10. 年頃の話
リゲルが日々の業務に追われていると、何人かの婚約者候補の話が吏部から上がっている。
リゲルには結婚ということが何を意味するかは知っているが、母の姿を見ているからか、あまり良いイメージを持てていない。
書類に目を通して、筆をはしらせながら、己の身分に思わず息を吐いた。
(気にしないで行こう)
世間では誰と結婚しても、大抵は程々に幸せという。1割ずつハズレと大当たりがおり、残りの8割は程々のはずだ。
だから、確率で言えば、うん。程々に入る。それは、分かっている。
それでも、母リアンの一生はほとんど後宮の隅に追いやられ、日陰者として生きていた。その姿がこびりついて、自分が『程々に幸せ』になれる未来が想像できない。
「悩み事ですか?」
「うわ」
意識をなくしていた。だから、目の前に見知ったポルクスがいたことがやたらと驚いて変な声が出てしまった。
「驚かせないでくれ」
「これは失礼しました」
ポルクスはやたらとニタニタ笑いながら、分厚い姿絵を書類をどかした机の空いたスペースによいしょ、と言って置いたので、リゲルは思わず、嫌そうに視線を逸らした。
「知っていますよね? とりあえず、誰かとお会いしてくださいよ」
「そんな適当な……」
「あなたの婚姻は政治的なことがバシバシありますよ。けれど、それでも、会ってもらわないと、吏部の誰かが泣きながら異動になりますよ」
リゲルは面倒くさそうに目を閉じて、眉を掻いた。
いやあ……、この手の話は避けたい事項だ。けれど、誰かを異動させるのはもっと心苦しい。
姿絵をめくると、渾身の一枚なのだろう。ポーズを決めている年頃の女が、宝石を身につけ、着飾ってにこやかに微笑んでくる。
「希望とがありますよね? 国内の娘、とか、他国の姫とか」
「他国の姫と会って、気が会わなかったらどうする?」
ポルクスは「そんなこと、お前で考えろよ」と言わんばかりに、冷たい視線でリゲルを見ていた。
「……兎に角、婚姻について、前向きに動いている姿勢だけでも見せてください。あなたが、世の中の関心ごとの外側にいられては、各方面に思惑がうごめき、混沌となりますよ? それがお望みではないですよね」
ポルクスに諌められ、「分かっている」と不満を飲み込み、リゲルは渋々返した。
それから数日後、リゲルはいつもの官服をぬぎ、皇太子としての身なりに体躯を包み込んでいた。
この服を作るだけで、平民の1年間の暮らしは賄えるであろう相当な上物で、華美に着飾ることに未だ慣れない。
その服とつり合うように、リゲルの黒髪には椿油でしっとりと潤わされ、丁寧に結い上げられた。その姿は息を呑むほど美しかった。
そこまでして、正装をしている理由はただ一つ。この日、リゲルは人生で初めて、お見合いというものを体験した。
お相手は北側の城塞の要である豪将の娘で、エルナと言った。今年で16となるその娘は、母リアンと同じ黄金の髪を持ち、髪と同じ金色の瞳が美しかった。
取り止めのない会話をしながら王宮の庭園を歩き、東屋でゆっくりと茶を飲んだ。
会話をする中で、思うことは、鉄道の整理や、冬の時期の民の凍死を防ぐ方法ばかりが浮かんでくる。
「エルナ様の地域は北側城塞都市ので、寒さ対策をどのようになさっているか教えてくださいませんか?」
リゲルの問いかけにエルナはピタリと硬直し「コートを着て、暖炉に火をつけてます」とやや不思議そうな顔で返答をした。
「……そうですか」
冬場は食物が整わない。鉄道を利用して食品の運搬を日に何度行うのか、毛皮のコートなど買えぬ民は他の断熱効果の優れた安価な代替品があるはずなのに、それを知らないのか。
やはり、気が乗らないと、会話も辿々しくなるのだな。
リゲルは茶器に目を落とし、左から右に流れる会話を、タイミングよく相槌をした。
せめて、そう取り繕った。
微笑み、その腹の内は、水道の整備、橋の増築、治安問題、外交、そんなことが駆け回り、戻ったら処理をしたい業務のことばかりが頭を占めている。
リゲルの見合いの数日後に、ポルクスが呆れた顔で、廊下を歩くリゲルの背を見ていた。
リゲルは政治のことを見合い相手に聞いたらしいが、この少女は刺繍の話しかしてくれなかった。
いわゆる良妻賢母になるための教育しか受けていないので、政治のことを聞かれ、応えられなかったらしい。
政治の話をできる少女なんていない。それを知ってなくては国母には相応しくないが、彼女が応えられないと知って、会話を諦めたリゲルにエルナは意気消沈したらしい。
カルトス以上の女なんて、そうそう出るものではない。
これは、片思いが拗れたな。
ポルクスは気を取り直して、書庫へと歩みを進めるのだった。
いや、見合い候補の中で、一人いたな。政治の話ができそうなお方が。
その方のことはよくは知らない。けれど、好ましくない噂は耳にしている。昨年のあの事件を引き起こした人部なのだから。