1話 死神へ祈る者
その夜、刃のように細い月を見上げる者達の姿は、闇夜に吠える狼の姿に似ていた。
冬至を過ぎてからちょうど月の満ち欠けはひと周りした頃だろうか。最も深い冬の風は、その下に生きる全てのものの身を刺すように撫でていく。
そして凍りつくように澄み切った空の上に開いた美しい隙間からは、“あちら側”の光が細く覗いている。旅立っていった多くの同胞が地上の者を喚ぶ、その声が聞こえてくるようだ。
僕達はその光を見上げて祈りを捧げる。そしてその声に向かって、誓う。……邪悪なる侵略者への復讐を。アミュテュス・サーシェ、あなた方の望むままに。今宵も多くの血が流れる……。
その舞台となったのは、森を切り拓いた平地に築かれたトレンティア軍の大規模な基地だった。元々はのどかな田舎の集落があった場所だが、今となってはその近辺に現住民の姿は無い。基地の四方には石塀が築かれ、中には百人以上ものトレンティアの軍人が詰めている。いずれはこの地方の侵略の拠点にするつもりなのだろう、基地の建築はいまだに続いているようだ。
そしてこれは、僕がヒューグ隊に所属してから初めての実戦任務でもあった。敵の基地は大規模、兵数も大勢。対してこちらの人数はわずか三十人にも満たない。……これは制圧のための戦ではない。少しでも敵の戦力を減らすための襲撃戦。当然危険は多く、勝算は薄い。その実戦を目前にして、僕はどこか遠い気分で弧月を見上げていた。
森の中に潜んで刻を待つ。誰もが集中を張り詰めている中、だからこそなのだろう、軽口で絡んでくる男がいる。
「ボウズ、いよいよ初陣だなあ。緊張のほどはどうだ」
その男は確か名前をレガンと言った。いつも息は酒臭く、すぐに暴力沙汰を起こす……あまり他の隊員にも好かれていない者のようだった。開戦を前にして張り詰めていた僕に、レガンの相手を丁寧にしてやるだけの余裕はない。
「別に」
視線さえ向けず小さく返した。レガンはなおもへらへらと笑っている。
「まだ若いのに大したモンだな。だいたいその歳でこのヒューグ隊に入るなんて気のおかしいガキもいたもんだ。まだ命を捨てるには早いんじゃねえかなあ?」
僕は何も答えないが、レガンは構うこともなく勝手に喋り続ける。
「ああ、そうだ。そういえば聞いた噂なんだが、今回の作戦にはあの“魔術師”が参加するって話だぜ? お前は聞いてたか?」
その言葉は少しだけ耳に引っかかったが、視線は向けなかった。言葉も返さずに小さく首を横に振る。……僕の知ったことではない。
「正体不明の“魔術師”とやらの腕のほどはどんなものなのか、ぜひともこの機会に見てみたいところだぜ。味方の魔法使いなんて見る機会さえなかなか無いもんなあ? もしお前が見れたら、後でどんなんだったか教えてくれよな。まあ、お互い生きて帰れたらの話だがな」
僕はやっとレガンの方を振り向いた。
「……レガン。そろそろ開戦だ。黙って」
短く言ってやると、レガンは仕方なさそうに首を振って肩を竦めた。
「かわいくねえガキだな」
やがて遠くで小さな火が灯る。……襲撃開始の合図だ。数人ずつでばらけている隊員が一斉に基地へ向かって走り出す。当然、僕も、傍らのレガンも。
中でも身軽な僕は仲間たちより抜きん出て先を駆ける。息も凍るほどの冷たい風を切って、小川を跳び超え、草木を獣のように踏み分けて、人の背丈より少し高いばかりのその石塀はすぐに眼前まで迫ってきた。
初陣……。レガンに言われた言葉をぼんやりと思い出す。緊張は、当然している。命のやりとりをするのに緊張は抜けない。実際敵基地の襲撃戦などという大規模な戦闘任務につくのは初めてだ。これまで経験してきたのはせいぜい数人規模の戦闘、偵察と暗殺……。
だけど規模が違ってもやることは変わらない。一人でも多く、目の前の敵を殺す、それだけだ。その思いを飲み込んで、ただ強く手足を動かした。
石塀の近くの木によじのぼり、そこから跳べば塀の上に足がつく。そうしていち早く敵地の中へ潜り込み、ロープを建物の柱に結びつけて外へ投げる。そうして味方を引き入れるのがまず第一の僕の役目だ。
基地の正面からは既に他の仲間が襲撃を始めている。その報を受けて、基地の中で慌ただしく動き回る敵兵の気配があった。
その松明の火が通り過ぎていくのを物陰に隠れながらやり過ごし、陰から陰へと素早く身を移しながら基地の中の様子を探った。建築途中の建物も多く、その周辺には木材や石材がうず高く積まれている様子がある。隙を見て積み上がった資材の上にまたよじ登り、今度は建物の屋根の上へどすんと降り立った。急ぎ仕立てで作った建物が大半なのだろう、造りはもろく、その木造の屋根の上は、走るにはやや心もとない感じがした。
そこに立つと基地の景色が一層広く見渡せた。建物の隙間の通路をがやがやと蠢く敵兵の姿。ところどころに灯された篝火と敵兵が持つ松明の光が、夜闇の中でそれを黒々と照らしている。基地の正面の方では既に戦闘が始まっている様子が遠くに見える。ここからでは敵も味方も分からないが。
やがて基地の一角で火が放たれるのが見えた。ここまでは、作戦通り。あとは火が回るまで時間を稼ぎ、一人でも多くの敵を殺してから……、撤退だ。
ため息を胸の中だけで吐いて、僕はゆったりと武器を構えた。暗闇の中、屋根の上に立っている僕に気付く敵はまだいない。……まずは、弓矢。携帯している短弓で打つ矢はそう遠くまでは飛ばないが、屋根の上から下にいる敵を射るぐらいならば用は足せる。
しかし矢は全部で十本しかない。極力無駄撃ちをしないように、確実に敵を狙って……、一発目を放った。その瞬間に手元で鳴く乾いた音が、僕にとっての開戦の狼煙だ。
その矢は見事に敵兵の一人に当たった。軽装で鎧も着ていない背中に矢尻が突き立ち、彼は痛みのあまりに倒れ込んだ。すぐに近くにいた敵兵がこちらを指差して喚き出した。その間に次の一撃をつがえて、もう一発。確実に狙った額の真ん中、真正面から頭蓋を砕いてその命をたちまちに奪う。
しかし更に次の一発を同じ場所で構える時間はない。すぐに敵も攻勢に出る。両手の平をこちらに突き出して、空に光の輪を広げた。……魔法攻撃だ。
すかさず僕はその場から飛び退き、隣の建物の屋根を伝って駆ける。今は足の下の屋根の脆さに気を配っている余裕はない。僕の走った後の空をすぐに、炎が球状になった塊が通り過ぎていった。
走る先の通路にも敵が複数。こちらめがけて魔法の構えを向けている。屋根の上にいられるのはここまでだ。そう判断して、僕は横に飛び退いた。
屋根から飛び降りた先にはちょうど敵兵がいる。その体を踏みつけながら着地し、胸元から抜いた短剣でその兵士の喉元を切り裂いた。
降り立った通路には前にも後ろにも敵が迫る。……やっぱり数が多すぎるな。もう弓は使えない。その場で捨て去って、短剣一本を握りしめる。
トレンティアの兵士はそのほとんどが魔法の使い手だ。遠くから火の玉を矢のように飛ばしてくる攻撃は確かに恐ろしい……しかしそれに頼っている分が多く、距離を詰めてしまえば動きは鈍い。素早く足を動かして敵の攻撃を躱しながら、建物の壁を走るように蹴って数人の敵の懐へ突っ込んだ。今度の相手は鎧を着てはいるが、懐に飛び込んでさえしまえば、短剣で鎧の隙間を狙って肉を切り裂くのもそう難しいことではなかった。
一番手前にいた兵士の、魔法を構えていた腕を左手で殴って弾き、その隙に右手で握った短剣を滑り込ませる。その時松明のぼんやりとした光の中で、苦渋に歪む敵兵の目が鮮明に見えた。……トレンティア人特有の、水色の瞳だ。その目は今、眼前にいる僕の瞳をも捉えて、何を思うのだろうか。
すぐさま近くから剣を振ってきたもうひとりの敵に向けて、斬りつけたばかりの敵の体を盾にするように突き出す。相手が戸惑っている間に足を払って転ばせ、転がった松明を蹴飛ばして飛び退いた。後ろから、魔法の火の玉がいくつか飛んできたが、幸い明後日の方向に消えていく。
松明の明かりを失って暗闇に落ちた中、敵は僕の姿を見失ったようだった。また物陰の間を縫うように移動し、距離を取る。その足音だけを頼りに追手はいくつもやってくるが、僕の身軽さと足の速さに追いつけるものはそういない。
なんとか無傷で一戦をしのいだことに一旦安堵し、物陰に潜んで息を整えた。しかし早速に弓を失って、あとは短剣での接近戦しかできない。どうしたものか、と判断に悩む。
空を仰ぐが、まだ火が回っている様子はない。……まだ、退くには早い。そう決断し、次なる敵を探して駆け出した。やがて敵の足音が近づく。
「おい、誰かいるのか」
僕の足音を聞きつけたのだろう、敵がこちらに怒号を飛ばしてくるのが聞こえた。返事はしない。やがて不審に思った敵兵が松明を掲げながらこちらに近付いてくるのを、ギリギリまで引き付けて。
陰の中から矢のように飛び出して、まずは松明を狙う。……しかし、早まったか。敵はいち早く僕の攻撃を察知し、素早く身を引いたのだ。短剣は空を切り、その眼前に、ふわりと光の線で描かれた魔法陣が浮かんだ。
咄嗟に足元の地面に突っ伏す。頭上を熱の塊が通り過ぎていくのを見計らって、弾けるようにまた跳び上がる。敵は僕の頭突きを見事に顎に食らって怯んだ。頭頂がずきずきと痛むのには構わず、そこを狙って、今度は確実に短剣を振る。喉元を切り裂くと、派手に上がった血しぶきが僕の前髪を濡らした。
そして倒れた敵のすぐ向こうにまだ敵がいる。すでに剣を真上から振りかぶっていた。咄嗟に構えた短剣でその攻撃を受け止める。至近で剣を交えた間で、憎しみのこもった碧眼が同じ色の眼差しとぶつかり合う……。
交戦の音を聞きつけて駆けてくるのは敵ばかりだ。後ろから気配。しかし、目の前の敵の剣を受け止めたままで、すぐには動けない。瞬時にして、ぞわりと敗北の予感が訪れた。……多勢に無勢、というところか。
ふっと、後ろから光が差すのがわかった。同時に言い得ぬ奇妙な悪寒も襲ってくる……魔法陣の光だ。今からでは避けられないか。そう悟って、僕はぐっと歯を食いしばった。……ここで、死ぬのか。
次の瞬間に背後の魔法陣から放たれた炎の矢は、強い熱量を持って僕の背中から……、脇を、通り過ぎて、目の前で剣を握っていたトレンティア人の脇腹に直撃した。
「ぬわっ!?」
トレンティア人は混乱した悲鳴を上げて怯んだ。瞬間に僕は息を呑む。背後にいる敵兵の魔法攻撃に襲われ、その時僕の敗北は決したかに思われた……それが、どうなった? すぐに理解は追いつかなかった。どうやら敵は僕ではなく、味方であるはずのトレンティア兵を撃った……狙いが下手だったのか。
分からない。単なる幸運であったにせよ、その隙を利用しない手はない。僕はすかさず目の前で怯んだ敵に斬りかかり、鎧の隙間から腕の関節を刺して倒した。そうしている間にも、幸い背後から次の攻撃が飛んでくることはなかった。
すぐに体を切り返し、脇の建物の壁に背をついて、後ろにいるはずの敵兵を視認する。確かにそこにはトレンティア兵が一人、暗闇の中でぬっと突っ立っていた。しかし僕が短剣を構えて飛びかかろうと身を屈めるなり、声を上げたではないか。
「待て待て、俺は味方だ、攻撃するな!」
ぎょっとして足をつんのめらせた。普通であれば敵の言葉になど耳を貸さない……しかし確かに今しがた、彼は僕ではなく敵を攻撃した、その実感があったからその時は踏みとどまった。短剣を構えたままで。
「ヒューグ隊の隊員だろ? サーシェ、仲間との出会いに感謝するぜ」
そのトレンティア兵は続けて言った。僕はすぐには何も言えないまま、ただ構えた短剣の切っ先とともにじりと視線を彼へと向ける。……ヒューグの名前を出すということは、本当に味方なのか? しかもサーシェと言ったその言葉は、僕達ズミの民が神に祈る時の文句だ。
だが地面に転がった松明が照らしているその顔を見ると、頭の後ろで縛っているらしい長い金色の髪、そして暗い感情を宿して揺れているのは青い瞳……。髪も目も黒色のズミ人とは全く違う、紛うことなきトレンティア人の容貌だ。着ている服は他の兵士と同じ兵装ではないようだが……。
「……トレンティア人が?」
僕はようやくそう声を上げた。トレンティア人の男は両手を広げて、楽しそうに首を振って見せた。
「トレンティア人にだっていろいろいるからな。……なあ、奇遇じゃないか?」
そしてにやりと笑って、青い色の瞳を向けてくる。それは緊張のために見開いた僕の……同じ色の目を捉えたのだろう。
「僕はトレンティア人じゃない」
すぐに目を伏せて、そう吐き捨てるように言った。男はニヤニヤと笑ったままだ。
「混血なのか? 珍しいな」
それには返事をせず、フンと息を吐いて顔を逸らした。男は構わず話し続ける。
「……それで、見たところ一人のようだな。他の仲間とははぐれたのか?」
「僕はもともと単独行動だ」
「へえ? まだ若く見えるが、随分腕が立つんだな。ちょうどいいや、俺は組んでたやつがやられちまって……一人じゃ心もとなかったんだ。こっから俺の補佐を頼むぜ」
トレンティア人はそう一方的に指図をしてくる。思わず眉間に皺を寄せて視線を戻した。見ず知らずの……本当に仲間かどうかも疑わしい男の指示に従うという判断にはさすがに躊躇する。
本当に味方なのか? 確かにヒューグ隊では僕は新参者で、他の隊員の全員を把握しているわけじゃない。だけど作戦前に最低限の顔合わせは行ったのだ、その時にトレンティア人なんかいなかったことは覚えている。
「お前、ヒューグ隊の奴じゃないだろ。事前の顔合わせで会った覚えがないぞ。何者だ」
僕の返事も待たずに勝手に歩き出していた男は、そう言われて足を止めて、にやけたままに振り向く。
「ああ……、俺の存在はあんまりおおっぴらにされてないからな。お前も噂ぐらいは聞いたことないか? ヒューグ隊にいる、正体の隠された凄腕の“魔術師”ってやつをさ」
そう言われて、作戦前にレガンが何か言っていたな、と思い出した。もともとさして興味があったわけでもなかったが、初耳というわけでもなかった。確かにヒューグ隊にいる“魔術師”と呼ばれる兵士の存在は、別の部隊まで噂が流れてくるぐらいには有名だった。
魔法というものはもともとトレンティアだけが持つ特別な技術だった。ここズミの国とトレンティアとの友好的な国交が断絶した今、この地で魔法を扱える人間は皆無ではないにしても稀だ。魔法使いだというだけで目立つのだろうと想像していたが……、その正体は敵国出身の人間だったということらしい。なぜそれがズミに味方しているのかは分からないが……、なるほど正体が隠されるわけだ。
そうのんびりと話している時間もないようだ。やがてばたばたとした足音がまた近付いてくる。僕は再び短剣を構えるが、しかしトレンティア人の男が手振りだけでそれを制止した。
何かと思えば、男は地面に倒れているトレンティア兵がかぶっていたマントを引っ剥がして自分の肩にかけ、堂々と敵兵のいる場所へ顔を出しに行ったのだ。
「こっちの敵は片付いている。東の貯蔵庫のあたりでまだ戦闘があるようだ、そっちの援護に向かおう。私は負傷者を確認してから行く」
そうてきぱきと虚偽の報告を行うと、敵兵たちは疑う様子もなく、言われたとおりに東の方へと去っていった。彼らも戦闘の緊張で余裕がないのだろう、暗闇の中で立ち尽くしている僕の存在に気付くこともなかった。
それを後ろから眺めて、僕は呆れた顔で言ってやる。
「……便利なものだな」
「普段は煙たがられるばかりの見てくれだが、こういうときは活用しないとな」
「だが、敵兵を追い払ってどうするんだ。作戦の内容は襲撃……、敵は一人でも多く殺さないと……」
そう言って睨む。男は疲れたようなため息を吐いて肩を竦めた。
「なんだよ血の気の多い奴だな。……まあ、もちろんそのつもりだ。ただし、魔術師なりのやり方でな。そのためには周到な準備が必要でね……、もう少しだけ時間が要る」
そう言って気だるそうに歩き出した。仕方なく僕もそれについていく。いまいち不信感は拭えないが、少なくとも僕を攻撃する素振りはないのだ、ひとまずは見届けることにする。
「ところでお前、名前何ていうの」
男はひと気のない通路を歩きながらだらりと聞いてきた。僕は無愛想に答える。
「……ヨン」
「ヨン……、ヨン? 変わった名前だな。名字は?」
「無い。僕は孤児だ」
そう吐き捨てた。親のいない子に、家名は無い。
「孤児……、へえ。混血でねえ……。歳いくつだよ」
男は同じ調子で聞いてくる。今度は僕は答えず、苛ついて彼を睨み返した。
「世間話をしている場合か。魔術師のやり方とはなんだ、お前は何をするつもりなんだ!」
「そうせっつくなよ……」
男は呆れたように言って歩いている。……そののんきな様子に余計不信感が募っていく。本当にこいつ、戦う気があるのか?
やがて男は、外周の石塀にほど近い通路同士の交差点の上で足を止め、その場にしゃがみ込んだ。何だろうと思う間もなく、その地面の上に大人の背丈ふたり分はあるかというほどの直径の、大きな魔法陣がふわりと浮かび上がった。
光の線で描かれた魔法陣は幾重もの円が重なり、その上を直線と、文字のような謎の紋様とがいくつもくるくると回っている。男は魔法陣に触れながら、どうやら何かを魔法を起こしているようだった。魔法陣の中で、いくつもの文字が消えたり、新たに浮かんだりしながら図形が変わっていく。
魔法陣の光に照らされた金髪を見下ろしながら、僕は気分が悪くなるのをぐっと飲み込んだ。……魔法、トレンティアだけが持つ奇妙な術。この技術でトレンティアはズミの国土を焼き、同胞を多く殺してきた……。その光は、敵国の象徴たる忌まわしい光……。
「……お前は」
そうぽつりと言葉を零した。うん? とのんきな相槌を打ちながら、魔術師の目だけがこちらを向く。
「魔術師。お前は名前あるのか」
そう尋ねたのはただの興味本意だった。トレンティア人でありながら祖国を敵に回してズミに味方していると言うのなら、そんなおかしな魔術師のことを覚えておこうかなと思った。
魔術師は魔法陣に視線を戻して、ぼんやりと言った。
「ああ……、普段なら秘密と言うところなんだが、今日はいいかな。パウル……。パウル・イグノールだ」
トレンティア人の名前は耳慣れない響きをしている。一度聞いただけでは覚えられないことも多いが、この変人の名前は覚えておいてやるかと、そんなことを思った。ズミのレジスタンスは家名をあまり名乗らない、この際はパウルだけでいいだろう。
「……さて、これで完成かな。あとは起動、起動の陣は……と」
魔術師、パウルはそう独り言を言いながら立ち上がった。同時に地面に浮かんでいた魔法陣はふっと姿を消してそこは再び暗闇に落ちた。
またパウルはのらりくらりと歩き出す。戦闘の音は時々近くまでやってきては、また遠のいていく。……味方はあとどれほど生き残っているだろうか。
パウルが空を仰いだ。
「火が回ってない。消火されたな」
そう言われ、僕も周囲を見回した。確かに煤の臭いひとつしない。ため息をつく気にもなれなくて、ただ僕は俯いた。
「……作戦は不振だな。撤退するべきだ」
そう呟いた。いまだに魔術師が何を考えているのかは不透明なままだ、その意図を確かめるように。案の定彼は同意しない。
「まだ諦めるのは早いぜ、ヨン。……ほら、あとひと仕事」
そう言って前方を指差した。その先には、暗くてはっきりとは見えないが敵兵らしい人影が小さな松明とともにいくつかあるのが見受けられる。
「あそこにいる連中を除く。ここから魔法を撃つから、怯んだところを一気に急襲しろ」
途端に声を重たくして、そう指示を飛ばしてくる。……彼が何を考えているのかはわからない。ただ、敵を殺せと言われればそれ以上明確なものはない。僕は黙って頷いた。
風のように駆ける。その足音を聞いて、敵兵らは驚いて身を起こした。彼らはどういうわけか、揃って地面にしゃがみこんでいたのだ。地面を触っていたらしいその仕草は先程のパウルと似ている。おおかたそこにある魔法陣でも弄っていたのだろう。
そして僕が飛びかかる直前に、そのすぐ横を、パウルが放った火の玉がいくつも飛んでいった。彼らにはその魔法が自分達への攻撃だとすぐには分からなかったのだろう。トレンティア兵たちは硬直したまま、見事その炎を受けて倒れ込んだ。
魔法は便利な戦闘術だ。しかしこれまで敵対したなかで学んだことは、どうやらそれだけで致命傷を与えるほどの威力を出すことは不可能だ。せいぜい火の玉をぶつけて火傷させるのが関の山である。とどめは、結局刃物で行わなければならない。
まず一人、怯んで転がった上にのしかかって急所を突く。すぐに短剣を引き抜いて隣にいたもう一人の腕を弾き、その次の振りで同じく急所……鎧の隙間から喉仏を突き刺す。魔法による奇襲が効いたのだろう、兵士らの動きはいやに鈍かった。
最後の一人の腹を鎧の上から蹴り飛ばし、よろめいたスキに腕に関節を突いて動きを封じた。痛みに呻いているその喉元を、外さずに。
あっという間に三人の死体を転がして、その上に勝ち誇った。パウルは手を叩きながらこちらへ歩いてくる。
「本当に腕の立つ奴だな。まだ若いんだろう? 歳いくつだよ」
パウルはのんきな声で再度問うてきた。鬱陶しく思いながらも、返り血を拭いながら仕方なく答える。
「十六だ」
「……子どもだな」
そう返してきた声はどこか気だるげだった。僕はフンと鼻を鳴らしただけだ。
やがてパウルはトレンティア兵の死体を蹴飛ばして、その場に同じようにしゃがみこんだ。また、魔法陣の光がふわりと浮かぶ。
そしてまたそれを弄りながら、パウルはぼやく。
「まったく……、ヒューグのジジイも人が悪いよなあ……。こんな作戦に年端も行かないガキを参加させるかね……」
子どもだ子どもだと、そうも連呼されると気分が悪い。僕はトレンティア兵の死体を蹴って抗議した。
「歳は関係ない。戦えればそれでいいだろう」
そんな僕をパウルは横目で見ながら。
「だけどよ、もしかしたら死ぬかもしれない……とか、思わねえのかい」
「もとよりその覚悟だ」
そう、言い切って見せた。……命をかけてでも、なさねばならない。今まで死んでいった……、殺されていった同胞達のために。トレンティア人であるお前になどわからないだろう、と悪態を思いながら。
「そりゃご立派なことで」
そう白々しい声色で言いながら、パウルはふいに空を仰いだ。言い返す気も失せて僕は彼から目を逸らす。足元の魔法陣は、次第にその光を強めていた。
「……なあ、ヨン。ズミの神話では、死んだ人間は空の向こうの国に行くんだろう。そして、あの月はあの世とこの世をつなぐ扉なんだってな」
そう語りかけてくる声は戦場のさなかにいるとは思えないほど悠長で、呆れるほどにのんきな様子だった。
「世間話をしてる暇があればさっさと魔術師なりのやり方とやらを見せてみろ。のんびり喋っている間にも撤退する機を失うぞ」
僕はガンガンと地面を足で叩いてそう急かした。魔法陣の光に照らされて、パウルの疲れた顔がよく見える。
「分かったよ」
しかし彼はまた、夜空に浮かんだ細い月に視線を戻す。その目が見ている、その距離の遠さを見て……きっと彼も死者に思いを寄せているのだと、その時気が付いた。それはその眼差しから感じたただの直感でしかなかった。だけど……彼にも亡くした者があるのだろうか、と。
「……この世を旅立った魂は、アミュテュスの神に慰められ、永遠の安らぎを得る」
少しだけ哀れみをかけて、僕はそう語ってやった。ちらりとパウルの目がこちらを向く。しかし彼は何を言うでもなくぐっと目を閉じた。同時に、足元の魔法陣の光がより一層に強くなる。次第に視界は魔法の光で真っ白に覆われ、夜だというのに眩しくて目を開けているのも苦しいほどだった。
「神聖なるトレント、汝が子の声に応えたまえ。パウル・イグノール・トレント・エルフィンズ、月影のもとに遺された汝が身なし子より祈りを捧ぐ。この……」
パウルが何かをぶつぶつと呟く声が聞こえた、どうやらそれは祈りの言葉だ。そしてその声に応えるように、魔法陣から得体のしれない力がたちのぼってくるのも感じた。その感覚はぞくりと僕の背中の髄をも絡め取っていくようで……。何か、巨大な魔術が起ころうとしている。眩い光の中で素人にもそれが直感できた。
その予感が迫ってくる中、嫌に心臓が早く打つ。目の前で起ころうとしている巨大な何かを前にして、不安、恐怖、そんな言葉もどこか噛み合わないような漠然とした重たさに囚われる……その中で最後に耳に届いたのは、パウルの叫び声だった。
「……この腐った世を清めてくれよ、アミュテュス・サーシェ!」
アミュテュス・サーシェ。それは死者へ向けて捧げる祈りの言葉。その嘆きも痛みも全てを清められ、空の向こうの世界で永遠の安息を得られるようにと願いを込めて、死と月を司る女神アミュテュスへ送る祈りの言葉。
光は一層強く爆ぜる。僕は眩しさのあまり固く目を瞑った。そして足元からたちのぼっていたおぞましい感覚が、全身を駆け巡り、頭を殴るように揺らし……、そして、僕の意識は途切れた。