Ⅲ
狂気を知った夏――
夏月のすべては支配されていた。
狂気という一言でまとめられてしまう不安定な精神に。
全部どうでもいいことだとわかった。
これまで生きて来た自分さえどうでもいい。
周りに合わせて生きてきただけで、考えてみたら空っぽだった。
今生きているリユウさえどうでもよくて、それでも生きている自分に嫌悪すら覚えた。
なのに――
夏月はそれでも死にたくないと思った。
生きるリユウなんてなくても生きたかった。
今、初めて想い、見つめた『死』というものがとてつもなく恐ろしく、怖かった。
何かが歪み、今にも崩れ落ちそうな世界。透明なフィルターをかけられたような遠い視界。
これまでは日常だと思っていたすべてが異質なもののように映る。
自分はこの世界にあるものとは違うのだと見せつけられてでもいるように。
「カッコ悪ぃ……」
世界に拒絶されることを恐れる自分が。
死を恐れる自分が。
弱すぎる精神が。
呟きは教室の喧騒に掻き消されていく。
いつもと同じ教室。クラスメート。喧騒。
変わったのは自分。
狂気を知り、受け入れてしまった夏月の精神。
けれど、何も知らないでいられるクラスメートを恨んでしまう。ついこの前まで一緒にいた友人を妬んでしまう。
何で……俺だけ……
夏月もそちら側だったはずなのに。
今は精神が違いすぎる。話さえもできない。
……こんなものだったのか
そんな簡単に崩れてしまうものだったのだと、納得さえしながらも、恨み、妬み、嫌悪する。
友人だと思っていたはずの奴らに。未だ誰かすらわからない『彼』に。
そして、また狂気に襲われる。
白い左手がやけに冷たい。
夏なのに。
潰れた拳がやけに痛む。
もう心は狂気の中にあるのに。
気を抜いた瞬間に泣いてしまいそうになる。
自分が保てない。
歪んだ表情が悲痛なものに変わっていく。
それを周囲に悟られないようにすることだけに気を向けて、夏月は包帯の巻きつけられた冷たい左手で頭を抱え込んだ。
瞬間。
伏せかけた視界に白い何かが飛び込んできた。制服の爽やかな白ではなく、夏月の左手に纏う包帯と同じ陰気な白。
夏月と同じ左手……否、左腕全体に適当に巻きつけられた白い包帯。
虚ろな瞳が気怠げに夏月を射抜いていた。
クラスメート。その程度の相手。
話したこともない。関わるような相手ではない。
でも、名前は知ってる。
――中原翼
夏月よりも僅かに低い身長。高校生とは思えない華奢な体つき。
存在感はひどく儚く、どこか幻想的にさえ感じる。
夏の光を吸い込む茶に近い髪は自然と翼に馴染んでいて、彼の虚ろな瞳を際立たせていた。
男とも女とも言えないような中性的なイメージは翼から現実感を排除しているような気さえする。
声を、聞いたことはない。
でも、夏月は彼がいつもひとりでいることを知っていた。
呆然として夏月は翼を見返した。
無を思わせる虚ろな瞳の奥には、深い闇があった。
深い、深い、深い、深い闇。
漆黒の闇。
光も影すらも見えない、翼の精神。
夏月はゾッとした。
翼の瞳に壊れた何かが見えた気がした。
翼は露骨に目を逸らした。
その横顔は紅色の夕焼けと、血塗れの翼の折れた堕天使を思わせた。
この暑いほどの空気の中、寒気が走った。
夏月は、翼の中に自分と共通する危険なものを感じた。
「中原、翼……」
微かな声が、かろうじてそれだけを紡いだ。
何も見えない。何かを失った。
――夏が、終わらない




