④ エドガー様の秘密
それからほぼ毎週、私はエドガー様と出かけるようになった。
それだけでなく、父がエドガー様を家に招き、一緒に食事まですることもあった。
我が家は通いのキッチンメイドと私で料理をするのだが、エドガー様を招待する日はいつもより腕によりをかけて料理をした。
私がつくった料理を美味しいとおかわりまでして食べてくれるのは、とても嬉しかった。
「前より表情が明るくなったわね。恋する乙女って感じだわ」
マレーナとカフェでお茶をしていると、そうからかわれてしまった。
「そうかな?」
「そうよ。前はいつも自信がなさそうな顔してたもの」
それは否定できない。
確かにその通りだったと思う。
今だって自信に溢れているわけではないが、エドガー様と親しくなって外出する機会も増え、世界が広がったような気がしている。
「よかったわね、いい恋人ができて。
恋も知らずに叔父様が選んだ相手と結婚するんじゃないかって、心配してたのよ」
本当に嬉しそうに祝福してくれるマレーナに、私は俯いた。
「…………まだ、なの」
「え?なにが?」
「まだ……恋人ではないのよ」
「どういうこと?」
マレーナは怪訝な顔で首を傾げた。
「告白とか、そういうのがないというか……
恋人になろうって、はっきりとした言葉をまだ交わしてないの」
「えー!そうなの!?叔父様にもあれだけ歓迎されてるのに!?」
父もマレーナもエイナルも、私の関係者は皆私とエドガー様が仲良くなっているのを喜んでくれている。
それなのに、次の段階に進めないまま足踏みを続けている状態だ。
もしかして、こんなことを思っているのは私だけで、エドガー様はまだ私が男に慣れるための訓練につきあっているというつもりなのだろうかと、不安になってしまう。
「私から恋人になってくださいって言ったほうがいいのかな」
「うーん、それもアリといえばアリだけど、できれば男のほうからビシッと決めてほしいところだわね」
マレーナは腕を組んで考えこんだ。
「キスは?もうしたの?」
「し、してないわよ!」
直球な質問に、私は赤くなりながら首を横に振った。
エドガー様はいつも丁寧にエスコートはしてくれるが、それ以外の身体的な接触は一切ない。
「それなら、なにも言わないまま恋人になったつもりでいるってわけじゃなさそうね」
ああ、そういうパターンもあるのか。
私には思いつきもしなかった。
やっぱりマレーナは頼りになる。
「なにか理由があるのかもしれないわ」
「理由?」
「そう。例えば、元カノに酷いふられ方をしたから、あと一歩が踏み出せないとか」
「な、なるほど……」
父は、エドガー様は女っ気がないと言っていた。
もし今マレーナが言ったようなことがその理由だとしたら、それも頷けるのではないか。
「なにかそれらしいことを言われたことはない?」
今度は私が考えこむ番だった。
「ええと……それらしいことと言うか……この前、少し気になることがあったの」
前回のデートは、お弁当を持って少し遠くの景色がいい丘までピクニックに出かけた。
かなり多めにつくったサンドイッチも、ちょっと甘さ控えめのクッキーも全て完食してくれた。
空になったバスケットを持って帰宅する途中、前方から大きな黒い犬がやってきた。
リードを持った男性の横について、穏やかな顔でのしのしと歩いていた。
「ソフィア嬢……ああいうのは、どう思いますか?」
なんだか神妙な顔で犬を指さし、エドガー様が問いかけてきた。
「ふわふわで可愛いですね」
歩くたびに長い毛がゆれて、撫でると気持ちよさそうだなと思った。
「……あんな感じの動物は、好きですか」
「ええ、好きですよ」
飼ったことはないが、私は動物全般がわりと好きだ。
「そうですか……」
そう言ったきり、エドガー様はなにかを考えるように口を閉ざした。
あの時は、犬を飼いたいのかなと思ってなにも尋ねなかったが、後から考えるとなんだか様子がおかしかった気がする。
私とマレーナはそれからもあれこれと話し合ってみたが、結局は『もう少し待ってみる』という結論になった。
エドガー様が私を嫌っているということはなさそうだし、焦ることはない。
とりあえず、三日後に約束しているデートを楽しむことを考えよう。
そう思いながら私はマレーナと別れ、夕食に使う食材を買って帰ろうかと、市場のある方角に足を向けた。
今日は父も夕食を一緒にとれるはずだ。
父が好きな鶏肉の煮込みをつくろうかな。
軽い足どりで歩いていると、見慣れた制服が目に入った。
父と同じ警邏隊の制服を着た男性が四人、連れだって歩いている。
その中にエドガー様の姿を見つけ、私は胸がときめいた。
隣の騎士となにやら話しながら、私にはあまり見せないきりっとした顔をしている。
きっと、あれが仕事中の顔なのだ。
駆け寄って呼び止めたいところだが、仕事の邪魔をしてはいけない。
予想外に姿を見ることができただけでも幸運なのだ。
そのまま黙って見送っていると、ふとエドガー様がこちらを振り返った。
それなりに離れていたが、アンバーの瞳が私を見つけて軽く見開かれたのがわかった。
手を振るくらいはいいだろうか、と思った次の瞬間、私の右手で悲鳴が上がった。
何事かと反射的にそちらを見ると、一頭の馬が後ろ足で立ち上がり、乗っていた男性が落馬したところだった。
どうやら馬はとても興奮しているらしく、周囲の人たちがなんとか宥めようとするのをを振り切って駆けだした。
私がいる方向に向かって。
危ない!逃げろ!と誰かが叫んでいるのが聞こえたが、私は足がすくんでその場から動けなかった。
大きな馬がどかどかと蹄の音を響かせて迫ってくる。
私の周りの時間だけがゆっくりになったように感じ、小さいころから今までの様々な記憶が無秩序に脳裏を駆け巡った。
両親と手をつないで散歩をしたこと。
母と一緒に料理をしたこと。
母が亡くなった時のこと。
父が誕生日プレゼントに買ってくれた髪飾り。
エドガー様と初めてデートをした時のこと。
私の料理を美味しいと言ってくれたエドガー様の笑顔。
エドガー様……!
死を目前にし、私は心の中で愛しいひとの名を叫んだ。
そして、馬が私にぶつかる直前に。
なにやら大きな黒い塊がすごい勢いで馬を弾き飛ばした。
黒い塊は横倒しになった馬にのしかかり、鋭い爪でその首を切り裂いた。
馬が息絶え、それ以上暴れることがないことがなくなってから、黒い塊はなにが起こったのかわからず呆然とするばかりの私を振り返った。
そして、私はそれが熊であることがやっと理解できた。
大きな黒い熊。
そのアンバーの瞳には、はっきりと知性の光があるのが見てとれた。
熊はまだ立ちつくしている私を見ると、俯いてその場に座りこんだ。
周囲から新たな悲鳴が上がった。
「熊だ!でかい熊がいる!」
「今の見たか!?人が熊に変身したぞ!」
「獣人なのか!?」
「獣人だって?大昔に滅んだんじゃなかったのか?」
「この目で見ても信じられない!」
そこに、さっきエドガー様と一緒にいた警邏隊の騎士たちが駆けてきた。
「皆さん、離れてください!」
人々は熊から距離をとり、騎士たちは剣を抜いて熊を取り囲んだ。
その顔は、そろって驚愕と戸惑いの表情をうかべている。
三人もの騎士から刃を向けられても、熊はその場でじっとしたまま動かない。
まるで、殺されるのを待っているかのように。
あの熊はエドガー様なの?
エドガー様は獣人なの?
どうして剣を向けられているの?
このまま殺されてしまうの?
「やめて!」
私はなりふり構わず駆けだして、熊の頭に抱きついた。
「やめて!殺さないで!私を助けてくれたのよ!」
私の小さな体では、大きな熊を隠すことなどできはしない。
それでも私は必死で熊に覆いかぶさった。
「なにも悪いことしてないわ!お願いだから殺さないで!」
『ソフィア嬢。もういいんだ。離れてくれ』
いつもよりくぐもっているが、それは間違いなくエドガー様の声だった。
『俺はもう覚悟ができてる。きみを巻きこむわけにはいかない』
熊の大きな手が私の背をそっと撫でた。
『庇ってくれてありがとう。どうか元気で』
「嫌!嫌です!そんなこと言わないで!これでお別れなんて、絶対に嫌!」
私は全力で熊になったエドガー様を抱きしめた。
エドガー様は私を助けるために、人前で熊に変身したのだ。
私がさっさと自分で逃げていたら、こんなことにはならなかった。
私のせいだ。
全部、私のせいなのだ。
「お願いよ……殺さないで……エドガー様を助けて……」
こぼれた涙が黒い被毛を濡らした。
取り囲んでいる騎士たちも、どう対応するのか迷っているようで、ちらちらと視線を交差させている。
そこに、新たな警邏隊の一団が駆けつけてきた。
その中に父の姿もあった。
「ソフィア!?」
泣きながら大きな熊に抱きついている私に、父は驚きの声をあげた。
「お父様!エドガー様を助けて!」
「エドガー?どういうことだ?」
近くにいた騎士がかいつまんで事情を説明すると、父は驚愕の表情になった。
「なんだと!この熊がエドガーだというのか!?」
「そうよ!エドガー様は、私を助けてくれたの!
エドガー様がいなかったら、私は死んでたわ!」
『ソフィア嬢。もういいから』
「よくないわ!お父様、エドガー様を殺さないで!」
父は一瞬迷ったようだが、すぐに剣を構えている騎士たちを下がらせた。
「本当に、エドガーなのか?」
『はい、そうです』
「おまえは獣人なのか?』
『はい……隠していて、申し訳ありません』
「いや、隠す気持ちはわかるよ。
それで、元の姿に戻れるのか?」
『戻れますが、今戻ると裸になってしまいます』
「そうか……おまえ、変わったのは外見だけで、中身は変わってないんだよな?」
『はい。頭の中まで熊になったわけではありません』
「わかった。その言葉を信じよう」
父は頷くと、周囲の騎士たちに次々と指示を出し、騎士たちはそれぞれに散っていった。
「ソフィア」
「嫌よ!エドガー様が殺されないってわかるまで、絶対に離れないんだから!」
ぎゅうぎゅうとエドガー様に抱きつく私に、父は困った顔をした。
「熊になってるが、それエドガーなんだぞ?わかってるか?」
「わかってるわよ!エドガー様だからこうしてるんじゃないの!」
そんなことを言っていると、警邏隊の馬車がやってきて、目の前に停まった。
「エドガー、あの中に着替えが入っている。
とりあえず、元の姿に戻ってくれ」
『はい。ありがとうございます』
「というわけでソフィア、離れなさい」
「嫌よ!」
『ソフィア嬢、着替えるだけだから』
「嫌ったら嫌!」
言うことを聞かない私を、父が無理矢理エドガー様からべりっと引き剝がした。
エドガー様は馬車に入り、しばらくすると人の姿になって出てきた。
こうなるとさすがに抱きつくのは躊躇われる。
「分隊長、ご迷惑をおかけしました」
「謝るな。おまえはなにも悪いことをしていない。
ただ、おまえをどうするかについては、俺では決められない。
既に王城には連絡してあるから、沙汰が下るまでとりあえず留置所に入ってくれないか」
「そんな!留置所だなんて!」
「ソフィア。これは警邏隊分隊長としての決断だ」
厳しい顔の父に言われ、私は唇をかんで俯いた。
父は仕事に私情をはさむようなことはしないということを、娘の私はよく知っている。
「上がどう判断するか次第だが、場合によってはおまえにも証言をしてもらうことになるかもしれない。
だから、真っすぐ家に帰って大人しくしているように。わかったな?」
「……はい、お父様」
私はエドガー様が着替えに使った馬車で家まで送られることになった。
「エドガー様……」
私が馬車の窓から伸ばした手を、エドガー様の大きな手がそっと握った。
「ソフィア嬢。優しいきみの幸せを、ずっと祈っている」
エドガー様は私の手の甲にそっとキスをしてくれた。
馬車が動きだし、繋いでいた手が離れた。
エドガー様の姿が遠く小さくなっていく。
これが最初で最後のキスになるかもしれないと思うと、涙が止まらなかった。