――Day1 11 : 47
今回も端末にはご丁寧にあの男、西山翔の『秘密』とやらが事細かく記されたファイルが送られていた。
スピーカーかの声が言った通り、彼の淫行の数々や、彼が代表を務めていたヤリサー集団の規模とメンバー、そして彼が今まで陥れてきた女性や、仕入れてきた麻薬、引き起こした暴力事件などが写真と映像を含んだ資料としてファイルの中に収められていた。
……ふいに思う。最初に坂谷さんが死んだ時は、死んだと思いはしても遺体を直接見たわけではなかった。だからか、今に思えばその時の衝撃はさほど大きいものではなかった。
でも今は違う。人の死体が目の前にあるのだ、そのショックから未だ抜け出せていない自分がいる。
「……いつまでこうしていても仕方ねぇわな」
長い沈黙を破って、羽野さんが口を開けた。彼は背にした壁から身を離して俺たちに言ってきた。
「まだ調べてない場所もあるこどだし、こっからは別行動と行こうや」
この階にある三つのエリアはもう大体調べ尽くしている。別の場所というと事務室のあるエリアにいた上に繋がる階段と、この食堂エリアの手前にあった下に繋がる階段の二つの事だろ。
「そうね……まずは、今やれることからやっていきましょ」
堀江さんも頷いて同意すると、石垣さんが慌てて話しに加わってきた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 急に別行動って……大丈夫なんですか?」
「今さら固まって行動しても安全もクソもないだろ……」
吐き捨てるような羽野さんの言葉に不服そうな顔をする石垣さんだったが、それ以上の反論はしてこなかった。それを確認して羽野さんが俺たちに言った。
「それじゃ、俺は上のフロアを調べてくるぜ」
「なら俺は下の方を調べよ」
椅子に跨っていたスミスさんもそう言って立ち上がる。そして返事を待たずに食堂を出ていった。
「……そういうことで構わねぇな、教授さんよ?」
だが教授の顔は何かが抜け落ちたかのように虚ろで、羽野さんの言葉をちゃんと聞いていたかさえ疑わしい状態に見えた。それを見て、羽野さんが軽く舌打ちする。
「けっ、こいつはもう使い物にならねぇな……。それじゃ何かあったら知らせっから、後は任せたぜ?」
そう言い残し、後ろ姿で手を振りながら羽野さんも食堂を出て行く。
二人の足音が完全に途切れた頃、堀江さんが話を持ち出してきた。
「それじゃ、私たちもやれることをやりましょ。……まずはこの人、このままここに置いておく訳にはいかないし、病室の方にでも移動させましょうか?」
男の遺体に視線を向ける。
……確かにいつまでも冷たい床に放置しておくのはあまりに不憫だ。それに……身勝手な言い分だが、人の死体がこう目の前に転がっているのは精神的にも堪える。
「ちょっと待ってください。その前にこの缶詰は? ……どうするんですか?」
石垣さんが開けっぱなしの冷蔵庫を指差してそう言ってきた。
「今はそのままにしておきましょ、危険すぎるわ。……あなたが毒味してくれるなら、話は別だけど?」
堀江さんの挑発とも取れる言葉に、石垣さんが慌てて首と手を同時に横に振る。
「あ、いや……さすがに、それはッ」
死んだ大学生の男が開けた缶詰の匂いが厨房の中に充満していた。……それがこんな状況でも食欲を刺激してしまうのは皮肉な話だった。
「この後は……どうするんですか?」
優奈さんが縋るような目で堀江さんに聞いてくる。
……彼女の場合、他の人たちよりも精神的に参っているようで、最初に目覚めた数時間前と比べて顔色が明らかに悪いように見えた。
「そうね……後は自分の判断で動きましょ。上や下の階を調べるのも良いし、この階をもう一度探索しても良いんじゃないかしら。とにかく、ここか脱出する手がかりを探すしかないわ」
……そうだ。ただ待っていても状況は何も好転しない。よしんば幸運が重なって13日間ここで生き延びたとしても、ルールによって俺たちの秘密は確実に暴露されてしまう。それでは意味がない。何としても自分や姉さんに秘密暴露の順番が回ってくる前に、ここから脱出する必要がある。
つまり正解の『出口』を探し出す、それしかないんだ。
「あなた、大丈夫……?」
姉さんが優奈さんの憔悴しきった顔を見て彼女に声を掛けた。
「少し休んだ方がいいよ。そのままじゃ倒れるわ」
「あ、はい……すみません」
優奈さんが力なく微笑む。やはり、彼女の顔からは疲労の気配が色濃く滲み出ていた。
今はまだ大丈夫かもしれないが……このままだといずれ本当に危ないかも知れない。
「それじゃ運んでしまいましょ。そこのマネージャーさんと松永くん……だっけ。手伝ってくれる?」
「あ、はい」
堀江さんに呼ばれ、考え事を打ち切って遺体の傍に近寄る。石垣さんも近くに来ては、男の遺体を見て呟いた。
「しかし、何の外傷もなく……死んでるとは思えないな」
俺も改めて遺体を観察する。口から血が出ているわけでも、泡を吹いているわけでもない。
目立った外傷一つないその遺体を見ていると、今にでも目を開けて起き上がってもおかしくないように思えた。
「西山さんも、それでいいわね?」
堀江さんが未だ動かないまま男の遺体にしがみついている教授に話しかける。
そして堀江さんが遺体に触れようとした瞬間、教授がいきなり大声を上げて怒鳴ってきた。
「ワシの息子に触るなッ!!」
ヒステリックなその叫び声に堀江さんが一歩後ろに退く。そして血走った目をした教授が俺たちを睨みつけてきた。
「何なんだ、貴様たちは? 息子が……人が死んだんだぞ? それを……ッ! それを何とも思わないのか、お前たちは!?」
ものすごい剣幕に皆がたじろぐ。その間も教授は捲くし立てるように話を続けた。
「まるで荷物でも運ぶようにあっさり片付けようとして! 後は何をするか、だと……? 自分たちの命はそんなに大事かっ、ああんッ!? この、俗物共がっ!!」
憎悪に満ちた教授の言葉の数々。息子を亡くした悲しみで、その声はどうしようもない絶望に彩られていた。
「そんなの、当たり前じゃないですか」
そんな教授のどす黒い感情の渦から吐き出す言葉とは真逆の、よく通る澄んだ声が教授の言葉を遮った。
「なに……?」
教授が声のした方を睨み返す。その視線の先には桜井音刃がいた。
「自分が大事じゃない人なんて、むしろその方が偽善なのでは?」
「何だと……ッ?」
きっぱり言い切る桜井。そんな彼女を教授はまるで射殺すかのようにを睨む。だが桜井はそれを意にも介さず静かに話を続けた。
「それに、同じことでもそれをどう受け取るかなんて、人によって違うものだと思います。それを……自分の感情だけ他の人に押し付けるなんて、最低です」
「くっ、だが……だがっ! 息子が死んだんだ、何で……なんでワシの息子がこんな所で死ななければならないんだッ!?」
頭を抱えて教授が絶叫する。だが、その悲痛な叫びに答えられる者は誰もいなかった。
「……彼の為にも、ここに置いておくよりはどこか休まる所に移動させた方が良いと思います」
それを見かねて姉さんが声をかけるが、教授はただ項垂れてこちらとは目線を合わせようとしなかった。
やがて堀江さんの無言の合図で、俺たちは男の遺体をさっきの病室棟に運んだ。そして一つの部屋を軽く片付け、ベットの埃を払い、そこに遺体を置く。
その間、教授はただそれを死んだような目で見ているだけで何も言ってはこなかった。
「……それじゃ、そろそろ出ましょうか」
ひと段落ついて、堀江さんが静かにそう話した。
皆それぞれ頷いて遺体を置いた部屋を出ようとするが、教授だけは微動だにしないままその場に立ち尽くしていた。
「あなたはどうするの?」
堀江さんが話しかけると、今まで俺たちと目も合わせなかった教授がゆっくりと俺たちの方を見てきた。
「……無駄だ。全部、ここで死ぬんだから……どうせ、何をしても無駄なんだよ……」
力の抜けた焦点の合わない目で教授がそう呟く。
その何もかも諦めたかのような物言いに、俺はどうしようもない不吉なものを感じてしまう。
「奴は……最初からワシらを全員殺すつもりでいるんだよ……そしてそれを見て楽しんでるんだ。だから、無駄なんだよ……」
まるで呪いのような教授の言葉に耐え切れなくなったのか、石垣さんが荒い口調で言い返してきた。
「いい加減にしてくれっ! 黙って聞いていれば、好き勝手言いやがってッ」
さらに暴言を吐こうとする石垣さんを堀江さんが手で制する。そして首を横に振った。
「もう出ましょ」
「……そう、ですね」
堀江さんの落ち着いた声に、我に返った石垣さんが大きくため息を吐いた。そして聞こえるように舌打ちをして踵を返す。他の人たちも彼の後を追った。
「姉さん、俺たちも出よ」
「……うん」
中々動こうとしない姉さんの腕を軽く引っ張って外に出る。そして俺たちが出たのを最後に、堀江さんがそっと部屋の扉を閉めた。
その扉が完全に閉まる直前、虚ろな目で息子の遺体を見つめている教授の姿が扉の隙間から垣間見えた。
「たっく……何なんですか、あの人は! 偉そうに仕切っていたのが、今はまるで廃人みたいに」
まだ腹の虫が収まらないのか、扉が閉まる途端に石垣さんが悪態をついた。
「浩介さん……」
「あ……すまん」
でも心配げに自分を見る優奈さんに気づき、石垣さんはばつの悪そうな顔になって口を噤む。そこで、スタート地点と病室エリアを繋ぐ扉が乱暴に開かれた。
「おーーい! って……何だ、ここにいたのかよ。探したぜ」
開かれた扉が勢い余って壁にぶつかり、耳障りな音が廊下に響く。そしてその扉の向こうから羽野さんが姿を見せた。
「何だ、じゃないわよ。こっちが驚いたわ」
「それは悪ぃなぁ……急いでいたもんでよ」
堀江さんが文句を言うと、羽野さんがそのアフロ頭を掻きながらこっちに近づいてきた。
「それで、何か見つかったの?」
「ああ、見つかった……ってほどじゃないがな。どうやら上の階は寝室のようだな。ご親切にもこのゲームが続く間は、そこで寝泊りしろってことじゃないのか?」
羽野さんが天井を指差して含み笑いを浮かべる。
ここの病室にも一応ベットはあるが、破れたり汚れたり埃を被ったりで、とても人が寝られる状態じゃなかった。ゲームの主催者……犯人の思惑が何にせよ、ちゃんと休める場所があるのは助かる。
「何なら行ってみるか?」
「そうね、直接見てみないとね」
羽野さんの提案に堀江さんが頷く。そして他の人たちも二人の後に続き、上の階に繋がる階段を上がる。
二人がやっと並べる狭い幅の階段を上がり切ると、そこには応接室のようなロビーがあって、そこから先の通路の入り口に『職員棟』と書かれているパネルが貼り付けられていた。
「何となく、似てるわね」
堀江さんが短くそんな感想を口にする。確かに廊下の両側に複数の部屋があって、それが病室棟と似通っている印象だった。
ただ病室棟の廊下よりは部屋の間隔が広く設けられていることから、一部屋ごとの面積は病室よりは広いように思われた。
「ほらよ。中も綺麗なもんだろ?」
そう言って、羽野さんが手前にある部屋の扉を開く。予想していた通り、その部屋は病室と比べて約二倍くらいの広さがあった。そしてよく片付けられている。乱雑に物が転がっていた病室とは違い、今すぐ横になってもいいくらいは清潔な状態を保っていた。
まるで、昨日でも誰かが掃除をしたかのように。
「まあ、これで今夜どこて眠るか……なんて心配は、しなくて良さそうね」
堀江さんが何とも言えない顔をして肩を竦めた。
「それだけじゃないぜぇ……? 中からちゃんと鍵も掛けられるようになってるから、色々安心だろ?」
羽野さんが実際にドアノブの鍵を掛けてみせながら、含みのある笑いをした。
「……そうね、無いよりはマシかもね。他には何かなかった?」
「廊下の突き当たりにトイレがあるんだが、ちゃんとお湯も出てたぜ? どこから水や電気を持ってきているのかは知らないがなぁ……くくくっ」
二人のやり取りを聞いていた優奈さんが小さく安堵の息を吐いた。
まあ、これで最低限の清潔は確保されたってことだ。女性には、特に彼女は職業が職業だし色々あるんだろ。
「それじゃ部屋割りは自分で決めましょ? ついでに何かないか、適当に探してみないとね」
「適当って……」
ズカズカ部屋に入っての中を改める堀江さんを見て、少し困惑した顔の石垣さんが独り言のようにそう呟く。そして優奈さんと小声で何かを話すと、二人とも他の部屋を調べに通路の奥に去っていった。
「…………」
そして各々自分が使う部屋を探しながら中を物色している間、秋吉さんだけが一人ぼーっとして突っ立っていることに気がつく。
「あの、大丈夫ですか?」
「えっ? …………あぁ」
俺が声をかけると、秋吉さんは体を跳ねるようにして驚く。それで自分だけ廊下のど真ん中で佇んでいたことにようやく気がづいたらしく、目を見開いて俺を目返してきた。
「……大丈夫ですか?」
「ええ……大丈夫。あたしは、大丈夫よ……」
俺の問いに、秋吉さんは何度も頷きながらそう答える。
でもその言葉は俺への返事というより、自分に言い聞かせているようにも見えた。そういう一種の放心状態と見える彼女の姿に一抹の不安を感じる。
「ここは宿舎か、よくできているな」
後ろから聞こえる野太い声に振り返ると、いつの間に来たのか、スミスさんが応接室の方からこっちの方に歩いてくるのが見えた。
「おう、軍人さんよ。そっちは何か見つかったのかい?」
奥の方にある部屋から羽野さんが出てきて、スミスさんに話しかける。その話し声につられてか、他の人たちも次々と廊下に出てきた。
「姉さん、どこに行ってたの?」
俺はしばらく姿が見えなかった姉さんにそう問いかけた。
「うん、この子、トイレに行きたいと言ってたから一緒にね」
姉さんが相変わらず彼女に引っ付いている百合ちゃんの頭を撫でながらそう答える。
「トイレって……」
確かに子供だが、一人でトイレを済ませないほどの歳にも見えない。そう言うとして、俺はあえてその言葉を飲み込んだ。
まあ、状況が状況だ。一人じゃ不安だし心細いから誰かと一緒に居たいんだろ……そう考えることにする。
「下は……何て言えばいいか」
一方、人たちに下の階の様子を聞かれたスミスさんは、今まで何事もストレートに即答してきた彼にしては珍しく、言葉を濁していた。
「なんだ、はっきりしないな……何があったんだ?」
そのスミスさんの煮え切れない返事に、羽野さんが不審がって彼を再度追求する。
「下は、何かの収容場……みたいな場所だった」
「……収容場だぁ~?」
スミスさんのその答えに、羽野さんが驚き半分呆れ半分の表情を浮かべる。それは他の人たちも似たようなものだった。
それもそのはず、いきなり収容場と言われても……この施設が実は監獄だったとてもいうのだろうか?
「まあ、ここで話していても始まらないわ。行ってみましょ」
「……そうだな」
堀江さんの提案に羽野さんが頷き、また皆で下の階に向かうことにした。
元いた階を通り、下に続く階段を下りていくと、途端に腐った溜まり水のような……何とも表現し難いカビ臭い匂いが鼻を突く。
「何なんですか、ここはッ」
石垣さんが顔をしかめて文句を言ってくる。正直あまり長居したくないような場所だった。そして階段を下りていくほど、臭いの方もドンドン強くなってくる。
「……ここは、いったい」
階段を抜けて見えて来た光景に優奈さんが目を見開いてそう呟いた。
空洞……とでも言えるのだろうか。ひらけた場所と5メートルは優に超える高い天井。そして正面には大きくも分厚い鉄の扉が陣座していた。
また左右両側の通路は鉄格子に阻まれていて、鉄格子の隙間から暗い照明に照らされた廊下と、それに面した多くの部屋が見えた。
「上の病室とは随分……雰囲気が違うわね」
堀江さんがそう言って鉄格子を手で触る。施錠されてはいないらしいそれは酷く錆び付いていて、取ってを引くと耳障りな金属の擦れる音が空洞に響く。
それと、この階の照明は上と比べて数段増して暗い。だから少し距離が離れてしまうと、その人の表情さえよく見えないくらいだった。
また長らく埃を被ってきた汚い床は、その上を歩く度に粉塵が舞い起こる。
「おい、軍人さんよ。この扉は開かないのか?」
羽野さんが正面の大きい扉を手の甲で軽く叩いてみせた。鉄版に響く音から、その厚さが伺える。
「ああ、押しても引いてもびくともしない」
スミスさんが首を横に振って答える。そして堀江さんに話しかけた。
「そこの女、この扉は開けられないのか?」
そう言えば堀江さんはピッキングツールを持っていた。あのデカイ扉も一応鍵穴らしいものはあるから、もしかしたら……。
「ダメよ、この鍵穴はこんな装備じゃ開けられないわ。それに、中には電磁式ロックも組み込まれているようだから、そもそも無理ね。……それと」
端末画面の光を照らして鍵穴の中をざっと調べた堀江さんがそう言って身を起こす。そしてスミスさんを真っ直ぐ見て言い放った。
「私はそこの女、じゃなくて堀江彩夏って名前があるの。……適当に呼ぶのは止めてもらおうかしら」
堀江さんが目を細めてスミスさんを睨む。その鋭い視線を受けてなお、スミスさんは口の端を吊り上げて小さく笑った。
「ふっ。理解した、女」
その答えで一気に二人の間に緊張めいた空気が走る。
「口には気をつけた方がいいわよ……」
堀江さんが更に鋭い視線で睨みつける。それでもスミスさんはどこか楽しそうにへらへらと笑うだけだった。
それがまた堀江さんの逆燐に触れたようで、まさに一触即発の状態になっていく。
「うおおおっッ!? な、何なんだ、これは!?」
その緊迫した雰囲気を崩したのは鉄格子の向こう側にある部屋から聞こえてきた石垣さんの悲鳴にも似た叫び声った。
「たっく……今度は何なんだぁ?」
羽野さんが頭を掻きながら声がした部屋の方に歩いていく。他の人たちもその後を追う。
ただ俺はというと、堀江さんとスミスさんの方が気になって動けずにいた。
「和也?」
先に歩き出した姉さんが振り返って俺を催促してくる。俺はやんわり首を横に振って答えた。
「姉さんは先に行ってて」
「……わかった」
俺と堀江さんたちを交互に見て、姉さんが百合ちゃん連れて鉄格子の中に入っていく。俺はそれを見届けてから堀江さんとスミスさんの方に視線を戻した。
「あんたは行かなくていいのか?」
挑発するような含み笑いをしたスミスさんがそう話すと、堀江さんの目付きがさらに鋭くなった。
「一体、あの部屋に何があるって言うの?」
「さあな……直接見て確かめたらいいんじゃないか?」
堀江さんの言葉にスミスさんがおどけた調子で答えた。
もうそれ以上話しても無駄だと思ったのか、堀江さんは最後にスミスさんを一睨みした後、彼から背を向けて歩き出した。
「……何?」
「あ、いや……」
振り返ってきた堀江さんと偶然目が合う。その刺すような視線に、咄嗟に何て言えばいいのかわからなくなってしまって俺は言葉を濁した。
「……ごめんなさい。松永くんも行きましょ」
そんな俺を見て何を思ったのか、堀江さんが急に顔色を和らげて謝る。そして鉄格子の向こうに歩を進めた。
「あ、はいッ」
俺も慌てて彼女の後を追う。最後に後ろを振り返ってみると、スミスさんは相変わらずそこに立ったまま俺たちを見ていた。
ニヤついた顔に、絡みつくような視線。それは正確には俺たちではなく、堀江さんだけを見ているような気がした。
「何なんだ、これはっ!? ここは病院じゃなかったのか!? 何で……こんなのが!」
人が集まっている部屋の前まで行くと、丁度中から石垣さんの声が聞こえてきた。錯乱したかのようなその声は明らかに戸惑いの色が滲み出ていた。
俺は後ろの方に立っていた姉さんに話を聞いてみた。
「姉さん、いったい何があったの?」
「和也……」
振り返って俺の名前を呼ぶ姉さんの顔がどこか蒼白に見えた。
「いったい何が……ッ!」
部屋の中を見て、俺の言葉はそれ以上続かなかった。いや、続けられなかったというべきだろ。
……部屋の真ん中には白いシートに包まれた寝台が置かれていた。そしてその寝台は手や足を縛るための拘束具が複数備え付けられていた。
そして極めつけに、寝台の白いシートにデカデカと黒ずんだ赤い染みが至るところに飛び散っていた。
「あれって、血痕……なんですか?」
「多分そうなんじゃねぇか?」
俺が何とか声を絞り出して聞くと、羽野さんが鼻で笑いながら答えた。その黒い染みを目で追う。それは寝台の上から床の方まで広く飛び散っていた。
一体ここで何があったんだ? ……ここは本当に精神病棟なのか? そうじゃないなら、ここは何をする場所だったんだ?
……そんな疑問と疑惑が頭の中で鎌首をもたげ始める。
「おい、マネージャーさんよぉ。いい加減、喚くのは止めたらどうだい? あんたが先に取り乱したら世話ねぇだろ」
「何だとッ!?」
石垣さんが血走った目で羽野さんを睨む。だが怯えた表情で自分を見ている優奈さんに気づき、我に返って肩を落とした。
「まあそれを言ったら、とうの昔にマネージャーとしては失格だったかもしれねがな、くくくッ」
独り語のようにそんなことを口走って笑う羽野さんに、石垣さんは顔を真っ赤にして歯軋りする。
でも優奈さんが見ている手前、それ以上羽野さんに食って掛かろうとはしなかった。
「多分ここは閉鎖病棟だったんだろぜ? まあ、精神病院には定番だわな」
閉鎖病棟。聞いたことはある。精神病の中には、疾患の種類や具合によって深刻な自傷行動を起こす危険のあるケースも存在する。そういう時、それを阻止するためにやむを得ず体を拘束する場合もあると。
もしそうなら、この拘束具だらけの寝台や血痕はその名残ってことになるが……?
「そうね……それにここ、見て」
俺の後ろ、扉の前に立っていた堀江さんが皆の注意を集める。
彼女は開いたままの扉の取っ手を掴んで、それを外側から回した。すると金属の擦れる音と共に扉が施錠された。
「最初のエリアで見た病室は、中からも外からも鍵は掛けられなかった。そこは鍵穴自体なかったんだから当然ね。そして職員室がいたエリアは内側からのみ、鍵の開け閉めができるようになってる。……そしてここはその逆、外からしか操作できない」
堀江さんが扉の開け閉めをして見せながら説明すると、羽野さんが肩を竦めて笑った。
「要注意患者が暴れないようにってか? ……けっ、胸糞悪いところだな、まったくよぉ」
「でも、何で血が……一体ここで何があったんですか?」
寝台と床に付着している血痕を見てそう聞いてくる優奈さんは、緊張と恐怖のせいか小刻みに震えていた。
でも肝心の石垣さんは未ださっきの興奮状態から抜け出せていないようで、そんな優奈さんの状態には気づいてない様子だった。
「まあ大方、誰かさんが暴れて自害でもしたんじゃねぇか? その痕跡がそのまま残って、今に至る……と」
「それに、そもそもそれが本当に人の血なのか確かめる方法もないしね」
羽野さんの推測に、堀江さんも口を挟んで自分の見解を述べる。それでも、その不気味なの印象だけは中々拭えるものではなかった。
「他の部屋も探してみっか。……先に出るぜぇ?」
言い捨てるようにそう話を切り上げて、羽野さんがその部屋を出て行く。
「そうね……あまり長居したくはない場所だし、さっさと回りましょ」
確かにここは湿気が高く、おまけに何かの腐ったような匂いまで鼻を突いてくる。長居したくない気持ちは俺も同感だった。
俺は最後にもう一度部屋の中を確認して、外に出て扉を閉めた。