!」
返ってきたのは、身勝手な逆ギレだった。
「田舎者なんだから、それを相手に伝えろ。それで許されるはずだ」
あまりの言い分に、私は電話口で泣き叫んだ。
「おかしいよ、この人おかしいよ……! 孫も見たくないって怒鳴ってる!」
その日を境に、私は実家との縁を切った。長男が生まれても写真は送らず、存在を消した。けれど、そんな私を見兼ねた義父が「実の親子がいがみ合うのは良くないよ。どうか許してあげなさい」と背中を押してくれ、数年後、私はようやく長男と次男のアルバムを実家へ送ることができた。
診断名という名の「杖」──ADHDとの出会い
三十代になり、私は長年の「生きづらさ」の正体と向き合うことになる。
二〇一八年六月から、私は派遣社員として一般事務の仕事に就いていた。今度こそ雇われて誰かの力になりたい、その一心でやる気は満々だった。けれど、どれほど気を引き締めても、不注意によるミスが重なってしまう。優先順位がつけられず、仕事ばかりが積み上がっていく。
職場で感じる「自分はダメな人間だ」という強い自己否定感。追い詰められた私は、二〇一九年三月、藁をも掴む思いで心療内科の門を叩いた。下された診断名は「ADHD」。
ようやく、私のこれまでの「そそっかしさ」に名前がついた。職場の仲間に迷惑をかけたくない、何より支えてくれる家族のためにまともな自分になりたい。そう願い、ストラテラ、そしてコンサータの服用を始めた。
けれど、現実は残酷だった。薬を飲んでも劇的な改善は見られなかった。私の感覚では、マイナス五〇だった世界がマイナス四〇程度に底上げされただけに過ぎなかった。ミスは完全には消えず、期待したほどの効果は出ない。
そして二〇一九年五月。派遣の更新はなし、という通告を受けた。実質上のクビだった。
「薬を飲んででも頑張りたかった。けれど、それでも私は社会に必要とされなかった」
その事実は、私を深く、暗い淵へと突き落とした。
失意の中、自分の脳が抱える「凸凹」をより客観的に知るために受けたのが、心理検査(WAIS-IV)だった。結果は全検査IQ112。言語理解が119と高い一方で、ワーキングメモリー(数唱8、算数13、語音整列8)に著しい不得意が見られる。「能力不足ではなく、脳の特性によるものだ」という客観的な数値を見て、私はようやく自分を責める手を、少しだけ緩めることができた。
痔の手術と、タイへの赴任
ADHDの診断と並行するように、夫のタイ赴任の話が持ち上がった。
渡航を前に、私はもう一つの懸念事項を片付けることにした。三度の出産で悲鳴を上げていた「痔」の手術だ。(床に座っているだけで出血していた)
二〇一九年、私は豊田市の家田病院に入院した。
手術中、医師と交わした冗談のような会話。
「今、小松原さんの肛門をバッサバッサと切っているところですよー」
「えーっ! 全然分からないです」
腰椎麻酔の合併症である激しい頭痛に耐えながら、私は一歩ずつ、自分を「メンテナンス」していった。新しい国へ行く準備は、身体の修繕から始まった。
タイでの嵐、そして「双極性障害」の確定
二〇二一年二月。コロナ禍の重苦しい空気の中、私たちは家族帯同でタイへと渡った。
タイ・バンコクの病院で処方されたのは、日本では認可の厳しいリタリンだった。それが私の脳には驚くほどフィットし、世界は少しずつクリアになっていくように思えた。
けれど、環境の変化と隔離生活のストレスは、私の心の深い部分を静かに蝕んでいた。
ある夜、抑え込んでいた感情が爆発した。自分を責める叫びが頭の中を支配し、私は無意識にキッチンの包丁を握りしめていた。
「もう、終わらせたい」
そのままマンションのベランダから飛び降りようとした私を、夫が力任せに抱き止めた。
「子供はどうするんだ!」
彼の絶叫で、私はハッと我に返り、その場に泣き崩れた。
この事件が決定打となった。タイの医師により書かれた英語の診断書には、以前からの『Possible bipolar disorder(双極性障害の可能性)』という走り書きに代わり、その後明確な診断が下された。
私はADHDだけでなく、双極性障害も抱えていたのだ。
激しい気分の高揚(躁)と、死にたくなるほどの落ち込み(鬱)。この波が、私という人間を翻弄し続けてきた。二〇二一年現在はリタリンに加え、クエチアピンやデパケン、レキサルティといった薬で、ようやく感情の波を穏やかに保てるようになっている。
エピローグ:急き立てられるように
今、私はタイのマンションで、この文章を綴っている。
二〇二一年四月、タイのコロナ禍が悪化し、私たちは一時帰国を命じられた。家の中は荒れたままで、これから隔離生活が始まる。不安はないと言えば嘘になる。
けれど、今の私はこうして文字を書くことができている。いつ突発的な衝動に襲われ、死が訪れてもいいようにと、急き立てられるように指を動かしている。
私の三十数年は、土砂降りの雨だった。
けれど、その雨は私の大地を潤し、今の穏やかな家庭という花を咲かせてくれた。
約三十年前、母子手帳を読んで絶望した少女に言ってあげたい。
「理奈。あなたの名前には、画数以上の意味が宿るようになるよ」
雨は、もうすぐ上がる。
ベランダの外、雲の切れ間から、熱帯の強い光が差し込み始めていた。
(完)
平成二十九年五月十六日 投稿開始
令和三年八月十八日 初版発行
令和五年二月十五日 第三版発行(リライト前の原版75775文字です、Amazon kindleにて読めます!よろしかったらどうぞ)https://www.amazon.co.jp/dp/B09CYCHBMY/
令和八年四月二十九日 リライト版noteにて発行
著者・発行者 栞那りあ(ねねこ)
インスタkanna_ria1985
当作品で綴るお話は、栞那りあの実体験100%でお送りするノンフィクションではありますが、登場人物は全て仮名ですので、実際の人物・団体とは一切関係がございません。
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