勝ちとか負けとか、嘘とかずるいとか
それから実に数十分後。「悪戦苦闘」では表せないくらいの不利な戦いを終え、俺はへろへろと貝森ちゃんを振り返った。テーブルの上には辛うじて空になった丼。
……非常に、厳しい戦いだった……。頭の先までさっき食ったラーメンで満たされてる、そんな気分。今の俺を振ったらたぷんたぷん音がすることだろう。だが……俺はこの戦いに、打ち勝ったんだ。
「ほら見て貝森ちゃん……私、勝ったよ……」
「いやなんか汐音先輩顔色ヤバいですって! ていうかこれもう負けですよ!! 良くて引き分け! 最後まで見守った私も悪いですけど!! ……えーっと、立てますか?」
……足に力を入れてみる。プルプルと震える足は、今の俺がいかに軽いとはいえ、体重を支えてくれるかと言われると心もとない。いやしかし、ここに3日間座り続けるわけにもいかない。世の中レッサーパンダだって立つんだ。少し食べすぎた後の俺くらいが立てないわけがない。
テーブルに手をつき、生まれたての小鹿のように立ち上がろうとする俺を見て、貝森ちゃんは慌てたように制止する。
「ちょっ、無理! これ絶対無理ですって! ここあたし小さい頃から常連で店の人とも顔なじみなんで、たまに裏も上がらせてもらうんですよ。ちょっと休んでから行きましょう? ねっ?」
「……休む……?」
「そう、そうです! ほら、肩貸しますから」
そのまま、俺は貝森ちゃんによってラーメン屋の奥の部屋に搬送された。割れ物注意、みたいな感じで丁寧に運んでくれた貝森ちゃんのおかげで、搬送途中に悲劇が起こることは幸いにしてなかった。彼女の気遣いに感謝したい。
奥の部屋は6畳くらいの和室だった。薄暗い部屋で、俺はそのまま寝かされる。
……あー確かに、横にならせてもらうと少しだけ胃が落ち着くような気がするわ。目を閉じると、ぐるぐると回っているような感覚と、どこか懐かしい畳の匂い。
寝たままなんとなく顔の横に手をやると、長いふわふわの髪が手に触れた。それでやっと、今の自分の姿を思い出す。
……そっかぁ……そりゃ容量違うわなぁ……。ていうか今更だけど、この夢長くない? あとリアル過ぎない? 夢で食べ過ぎで倒れたことって俺ないんだけど。みんなは普通あるの? わっかんねぇ……。
* * * * * * * * * * * *
――ぴとり。
「ふぁっ!?」
うとうとしていると、不意に冷たいものがおでこに当てられ、俺は目を開けた。すると、貝森ちゃんがいつの間にかそばに座り、こちらを覗き込んでいる。
俺がおでこに手を当てると、そこには貝森ちゃんが置いてくれたのか、濡れタオルが乗せられていた。気がつくと、薄い毛布も体にかけられている。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃいました?」
「……寝てないよ?」
「いやーがっつり寝てましたって。くーくー寝てて、子供か小型犬みたいで可愛いかったですよ。……わかります、食べ過ぎると眠くなっちゃいますよね」
窓を見ると、確かに外は真っ暗になっていた。……いや待て。放課後すぐにここに来たから、これけっこう時間たってるんじゃ……? てことは貝森ちゃんずっと待ってくれてたの? いい子すぎない?
「待たせちゃってごめんね」
「いやいいですって! あたしが連れてきましたし!」
そもそもの話をするなら、連れて来いって言ったのは俺だ。それにおすすめの店紹介するのってそんな重い責任発生しないから。そうでないと世のグルメ番組はみな非常にリスキーになってしまう。それに、最終的にはこれに帰結すると思うんだよ。
「だから頼んだのは、私!」
「ああもうまた……意外に強情なんですねぇ」
「意外に?」
「妖精みたいな外見の割に、って意味です」
これ誉められてるか? まあでも確かに汐音ちゃんって外見だけならフェアリーみたいだしな。長い髪はもふもふしてるし、ちっちゃいし。中身も本来はすっげえ優しいし。きっと前世でよほどの徳を積んだのだろう。
……でもそんな子を普通に海外に送って行方不明にするスタッフってちょっとヤバくない? いやこんな素晴らしい作品を作ってくれて感謝はしてる、尊敬もしてるけども。ストーリーの終わり方くらいは協議して決めてると思うんだが、「よし、じゃあこの子は海外送りで行こう!」ってなったってことだよな? その冷徹さが怖い。俺は想像の中での社内会議に身を震わせた。
「~♪」
その時、部屋の隅に置いてある俺の鞄の中から、突如携帯の着信音らしきものが響いた。貝森ちゃんが鞄を持ってきてくれたので、俺は上半身だけを起こして携帯を取り出す。
……あ。「お母さん」って表示されてるわ。どれどれ。母上殿はいったい何のご用事かな?
「……もしもし?」
「あ、よかった。……今どこにいるの? なかなか帰ってこないから、心配してたのよ」
「ごめん、もうすぐ帰るから。今ね、友達と勉強会してるところなんだ。……数学の宿題で、分からないところがあって」
「あ、そうだったの……でもちゃんと連絡はしなさい。別に行くなとは言わないから」
「はーい。ごめんなさい。じゃあね、あと……1時間くらいで帰るよ」
和室の壁にかかってる時計をちらりと見る。ふむ、7時か……。これ貝森ちゃん3時間くらい待ってくれてたんじゃね? ……マジでめっちゃいい子じゃん……。
ごめん、ともう1度目で謝ると、貝森ちゃんは黙ってぱたぱたと手を左右に振った。謙虚。この子もう仏の生まれ変わりだろ……。
「わかったわ。そうそう、崇高くんも心配して家に来たわよ。ちゃんとそっちにも連絡してあげなさい」
「あ、そう……」
そっちはどうでもいいや。そういやあいつ幼馴染だもんな。にしてももう用事終わったんか。……あ。それとちょうどよかった。ここでお母上に絶対に伝えないといけないことが1つある。
「あと今日、夜ご飯いらない」
「どうしたの? ……体調、悪い?」
「お腹いっぱいだから」
「……何食べたの?」
「お昼に友達からパン貰ったりして、食べ過ぎちゃった……。ごめんなさい」
「あー……まあ、いいけど。わかったわ、1時間後ね」
「はーい」
俺は無事通話を終える。すると隣で聞いてた貝森ちゃんは、なんだか呆れたような顔をしていた。お、いったいどしたん? 仏の生まれ変わりな君が呆れるとかいったい何があったんだ。
「いやぁ……よくそんなに真顔でポンポン嘘が出てくるなぁと……」
「嘘? 人聞きの悪いこと言わないでほしいなぁ」
「友達からパン貰ったってなんですか。汐音先輩は貰ってなんてなかったし、お弁当は逆に取られてたじゃないですか」
「確かにそれは嘘だけど……でもお腹いっぱいなのは本当。ほら、これで半分半分だよ。イーブンだよ」
「いや半分嘘な時点でヤバいですからね! あと数学の宿題とかもう100%嘘じゃないですか」
「人間には容量がある、って学んだからあれは数学」
「範囲広すぎです! あと、友達と勉強会してる、っていうのも完全に嘘だし……」
「うーん……勉強会は嘘かもしれないけど」
「けど、なんですか?」
「友達と、っていうのは嘘じゃないから。ほら、これで半分半分」
「……あーもう! ほんとわかんない!」
そしてそのままぐしゃぐしゃっと頭をかきむしる貝森ちゃん。急にどうした。あーあ、髪乱れちゃってるじゃん。そんな自分の理解力不足を責めんでも。もっと気楽にいこうや。俺なんて貝森ちゃんがいったい何を分かってないのかすら分かってないからね。
その後もふーふーと息を荒くしていた貝森ちゃんは、しばらく深呼吸をしたり胸に手を当てたりして、やがて何とか落ち着いたようだった。ただ、何がそんなに彼女の情緒に触れたのかは謎。
「でもなんか、竜造寺先輩の気持ちは今ちょっとわかりました」
「それ絶対ヤバいよ……あ。ううん、とっても素敵だと思う」
「その2つって間違えることあります?」
「人ってね、誰しも間違うものなんだよ。……でも、分かる……って?」
「……あ、そろそろ行けますか」
そう言って、すっくと立ち上がる貝森ちゃん。どうやら俺の疑問には答えてくれないらしい。でもよかったな崇高。なんかよくわからんが、お前の気持ちを分かってくれる子がここにいるってよ。これもう確定じゃね? おめでとう、2人の結婚式には呼んでくれ。受付とスピーチくらいならしようじゃないか、俺が責任もって。
すっかり暗くなり、街灯が薄く照らす夜道を俺たちは連れだって歩く。やがて、別れ道で俺たちは立ち止まった。貝森ちゃんはそこでもう1度ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございました。汐音先輩のおかげで、今日はなんだか寂しくなかったです」
「じゃあこれから毎日ラーメン屋、行く?」
「それ絶対駄目! あ。……はい。とりあえず、やめときましょうか」
めっちゃくちゃ真剣な顔で止められる。……冗談だったんだけど。そんなことをしたら汐音ちゃんの現在症に高血圧が追加されちゃうじゃん。ははは貝森ちゃんこそその反応、冗談きついって。……え、冗談……だよな?
「とにかくこっちこそ、おいしいラーメン屋教えてもらってありがとう」
「……ほんとにおいしかったですか?」
「最初の4割くらいはね」
「ああ……まあ……これは嘘じゃなさそうですね。あれはほんとーに……お疲れさまでした。……それと。さっきの話の続きですけど」
「続き……?」
顔全体に「?」が表示されていたであろう俺の顔をしばらく見つめて、貝森ちゃんは黙って背を向けた。そしてゆっくりと俺と違う方へ、歩き出す。
……あ、さっきのってあれか? 崇高の気持ちを貝森ちゃんが分かるっていう、逆プロポーズ発言のこと? でも続きって言いながらもう帰っちゃってるんですけど。まあ、今日は迷惑かけたししゃーないか。気ーつけて帰ってくれな。俺はせめてお見送りすべく、その後ろ姿に大きく手を振った。
しかし貝森ちゃんは何歩か歩いた後、不意に立ち止まった。
そして、もう1度、何かを思い出したようにそっと振り向く。貝森ちゃんは、なぜか楽しそうに笑っていた。子供みたいに思いっきり。夜道で距離があるにもかかわらず、表情がはっきりと輝いて見えるくらいに。恥ずかしそうな、あるいは嬉しそうなその笑顔のまま、彼女は口を開いた。
「汐音先輩は、なんかずるいです」
「へっ?」
「ではまた明日! 失礼します!」
「あ、うん。また明日……え、ずるい? ……私? なんで?」