小さな勇気
ここから逃げ出して警察に連絡を取るべきだろうと考えたが、入口を遮るようにもう一人、男が現れた。小柄だが均整の取れた体つきの外国人だ。
「囲まれているから下手な動きはしないで下さい。わたしね、嫌いなんですよ暴力が」
暴力が嫌いだといいながら、暴力を行使することを前提に話を進めている。やはり、男はあんずの正当な保護者ではないようだ。
「だから教えてくれませんかね、アン・ズヨーの居場所を」
「近くの公園に遊びにいってます。しばらくは戻りません」
咄嗟に着いた嘘だが、あんずがこの部屋にいないことは事実だ。男が出て行ってくれれば、あんずを逃がす時間が稼げる。
「それは無いですね。このアパートに入ってからずっと監視してましたから。アパートから出て行けばすぐに判ります」
ウェル、ウェル。不意に入口の男が声を上げた。入口に立ち塞がっていた男が体を開けると、あんずと慎太が現れた。
「これはこれは。お帰りなさい。迎えにきたよ」
黒スーツの男を見た途端、あんずはドアに向かって駆けだした。こちらの虚をつく動きだったが、入口の男はいとも簡単にあんずを取り押さえた。
「人の顔を見て逃げるなんて。ちょっと傷つきましたよ」
「嫌なのです。嫌いなのです。離すとよいですよ」
入口に立つ男の腕の中であんずが暴れる。言葉こそ丁寧だが、暴れ方は半端じゃない。男の腕に噛みついて逃れると、あんずは台所の隅でうずくまった。
舌打ちしながらあんずに近寄る男の前に、慎太が立ち塞がった。あんずを守るように、慎太は両手を広げている。
「やめろ。嫌がってるだろ!」
慎太は今年で6才だったはずだが、腹の底から出した声は十分に力強かった。
「偉いね、きみ」
スーツ男が慎太の前にしゃがみ込む。慎太の背に隠れたあんずは、獣じみた唸りを上げている。
「おそらくきみは、隣の部屋の子なんだろうね。そうだろ?」
男を睨んだまま、慎太は一歩も引かない。男は首を竦め、芝居がかったため息をついてみせた。
「暴力は嫌いなんだ。相手が年端もいかない子供なら尚更いけない。だけどきみは引きそうにないね。どうしたものだろう」
顎に手を当てて思案した後、男はわざとらしい笑顔を浮かべた。
「こうしよう。これからあのお兄さん、チャーリーに頼んで、オサカベさんを殴る。暴力は嫌いだけど、他の人がやるならそれほど気にならないからね。きみがアンズヨーを渡してくれるまで、チャーリーはオサカベさんを殴り続ける。きみがどいてくれれば、おじさんはチャーリーにそんなことはさせない。どうだい?」
慎太の返事を待たず、チャーリーが明奈の前に立つ。
「さあ、どいて。オサカベさんとは知り合いなんだろう?今日初めてあったズヨーよりずっと大切な人だよね」
両手を開いて男の前に立ち塞がりながらも、慎太の目は明奈に向いている。歯を喰いしばり、両目に涙を浮かべながらも、慎太はその場から動こうとはしなかった。
どかなくていい。慎太に向かって明奈は頷いてみせた。殴られるのは怖いし、痛いのも嫌だったが、慎太が卑怯な大人に屈するのを見るのはもっと嫌だ。
「仕方ない。チャーリー、その女の腹を殴れ。手加減するなよ」
男の言葉に、チャーリーと呼ばれた男が薄ら笑いを浮かべながら頷く。
「人の脇腹ってね、ほとんど筋肉がついてないそうだ。そこを強打されると、息ができなくなる。衝撃が内臓全体に広がって、凄まじい苦しみにのたうち廻ることになる。幸いなことに、わたしは経験したことがないけれどね」
「お姉ちゃんじゃなくて、俺をぶてばいいだろう?」
目に溜めた涙を堪えながら慎太が男を睨む。思わず慎太に駆け寄ろうとした明奈の腕を、チャーリーが掴む。
「かっこいいな、ガキ。毎朝かかさず戦隊ヒーローものでも見てるのか?赤レンジャーにでもなったつもりか?」
楽しそうに笑うと、男は冷たい視線を明奈に向けた。
「やれ」
チャーリーが右腕を引くのが見えた。こんなことならもっと腹筋を鍛えておくんだったと思いながら、明奈は腹に力を込めた。