帰宅
「卵が特売だった。10個で98円っていうのは初めて見たよ。遠くまで行った甲斐があった」
その場にいた全員の動きが停止した。いつの間に現れたのか、台所の中央に南条が立っていた。
「人数が多いから、すき焼きにしようと奮発して牛肉を買って来たんだが、また人が増えているな。間に合うかな」
南条は自前のエコバッグから食材を取り出し、冷蔵庫へ移し替えていく。派手な花柄のエコバッグは、明奈がプレゼントしたものだ。
「だ、誰だお前」
呆気にとられた様子で男が呟いた。それを聞いた南条が苦笑する。
「ここはわたしの部屋だ。同じ質問をきみにしよう。きみは誰だ?」
答えるかわりに男は後退った。入れ替わりに南条の前にチャーリーが進み出る。いつ取り出したのか、チャーリーの拳には真鍮製のブラスナックルが嵌められていた。
「シュッ!」
鋭い呼気とともに、チャーリーの拳が南条の顔面に飛んだ。気負いもためらいも無い無慈悲な一撃だった。
南条がどう動いたのか明奈には視認できなかった。チャーリーと南条の体が重なった次の瞬間、チャーリーの体が台所の床に倒れていた。水切り籠に雑然と重ねられた食器類が僅かに震え、陶器が触れ合う小さな音がしたが、それだけだった。最初からそこに倒れていたように、チャーリーは床に寝そべり、右の手首を南条に極められていた。
呆然と南条を見上げるチャーリーの顔面に南条の右足が打ち落とされた。ゴツンという鈍い音をたてて後頭部が床に打ちつけられ、チャーリーは動かなくなった。
驚いたのは明奈だけではなかった。流しの前で、男が口を半開きにしたまま硬直していた。南条の一連の動きは、ダンスのように滑らかで、奇術のように劇的だった。
男など存在しないように、南条は慎太の前に片膝をつき、正面から慎太の目を見つめていた。
「慎太、よく堪えた。慎太の友であることを、わたしは誇りに思う」
今にも零れ落ちそうな涙を拭いながら、慎太が微笑んだ。
「ここから先はわたしに任せて欲しい。部屋に戻り、30分して連絡が無ければ警察を呼べとお母さんに伝えてくれ。できるな?」
「おれもここにいる」
「足手まといだ。状況を理解しろ。お前はこの男よりずっと強かった。今はそれで充分だ」
子供相手にとは思わなかった。むしろ南条は、慎太を一人の男として扱っている。
無言のまま頷くと、慎太は振り返ってあんずに目を向けた。
目が合った瞬間、あんずは慎太の身体に抱き着いた。
「あんずは忘れないのです。忘れてもときどき思い出すかもしれないのです」
抱き着かれた慎太の顔がトマトのように赤くなっている。確かに、傍で見ている明奈も恥ずかしくなるほどの抱擁だった。
「じゃあ、帰る」
ギクシャクした動きで、慎太が部屋から出て行った。
「さて、次はきみの番なのだが」
南条が男に向き直る。南条に気圧されたのか、男は和室の窓際まで後退している。
「その子を返してほしい。わたしの要件はそれだけなんだ。そもそもその子を誘拐したのは、その女の父親で」
台所の床に倒れたチャーリーと南条の顔にせわしなく視線を動かしながら、男が弁解がましく声を上げた。
「事情を説明してもらおう。こちらが納得する内容なら考慮する」
「つべこべ言わず渡したほうが身のためだ。そ、外にはね、まだ部下が沢山いる。わたしがここから一声かければ、あんた達は終わりだ」
男の言葉は事実だろう。囲まれているから下手な動きをするなと、男は明奈にそう言っていた。
「そうか。だったら呼ぶといい」
南条の返事に触発されたように、男は窓から身を乗り出し、外に向かって顔を突き出した。