零れ落ちる涙
トレーラーから突き落とされた明奈の体は、くるくると回転しながら重力に引かれて落ちていった。落下の速度とは裏腹に、明奈の意識は緩慢に流れていく。ゆっくりと回転する視界が、初冬の三日月と街の灯を交互に映し出していた。遠ざかっていくトレーラーの横扉から、ねぇさまと叫ぶあんずの声が聞こえていたが、鳴響くクラクションの音に掻き消されて聞こえなくなってしまった。全身をアスファルトに叩きつけられるのだから、せめて頭だけでもカバーしようと思ったが、投げ出された瞬間に右も左も、上も下も解らなくなってしまったので、明奈は諦めて全身の力を抜いて衝撃に備えた。
自分はもう助からない。高速で走るトレーラーから、無数の車が行き交う道路に突き落とされたのだ。運よく軽傷で着地できたところで、並走する車の群れに跳ね飛ばされてしまうだろう。完全な死亡フラグが成立していた。
父はどうなるのだろう?うまく逃げ出してくれればいいけれど。いつからかあまり話を交さなくなっていたけれど、それでも明奈は父が好きだった。今更ながら気がついたことがある。父との間に会話が無かったのは、今日話さなくてもいいとそう思っていたからだ。明日か明後日、もしかしたらもう少し先に、時間を掛けてゆっくりと話をすればそれでいいと、そう思っていた。自分の命が今日終わると知っていたら、明奈は父に何を話したのだろう。おそらくいつもと同じで、何も話せはしなかっただろう。ただ一言、お父さんと言って笑う。それだけでいいような気がした。できることなら、もう一度だけそう言って父に笑いかけたかった。
ふわりと体が浮き上がり、空の星が近づいたような気がした。相変わらず鳴響くクラクションは耳障りだったが、冬の夜風が冷たく快かった。続いて体に襲い掛かってきた衝撃は、明奈が想像していたよりずっと弱かった。まるで誰かが優しく抱き止めてくれたような、そんな感触だった。
夜の星を見ていた明奈の瞳が、南条の顔を映し出していた。唐突な視界の変化に、明奈の脳が追いついてこない。自分は夢を見ているんだと思った。今日一日の出来事全てが夢だった。そして今、うたた寝した自分を南条が起こしてくれた。そう考えていた。
「無事か?」
鳴り続けるクラクションの合間に、低いがよく通る南条の声がした。声は出なかったが、南条に向かって明奈は頷いてみせた。
明奈の脇をクラクションを鳴らした大型トラックが走り抜けて行く。南条の首に手を掛けていたが、態勢がなんだか変だった。
自分のお尻を中心に、体がVの字になっている。
走行する自転車の前籠にお尻からすっぽりと嵌っていた。トレーラーから突き落とされた自分を、ママチャリで並走していた南条が受け止めてくれたのだと気づいた。
ガクンと前輪が大きく揺れ、南条が運転するママチャリ、スパシーバ内藤さんが大きく蛇行した。なんとかバランスを保ちながら、南条が自転車を路側帯に停める。
停止すると同時に、スパシーバ内藤さんの前輪が外れた。大袈裟な音を立てて、錆びだらけのママチャリは明奈の目の前で分解していった。
気がつくと、明奈は南条に抱き上げられていた。首に手を廻した記憶はないが、明奈の両手はしっかりと南条の首にしがみついている。
「明奈、怪我はないか?」
明奈の目を見つめながら南条が尋ねる。怪我などある訳がない。自分は光の勇者に守られているのだから。そう思ったが、それでも堪えきれず、両目から涙が零れ落ちる。
「どこか痛むのか?」
南条の瞳に動揺が浮かぶ。この人はいつもそうだ。自分の危険などこれっぽっちも顧みず、いつだって他人の心配をしている。
「大丈夫。ちょっと怖かっただけ」
それだけ伝えると、明奈は両足を地に下ろした。
「来てくれたんですね。でもどうやって?」
鳴倉は南条の追跡を警戒していた。完全に南条を巻いたと確信してからトレーラーに乗り込んでいる。あの時点で、南条は完全に明奈とあんずの居所を見失っていたはずだ。
「チャリで来た」
バラバラになってしまった自転車を見ながら南条が的外れな返事を返す。心なしかスパシーバ内藤さんの残骸を見つめている南条の背中が悲し気に見える。
「そうじゃなくって、どうしてわたしの居場所が分かったんですか?」
「えっ?ああ、そういうことか。これのおかげだ」
南条の右手が明奈の上着の襟へと伸びた。引き戻した掌の上に、クリップの付いた小さなボタンのような物が乗っている。
「小型のGPSトラッカーだ。これのおかげで位置は特定できたが、明奈の姿を見るまで、どの車かわからず手間取った」
そういえば南条は、何かの端末と自分のスマホをリンクさせようと悪戦苦闘していて、明奈もその手助けをした。あんずと共に部屋から出て行く際、南条は明奈の上着の襟にこのGPSトラッカーを忍ばせたのだろう。
「でもどうしてそんなものを?」
他人の位置情報を把握する為のGPSトラッカーなど、南条には最も縁がないような気がした。そんなものを何故、南条は持っていたのだろう。
「会社の同僚を監視する為だ」
いともあっさりと南条が答えた。こんなものを使うということは、相手に黙って監視する気なのだろう。まるでストーカーだ。