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夏の翼―闇夜の彼方に―  作者: 夜月黎
夏編

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4/11

Ⅱ‐Ⅰ

真夏の青い青い空から深紅の血の雨が降る幻覚を見た。


夏月にとってそれは幻覚とは思えなかった。

現実の、血の匂いすら生々しい、ぬるっとした感覚すらある。

それは夏月の心を深紅に染める現実の血の雨。

決して消えることのない……。


夏月は思わず自分の腕を上に上げ、己を庇った。

けれど、その両腕の間から、指の隙間から、それは確実に夏月を染めた。紅に。


ひどく表情が歪んでいく。

それでも、夏月はその恐怖を隠すことは出来なかった。

手に、体に、こびりつくものを振り払おうとする。けれど、禍々しさの増す深紅色は離れることなく、皮膚を腐食させていく。腐食は、ゆっくりと、それでも確実に浸透していく。

そう、まるで今の夏月の心(なか)の狂気のように。


恐怖に支配された体は身を引いて、校庭の端の桜の木にぶつかり、崩れ落ちる。

激しい衝撃に呻き声が溢れる。


木の根元に蹲ったまま見上げた瞳に映る蒼が眩しすぎて、視界が回る。

意識が強張っていて何も考えられない。何も感じない。


きつく瞳を閉じて、左手首を右手で掴む。

強く、強く、強く。

血が止まるほどに。

己の指が皮膚を切り裂くほどに。

握りしめる。


それでも……何も感じない。

感覚さえも消え失せた。

感情さえも理解出来ない。


ただ、幼い頃の孤独への恐怖にも似た何かが、夏月の中に眠る狂気を呼び起こしていく。

襲い来る恐怖が、狂気と共に夏月の体を、精神を支配する。


自分自身の呼吸がやけに大きく、速く聞こえる。


思考回路は恐怖と狂気で支配されているのに、震える夏月の唇から溢れるのは、僅かな呻きだけ。


しばらくして、不意に我に返る。

夏月の体に血の跡はなかった。


すぐに視界に飛び込んでくるのは、青い青い初夏の空。

幻覚を見た時と同じ、青い空。

そこに君臨する夏らしくなりかけた太陽の日差しが、桜の大木の影をグラウンドに落としていた。

その木陰のひとつで夏月は力の入り切らない拳を握りしめる。

掴んだ跡が左手首には残っていて、血の気の失せた左手は恐ろしく白い。


ぼーっと遠くを眺めた先に、昔の孤独が見えた気がした。

幼い自分が泣きながら、それでも微笑(わら)っている。

あれは、本当の自分なのか……幻影なのか。

現在(いま)の自分がつまらなそうに笑い、幼い自分の影を潰していく。


――僕はっ、独りなのっ……?


最期の叫びがこだました。


そんなことどうでもいいと言うように現在(いま)の自分が笑う。

そんな訳ないとでも言うように。


虚空を見つめた虚ろな瞳が、機械的に笑う。


「嘘だ。全部虚飾だ。俺には何も無い」


痛みすら忘れたはずなのに、表情が歪んだ。


夏の爽やかな風が夏月の髪を躍らせた。

無意識に呟きが溢れる。


「夏が、くる……」


それと同時に握りしめた拳をそのまま地面に叩きつける。

何度も何度も殴りつけた。まるで、それが自分に襲い来る恐怖であるかのように。狂気であるかのように。

殴った。

自分の中に浸透していく抑えきれない衝動に身をまかせたかった。


先ほど見た淀んだ深紅色の血の雨と同じ色をした夏月の血が、ぐしゃぐしゃになった拳に滲む。


手も精神(こころ)もひどくぼろぼろで、ひどく痛んだ。


狂気を見つけた夏。

狂気に支配された夏――すべてが壊れた夏。


見え始めたばかりの、夏月の夏は続く。


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