来襲、柚乃ちゃん(下)
俺は空を見上げたまま、汐音ちゃんの行方という謎の解明に努めたものの、さっぱりいい考えは浮かんでこなかった。隣の柚乃ちゃんもそれは同じらしく、チラチラとこちらを横目で窺ってきているのが分かる。やがて、柚乃ちゃんは少しひきつったような笑顔を俺に向けた。
「と、とりあえず、お菓子でもいかがですかぁ?」
「あ、うん。ありがとう」
俺は柚乃ちゃんが差し出した、可愛くラッピングされた袋からクッキーをつまみ、口に運ぶ。……お、うまい。これもたぶん手作りだよな。口当たりはサクサクして軽く、バターの濃厚な香りの割にしつこくはない。ほう……。
「おいしい……」
「ふふ。喜んでもらえていただいたようで、何よりです」
「あ、でもいけない。知らない人からお菓子を貰ったら駄目、って崇高くんと貝森ちゃんに怒られちゃう」
いや俺は知ってるけどな。でもなんか、このまま喋ってるとうっかり呼んじゃいそうで怖いから。出来れば早めに自己紹介していただきたい。
すると柚乃ちゃんは口に手を当て、控えめにくすっと微笑んだ。しかし俺は、そのこめかみが一瞬ひくついたのを見逃さなかった。
……いや、貝森ちゃんの名前出しただけでこれってどうなってんの……。柚乃ちゃんって貝森ちゃんと同じクラスだろ? 授業で貝森ちゃん当てられた時とかどうしてんのかな? やっぱ毎回ピキッと来てるん? それってもう半分心の病だろ……。
「倉見 柚乃と申します。ふふ、これで知らない人ではなくなりましたよねぇ」
「うーん……そっかぁ。じゃあいいのかな? 私、夜桜汐音です」
「『先輩』、って呼んでも構いませんか?」
「……えーっと……」
ほーらさっそく始まりよったぞ。柚乃ちゃんの貝森ちゃん狩りが。ただ残念ながら俺のことを「先輩(同義語:せんぱい・センパイ)」と呼んでいいのは、貝森ちゃんルートの貝森ちゃんだけだからな。でも柚乃ちゃんその提案する相手間違えてない? それ貝森ちゃんルートの時に主人公にやるやつでしょ? 俺1ミリも崇高じゃないよ?
「構いませんよね?」
「いや、夜桜先輩でお願い!!」
「…………どうしてですかぁ?」
それはね柚乃ちゃん。君の動機が不純だからだよ。君って貝森ちゃんより先に呼び方独占することしか考えてないやろ。俺も先輩呼びされることはやぶさかではないのだが、邪念を持って呼ばれるのはあまり嬉しくはないのだ。
「柚乃ちゃんには、あ、ごめんね、名前呼びでいい? 柚乃ちゃんにはね、こう呼んでほしいなって。他に誰も私のことをこう呼んだりはしないから。ね、ほら、特別だよ?」
「…………わかりましたぁ」
ニコニコ笑いながら柚乃ちゃんは頷いた。絶対内心「けっ」って思ってる。だって貝森ちゃんの先回りがしたいだけだもんこの子。柚乃ちゃんがこんなになってしまったのは新入生当時の貝森ちゃんとのある出来事が原因なのだが……。
しかし、柚乃ちゃんのこの習性(?)を利用したら、文化祭デートは簡単にできるな……。「貝森ちゃんって崇高くんと文化祭周るのとっても楽しみみたいだよ」って言えばいい。
……ただなぁ。文化祭デートって別にゴールじゃないんだよな。とするとやはり関係を築いてからということになるか。さすがに柚乃ちゃんといえども「貝森ちゃんが崇高と結婚考えるらしいよ」でゴールインするほど軽くはないだろう。
……しまった。今チャンスなのに肝心の崇高いないじゃん。今から送る俺のテレパシーが何とかお前に届かないか? 俺は中庭にいるぞ! 仮にも俺を愛してるなら届くよな!? 頼む! 今すぐここに来てくれ!
俺が、少しでも思念を向けるべく2階の俺のクラスの方を見上げた時だった。タッタッタッ、と軽い足音が近寄ってくるのが耳に入る。……おお! まさか届いたか!? さすが主人公!
「あ、やっぱりここにいた。……汐音先輩これ……げっ……」
テレパシーを受信したわけではないだろうけど、タイミングよくこちらに駆け寄ってきたのは、主人公ではなく貝森ちゃんだった。……最後のうめき声って俺に対するものじゃないよな? 駆け寄ってきてそれってあんまりだもんな。信じてるぞ?
そしてベンチの前までやってきた貝森ちゃんは何も言わず、柚乃ちゃんと俺を、咎めるような目でじーっと見つめた。……え? 俺も?
一方、柚乃ちゃんは貝森ちゃんを見つめて、ニコニコと笑う。しかし俺は見逃さなかった。笑う前に忌々しげな表情を柚乃ちゃんが一瞬浮かべたのを。
にらみ合ったまま威嚇し合う貝森ちゃんと柚乃ちゃんを傍から眺めていると、俺は2人のバックにハブとマングースのシルエットがゴゴゴゴゴ、と浮かび上がるのが見える気がした。……崇高、なぜお前はここにいないんだ。おかげで俺がレフェリーみたいになっちゃってるじゃん。もう「ファイ!」って言ったら始まっちゃうよこれ。
「あら亜佑美ちゃん。どうしたの? 朝からそんな顔しちゃって」
「……なんで柚乃がここにいるの?」
あ、言ってないのに始まっちゃうんだ。2人ともやる気満々やね。崇高ー、崇高ー、早めに来ないとヤバいぞ。お前の嫁候補が今日1人減っちゃうかもしれん。急げ。
「いちゃいけない? あ、この人ね、ちょうどここでたまたま会って仲良くなったんだよ。夜桜先輩」
「知ってるよ。知ってるでしょ」
「そうだったんだ。偶然だね」
「偶然って……! ……あれ……それ……?」
貝森ちゃんの視線が、俺の手のクッキーに注がれる。そしてなぜかぎりぎりと思いっきり歯ぎしりした。……離れてても聞こえる歯ぎしりってヤバない? 貝森ちゃんには己の歯にもっと優しさを持ってもらいたい。知ってる? 永久歯って抜けたら生え変わらないのよ?
片や、柚乃ちゃんは勝ち誇ったようにクッキーの入っていた袋をアピールするように掲げた。……いや、君は君でなんで勝ち誇ってんの? こっそり俺にクッキー食べさせるタイムトライアルでも開催してたんか? なら柚乃ちゃんが息切れてたのはわかる。ただなんで2人がそんな競技を開催してるのかは全くわからん。
「このクッキーが気になる? 夜桜先輩がね、おいしいって言ってくれたの。これだけあったらもう何もいらない、って」
「……ふーん……」
いやそんなん信じんどいて貝森ちゃん。俺ってクッキーのみで生きていけるほど人外じゃなかったでしょ? ほら貝森ちゃんの中の俺を、か弱い汐音先輩をさ、もう1度ちゃんと思い出してみよ?
「あら、何か駄目だった?」
「別に、駄目ってわけじゃ」
「じゃあそろそろ行こうかな、亜佑美ちゃんが怖い顔してるし。あ、夜桜先輩、そのクッキーは差し上げますねぇ。また、困りごとがあったら相談してください」
そう言って柚乃ちゃんはベンチから立ち上がった。……困りごとがあったら相談に乗ってくれるんだって。今君に困ってる、って言ったらアドバイスくれんのかな。あらそれはいけませんねぇ、みたいな。ならちょっと面白いから許す。……あ、行っちゃった。
柚乃ちゃんが悠々と去って行ったあと、貝森ちゃんは何やら硬い表情で俯き、手に持っていた紙をくしゃりと握りしめた。そしてそのまま自分もどこかに行こうとする。……いやいやちょっと待って。こんなよくわからん状態で俺を1人にせんどいて。
俺は自分の隣をバンバンと思いっきり叩いた、はずだったが。予想に反し、ぺちぺちと軽い音だけがする。そしてそれなのに結構手が痛い。汐音ちゃんこれさすがにフィジカル弱すぎない? ドッヂボールとか参加したら五体バラバラになっちゃわない? 大丈夫?
「貝森ちゃん、とにかく座りなよ。私に用があったんでしょ?」
「……ないですって」
「座ってくれないと私はずっと立たないよ。この1週間授業にあんまり出てないから、このままだと私、来年貝森ちゃんと同学年になっちゃうなぁ」
「なんですかその脅し文句」
しぶしぶ、といった感じで、それでも貝森ちゃんは俺の隣に腰を下ろしてくれた。そして何やら手に持っていたくしゃくしゃの紙を隠そうとする。
……そんなことされたら気になっちゃうじゃん。ひょっとして俺の悪口? だったら泣いちゃうぞ? でもわざわざそんなん持ってこないよな。何だろう。……まさか、崇高と貝森ちゃんの婚姻届とか……?
「それ見せて―。ほら見せろー」
「……もうこんなのいらないでしょ」
「いるよ。それは私にとってね、とっても価値のあるものです」
「……あーそうですよね。汐音先輩はわかってますよね。……わかりましたよ。はい」
そっぽを向いて紙片を渡してくれる貝森ちゃん。どしたの一体。……さてはおめー柚乃とグルになってるだろ、みたいな? それ誤解よ貝森ちゃん。
まあこれが何にせよ、いらんってことはないぞ。でも、ちょっと小さいな……婚姻届って線は薄いかもしれん。でも宝の地図とかでも可。さてさて、その2つのどっちかな?
ワクワクしながらメモを開く俺。するとそこには、なになに……「バターはよく混ぜ、卵もしっかりとほぐします。次に……」……なんぞこれ? それと何やら可愛い絵と具材の数々。これひょっとして、レシピ? クッキーの? あ、今日作るやつじゃん。サンキュー貝森ちゃん。
俺はちょっぴりテンションが上がり、ベンチに座ったままでつい足をぶらぶらさせてしまう。しかし、いつもならそれを注意してくるはずの貝森ちゃんは、今日は何も言わなかった。
「レシピありがとう。ふふ、今日クッキー作り、楽しみだねぇ」
「……もう食べたんでしょ? 今日はいいんじゃないですか。おいしかったみたいですし」
「ああ柚乃ちゃんの? ……貝森ちゃんのと柚乃ちゃんのはまた違うんじゃないかなぁ。……え、作り方一緒なの? お揃い?」
「いやそれは絶対ありえません」
「ならいいじゃない。貝森ちゃんのクッキー楽しみにしてきたんだから。作ろうよー」
「……」
……ヘイ、なにゆえ今日の彼女はこんなに後ろ向きなんだい? 昨日はあんなに前向きだったのに、1日でこんなにクッキー嫌いになることある? ほら、もっと笑って笑って。君の笑顔は素敵だよ。
……あ、でもひょっとして……柚乃ちゃんに味負けるかもしれない、ってこと? それは気になるかもしれんね。そして自分からそれは確かに言い辛い。でもこういうのって大事なのは味だけじゃないよな。
「貝森ちゃんの、クッキーが、食べたいんだよ」
「……」
「はい、貝森ちゃんがクッキーを作ってくれるって言ってくれるまで、私はベンチから立ちません」
「ベンチを脅迫道具に何度も使わないでください」
「いやでも食べたいし」
「……」
「ほらー、機嫌直してよー」
「……あたし別に、機嫌悪いわけ、じゃ……?」
貝森ちゃんはそこで顔を上げ、なんだか不思議そうな顔になった。そしてまじまじと俺の方を見て首を傾げる。……あ。今日やっとちゃんと目が合った気がするわ。
「あたし、そんなに機嫌悪そうですか?」
「うん。昨日の北辻さんと張るくらい」
「それはいくら何でも言い過ぎでは」
「わはは、ばれたか」
「この……! ……あ、すみません」
……やっぱ昨日の北辻さんばりに怒ってない? 俺ビンタ1発でバラバラになっちゃうから直接攻撃は止めてね。頼むから。
しかし貝森ちゃんは座ったままで目を閉じ、胸に手を当ててふー、と何度か深呼吸した。そして目を開けた後には、もういつもの表情に戻った。……おお。
そんな彼女は、俺の手の中のクッキーを横目でちらりと見る。
「で、柚乃のクッキー美味しかったですか?」
「そここだわるね貝森ちゃん」
「……美味しかったんですね……」
「確かに美味しかったよ。このクッキーは正直言って、かなりハイレベルだった」
……そんな寂しそうな顔でクッキー見んどいて貝森ちゃん。貝森ちゃんが曇ってると俺も悲しい。……いや違うって。最後まで聞いてくれ。
「ただ、まだ改善の余地があるよ。ということで、今日はこれを越えちゃうことを目標にしよう。まあ、2人で作ればなんとかなるでしょ」
それを聞いて、一瞬あっけにとられたような顔をした貝森ちゃんは。今度こそ、嬉しそうに笑った。
少し経って、貝森ちゃんは遠くを見ながら何やら考え込む。そして、独り言のように呟いた。
「でもなんで柚乃は今日、クッキーなんて作ってこれたんだろう……」
「作り方知ってるからじゃない?」
「そーゆーことじゃありません」
「クッキーの話をなんで知ってたか、っていうことなら。中庭が柚乃ちゃんのテリトリーだからだよ」
「……どういうことですか?」
たぶん昨日の昼休み、中庭の秘密基地に柚乃ちゃんがいたんじゃない? なんか嫌なことでもあって。だから俺たちの話が耳に入ったんだろう。ただそれを説明するには秘密基地の話をしないといけないが……。柚乃ちゃん、嫌がるだろうからなぁ……。ま、そこを省いてうまいこと伝えるか。
「中庭でした話はね、柚乃ちゃんの耳に入る可能性が結構高いんだ。誰にも気づかれず、あの子はこっそり聞けるからね」
「……あいつ盗聴器でも仕掛けてるんですか!?」
いやもうちょい原始的な仕組み。しかしあいつて。ほんと仲悪いね君たち。いいか、人という字は支え合ってだな……。




