隣人の笑顔
この物語は、日常に隠された闇を描いた小説作品です。一見平和な住宅地で起こる恐ろしい真実を、静かなサスペンスとして紡いでいきます。
## 第一章 新しい生活
春の陽だまりが心地よい四月の午後、田中美咲は段ボール箱を抱えながら新居の玄関前に立っていた。二十八歳、都内の出版社で編集者として働く彼女にとって、この一人暮らしは念願だった。職場から電車で三十分、閑静な住宅街の中にある築五年のマンション「グリーンヒルズ桜台」の二〇三号室が、これからの彼女の住まいとなる。
「重そうですね。お手伝いしましょうか」
振り返ると、五十代と思われる男性が温和な笑顔で声をかけてきた。グレーのカーディガンに紺色のスラックス、きちんと整えられた髪型と清潔感のある身なり。眼鏡の奥の優しそうな目が印象的だった。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
美咲が遠慮すると、男性はそれ以上押し付けることなく、穏やかに頷いた。
「私は二〇一号室の山田と申します。お隣ですね。何かお困りのことがあれば、いつでもお声がけください」
そう言って、山田は丁寧にお辞儀をした。美咲も慌てて挨拶を返す。
「田中美咲です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「田中さんですね。覚えました。それでは、引っ越し作業、お疲れさまです」
山田は再び柔らかく微笑むと、自分の部屋へと向かった。美咲は好印象を持った。都市部では希薄になりがちな近所付き合いだが、このような親切な隣人がいるなら心強い。
部屋の中に入ると、引っ越し業者が家具を運び込んでいた。二DKの間取りは一人暮らしには十分な広さで、南向きの窓からは桜並木が見える。春の新生活にふさわしい、明るい住環境だった。
夕方、一通りの荷解きを終えた美咲は、疲れ切って床に座り込んだ。コンビニ弁当を夕食にしようと玄関を出ると、廊下で山田と再び出会った。
「お疲れさまでした。引っ越し作業は大変でしたでしょう」
「はい、やっと一段落しました」
「そうですか。実は、つまらないものですが」
山田は手提げ袋から小さなタッパーを取り出した。
「家内が作った煮物です。一人暮らしだと、なかなか手の込んだ料理は難しいでしょうから。よろしければどうぞ」
「そんな、申し訳ありません」
「いえいえ、お気になさらず。ご近所の付き合いですから」
美咲は恐縮しながらも、その心遣いに感動した。山田のような隣人がいることに、改めて感謝の気持ちを抱いた。
「ありがとうございます。とても助かります」
「明日からお仕事でしょうから、お体に気をつけて。何かあれば遠慮なくどうぞ」
部屋に戻った美咲は、煮物を一口食べて驚いた。上品な出汁の味が口の中に広がり、野菜の甘みが際立っている。プロ級の腕前だった。こんな美味しい手料理をごちそうになるなんて、本当に運が良い。
その夜、美咲は久しぶりに心地よい気分で眠りについた。新しい生活への期待と、温かい隣人への感謝の気持ちを胸に。
翌朝、出勤の準備をしていると、ドアチャイムが鳴った。時計を見ると七時三十分。少し早い時間だが、インターホンに出ると山田の声だった。
「おはようございます。お忙しい時間に申し訳ありません」
玄関を開けると、山田がエプロン姿で立っていた。手には作りたてらしいサンドイッチが入った袋を持っている。
「昨夜はどうもありがとうございました。とても美味しかったです」
「それは良かった。今朝、家内がサンドイッチを作りすぎてしまいまして。お昼にでもいかがでしょうか」
「いつもいつも、本当にありがとうございます」
美咲は深々と頭を下げた。こんなに親切にしてもらって、何かお返しをしなければと思う。
「お気になさらず。私たち夫婦は子どもがおりませんから、田中さんのような若い方がいらしてくださると、何だか娘ができたような気持ちなんです」
山田の言葉に、美咲は胸が温かくなった。両親を早くに亡くした彼女にとって、このような温かい言葉は特別な意味を持っていた。
「山田さんのおかげで、この街が大好きになりそうです」
「それは嬉しいですね。この辺りは治安も良いですし、住みやすいところですよ。ただし」
山田の表情が少し曇った。
「最近、近隣で不審な事件が起きています。女性の一人歩きは気をつけてくださいね」
「事件ですか?」
「ええ、隣の駅の方で女性が行方不明になったり、変質者が出たりという話を聞きます。田中さんのような美しい女性は特に注意が必要です」
山田の心配そうな表情に、美咲は身が引き締まる思いがした。確かに最近、ニュースで女性を狙った犯罪の報道をよく見かける。
「気をつけます。ありがとうございます」
「帰りが遅くなる時は、遠慮なくお電話ください。お迎えに行きますから」
「そんな、お気遣いなく」
「いえいえ、困った時はお互い様です」
山田は優しく微笑んだ。その笑顔に、美咲は心からの安心感を覚えた。
会社に着いた美咲は、同僚の佐藤に新居での出来事を話した。佐藤は美咲より三つ年上で、結婚三年目の先輩だ。
「それは羨ましいわね。うちの近所なんて、挨拶もしない人ばかりよ」
「本当に親切な方で、安心しました」
「でも気をつけなさいよ。世の中、変な人もいるから」
佐藤の言葉に、美咲は少し驚いた。
「山田さんは普通の善良な方ですよ」
「そうね、きっと良い方なんでしょうけど。でも一人暮らしの女性は用心するに越したことはないから」
美咲は佐藤の心配を理解しつつも、山田への信頼は揺るがなかった。あれほど親切で温かい人が悪い人のはずがない。
昼休み、山田から貰ったサンドイッチを食べた。ハムとレタス、トマトがサンドされたシンプルなものだったが、パンはふわふわで、野菜は新鮮そのもの。手作りマヨネーズの風味も絶妙だった。
「美味しそうね、それ」
隣の席の後輩、林が覗き込んできた。
「隣の奥さんが作ってくださったんです」
「へえ、良い関係じゃない。私のマンションなんて、隣に誰が住んでるかも知らないもの」
美咲は改めて、自分の恵まれた環境に感謝した。山田夫妻のような隣人がいることは、本当に幸運だった。
その日の帰り道、美咲は山田の言葉を思い出していた。最近の近隣での事件について。電車の中で改めてニュースアプリをチェックすると、確かに女性を狙った犯罪の報道が目につく。痴漢、ひったくり、そして行方不明事件。都市部では珍しくないことかもしれないが、やはり注意が必要だ。
駅から自宅までの十分間の道のりを、美咲は周囲に気を配りながら歩いた。街灯は十分に明るく、人通りもそれなりにある。それでも女性一人では不安を感じる場面もある。
マンションに着くと、山田が郵便ボックスの前に立っていた。
「お帰りなさい。お疲れさまでした」
「ただいま戻りました」
「今日も遅いお帰りですね。お仕事、大変でしょう」
時計を見ると八時を回っている。確かに遅い帰宅だ。
「編集の仕事は不規則で」
「そうでしょうね。くれぐれもお気をつけて。今日も駅からは一人でしたか?」
「はい、いつも通り」
山田は心配そうに眉をひそめた。
「やはり危険ですね。明日からは遠慮なくお電話ください。車でお迎えに行きます」
「ご親切にありがとうございます。でも大丈夫です」
「いえいえ、遠慮することはありません。家内も心配しているんですよ。田中さんのような娘がいたら、絶対に一人で歩かせないでしょうから」
山田の真剣な表情に、美咲は彼の親心のような気持ちを感じた。実の父親のように心配してくれているのだ。
「では、本当に困った時は甘えさせていただくかもしれません」
「そうしてください。何かあってからでは遅いですから」
部屋に戻った美咲は、山田の優しさに改めて感動していた。これほど親身になって心配してくれる人がいるなんて、本当にありがたい。両親を亡くしてから、家族のような温かさを感じることは少なかった。山田夫妻の存在は、彼女にとって心の支えとなりつつあった。
その夜、美咲は山田から貰った煮物の器を洗いながら、明日何かお返しを持参しようと考えていた。デパ地下で美味しいお菓子でも買って、感謝の気持ちを伝えたい。
窓から外を見ると、向かいのマンションの窓に明かりが灯っている。どの窓にも、きっと様々な人生があるのだろう。美咲のように新しい生活を始めた人、家族と幸せに暮らしている人、一人で静かに過ごしている人。みんなそれぞれの日常がある。
そんなことを考えていると、ふと違和感を覚えた。向かいのマンションの一室から、こちらを見ている影があるような気がしたのだ。カーテンの隙間から覗いているような。
美咲は慌ててカーテンを閉めた。見間違いだろうか。それとも本当に誰かが見ていたのだろうか。山田が言っていた近隣の事件のことが頭をよぎり、少し不安になった。
でも、すぐに自分を落ち着かせた。山田のような親切な隣人がいるのだから、大丈夫だ。何かあれば助けを求めることもできる。
その夜、美咲は山田夫妻への感謝の気持ちを胸に、安心して眠りについた。隣に信頼できる人がいる安心感は、何物にも代えがたかった。
## 第二章 日常の中の影
美咲が新居での生活を始めて一週間が過ぎた。その間、山田夫妻からは毎日のように心遣いを受けていた。手作りの総菜、朝食のパン、時には花まで。美咲は恐縮しながらも、その温かさに心を開いていった。
「今朝のニュースを見ましたか?」
金曜日の朝、ゴミ出しで山田と出会った時、彼は深刻な表情で話しかけてきた。
「いえ、まだ見ていません」
「また行方不明事件が起きたそうです。今度は隣の隣の駅で、二十代の女性が」
美咲の背筋に冷たいものが走った。
「それは心配ですね」
「本当に物騒になりました。田中さんも十分お気をつけください。特に夜間の外出は控えた方が良いかもしれません」
山田の心配そうな表情に、美咲は頷いた。確かに最近、女性を狙った犯罪のニュースを頻繁に見かける。自分も注意しなければならない。
「山田さんのおかげで、とても安心して暮らせています」
「それは良かった。でも油断は禁物ですよ。犯罪者というのは、案外身近にいるものです」
山田の言葉に、美咲は少しゾッとした。確かにニュースで見る事件の犯人は、ごく普通の人であることが多い。近所の住人、職場の同僚、時には家族さえも。
「気をつけます」
「ええ、そうしてください。私たちも田中さんのことを常に気にかけていますから」
会社に到着した美咲は、すぐにニュースサイトで事件の詳細を調べた。確かに近隣の駅で、二十五歳の会社員女性が行方不明になっていた。防犯カメラには、女性が駅から歩いて帰宅する姿が映っているが、自宅から三百メートル手前で映像が途切れている。
「また近くで事件があったのね」
佐藤が美咲の肩越しに画面を覗き込んだ。
「ええ、山田さんが教えてくれました」
「山田さんって、隣の人?」
「はい、いつも心配してくださって」
佐藤は少し眉をひそめた。
「美咲ちゃん、あまり隣人を信用しすぎない方が良いんじゃない?」
「どうしてですか?山田さんはとても良い方ですよ」
「そうかもしれないけど、でも考えてみて。一人暮らしの女性の行動パターンを詳しく知っている人って、実は一番危険な立場にいるのよ」
佐藤の言葉に、美咲はドキッとした。
「まさか、そんな」
「疑えって言ってるわけじゃないの。ただ、用心するに越したことはないって言いたいだけ」
「でも山田さんは結婚されているし、年配の方だし」
「そういう人ほど要注意よ。テッド・バンディって知ってる?アメリカの連続殺人犯だけど、すごく魅力的で信頼されていた人だったのよ」
美咲は首を振った。佐藤の話は興味深いが、山田に対する疑いの気持ちは全く湧かなかった。あれほど親切で温厚な人が、そんなはずはない。
「佐藤さんは心配しすぎですよ」
「そうかもしれないけどね。でも気をつけて」
昼休み、美咲は近所のデパートで山田夫妻へのお礼の品を探していた。和菓子の詰め合わせを選んでいると、偶然山田を見かけた。一人で薬局の前を通り過ぎていく後ろ姿だった。
美咲は声をかけようと思ったが、山田は足早に歩いて行ってしまった。会社員の夫を持つ奥さんがよく言う「平日の昼間にスーツ姿の男性を見かけると、なぜかドキドキする」という気持ちが少し分かった気がした。普段家にいることが多い山田が、外出している姿は新鮮だった。
その夜、美咲は和菓子を持って山田の部屋を訪ねた。チャイムを鳴らすと、奥さんと思われる女性が出てきた。五十代前半と思われる、上品で美しい女性だった。
「田中さんでいらっしゃいますね。主人からお話を伺っています」
「いつもお世話になっております。つまらないものですが」
美咲が和菓子を差し出すと、奥さんは恐縮した様子で受け取った。
「ご丁寧にありがとうございます。主人も喜びます」
「いえ、いつもご親切にしていただいて、感謝しています」
奥さんは穏やかに微笑んだ。山田と同じように、とても温和で品のある人だった。
「主人は田中さんのことを娘のように心配しているんですよ。最近は物騒ですから」
「本当にありがたく思っています」
「何かお困りのことがあれば、いつでもおっしゃってくださいね」
部屋に戻った美咲は、山田夫妻の温かさに改めて感動していた。こんなに親切な夫婦がいることに、心から感謝したい気持ちでいっぱいだった。
その夜、美咲は少し早めに帰宅した。午後七時頃、マンションに着くと、山田が駐車場で車を洗っていた。
「お疲れさまです」
「あ、田中さん。今日は早いお帰りですね」
「たまたま早く終わりました」
山田は作業の手を止めて、美咲の方を向いた。
「それは良かった。やはり夜道は危険ですから、できるだけ明るいうちに帰ってこられた方が安心です」
「そうですね。山田さんはお車の手入れをされているんですね」
「ええ、定期的に洗車しないと汚れが落ちにくくなりますから」
山田の車は黒いセダンで、よく手入れされていることが分かった。ピカピカに磨かれたボディが夕日に光っている。
「きれいな車ですね」
「古い車ですが、大切に乗っています。田中さんもお車の運転はされますか?」
「免許は持っていますが、都内では必要ないので」
「そうですね。でも何かの時は、遠慮なくお声がけください。どこでもお送りしますから」
山田の親切な申し出に、美咲は深く感謝した。
その時、ふと山田の車の後部座席に目が留まった。何か白い布のようなものが見えたような気がしたが、角度を変えて見直すと何もなかった。見間違いだったのだろう。
「ありがとうございます。本当に心強いです」
「何かあればいつでもどうぞ」
部屋に戻った美咲は、窓から駐車場を見下ろした。山田はまだ丁寧に車を磨いている。几帳面な性格が表れている光景だった。
その夜、美咲はテレビでニュースを見ていた。例の行方不明事件の続報があった。被害者の女性は、美咲と同じような一人暮らしの会社員だった。防犯カメラの映像を見ると、ごく普通の女性で、自分と重なる部分が多い。
もし自分が同じ状況になったら、どうするだろう。そんなことを考えていると、少し怖くなった。でも、山田のような親切な隣人がいることは心強い。何かあれば必ず助けてくれるだろう。
その時、廊下で足音が聞こえた。誰かが歩いているようだ。時計を見ると午後十時を回っている。山田かもしれない。美咲はドアスコープから廊下を覗いてみた。
しかし、廊下には誰もいなかった。電気は点いているが、人影は見えない。聞き間違いだったのかもしれない。
美咲は安心して、テレビに視線を戻した。ニュースでは別の話題に移っていた。明日は土曜日なので、久しぶりにゆっくり休めるだろう。
その夜、美咲は窓の鍵を確認してから眠りについた。山田が言っていた通り、用心するに越したことはない。でも、彼のような信頼できる隣人がいることで、不安はかなり和らいでいた。
土曜日の朝、美咲は珍しく早起きした。久しぶりの休みなので、掃除や洗濯をして、のんびり過ごすつもりだった。
洗濯物を干すためにベランダに出ると、山田の声が聞こえてきた。
「おはようございます」
見下ろすと、山田が一階の庭で園芸作業をしていた。
「おはようございます。朝から熱心ですね」
「植物の手入れは朝が一番です。田中さんも早起きですね」
「たまには早起きも良いものです」
山田は満足そうに微笑んだ。
「健康的で素晴らしいことです。若い方は夜更かしをしがちですから」
美咲は洗濯物を干しながら、山田の作業を眺めていた。丁寧に植物の世話をしている姿は、とても穏やかで平和的だった。
「山田さんは園芸がお好きなんですね」
「ええ、妻と一緒に始めました。植物を育てるのは楽しいものです」
「素敵な趣味ですね」
その時、美咲は山田が作業している場所の土が、他の部分と比べて少し色が違うことに気づいた。最近掘り返したような跡があるようにも見える。
「何か植えられたんですか?」
「ええ、新しい花を植えました。きれいに咲くと良いのですが」
山田は少し慌てたような様子で答えた。そして、すぐに作業を終えて家の中に入っていった。
美咲は少し奇妙に感じたが、深く考えることはしなかった。園芸のことはよく分からないし、山田なりの理由があるのだろう。
その日の午後、美咲は近所を散歩していた。新しい街を探索するのは楽しい。商店街を歩いていると、偶然山田を見かけた。薬局から出てきたところだった。
山田は美咲に気づくと、少し驚いたような表情を見せた。
「田中さん、こんにちは」
「こんにちは。お散歩中です」
「それは良いですね。運動は大切です」
山田は薬局の袋を持っていた。おそらく奥さんの薬か何かだろう。
「奥様はお元気ですか?」
「ええ、おかげさまで。ただ、時々体調を崩すことがあるので」
山田の表情に、心配そうな影が差した。
「そうですか。お大事になさってください」
「ありがとうございます」
二人は軽く挨拶を交わして別れた。美咲は山田の奥さんへの気遣いに、改めて彼の優しさを感じた。
その夜、美咲は友人の結婚式の準備で忙しくしていた。来週末に控えた式に着ていくドレスを選んだり、ご祝儀の準備をしたり。久しぶりの華やかなイベントに心が弾んだ。
午後十一時頃、ドアチャイムが鳴った。こんな時間に訪問者とは珍しい。インターホンで確認すると、山田だった。
「申し訳ございません。こんな時間に」
美咲がドアを開けると、山田は深刻な表情で立っていた。
「どうかされましたか?」
「実は、家内が急に体調を崩しまして。救急車を呼ぼうかと思うのですが、判断に迷っています」
「それは大変です」
美咲は慌てた。奥さんの容態が心配だ。
「症状はどのような?」
「意識はあるのですが、激しい腹痛を訴えています。今まで見たことのない苦しみようで」
山田の声は震えていた。夫として、とても心配しているのが分かる。
「すぐに救急車を呼んだ方が良いのではないでしょうか」
「そうですね。田中さんもそう思われますか?」
「はい。迷っている場合ではないと思います」
山田は安堵の表情を見せた。
「そうですね。すぐに呼びます。相談に乗っていただいて、ありがとうございました」
「いえ、当然のことです。奥様がご無事でありますように」
山田は深々と頭を下げて、自分の部屋に戻った。美咲は奥さんの容態が気になって、なかなか眠れなかった。
しかし、その夜、救急車のサイレンは聞こえなかった。
## 第三章 暗闇に響く足音
翌朝、美咲は山田の奥さんの容態が気になって、早めに外出の準備をした。廊下で山田に会えば、様子を聞くことができるかもしれない。
午前八時頃、ゴミ出しのついでに山田の部屋の前を通りかかった。ドアの隙間から微かに光が漏れているので、起きているようだ。しかし、声をかけるのは憚られる。奥さんが休んでいるかもしれない。
駅に向かう途中、美咲は昨夜のことを思い返していた。山田は救急車を呼ぶと言っていたが、結局サイレンは聞こえなかった。容態が改善したのだろうか。それとも、かかりつけの医師に連絡したのかもしれない。
会社では、同僚たちと来週の結婚式の話で盛り上がった。美咲も楽しい気分になり、山田の奥さんのことは一時的に頭から離れた。
「美咲ちゃんも、そろそろ結婚相手を見つけなきゃね」
佐藤がからかうように言った。
「まだまだです。仕事に慣れるのが先です」
「でも良い人がいれば考えるでしょう?」
「そうですね」
美咲は曖昧に答えた。確かに結婚への憧れはあるが、今はまだ一人の時間を大切にしたい気持ちの方が強かった。
その日の帰り道、美咲は山田の奥さんへのお見舞いの品を買った。消化の良さそうなゼリーの詰め合わせと、上品な花束。少しでも気分が良くなってもらえればと思った。
マンションに着くと、山田が郵便ボックスの前に立っていた。
「お疲れさまです。奥様のご容態はいかがですか?」
山田は振り返ると、疲れたような表情を見せた。
「ありがとうございます。なんとか落ち着きました」
「それは良かったです。やはり救急車を呼ばれたのですか?」
山田は少し間を置いてから答えた。
「いえ、かかりつけの先生に連絡して、応急処置を教えていただきました。幸い、薬で症状が治まったので」
「そうでしたか。安心しました」
美咲は持参した品物を差し出した。
「お見舞いの品です。つまらないものですが」
「ご丁寧にありがとうございます。家内も喜びます」
山田は深々と頭を下げた。しかし、その表情には疲労の色が濃く、以前のような温和な雰囲気が感じられなかった。
「お疲れでしょうから、ゆっくりお休みください」
「ありがとうございます」
部屋に戻った美咲は、山田の様子が少し気になった。奥さんの病気のことで心配しているのは理解できるが、何となく以前と雰囲気が違うような気がした。
その夜、美咲はテレビを見ながら夕食を取っていた。近隣の行方不明事件の続報があった。被害者の女性は、まだ見つかっていない。警察は誘拐の可能性も含めて捜査しているという。
美咲は自分も気をつけなければと思った。山田が言っている通り、最近は本当に物騒だ。特に女性の一人歩きは危険が伴う。
その時、隣の部屋から微かに音が聞こえてきた。何かを引きずるような音だった。山田が家具を動かしているのかもしれない。奥さんの看病で、部屋の模様替えでもしているのだろうか。
しばらくすると音は止んだ。美咲は特に気にせず、テレビに集中した。
午後十時頃、美咲は入浴の準備をしていた。その時、廊下で足音が聞こえた。重い足取りで、何かを運んでいるような音だ。山田かもしれない。
ドアスコープから覗いてみたが、ちょうど死角になっていて見えなかった。足音はエレベーターの方向に向かい、やがて聞こえなくなった。
美咲は特に不審に思わなかった。マンションの住人が何かを運ぶことは珍しくない。深夜の時間帯だが、事情があるのかもしれない。
翌朝、美咲は少し早めに外出した。会社で重要な会議があるため、準備を整えておきたかった。
エレベーターを待っていると、山田が現れた。
「おはようございます。今日は早いですね」
「おはようございます。会議の準備があるので」
山田は平常通りの様子だったが、少し疲れているように見えた。
「奥様の調子はいかがですか?」
「おかげさまで、だいぶ良くなりました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「それは良かったです」
エレベーターが到着し、二人は一緒に乗った。
「今日も遅くなりそうですか?」
山田が気遣うように聞いた。
「そうですね、会議の結果次第ですが」
「くれぐれもお気をつけて。最近の事件もあることですし」
「はい、気をつけます」
エレベーターが一階に着くと、山田は駐車場の方向に向かった。美咲は駅に向かって歩き始めた。
その日の会議は予想以上に長引いた。新しい雑誌の企画について、編集部全体で議論したのだ。美咲も積極的に意見を出し、充実した時間を過ごした。
帰宅は午後九時を回っていた。駅から自宅までの道のりを、美咲は注意深く歩いた。街灯の明かりで周囲を確認しながら、足早に進む。
マンションに着くと、駐車場に山田の車があることを確認した。彼がいると思うと、なんとなく安心感がある。
エレベーターで二階に上がり、自分の部屋に向かった。その時、山田の部屋から微かに声が聞こえるような気がした。奥さんと話しているのかもしれない。
部屋に入った美咲は、疲れを感じながらも満足していた。今日の会議で自分の意見が採用され、新しいプロジェクトに参加することが決まったのだ。
シャワーを浴びて、軽い夕食を取った後、美咲はソファでくつろいでいた。その時、隣の部屋から再び音が聞こえてきた。昨夜と同じような、何かを引きずる音だった。
今度は少し長く続いた。山田は一体何をしているのだろう。奥さんの看病で大変なのかもしれないが、深夜に物音を立てるのは少し気になる。
美咲は壁に耳を当てて聞いてみた。確かに何かの音がしている。しかし、内容までは分からない。
しばらくすると音は止んだ。美咲は特に深く考えることなく、ベッドに向かった。明日も早い出勤なので、十分な睡眠を取りたい。
しかし、なかなか眠りにつけなかった。隣の部屋の音が気になるのもあったが、何となく落ち着かない気分だった。最近の事件のニュースを見すぎているせいかもしれない。
午前二時頃、美咲はふと目を覚ました。廊下で足音が聞こえたような気がしたのだ。半分夢の中だったかもしれないが、確かに聞こえたような気がする。
ベッドから起き上がり、ドアスコープから廊下を覗いてみた。非常灯の薄明かりで、廊下は静まり返っている。誰もいないようだ。
美咲は再びベッドに戻った。きっと夢だったのだろう。最近、神経が敏感になっているのかもしれない。
翌朝、美咲は寝不足を感じながら起床した。昨夜はあまりよく眠れなかった。コーヒーを飲んで頭をすっきりさせてから、出勤の準備をした。
ゴミ出しの時間になり、美咲は燃えるゴミの袋を持って外に出た。山田の姿は見えなかった。いつもなら同じ時間に出てくるのだが、奥さんの看病で忙しいのかもしれない。
エレベーターで一階に降り、ゴミ置き場に向かった。そこには既にいくつかのゴミ袋が置かれていた。その中に、山田の部屋からと思われる袋もあった。
ふと、その袋の中身が気になった。普通なら気にすることではないのだが、なぜか目が向いてしまう。
袋の一部が少し破れていて、中身が見えそうになっていた。美咲は一瞬覗いてみたい衝動に駆られたが、すぐに自分を恥じた。他人のプライバシーを覗き見するなんて、とんでもないことだ。
美咲は急いでゴミ置き場を離れ、駅に向かった。しかし、歩きながらも山田のゴミ袋のことが頭から離れなかった。なぜあんなに気になったのだろう。
会社に着いた美咲は、同僚の林に相談してみた。
「最近、隣の人の音が気になるの」
「どんな音?」
「夜中に何かを引きずるような音とか、足音とか」
林は興味深そうに聞いた。
「それは気になるね。苦情を言った方が良いんじゃない?」
「でも、奥さんが体調を崩されていて、看病で大変なのかもしれないから」
「なるほど。でも夜中の騒音は困るよね」
美咲は迷った。山田は親切な隣人だし、奥さんの看病で大変な時期だ。今苦情を言うのは適切ではないかもしれない。
「もう少し様子を見てみます」
「そうね。でも我慢しすぎるのも良くないよ」
その日の昼休み、美咲は近所の商店街を歩いていた。山田の奥さんにお見舞いの品でも買おうと思ったのだ。
薬局の前を通りかかった時、偶然山田を見かけた。店から出てきたところだった。手には薬の袋を持っている。
美咲は声をかけようと思ったが、山田の表情が何となく暗く、話しかけづらい雰囲気だった。奥さんのことで心配しているのだろう。
山田は美咲に気づかずに、足早に歩いて行った。美咲は少し距離を置いて見ていたが、彼の様子がいつもと違うことに気づいた。周囲をきょろきょろと見回しながら、落ち着きがないように見える。
美咲は薬局で奥さんへのお見舞いの品を買った。栄養ドリンクと、消化の良いお粥のレトルト食品。少しでも回復の助けになればと思った。
帰り道、美咲は山田の様子について考えていた。奥さんの病気のことで、相当心配しているようだ。普段あれほど穏やかな人が、あんなに落ち着きがないのは珍しい。
その夜、美咲は山田の部屋を訪ねてお見舞いの品を渡そうと思った。午後八時頃、ドアチャイムを鳴らしたが、返事がなかった。外出しているのかもしれない。
美咲は品物を持って自分の部屋に戻った。後で改めて渡そう。
午後十時頃、美咲はテレビを見ながらくつろいでいた。その時、隣の部屋から音が聞こえてきた。今度は以前より大きな音だった。
美咲は少し心配になった。奥さんの容態が悪化したのだろうか。それとも、何かトラブルが起きているのだろうか。
音は断続的に続いた。時には静かになり、時には激しくなる。まるで何かと格闘しているような音だった。
美咲は立ち上がって、壁に耳を当てた。確かに何かの音がしている。しかし、詳細は分からない。
その時、山田の声のようなものが聞こえた気がした。何かを言っているようだが、内容は聞き取れない。
美咲は心配になった。もしかして、本当に緊急事態なのかもしれない。救急車を呼んだ方が良いのだろうか。
しかし、直接確認せずに救急車を呼ぶのは適切ではない。美咲は意を決して、山田の部屋を訪ねることにした。
廊下に出て、山田の部屋の前に立った。ドアチャイムを鳴らそうとした時、中から微かに声が聞こえた。
「やめて...お願い...」
女性の声だった。奥さんの声のようだが、苦しそうな調子だった。
美咲は戸惑った。これは明らかに尋常ではない状況だ。しかし、夫婦の間のことに立ち入るべきではないのかもしれない。
その時、ドアの向こうから大きな音がした。何かが倒れたような音だった。
美咲は慌ててドアチャイムを鳴らした。
「山田さん、大丈夫ですか?」
しばらく沈黙が続いた。そして、山田の声が聞こえた。
「田中さん?どうかされましたか?」
声は普段通りの穏やかな調子だった。
「お隣から音が聞こえたので、心配になって」
「ああ、申し訳ありません。家内が転んでしまったもので」
「大丈夫ですか?」
「はい、軽い打撲程度です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
山田の声に異常は感じられなかった。美咲は少し安心した。
「何かお手伝いできることがあれば」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫ですから」
美咲は自分の部屋に戻った。しかし、何となく釈然としない気持ちが残った。先ほど聞こえた女性の声は、本当に奥さんの声だったのだろうか。
その夜、美咲はなかなか眠りにつけなかった。隣の部屋のことが気になって仕方がない。きっと考えすぎなのだろうが、何となく不安が拭えなかった。
## 第四章 疑惑の芽生え
週末が訪れた。美咲は友人の結婚式に出席するため、朝早くから身支度を整えていた。久しぶりの華やかなイベントに、心が弾んでいる。
午前九時頃、美咲は式場に向かうためマンションを出た。エレベーターホールで山田と出会った。
「おはようございます。お出かけですか?」
山田は平常通りの様子だった。昨夜の騒動が嘘のように、穏やかな表情をしている。
「友人の結婚式に出席します」
「それは素晴らしいですね。お気をつけて」
「ありがとうございます。奥様の調子はいかがですか?」
「おかげさまで、だいぶ良くなりました」
山田は安心したような表情を見せた。
結婚式は心温まる素晴らしい式だった。美咲は友人の幸せそうな姿を見て、自分も将来はこんな日を迎えたいと思った。披露宴では久しぶりに大学時代の友人たちと再会し、楽しい時間を過ごした。
帰宅は午後八時頃だった。疲れてはいたが、幸せな気持ちに満たされていた。エレベーターで二階に上がり、自分の部屋に向かう途中、山田の部屋の前を通りかかった。
ドアの隙間から微かに光が漏れている。しかし、声や物音は聞こえない。静かな様子だった。
部屋に入った美咲は、ドレスを脱いで楽な服装に着替えた。そして、式で撮った写真をスマートフォンで見返しながら、幸せな余韻に浸っていた。
その時、隣の部屋から音が聞こえてきた。いつものような、何かを引きずる音だった。美咲は時計を見た。午後九時を回っている。
音は以前より小さく、短時間で終わった。山田が何かの片付けをしているのかもしれない。
美咲は特に気にせず、入浴の準備をした。しかし、浴室に向かう途中で、ふと疑問が湧いた。奥さんの調子が良くなったと言っていたのに、なぜ山田一人で片付けをしているのだろう。
些細なことかもしれないが、なんとなく気になった。
翌朝、美咲は久しぶりにゆっくり起床した。日曜日なので、特に予定はない。掃除や洗濯をして、のんびり過ごすつもりだった。
ベランダで洗濯物を干していると、下の庭で山田が作業をしているのが見えた。土を掘り返しているようだ。
「山田さん、朝から熱心ですね」
美咲が声をかけると、山田は振り返った。少し驚いたような表情だった。
「おはようございます。庭の手入れをしています」
「何を植えられるんですか?」
「新しい花の苗です」
山田の答えは簡潔だった。いつものような詳しい説明はない。
美咲は作業を見守っていたが、山田が掘っている場所は以前に比べてかなり広範囲に及んでいた。相当大きな植物を植えるつもりなのだろうか。
「大きな花壇になりそうですね」
「ええ、妻が花好きなもので」
山田は手を止めずに答えた。汗をかきながら、黙々と作業を続けている。
美咲は洗濯物を干し終えると、部屋に戻った。山田の熱心な作業ぶりに感心したが、同時に少し違和感も覚えた。奥さんの体調が悪いのに、あれほど大規模な庭仕事をする必要があるのだろうか。
午後、美咲は近所のスーパーに買い物に出かけた。夕食の材料を買って帰る途中、偶然山田を見かけた。薬局の前で、携帯電話で話をしていた。
美咲は遠くから見ていたが、山田の表情は深刻だった。何か重要な話をしているようだ。おそらく奥さんの病気のことで、医師と相談しているのかもしれない。
山田は通話を終えると、薬局に入っていった。美咲は遠慮して、別の道を通って帰宅した。
その夜、美咲は友人からもらった結婚式の写真をアルバムに整理していた。幸せそうな新郎新婦の写真を見ていると、自分の将来についても考えてしまう。
いつか自分も、あんな風に愛する人と結ばれる日が来るのだろうか。今はまだ仕事に集中したいが、いずれは家庭を築きたいという気持ちもある。
そんなことを考えていると、隣の部屋から声が聞こえてきた。山田の声のようだが、いつもより大きな調子だった。
美咲は耳を澄ませてみたが、内容はよく分からない。しかし、何かに対して怒っているような口調だった。
奥さんとけんかでもしているのだろうか。病気で弱っている時に、夫婦げんかをするのは良くない。
声はしばらく続いた後、急に静かになった。美咲は心配になったが、夫婦間の問題に立ち入るわけにはいかない。
その夜、美咲は再び眠りが浅かった。隣の部屋の音が気になって、何度も目を覚ましてしまう。物音は断続的に続き、時には足音も聞こえた。
美咲は枕を頭にかぶって、音を遮ろうとした。しかし、完全に遮ることはできない。
午前三時頃、特に大きな音がした。何かが倒れたような音だった。美咲は思わず起き上がった。
今度こそ、何かが起きているのではないだろうか。美咲は壁に耳を当てて聞いてみた。
微かに男性の声が聞こえる。山田の声のようだが、何を言っているかは分からない。そして、時々女性の声のようなものも聞こえる気がした。
美咲は不安になった。もしかして、本当に何かトラブルが起きているのではないだろうか。
しかし、夜中に隣人の家を訪ねるのは適切ではない。美咲は迷いながらも、朝まで待つことにした。
翌朝、美咲は寝不足で頭がぼんやりしていた。コーヒーを飲んで頭をすっきりさせてから、出勤の準備をした。
廊下で山田と出会った時、美咲は勇気を出して尋ねてみた。
「昨夜、お隣から音が聞こえたので心配していました」
山田は少し戸惑ったような表情を見せた。
「申し訳ございません。家内の容態が急変して、慌てていました」
「大丈夫でしたか?」
「はい、なんとか落ち着きました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
山田の説明に、美咲は一応納得した。しかし、何となく釈然としない気持ちが残った。
会社に着いた美咲は、佐藤に相談してみた。
「隣の人のことで、少し気になることがあって」
「どんなこと?」
「夜中によく物音がするの。奥さんが病気だからかもしれないけど」
佐藤は眉をひそめた。
「それは気になるね。どんな音?」
「何かを引きずるような音とか、時々大きな物音とか」
「うーん、確かに不審ね。もしかして」
佐藤は声を潜めた。
「前に言ったことを覚えてる?隣人は一番危険な立場にいるって」
美咲は首を振った。
「山田さんは本当に良い方です。そんなことを疑うのは失礼です」
「でも用心するに越したことはないよ。特に最近、近くで事件が起きてるんでしょう?」
美咲は佐藤の言葉に複雑な気持ちになった。確かに最近の山田の様子は、以前と少し違う気がする。しかし、それは奥さんの病気が原因かもしれない。
「もう少し様子を見てみます」
「そうね。でも本当に何かあったら、すぐに警察に連絡するのよ」
その日の昼休み、美咲は近所を散歩していた。商店街を歩いていると、張り紙が目に留まった。
「尋ね人」の文字と、若い女性の写真が掲載されている。見覚えのある顔だった。最近ニュースで見た、行方不明になった女性だった。
美咲は張り紙をじっくり読んだ。女性の名前は田村由美、二十五歳。先月の二十五日から行方不明になっている。最後に目撃されたのは、美咲の住む駅の近くだった。
美咲は胸が締め付けられる思いがした。自分と同世代の女性が、こんなに身近な場所で姿を消している。他人事ではない。
その時、ふと山田のことを思い出した。彼は最近の事件について詳しく知っているようだった。近隣の治安情報に敏感な人なのかもしれない。
美咲は張り紙をもう一度見た。田村由美さんは、美咲によく似た雰囲気の女性だった。同じような年齢で、同じような髪型。一人暮らしの会社員という共通点もある。
美咲は不安になった。もしかして、自分も狙われる可能性があるのではないだろうか。
その夜、美咲は山田に相談してみることにした。彼なら適切なアドバイスをくれるかもしれない。
午後八時頃、山田の部屋を訪ねた。ドアチャイムを鳴らすと、しばらくしてから山田が出てきた。
「田中さん、どうかされましたか?」
山田の表情は疲れているように見えた。
「商店街で尋ね人の張り紙を見たんです。近くで行方不明の事件があったようで」
山田の表情が少し変わった。
「ああ、その件ですね。確かに心配な事件です」
「私も気をつけなければと思って」
「そうですね。田中さんのような女性は特に注意が必要です」
山田は真剣な表情で言った。
「何か対策を考えた方が良いでしょうか?」
「そうですね。まず、帰宅時間を一定にしないこと。それから、必ず明るい道を通ること」
山田のアドバイスは的確だった。
「あと、できれば誰かに迎えに来てもらうのが一番安全です」
「そうですね。ありがとうございます」
美咲は山田の親身なアドバイスに感謝した。やはり彼は信頼できる人だ。
その時、山田の部屋の奥から微かに音が聞こえた。奥さんが動いているのかもしれない。
「奥様の調子はいかがですか?」
美咲が尋ねると、山田は少し慌てたような様子を見せた。
「ええ、まあ、だいぶ良くなりました」
「それは良かったです」
山田はそれ以上話を続けようとしなかった。美咲は自分の部屋に戻った。
その夜、美咲は山田のアドバイス通り、防犯対策について考えてみた。確かに最近、帰宅時間が一定になりがちだった。もう少しランダムにした方が良いかもしれない。
そして、できるだけ明るい道を通ること。これまでも気をつけていたが、より意識する必要がある。
美咲は護身用のブザーを購入することも考えた。何かあった時に、音で助けを求めることができる。
そんなことを考えていると、隣の部屋から再び音が聞こえてきた。今度は足音のようだった。山田が部屋の中を歩き回っているのかもしれない。
音はしばらく続いた後、急に静かになった。美咲は特に気にせず、ベッドに入った。
しかし、なかなか眠りにつけなかった。行方不明事件のことが頭から離れない。田村由美さんは今、どこで何をしているのだろう。無事でいてほしいと心から願った。
午前二時頃、美咲はふと目を覚ました。廊下で足音が聞こえたような気がしたのだ。
ベッドから起き上がり、ドアスコープから廊下を覗いてみた。非常灯の薄明かりで、廊下はいつものように静まり返っている。
しかし、エレベーターのボタンが光っているのに気づいた。誰かが使ったのかもしれない。
美咲は時計を確認した。午前二時十五分。こんな時間にエレベーターを使う人がいるとは珍しい。緊急事態でもあったのだろうか。
美咲は再びベッドに戻った。きっと他の住人が何かの事情で外出したのだろう。深く考えることではない。
しかし、なぜか心がざわついていた。最近の山田の様子、近隣の事件、そして深夜の足音。すべてが繋がっているような、不安な予感がした。
美咲は自分に言い聞かせた。考えすぎだ。山田は親切な隣人で、何も疑う理由はない。奥さんの看病で大変な時期なのだから、多少の物音は仕方がない。
それでも、不安は完全には拭えなかった。美咲は護身用ブザーの購入を、明日にでも実行しようと決めた。
## 第五章 真実への扉
翌日、美咲は会社帰りに護身用グッズを購入した。小型のブザーと、催涙スプレー。店員の女性は親身になって説明してくれた。
「最近、物騒ですからね。女性の一人歩きは本当に危険です」
「そうですね。近所でも事件があったようで」
「ええ、ニュースで見ました。気をつけてくださいね」
美咲は防犯グッズをバッグに入れて、少し安心感を得た。これで何かあっても、ある程度は対処できるだろう。
帰宅は午後八時頃だった。マンションの駐車場で、山田が車を洗っているのを見かけた。
「お疲れさまです」
美咲が声をかけると、山田は振り返った。いつものような笑顔だったが、どこか疲れているように見えた。
「お疲れさまです。今日も遅いお帰りですね」
「仕事が立て込んでいまして」
山田は車のボディを磨きながら答えた。夕暮れの光で、車の黒いボディが鈍く光っている。
「いつもきれいにされていますね」
「車は大切にしないと、すぐに汚れてしまいますから」
山田の手は止まることなく、丁寧に車を磨いている。几帳面な性格が表れている。
「奥様の調子はいかがですか?」
美咲が尋ねると、山田の手が一瞬止まった。
「ええ、おかげさまで」
短い返答だった。以前のような詳しい説明はない。
美咲は何となく違和感を覚えたが、深く追求することはしなかった。プライベートなことを詮索するのは適切ではない。
「それでは、お疲れさまでした」
「はい、お気をつけて」
部屋に戻った美咲は、購入した防犯グッズをすぐに取り出せる場所に置いた。枕元とバッグの中、そして玄関にも一つ。これで万が一の時も対応できる。
その夜、美咲はテレビでニュースを見ていた。田村由美さんの事件について、新しい情報が報道されていた。
警察は周辺の防犯カメラ映像を解析し、不審な車両の存在を確認したという。黒いセダンタイプの車が、事件当夜に現場周辺を何度も通過していたらしい。
美咲は画面に映る車の映像を見て、どきりとした。山田の車によく似ている。色も形も、ほぼ同じように見える。
しかし、黒いセダンなど珍しくない。同じような車は街中にたくさん走っている。偶然の一致に過ぎないだろう。
それでも、美咲の心に小さな疑念の種が芽生えた。最近の山田の様子、深夜の物音、そして奥さんの病気。すべてが少しずつ符合しているような気がする。
美咲は自分の考えを振り払おうとした。山田を疑うなんて、とんでもないことだ。彼はこれまで親切にしてくれた恩人のような存在だ。
その時、隣の部屋から音が聞こえてきた。いつものような、何かを引きずる音だった。
美咲は立ち上がって、壁に耳を当てた。確かに何かの音がしている。しかし、以前より小さく、短時間で終わった。
音が止むと、山田の声が聞こえた気がした。誰かと話しているようだが、内容は分からない。
美咲は複雑な気持ちになった。奥さんと話しているのなら良いが、もし他の誰かと話しているとしたら...
そんなことを考えている自分が嫌になった。美咲は部屋の反対側に移動し、音が聞こえないようにした。
翌朝、美咲は少し早めに出勤した。エレベーターホールで山田と出会った。
「おはようございます。今日は早いですね」
「会議の準備があるので」
山田はいつものように親切だった。しかし、美咲には以前のような安心感がなかった。
「最近のニュースを見ましたか?例の事件で、不審な車の情報が出ていました」
美咲は試すように言ってみた。
「ええ、見ました。黒いセダンでしたね」
山田は平静に答えた。特に動揺している様子はない。
「山田さんの車と似ていませんでしたか?」
「確かに似ていましたね。しかし、あの手の車は街中にたくさんありますから」
山田の答えは冷静だった。疑われることを特に気にしている様子もない。
美咲は少し安心した。やはり考えすぎだったのかもしれない。
会社に着いた美咲は、同僚の林に相談してみた。
「最近、隣の人のことで悩んでるの」
「どうしたの?」
「すごく親切にしてくれるんだけど、最近ちょっと様子が変で」
林は興味深そうに聞いた。
「どんな風に変なの?」
「夜中に物音がしたり、奥さんが病気だって言ってるのに姿を見ないとか」
「それは確かに変ね。もしかして」
林は声を潜めた。
「奥さん、本当にいるの?」
美咲はハッとした。その可能性を考えたことがなかった。
「まさか、そんな」
「でも考えてみて。あなた、奥さんに会ったことある?」
美咲は記憶を辿った。確かに、山田の奥さんに直接会ったことはない。一度だけドア越しに話したことがあるが、顔は見ていない。
「一度だけ、ドア越しに話したことがあります」
「顔は見た?」
「いえ、見ていません」
林は眉をひそめた。
「それは怪しいわね。本当に存在するのかしら」
美咲は困惑した。そんな可能性を考えたことがなかった。でも、確かに奥さんの存在を直接確認したことはない。
「でも、病気の話とか、手料理とか」
「全部山田さんが作ったり、嘘をついたりしてるかもしれないじゃない」
林の指摘に、美咲は頭が混乱した。
「そんな、まさか」
「疑えって言ってるわけじゃないの。でも用心した方が良いんじゃない?」
美咲は複雑な気持ちになった。山田を疑いたくないが、林の指摘も一理ある。
その日の夕方、美咲は早めに帰宅した。山田の奥さんの存在を確認してみたかった。
マンションに着くと、山田が郵便ボックスの前に立っていた。
「お疲れさまです。今日は早いですね」
「少し体調が優れなくて、早退しました」
美咲は嘘をついた。山田の反応を見たかったのだ。
「それは心配ですね。お大事にしてください」
山田は心配そうな表情を見せた。
「奥様にも、よろしくお伝えください」
「ええ、伝えておきます」
山田の答えは自然だった。特に動揺している様子はない。
美咲は自分の部屋に戻った。やはり考えすぎなのかもしれない。山田の奥さんは確実に存在しているのだろう。
その夜、美咲は山田の部屋の様子を注意深く観察してみた。夕食時になると、確かに二人分の料理を作っているような音がする。食器の音も複数聞こえる。
これなら間違いない。奥さんは確実に存在している。
しかし、午後十時頃になると、再び例の音が聞こえてきた。何かを引きずるような音だった。
美咲は耳を澄ませた。今度は以前より長く続いている。そして、時々男性の声も聞こえる。
山田の声のようだが、何を言っているかは分からない。しかし、何かに対して指示を出しているような口調だった。
美咲は不安になった。もしかして、本当に何かが起きているのではないだろうか。
その時、女性の声のようなものが聞こえた気がした。しかし、非常に微かで、確信は持てない。
美咲は立ち上がって、壁に耳を当てた。確かに何かの音がしている。しかし、詳細は分からない。
音は午前零時頃まで断続的に続いた。美咲は不安で眠れなかった。
翌朝、美咲は寝不足で頭がぼんやりしていた。昨夜の音が気になって仕方がない。
出勤途中、美咲は意を決して山田に尋ねてみた。
「昨夜、お隣から音が聞こえましたが、何かありましたか?」
山田は少し戸惑ったような表情を見せた。
「申し訳ございません。家内の具合が悪くて、看病で忙しくしていました」
「そうでしたか。大丈夫でしたか?」
「はい、なんとか落ち着きました」
山田の説明は一応納得できるものだった。しかし、美咲には釈然としない気持ちが残った。
会社に着いた美咲は、佐藤に相談してみた。
「隣の人のことで、ちょっと心配なことがあって」
「どんなこと?」
「奥さんが病気だって言ってるんだけど、直接会ったことがないの」
佐藤は眉をひそめた。
「それは確かに変ね。どのくらい隣に住んでるの?」
「一か月くらいです」
「一か月も隣に住んでて、奥さんに会ったことがないなんて、確かにおかしいわね」
佐藤の指摘に、美咲は改めて疑念を抱いた。
「でも、病気で寝込んでるから外出しないのかもしれません」
「そうかもしれないけど、でも一度くらいは顔を合わせそうなものよね」
美咲は困惑した。確かに佐藤の言う通りだ。一か月も隣に住んでいて、一度も奥さんに会わないのは不自然かもしれない。
「どうしたら良いでしょうか?」
「直接確認してみたら?お見舞いに行くとか言って」
佐藤の提案に、美咲は躊躇した。
「それは失礼ではないでしょうか?」
「でも心配してるって言えば、自然じゃない?」
美咲は佐藤の提案を検討してみた。確かに、お見舞いという名目なら自然だろう。
その日の帰り道、美咲は山田の奥さんへのお見舞いの品を買った。高級なフルーツゼリーと、きれいな花束。少しでも気分が良くなってもらえればと思った。
帰宅後、美咲は意を決して山田の部屋を訪ねた。午後八時頃、ドアチャイムを鳴らした。
しばらくしてから山田が出てきた。いつものような笑顔だったが、少し慌てているように見えた。
「田中さん、どうかされましたか?」
「奥様のお見舞いに伺いました」
美咲は持参した品物を差し出した。
山田は少し戸惑ったような表情を見せた。
「ご丁寧にありがとうございます。しかし、家内は今、少し人に会える状態ではなくて」
「そうですか。それでは、これだけでもお渡しできればと思います」
美咲は粘り強く申し出た。
「申し訳ございませんが、家内は今日は特に具合が悪くて。またの機会にお願いできればと思います」
山田は丁寧に断った。その表情には、明らかに困惑の色があった。
美咲は仕方なく引き下がった。しかし、山田の様子にさらなる疑念を抱いた。
部屋に戻った美咲は、持参した品物を見つめながら考えた。山田はなぜあんなに慌てていたのだろう。本当に奥さんがいるなら、顔を見せなくても品物だけ受け取ることはできるはずだ。
美咲は不安になった。もしかして、林や佐藤の言う通り、奥さんは存在しないのかもしれない。
その夜、美咲は山田の部屋の様子を注意深く観察した。夕食時の音、テレビの音、そして例の物音。
すべてを総合すると、確かに一人で生活しているような印象を受ける。二人分の生活音が聞こえるとは言い難い。
美咲は震え上がった。もし本当に奥さんが存在しないとすれば、山田はなぜ嘘をつく必要があるのだろう。そして、深夜の物音の正体は何なのだろう。
恐ろしい想像が頭をよぎった。近隣で起きている事件、山田の不審な行動、そして存在しない奥さん。すべてが繋がっているような気がしてきた。
美咲は慌てて携帯電話を手に取った。警察に連絡すべきだろうか。しかし、確たる証拠があるわけではない。単なる疑いだけで通報するのは適切ではないかもしれない。
美咲は迷いながらも、とりあえず友人に相談することにした。
「もしもし、佐藤さん?すみません、夜遅くに」
「美咲ちゃん?どうしたの?」
「隣の人のことで、ちょっと心配なことがあって」
美咲は今日の出来事を説明した。佐藤は真剣に聞いてくれた。
「それは確かに怪しいわね。奥さんに会わせてもらえないなんて」
「どうしたら良いでしょうか?」
「うーん、難しいわね。でも用心するに越したことはないよ。今夜は鍵をしっかりかけて寝なさい」
「はい、そうします」
美咲は電話を切った後、すぐに玄関の鍵を確認した。チェーンロックもかけ、窓の鍵も念入りにチェックした。
その夜、美咲は防犯ブザーを枕元に置いて眠った。何かあったら、すぐに音を鳴らすつもりだった。
しかし、なかなか眠りにつけなかった。隣の部屋から聞こえる音が、以前より不気味に感じられる。
午前一時頃、特に大きな音がした。美咲は飛び起きて、壁に耳を当てた。
確かに何かの音がしている。そして、男性の声も聞こえる。山田の声のようだが、いつもより興奮しているような調子だった。
美咲は恐怖で震え上がった。もしかして、本当に何かが起きているのではないだろうか。
その時、廊下で足音が聞こえた。誰かが歩いているようだ。
美咲は慌ててドアスコープから廊下を覗いた。薄暗い廊下を、人影が歩いているのが見えた。
山田だった。何かを引きずるように歩いている。
美咲は息を詰めて見守った。山田はエレベーターの方向に向かい、やがて姿が見えなくなった。
美咲は震え上がった。深夜に何を運んでいるのだろう。そして、それは一体何なのだろう。
恐ろしい想像が頭をよぎった。もしかして、それは...
美咲は考えるのをやめた。今すぐ警察に連絡しなければならない。これ以上放置するわけにはいかない。
美咲は震える手で携帯電話を取り、110番に電話をかけようとした。しかし、その時、ドアチャイムが鳴った。
午前一時半、こんな時間に誰が来るのだろう。
美咲は恐る恐るインターホンで確認した。
「田中さん、山田です」
山田の声だった。
美咲は凍りついた。なぜこんな時間に山田が来るのだろう。もしかして、自分の行動に気づかれたのだろうか。
「こんな時間にどうかされましたか?」
美咲は震え声で答えた。
「申し訳ございません。実は、お願いがあってお伺いしました」
山田の声は普段通りの穏やかな調子だった。しかし、美咲には不気味に聞こえた。
「明日でも良いのではないでしょうか?」
「いえ、緊急の用件でして。少しだけお時間をいただけませんでしょうか」
美咲は迷った。ドアを開けるべきではないかもしれない。しかし、断り続けるのも不自然だ。
「分かりました。少しお待ちください」
美咲は防犯ブザーを手に握り、恐る恐るドアを開けた。
山田は普段通りの服装で、笑顔で立っていた。しかし、その笑顔がいつもより不気味に見えた。
「こんな時間に申し訳ございません」
「いえ、どういったご用件でしょうか?」
美咲は警戒しながら尋ねた。
「実は、家内のことでご相談があります」
山田は深刻な表情を見せた。
「どういったことでしょうか?」
「家内が、田中さんにお会いしたがっているんです」
美咲は驚いた。さっきは人に会える状態ではないと言っていたのに。
「でも、体調が悪いとおっしゃっていましたが」
「ええ、確かに体調は優れません。しかし、どうしても田中さんにお礼を言いたいと申しまして」
山田の説明に、美咲は違和感を覚えた。
「お礼などとんでもないことです」
「いえいえ、家内がどうしてもと申しますので。少しだけでも、お顔を見せていただけませんでしょうか」
山田は真剣な表情で頼んだ。
美咲は迷った。奥さんの存在を確認できる絶好の機会だ。しかし、深夜にこんな申し出をするのは不自然すぎる。
「明日の昼間ではいけないでしょうか?」
「申し訳ございませんが、家内の容態が不安定で、明日まで持つかどうか分からないんです」
山田は切羽詰まったような表情を見せた。
美咲は困惑した。もし本当に奥さんの容態が危険だとすれば、今会わないと後悔するかもしれない。しかし、何かの罠である可能性も否定できない。
「分かりました。少しだけでしたら」
美咲は意を決して答えた。防犯ブザーを手に握り、いざという時はすぐに鳴らすつもりだった。
山田は安堵の表情を見せた。
「ありがとうございます。家内も喜びます」
二人は山田の部屋に向かった。美咲の心臓は激しく鼓動していた。
## 第六章 闇の正体
山田の部屋のドアが開かれた瞬間、美咲は異様な臭いに気づいた。消毒薬のような、それでいて何か別の臭いが混じったような、独特の臭いだった。
「どうぞ、お入りください」
山田は丁寧に美咲を部屋に招き入れた。リビングは薄暗く、間接照明だけが点いている。
「奥様はどちらに?」
美咲が尋ねると、山田は奥の部屋を指差した。
「寝室におります。体調が悪いので、横になったままお話しさせていただければと思います」
美咲は頷いた。心臓の鼓動が激しくなるのを感じながら、山田の後について寝室に向かった。
寝室のドアが開かれると、さらに強い臭いが鼻を突いた。美咲は思わず顔をしかめた。
「家内です」
山田が電気をつけると、ベッドに横たわる女性の姿が見えた。
美咲は息を呑んだ。
ベッドに横たわっているのは、確かに女性だった。しかし、その女性の顔は異常に青白く、目は閉じられている。呼吸をしているのかどうかも分からない。
「奥様?」
美咲が恐る恐る声をかけても、女性は反応しない。
「少し薬の影響で、意識が朦朧としています」
山田が説明した。しかし、その説明は美咲には納得のいくものではなかった。
美咲は女性をよく見てみた。その瞬間、恐ろしい事実に気づいた。
その女性の顔は、美咲が商店街で見た尋ね人の写真の顔だった。田村由美さんの顔だった。
美咲は声にならない悲鳴を上げそうになった。しかし、必死に自分を抑制した。今ここで動揺を見せるのは危険すぎる。
「あの、お暇させていただきます」
美咲は震え声で言った。
「そうですか。家内も田中さんにお会いできて喜んでいると思います」
山田は穏やかに答えた。しかし、その目には冷たい光が宿っていた。
美咲は急いで部屋を出ようとした。しかし、山田が出口を塞ぐように立った。
「田中さん、実はもう一つお話があります」
山田の声が変わった。いつもの穏やかな調子ではない。
美咲は防犯ブザーを握りしめた。
「何でしょうか?」
「あなたは見てしまった」
山田の目が急に鋭くなった。
「何を見たというのでしょうか?」
美咲は必死に平静を装った。
「由美さんの顔を」
山田の口から、信じられない言葉が出た。
美咲は凍りついた。山田は田村由美さんを知っている。いや、それ以上の関係があるということだ。
「私には分かりません」
美咲は必死に嘘をついた。
「嘘をつくのはよくありませんね、美咲さん」
山田は美咲の名前を呼んだ。その声には、恐ろしい親しみやすさがあった。
「あなたはずっと疑っていたでしょう?私の行動を、妻の存在を」
山田は一歩美咲に近づいた。
「そんなことは」
「夜中に聞こえる音、不審に思っていたでしょう?」
山田の笑顔が歪んだ。
美咲は後ずさりした。しかし、すぐに壁に背中がぶつかった。
「あの音の正体を教えてあげましょう」
山田は楽しそうに言った。
「由美さんが暴れるんです。縛っていても、時々激しく動くんです。それで音がするんです」
美咲は恐怖で震え上がった。
「最初は駅前で声をかけたんです。『車で送ってあげますよ』って。親切な隣人として」
山田は自分の犯行を楽しそうに語り始めた。
「由美さんは最初警戒していましたが、私の人当たりの良さに安心してくれました」
美咲は必死に逃げ道を探した。しかし、山田が出口を塞いでいる。
「車の中で眠らせて、ここに連れてきました。そして、ゆっくりと楽しませてもらいました」
山田の表情は完全に変わっていた。普段の温和さは微塵もない。
「でも、由美さんももう限界です。だから、次の人を探していたんです」
山田の視線が美咲に向けられた。
「そこに、あなたが現れた。若くて、美しくて、一人暮らし。完璧でした」
美咲は防犯ブザーのボタンに指をかけた。
「最初からあなたを狙っていたんです。親切な隣人を演じて、あなたの警戒心を解くために」
山田は一歩ずつ美咲に近づいてくる。
「でも、あなたは思ったより疑り深かった。なかなか隙を見せてくれない」
美咲は思い切って防犯ブザーのボタンを押した。
けたたましい音が部屋に響いた。
山田は一瞬驚いたが、すぐに美咲の手からブザーを奪い取った。
「無駄ですよ。この部屋は防音加工してあるんです」
山田は冷笑した。
美咲は絶望的な気持ちになった。誰も助けに来てくれない。
「さあ、由美さんの隣で静かにしていてください」
山田が美咲に手を伸ばした。
その時、美咲は最後の力を振り絞って山田の手を振り払い、部屋から飛び出した。
廊下に出た美咲は、必死に自分の部屋に向かって走った。
「逃げても無駄ですよ、美咲さん」
後ろから山田の声が聞こえる。
美咲は自分の部屋のドアに辿り着き、震える手で鍵を開けようとした。しかし、恐怖で手が震えて、なかなか開かない。
「美咲さん」
山田の声がすぐ背後に迫っている。
美咲はようやく鍵を開けて部屋に飛び込んだ。すぐにドアを閉めて、チェーンロックをかけた。
「開けてください、美咲さん」
山田がドアを叩いている。
美咲は震え上がって、携帯電話で110番に電話をかけた。
「警察ですか?助けてください!隣人に襲われそうです!」
美咲は住所を伝えて、すぐに来てもらうよう頼んだ。
「分かりました。すぐに向かいます」
オペレーターの声に、美咲は少し安心した。
しかし、山田は諦めていなかった。
「美咲さん、ドアを開けてください。話し合いましょう」
山田の声は再び穏やかになっていた。まるで何事もなかったかのように。
「警察を呼びました」
美咲は震え声で言った。
「それは困りましたね」
山田の声が変わった。今度は明らかに焦りの色があった。
美咲はドアスコープから廊下を覗いた。山田は自分の部屋に戻っていくところだった。
きっと証拠隠滅を図るつもりだ。田村由美さんが危険だ。
美咲は再び警察に電話をかけた。
「先ほど通報した者です。隣の部屋に行方不明の女性が監禁されている可能性があります」
美咲は田村由美さんのことを伝えた。
「分かりました。急行します」
十分後、サイレンの音が聞こえてきた。美咲は心の底から安堵した。
警察が到着すると、美咲は事情を詳しく説明した。警察は山田の部屋に踏み込んだ。
山田は抵抗することなく逮捕された。そして、寝室で田村由美さんが発見された。彼女は意識不明の重体だったが、一命を取り留めた。
後の調べで、山田は過去にも複数の女性を誘拐・監禁していたことが判明した。親切な隣人を装って近づき、信頼を得てから犯行に及ぶという手口だった。
美咲が住んでいたマンションの地下には、山田が作った隠し部屋があった。そこには、これまでの被害者の遺品が保管されていた。
山田雄一、五十三歳。表向きは穏やかな中年男性だったが、実際は冷酷な連続殺人犯だった。彼には妻などいなかった。すべては犯行を隠すための偽装だった。
美咲は事件の後、そのマンションから引っ越した。しばらくは恐怖で夜も眠れない日が続いたが、カウンセリングを受けて徐々に回復していった。
田村由美さんも懸命のリハビリの末、日常生活に戻ることができた。二人は事件をきっかけに親しくなり、互いの心の支えとなった。
この事件は、親切さの仮面を被った悪意の恐ろしさを社会に知らしめた。近隣住民との適度な距離感の大切さ、そして女性の一人暮らしにおける防犯意識の重要性が改めて問われることとなった。
美咲は今でも時々、山田の穏やかな笑顔を思い出すことがある。あの笑顔の裏に、これほど恐ろしい本性が隠されていたとは。人間の心の闇の深さに、改めて背筋が凍る思いがする。
しかし、美咲は同時に人間の善意も信じている。事件の後、多くの人が美咲を支えてくれた。同僚の佐藤や林、友人たち、そして田村由美さん。人間には闇もあるが、光もある。
美咲は新しい住居で、新しい生活を始めた。今度は防犯対策を十分に整え、近隣住民とは適度な距離を保ちながら。
それでも時々、美咲は考える。もし自分があの夜、山田の部屋に行かなかったら。もし疑いを持たずに彼を信じ続けていたら。想像するだけで恐ろしい。
事件から一年が過ぎた今、美咲は編集者として順調にキャリアを積んでいる。あの恐怖の体験は、彼女を強くした。人を見る目も、以前より鋭くなった。
美咲は決心している。二度と、あのような目に遭わないために。そして、同じような被害者を出さないために。自分の体験を多くの人に伝えていこうと。
親切さは美しいものだ。しかし、その裏に隠された悪意を見抜く力も必要だ。美咲はその教訓を、生涯忘れることはないだろう。
夜の静寂の中で、美咲は時々思い出す。山田の優しい笑顔を。あの親切な隣人の仮面を。そして、人間の心に潜む闇の深さを。
しかし、美咲は負けない。恐怖に支配されることなく、自分らしく生きていくのだ。光と闇の間で、光を選び続けるのだ。
それが、美咲が学んだ最も大切な教訓だった。
## エピローグ 新しい朝
事件から三年が経った。美咲は新しい街で、新しい生活を築いていた。あの恐怖の記憶は薄れることはないが、それに支配されることもなくなった。
編集者としての仕事は順調で、責任ある立場を任されるようになった。プライベートでは、田村由美さんとの友情が続いている。同じ体験を共有した二人は、互いの心の支えとなっていた。
美咲の新しい住まいは、セキュリティの整ったマンションの上層階だった。近隣住民とは挨拶程度の関係を保ち、適度な距離を維持している。
時々、美咲は山田のことを思い出す。あの穏やかな笑顔、親切な言葉、そして隠された恐ろしい本性。人間の二面性の恐ろしさを、身をもって体験した。
しかし、美咲は同時に学んだ。人間には光と闇の両面があるが、最終的に選択するのは自分自身だということを。山田は闇を選んだ。しかし、美咲は光を選び続ける。
ある春の朝、美咲は窓から外を眺めていた。桜が満開に咲いている。新しい季節、新しい始まり。美咲は深く息を吸った。
今日もまた、新しい一日が始まる。希望に満ちた一日が。
美咲は微笑んだ。恐怖の記憶を乗り越えて、彼女は強くなった。そして、その強さを多くの人と分かち合いたいと思っている。
玄関のドアを開けると、廊下に近隣住民の男性が立っていた。美咲は一瞬身構えたが、その男性は軽く会釈をして通り過ぎていった。
美咲は安堵の息をついた。過度な警戒は必要ない。しかし、適度な注意は怠らない。それが、美咲が学んだバランス感覚だった。
エレベーターで一階に降り、外に出る。春の陽射しが心地よい。美咲は歩きながら考えた。
人間関係は複雑だ。信頼と疑い、親切と悪意、光と闇。その中で生きていくには、智恵と勇気が必要だ。
美咲は自分の体験を本にしようと考えていた。同じような被害に遭う人を減らすために。そして、闇に負けない強さを多くの人に伝えるために。
駅に向かう道すがら、美咲は周囲を観察した。通りを歩く人々、店先で働く人々、子どもたちの笑い声。日常の風景の中に、様々な人生が息づいている。
その中には、きっと善良な人も悪意を持つ人もいるだろう。しかし、美咲はもう怖くない。適切な判断力と行動力を身につけたから。
電車に乗り、窓の外を眺める。街並みが流れていく。どこかで新しい出会いがあり、新しい物語が始まっている。
美咲の物語も続いていく。恐怖を乗り越えた先にある、希望の物語が。
会社に着くと、同僚たちが温かく迎えてくれた。美咲は感謝の気持ちでいっぱいになった。人間の善意を信じる心を、彼女は失わずにいた。
仕事に集中している時、美咲は時々山田のことを思い出す。しかし、もう恐怖はない。憎しみもない。ただ、人間の心の複雑さへの理解があるだけだ。
昼休み、美咲は田村由美さんと電話で話した。
「調子はどう?」
「おかげさまで、順調です。新しい職場にも慣れました」
由美さんの声は明るかった。彼女もまた、恐怖を乗り越えて新しい人生を歩んでいる。
「今度、一緒に食事しませんか?」
「ぜひ。楽しみにしています」
二人の友情は、あの恐ろしい体験から生まれた。闇の中で見つけた光だった。
夕方、美咲は帰宅の途についた。今日も充実した一日だった。仕事の成果、同僚との交流、由美さんとの会話。すべてが美咲の人生を豊かにしている。
マンションに着くと、エントランスで管理人と挨拶を交わした。適度な距離感を保ちながら、礼儀正しく。それが美咲のスタイルだった。
部屋に入り、窓を開けて新鮮な空気を取り込む。夕日が美しい。美咲は深く息を吸った。
今夜も平和に過ごせそうだ。恐怖のない、静かな夜を。
美咲は料理を始めた。一人暮らしの楽しみの一つだ。自分のペースで、好きなものを作る。
テレビをつけると、ニュースが流れている。世界では様々な出来事が起きている。良いことも、悪いこともある。それが現実だ。
しかし、美咲は希望を失わない。一人一人が善意を選択すれば、世界はもっと良くなるはずだ。
夕食を終えた美咲は、執筆を始めた。自分の体験を本にするための作業だ。多くの人に読んでもらいたい。同じような被害を防ぎたい。
キーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。美咲の思いが、文字となって画面に現れる。
「人間の心には光と闇がある。しかし、最終的に選択するのは自分自身だ。私たちは光を選ぶことができる」
美咲の指が止まることはない。伝えたいことが山ほどある。恐怖の体験、そこから学んだ教訓、そして希望のメッセージ。
時間が過ぎていく。美咲は集中して執筆を続けた。これが彼女の使命だと思っている。体験を無駄にしない、価値のあるものに変える。
深夜になっても、美咲は書き続けた。明日もまた、新しい一日が始まる。希望に満ちた一日が。
そして、美咲の物語は続いていく。闇を乗り越えた先にある、光の物語が。
窓の外では、街の明かりが静かに輝いている。無数の人々の人生が、そこにある。善良な人も、悪意を持つ人も。しかし、美咲は信じている。最終的に勝つのは光だということを。
美咲は微笑んで、執筆を続けた。自分の体験が、誰かの役に立つことを願いながら。
新しい朝が、もうすぐやってくる。希望の朝が。
美咲の人生は続いていく。恐怖を乗り越えて、より強く、より優しく。
それが、彼女が選んだ道だった。光の道だった。
【完】
この小説「隣人の笑顔」は、日常に潜む恐怖と人間の心の複雑さを描いた作品です。親切な隣人という仮面の下に隠された恐ろしい真実、そしてそれを乗り越える人間の強さを表現しました。
現代社会における近隣関係の難しさ、女性の一人暮らしにおける防犯意識の重要性、そして人間の善意と悪意の両面性などのテーマを織り交ぜています。
主人公の美咲が恐怖を乗り越えて成長していく過程を通して、読者にも希望と勇気を与えることを目指しました。闇の中にも光があることを信じ、最終的に光を選択することの大切さを伝えたいと思います。