軽佻浮薄
車を降りた瞬間から、腹の底にまで響く重低音を感じる。
元々は港湾の倉庫街だったエリアの一角を改造して作り上げた店だった。交通の便が悪い代わりに、騒音などの規制が緩いのだろう。
7㎝のピンヒールを履いたチャオの下にボーイが走り寄ってくる。乗りつけた車は国産車だったが、車の扱いになれたボーイなら、その価値は一目でわかる。
助手席から降りたミカは、辺りを睥睨して渋い顔をしている。騒がしい音楽が嫌いなのだ。
今日のミカは黒髪だ。正体を隠しているから、顔の造作も変えている。
「ミカ、こっち」
ミカの手を引き、エントランスに向かう。入場待ちの行列など当然無視する。クラブセキュリティが現れたが、チャオの顔を見ると黙って道を開けた。
「チップはいらないのか?」
ミカが耳元で囁く。人間としての生活が長いせいか、ミカは体面を気にする。
「わたしからチップを受け取るやつなんていない」
チャオが微笑むと、筋骨逞しいクラブセキュリティの男たちが一斉に顔を伏せる。
「小僧犬は?」
セキュリィの一人に訊ねた。
「エグゼクティブフロアにいらっしゃいます。お越しになったことをお伝えします」
「いいよ、そんなの。驚く顔が見たいから内緒にして」
「あとで私が叱られます」
セキュリティの頬に、チャオはそっと指を這わせた。
「そのときはあいつを殺して。あとのことは面倒見てあげるから」
チャオの爪が男の頬を抉る。爪に付着した男の血を長い舌で舐めとると、チャオはミカの腕を引いて奥へ進んだ。
光と音が溢れるフロアを進むと、チャオの姿に気づいた客たちが道を開ける。雑誌やテレビでよく見かける連中が何人かいるが、チャオを見ると畏怖するように頭を下げる。
後を歩くミカは、物珍しそうに辺りを見回している。オペラハウスに連れていかれたら、チャオも同じように辺りを見回すのだろうから、茶化したりはしなかった。
エレベーターに乗りこみ、エクゼクティブルームのある3階で降りる。フロアとは異なり、調度品は一流品になるが、廊下を照らす灯りはずっと薄暗い。
ドアの前に据え付けた二脚の椅子から男が二人立ち上がる。いずれも大柄な白人で、ラフな格好をしている。小僧犬が好んで使う、旧共産圏の特殊部隊上がりだろう。
「待って。許可がないとダメ」
赤い髪を持つ男が腕を突き出してチャオを止める。連れの金髪はレシーバーで誰かと会話している。
エントランスのクラブセキュリティとは違い、この二人はチャオを見ても動じない。
レシーバーから耳を離した金髪が赤髪に異国の言葉で何かを告げると、赤髪は肩を竦めてチャオの前に立ち塞がった。
「約束のない人、会わない。お帰り下さい」
体が熱を帯びていく。この二人は日本人の男女など警戒にすら値しないと高を括っている。その態度にも腹が立つが、新宿の路地裏での一件以来、チャオは人間を殺したくてうずうずしていた。
二秒以内に素手で殺す。そう決めた。赤毛の喉を爪で切り裂き、蹴りで金髪の首の骨を叩き折る。動きの道筋は出来た。
「申し訳ないが」
踏み出そうとしたチャオを制して、ミカが男たちの前に立った。柔和な笑みを浮かべている。
「日本語、苦手。お帰り下さい」
赤毛がジャケットの内側に吊るした巨大なナイフに手を掛ける。
「ドアを開けろ」
静かにミカが告げると、男たちの顔から薄ら笑いが消えた。
金髪がドアを開ける。赤毛は呆けた顔で立ち尽くしている。
「ありがとう。いい店だね、ここ」
赤毛の頬を平手で叩きながら、ミカが先へ進む。拍子抜けしたチャオは慌ててミカの後を追った。
いつ術が発動したのか判らなかった。魔眼を発動させ、相手を睨みつけなければ暗示には掛けられなかったはずなのに、いつの間にかチャオですら気づかぬうちに暗示を掛けている。魔王を名乗る男と出会ってから、ミカの能力は成長の度合いを急速に増している。
部屋の中には、20人ほどの人間がいた。比率からいうと、女が八割といったところだろう。目当ての小僧犬は、中央のソファで女を侍らせて卓球台ほどはあるモニターを眺めていた。モニターに映し出されているのは、古めかしい昭和のアニメだった。
「いなかっぺ大王ですか。懐かしい」
ミカの方が先に反応した。昭和に関しては、ミカの方がはるかに詳しい。
「ブルーレイボックスを買ったんで、みんなで楽しんでるんですよ」
振り返りもせず小僧犬が返す。そもそもミカと小僧犬は面識がない。
「楽しんでる?そうは見えないけど」
コンビニくらいは営業できそうな広さの部屋の中にいる連中は、モニターなどに目を向けてはいない。各々が退屈そうに自分のスマホに目を向けている。
「で、今日は何の用です?いくら取引相手だからって、プライバシーを侵害されるのはあまりいい気分じゃないっすね」
チャオに目も向けず小僧犬が怒鳴る。アニメの音が大きくて会話が成り立たない。一足飛びに移動し、小僧犬の首を掴んで吊るしあげた。
「お前のくだらない私生活を覗き視したくて来てるとでも思ったのか?そんなに暇そうに見えるか?」
謝罪させなければならないから喉は潰さなかったが、小僧犬の顔は赤黒く変色していく。
小僧犬が弱々しく右手を上げる。銃でも持っているのかと思ったが、手の中にあるのはモニターのリモコンだった。モニターが切り替わり、四分割された監視カメラの画像が表示される。何かを見せようとしているのだろう。
ソファの上に投げ落とすと、小僧犬はわざとらしく盛大に咳をして見せた。
「仔犬を抱き上げるときは優しく、そっと抱き上げなきゃ。そんなんだから未だに真実の愛を見つけられないんだ」
振り返ってミカを見ると、テーブルの上のブルーレイを手に取って見ている。体面を重んじる割に、ミカの趣味はガキ臭い。
「釈明しろ、小僧犬。命が掛かってる。それを理解しろ」
ソファに座る小僧犬の右肩をピンヒールで踏みつける。
「ああっ、知らない世界が窓を開けてる。こういう刺激、嫌いじゃないかも」
埒が明かないのでピンヒールを外した。ミカが怒っていれば、この場にいる全員の首が落ちる。
「仕事の話をしましょう。ええと、小僧犬さん。小僧犬って変わった名前ですね。本名ですか?」
致命的なミスをした者に対する態度ではなかった。ただミカは、いつも突然怒り出す。
「この名の由来を話すと長くなる。でもお聞かせしましょう。我が一族3代に渡る復讐の物語・・・・・」
ピンヒールで小僧犬の足を踏みつけた。この男の相手をしているとキリがない。
「痛っ。人込みの多いクラブとかに行くときは、ヒール履いてきちゃダメですよ。それが常識ってもんです。田舎者のクラブ初心者がやりがちなミスです」
「貴様の漫談を聴きに来たわけじゃない。次またくだらない話をしたら、左手の指を落とす」
「だったら薬指にして。結婚指輪嵌められないから一生独身でいられる」
怒りの余り笑みが零れた。左手の薬指だけを残して全ての指を落とす。
「チャオ」
声を掛けて来たミカは、小僧犬が再生した監視カメラの映像に目を向けていた。