風の隙間で
「風の隙間で」
ビルの谷間を風が抜ける。冷たく乾いたその風は、髪をかすめ、足元のアスファルトを滑るように走っていく。指先はポケットの底で何かを探すように動いているが、その動きに意味はない。ただ癖のように残った無音のリズムが、埋もれている時間を引きずり出す。それだけだった。
人波は途切れることなく流れ続けていた。行き交う顔も影も、風景の一部でしかない。視線を落とし、歩き続ける男の耳に、かすかな声が届いた。
「君は……」
足が止まる。振り返った先に、一人の女が立っていた。短い髪が風に揺れる。彼女の顔を見た瞬間、胸の奥に微かな痛みが走った。それは記憶とも幻ともつかない、言葉の届かない場所からやってきた痛みだった。
「……昔、音楽はしていましたか?」
彼女の声は、風の隙間に滑り込むように響いた。その言葉は、胸に忘れ去られた何かの名残を触れさせたようだった。だが、答えようとした唇は、ただ閉じられたままだった。
掴もうとする記憶は霧の中に溶け、追いかけるほど遠のいていく。ただ、彼女の瞳の奥に、かつて愛した何かの面影を見た気がした。
「……ごめんなさい。人違いかもしれませんね。」
女は目を伏せ、微かに笑みを浮かべた。
「それじゃ……」
女は静かに背を向け、一歩、また一歩と歩き出した。ただ、その背中を見送るだけだった。風が髪を揺らし、彼女の姿を遠ざけていく。
ふと気づけば、ポケットの中で動き続けていた指先は止まっていた。代わりに、胸の中で何かが鈍く軋む音を立てている。かつては何かがあった。だが今は、それが何だったのかすら、思い出すことができない。
彼女の言葉は、まるで散らばった断片のひとつを拾い上げるように、忘却の中に埋もれた男の一部に触れた。それでも、掴むには遠すぎた。男は再び足を動かし始める。
ビルのガラスに映る自らの姿が目に入る。そこには、疲れ果てた顔と、うつむき加減の目、ポケットに埋められたままの手があった。その影法師のような姿は、まるで内側に広がる空虚を映しているようだった。
風はまた鳴り、遠くの街の喧騒をさらっていく。その中で彼は、どこかで聞いたことのあるような旋律が、微かに流れている気がした。実際に聞こえる音なのか、それとも胸の奥で響いているものなのかはわからない。ただ、その音がどこかへ彼を導いていく気がした。
指先が、再び動き出す。ポケットの中で鍵盤をなぞるようなその動きは、まだ何も奏でない。ただ、風の中に溶けるような空白に、小さな音が滲み始めている。
男は無言で歩き続ける。その先の空を見上げることはなかった。だが、まだ形にならない旋律が、いつか音を持ち、再び響き始める日が来るかもしれない。
風は街を吹き抜けていく。男はその風に背を押されながら、音も言葉もない街を歩き続けた。未来のどこかで振り返る瞬間が訪れるのかもしれない――けれど、その時どんな顔をしているのか、それはまだ、わからなかった。