労使の問題
父は後ろ手に手錠を掛けられ、パイプ椅子に固定され座らされていた。立ち上がろうにも、両足は膝下から足首にかけてビニールテープでぐるぐる巻きにされている。減らず口を叩けるのだから大きな怪我は負っていないようだが、それでもここから逃げ出すことは難しそうだ。
南条がきっと自分を捜してくれているだろうが、スマホを奪われてしまっているので連絡を取ることができない。最初に乗り込んだ黒いバンを南条が追っているとしたら、このトレーラーに乗り換えた点で南条が明奈を見つける可能性は限りなく低くなった。
よほど熟練したドライバーが運転しているのか、トレーラーは揺れもせずに走行を続けている。
明奈は父と自分を解放するよう要求したが、鳴倉は悲しそうな顔で首を横に振るだけだった。
「約束は守るって。でももう少し待ってて。明奈ちゃんが絶対に喋らないって確信ができるまでの間だからさ」
いかにもすまなそうに、小僧犬が明奈に向けて両手を合わせる。父を撃ち殺そうとしたことなど、まるで覚えていないような態度だ。
「薬漬けにでもする気なんだろう。捕まった時点でこっちの負けだ」
赤ら顔の父が身も蓋もない話をする。こんなことになるならあんずを保護した時点で警察に通報するべきだったと思うが、今更父を非難したところで何も解決はしない。
「オヤジと姉様を放すといいのですよ」
あんずの抗議を受けても、小僧犬は顔色ひとつ変えない。
「可愛いな。あんずちゃんだっけ?アイス食べる?」
「あとでいいのです。それより約束を守るといいのですよ。オヤジと姉様を放すのです」
明奈よりずっと年下のあんずが、自分と父を気遣ってくれている。それに比べて、トラブルを呼ぶ込んだあんずを疎ましく思っていた自分を明奈は恥じた。
「わたしはあんずちゃんと一緒にいるから、父だけでも解放して下さい」
「いいねぇ、泣かせるねぇ。そういう展開大好きだよ。でもぶっちゃけ二日もすればあんた、このガキのことなんか忘れちまってるぜ。楽しくって気持ちよくって、もうそれどころじゃないだろうからな」
小僧犬の口元から、鋭く尖った犬歯が見えたような気がした。綺麗な顔つきをしているが、この男の本性は醜悪な山犬そのものだ。
「あんずはお頭を呼ぶですよ。いいのですか?」
怒りのせいなのか、ギラギラとよく光る眼であんずが小僧犬を睨む。南条の部屋でも、あんずはお頭が迎えにくると言っていた。そして、お頭は勇者だとも。
「そいつを待ってるんだよ、あんずちゃん。呼べばくるのか?それともその小さなほっぺたに傷でもつけないとダメなのか?」
「呼べば来るのです。会いたいですか?」
「会いたいね。労使の問題でお話ししたいことがあるんだよ。なにせ同じ職場の同僚をぶちのめして仕事バックレてるからな。とんだ黄金バックラーだ」
「岡城真由美。37歳独身。英語フランス語、インドネシア語など数か国語に精通。ホストの売掛で首が回らなくなったんで、うちの仕事をさせてた女です」
あんずの言葉のニュアンスから、漠然とお頭という単語を連想していたが、どうやら違っていたようだ。お頭ではなくオカシロとあんずは呼んでいたのだ。だとしたら勇者という単語も、何か別の意味があるのかもしれない。
「早く呼べよ、あんずちゃん。お兄さん会ってみたいなぁ勇者様に」
「絶対ピンチになったら呼べと言われてるのです。だからまだ呼ばないのです」
小僧犬の瞳に剣呑な光が浮かび、唇から薄ら笑いが消える。
「めんどくせぇなガキ。チャーリー、女の耳切り落とせ」
「右と左、どっちにしますか?」
チャーリーと呼ばれたのにも関わらず何の躊躇もなくサントスが答え、上着の内側から大型のナイフを引き抜いた。
「ええっと、右、いや左かな。ううん、両方行っちゃおうか」
恐怖の余り全身が硬直した。逃げなきゃと思う前に、凄まじい力で羽交い絞めにされていた。いつの間にか背後にボルグがいた。
「一気に切り落とせば、痛みは遅れてきます。気を失ったりしないので心配しないで、セニョリータ」
明奈の耳元でサントスが囁く。親切で言ってるのではない。気を失わせたりしないと言っているのだ。
「やめるとよいのです。やめるのです」
あんずが叫ぶ。サントスに体当たりしようとする父を、ボルグが椅子ごと床に蹴倒した。
叫びたかったが恐怖のあまり喉の奥が硬直して声が出なかった。
「アン、ズヨーっ!」
不意にあんずが叫びを上げた。小さな体のどこからこれほどの声が迸ってくるのかと思うほどの絶叫だった。
「アンズヨーっ!」
あんずが叫んでいるのは自分の名前だ。その場にいた誰もが動きを止めてあんずを見た。
「なんだよそれ。勇者呼ぶんじゃんねぇのかよ」
小僧犬が笑い出す。つられてサントスと鳴倉が笑うが、ボルグだけは顔色ひとつ変えない。
ゴトリと音がした。天井からだ。その場の誰もが上を見上げていた。だがいくら耳を澄ませても、それ以上なにも聞こえなかった。
「鳥ですかね?」
不安そうに鳴倉が呟くと同時に、明奈を押さえつけていた背後からの圧力が消えた。明奈を解放したボルグが、大型の拳銃を構えて天井を見上げている。
音は消えたものの、何かが屋根の上にいる。気配はなくともその場にいる全員がその存在に気づいていた。部屋の空気が重くなり、妙に呼吸がしづらい。照明が光度を落とし、室温が異常に低下している。
「粋な演出じゃねぇか。これから出ますよって教えて下さってる。チャーリー、女の耳はもういい。ガキの首を切り裂け」
サントスの腕が伸びてあんずの髪を掴んだ。明奈に向けられていたナイフの刃先があんずの首筋に突きつけられる。
「駄目です。それだけはやめて下さい。その子を殺しては元も子もない」
鳴倉の悲痛な叫びが響くが小僧犬は意にも返さない。
「早く来ないとちっちゃな首が床に転がっちゃうぜ。一緒にサッカーでもするか?」
天井を見上げながら小僧犬が喚く。あんずの首に刃を当てているサントスが嬉しそうに舌なめずりをしている。