――Day1 06 : 31(下)
「おーーい! こっちに面白いもんがあるぜー?」
「……行ってみましょう」
また喧嘩を始めようとするその親子を交互に見て、堀江さんが先に歩き出した。スミスさんも無言でそれに続く。
「まったく、団体行動のできない奴らだ」
先に歩き始めた二人を見て教授が毒説を吐く。そして渋々といった様子で自分も歩を進めた。
それを見て、残った人たちは合わせたかのように小さくため息をついた。。
「あの二人、本当に仲が悪いね」
前を歩く教授と大学生の男を目で追いながら、姉さんが小声で俺に話しかけてきた。
「うん……そうみたいだね」
正直、あんな内輪揉めは他所でやってくれと思う。なんでこんな異常時にまでいがみ合うのか理解に苦しむ。
「それにしても姉さん。その子……」
俺は相変わらず姉さんの腰にしがみついている少女に目を向けた。そして俺の視線を感じてか、百合ちゃんも俺の方を見上げてくる。
「…………」
確かに可愛い顔立ちで、もし子役のタレントだと言われても納得できるくらいだ。
でも無言で俺を見つめるその瞳に、俺は最初その少女を見たときと同じ類の……言い知れない不気味さを感じていた。
「なんかね、懐いたみたいで」
姉さんが弱った顔で愛想笑いを浮かべる。そして百合ちゃんの頭を優しく撫でた。
「それに子供一人じゃ心細いでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
釈然としない俺の煮え切れない返事に、姉さんは目を細めるとからかうような口調で言ってきた。
「な~に和也、ヤキモチ?」
「ち、違うよ姉さんっ、そんなわけないだろ?」
俺がこんな子供に、しかも女の子にヤキモチなんて焼くわけがない……それも、こんな状況でだ。
あらぬ疑いに一瞬で顔が火照ってくる。そんな俺の慌てる姿を見て、どこか満足した顔の姉さんが笑いながら腕を絡めてきた。
「うそうそ」
「はあ~、姉さん……」
俺は長いため息をついた。こんな状況でも姉さんは姉さん……俺が敵うはずもない。
そしてそんなやり取りをしているうちに、俺達は廊下の突き当たりに到着していた。
「よう……ここに、また『出口』があったぜ?」
通路の奥にはトイレがあった。そしてその手前に『出口』と書かれている一つの扉が俺たちを出迎える。
その横で、薄ら笑いを浮かべた羽野さんが俺たちを待っていた。
「これは……ッ」
石垣さんが何らかの引力に引かれるように一歩前に身を乗り出した。それを優奈さんが腕を掴んで引き止めると、彼は我に返ってその歩を止める。
「扉は開いているのかね?」
「さあな……知りたければ自分で開けてみるんだな」
教授の問いに、羽野さんは相変わらず薄ら笑いを浮かべてそう答えた。
「く……ッ」
その挑発とも取れる羽野さんの言葉に教授が低く唸る。でも教授は扉のノブに直接触れようとはしてこなかった。
それもそのはず、さっきの水のペットボトルとは違って間違った『出口』の件ではもう死人が出ている。もしこの扉も間違った『出口』なら、今度はどんなことが起こるかわからない。それこそ最悪の場合、ノブを回した瞬間に爆発ってことも考えられなくはなかった。
「まずは『出口』がここに一つあると知っただけでも上出来ね。他の場所も調べてみましょ?」
「あ、ああ……そうだな」
堀江さんの言葉に、扉の前で固まっていた教授がやっとの様子で相打を打つ。
それから皆で最初の部屋、スタート地点まで引き返して、今度は反対側の廊下に入る。そこはさっきの小部屋がびっしりと並んでいた通路とは違って、広い部屋が何室かあるだけだった。
「ここは……事務室、みたいですね」
中の様子を見て石垣さんがそう話した。俺も通路側の大きいガラス窓から部屋の中を覗きみる。
確かに、中には机や会議用の長テーブル、椅子などが散らばって置かれていた。
「とにかく、中に入ってみようか」
教授が扉を開けて中に入っていく。他の人たちも次々とその部屋に足を踏み入れた。
「なんかさ……すっげー慌しい感じの部屋だな」
部屋に入るなり大学生の男がそういう感想を漏らした。
俺も部屋の状況から似たような印象を受けた。無造作に置かれた机や椅子は横に倒されたり引っくり返されている。パソコンや書類らしきものが辺りに散乱して、埃を被ったまま至る所に転がっていた。
「さっきの病室と何となく似てるわね」
堀江さんが部屋の中で唯一整然と置かれている机の、その真ん中に置かれているペットボトルを拾い上げながらそう言ってきた。
……さっきと作りの違うこの部屋にもそれが置いているということは、どうやら部屋ごとに水のペットボトルが一本ずつ置いてあると見てまず間違いなさそうだ。
「急いで引越しでもしたんでしょうか……?」
優奈さんが躊躇いがちにそんな感想を口にする。
確かに……急に荷造りでもしてれば、こんな感じになるのかもしれない。
「引越しっていうより、夜逃げでもした後って感じだけどなぁ?」
意味深げに白い歯を見せて笑う羽野さんの視線に、石垣さんが明らかに顔をしかめた。そして不安そうな顔の優奈さんを自分の後ろに下がらせる。
「あなたは何が言いたいんですか……!」
口調が荒くなるのを何とか押さえて石垣さんが問いただすと、羽野さんは肩を竦めながら答えた。
「なーに、大した意味はないぜ? ただよ……どう見てもここは、元々ここにいた連中が逃げ去った後で、また他の誰かが来て荒らし回った。そう考えた方がしっくりこないか?」
羽野さんの言葉に石垣さんが押し黙る。代わりに睨むような視線を送るが、羽野さんはまた肩を竦めてみせるだけだった。
俺はそのやり取りを横目に見ながら、パソコンのボックスを剥がして中身を調べている堀江さんに声をかけた。
「どうですか?」
「駄目ね……電源の配線が切れてるし、中身も空よ」
堀江さんが首を横に振って立ち上がる。そして手に付いた埃を叩き落しながら苦笑した。
「まあ、そもそもコンセント自体、ここにはないみたいだけど」
そう言われて初めて気がづく。普通に電気が通っているから気づかなかったが、事務室のような部屋にコンセントが一つも見当たらないなんて……明らかに不自然だ。
「おいおい……本当かよ……」
ちょっと離れたところから、大学生の男の何かに驚いたような声が聞こえてきた。振り返ってみると、教授と大学生の男と秋吉さんが熱心に何かのノートを覗いていた。
「おい教授さんよ、何かあったのか?」
羽野さんが話しかけると、さっきまで食い入るようにノートを凝視していた教授がやっと顔を上げてきた。
「なんだ、それは?」
スミスさんの問いに、教授は少し躊躇ってから口を開けた。
「これは、この施設に勤めていた職員の日誌……みたいだが、どうやらここは……精神病棟だったようだ」
「へぇー。やっぱナースの姉ちゃんが言ってた通り、さっきの部屋は病室だったみてぇだな?」
羽野さんが感心したかのように姉さんを見て笑う。……何となく不愉快だ。
「それで、他にはないのか?」
「そうね……ここの見取り図とか、ここが何処かとかは?」
スミスさんと堀江さんが矢継ぎ早さに質問を重ねてきた。その勢いにたじろぎながら教授が答える。
「いや……。今のところ、それらしいものは見当たらないんだ。見た感じでは向精神性新薬の投与経過や、患者の状態記録とかが主のようだ」
「なんだよ……結局なんの役にも立たない話だな。気ぃ持たせやがってよ」
羽野さんの声に落胆の色が混じる。教授は少し不満げな顔をしたが、何も言い返さずまたノートに視線を落とした。
「でもさ。これでここが何の施設かわかったんだし、よかったんじゃない?」
「そうか? 自分がいきなり連れ込まれた場所が精神病棟だなんて、むしろ最悪じゃないか」
急に訪れた沈黙を嫌ってか、秋吉さんと大学生の男が軽い調子で話し合う。
……でも、俺にはこれがそう単純な話とは思えなかった。散乱している部屋の情景は一見して不自然さはないが、そこに置かれた水のペットボトルは明らかに異質なものだった。至る所に埃を被った古めかしい置物から見て、廃棄されてから相当時間が経っているはずなのに、当たり前のように電気が繋がっている。
言うなれば、この空間そのものがゲームの主催者、つまり犯人によって手を加えられた意図的な装置であり、このゲームの舞台でもあるのだ。
それに、周到にパソコンから中のデータを見られないように細工した犯人が、うっかりこの施設に関する資料を残しておくだろうか?
……あり得ない。多分あの資料も、わざわざ犯人が、俺たち参加者が探し出すのを想定して残しておいたと見るべきだろ。
「他の部屋を調べてくる」
短くそう言い残してスミスさんが部屋を出て行く。それを見て教授は顔をしかめたが、特に何か言ってはこなかった。
「……ここにはこれ以上目ぼしいものはなさそうね。私たちも他を当たりましょ」
堀江さんの提案に各々他の事務室を調べ始めた。だがこれと言って特別なものはなく、この施設にいた患者のものと思われるカルテが何冊か見つかっただけだった。
それにもしかしたらあるかも知れないと思っていた『出口』も、この事務室がいるエリアでは見つからなかった。
「姉さん、何か見つかった?」
手に持っていたカルテを机の上に置いて振り返る。姉んは相変わらず自分にくっついて離れない百合ちゃんと一緒に探し物をしていた。
「ううん。和也は?」
「いや何も。……そっちはどうですか?」
俺は少し離れた場所で何かを食い入るように見ている堀江さんに声をかけた。
「そうね……知ったことと言えば、この施設は新薬の臨床実験が行われていて、その経過を細かく記録していたくらいかしらね」
手に持っていた書類を俺に見せて、堀江さんは肩を竦めた。つまり、脱出の助けになるような内容は何も見つからなかった……ってことだろ。
「そうですか……そっちは?」
俺は同じ部屋にいたもう一人、桜井音刃にも話を振ってみた。
「いえ、気になることは特に何も」
彼女がゆっくり首を横に振って答える。
……まあ、ここまで手の込んだことを仕出かした犯人のことだ。おいそれと脱出に繋がるような手がかりを置いておくとも思えない。
「この調子じゃ、他の人たちもあまり期待できそうにないわね」
堀江さんがため息混じりにそう呟く。そのとき、外の通路側から大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
「駄目だっ!! 勝手な行動は許さんぞ!」
怒り心頭といった怒声。それを聞いて、俺たちは思わず互いの顔を見合わせる。
「西山さんの声ね」
堀江さんが口元を歪ませて言ってきた。桜井は軽くため息をついて、姉さんは困ったように愛想笑いを浮かべる。
「……行ってみましょ」
堀江さんを先頭に俺たちが部屋を出ると、通路の突き当たりに他の人たちが集まっているのが見えた。そして、その中心にいるのは西山教授とスミスさんだった。
「リスクを恐れては何もできない。俺は上を調べる、そこを退け」
「貴様の独断が他の人まで危険にするかもしれないのを、なぜわからん!?」
二人は凄い剣幕で言い争っていた。俺は遠巻きにそれを見ていた羽野さんに小声で話を聞いてみた。
「何かあったんですか?」
「なぁに、また始まったのさ……」
さも大したことでもなさそうに羽野さんがそう答える。そして通路の先に開かれている扉を見て、堀江さんも話しに混ざってきた。
「あれは?」
「上の階に上がる階段が見つかったみたい」
今度は羽野さんに代わり、うんざりした表情の秋吉さんが答えた。
非常口だろうか、確かに上に繋がる階段が扉の先から見えていた。
「んで、そこに行こうとする軍人の兄さんに、あのオッサンさんがまた危ないだの何だの言って食って掛かってるってわけだ……」
なるほど、上の階か。……上の階が存在するなら、下に続く階段がある可能性も出てくる。
もしそうだとすると、この『ゲーム』のステージは思った以上に広いのかも知れない。
「まずはこの階を全て調べ終えてから、皆で上の階も調べる。それで良いではないか」
「効率が悪い。ここは二手に分かれるべきた」
教授の提案をスミスさんがばっさりと切り捨てる。二人の間にさらに険悪な空気が漂う。
「それで何かあったら、どう責任を取るつもりだね!?」
「一つに固まっていてもリスクは変わらん」
さらに苛烈する言い争いを見かねてか、羽野さんがその仲に割って入った。
「まあまあ、軍人の兄さんよぁ? この階はもうすぐ調べ終わるだろ? もう少し我慢して付き合ってあげようや」
「そうそう。あの親父、ネチネチしつこいからな~」
大学生の男もへらへらと笑いながら嫌味を言ってきた。そして教授の顔が怒りで見る見る歪んでいく。
「何だと……っッ?」
「ああ~、怖っ」
射抜くように睨み付ける教授から、大学生の男は目を逸らして知らん振りをする。
「まあ……ここで議論するより早く終わらせようや。その方がよっぽど建設的だ。教授さんも、それでいいな?」
「ああ……ワシは元よりそのつもりだ」
どこか言い足りなそうな顔をしている教授だったが、それでも渋々と頷いて了承してきた。今度は皆の視線がスミスさんの方に集まる。
「……時間が惜しい。移動するぞ」
言い捨てるようにそう話してスミスさんが歩き出す。その遠ざかる後ろ姿を見て、俺は肺に溜めていた息を全部吐き出した。
「和也、私たちも行こう?」
「……うん」
姉さんの呼び掛けで、先を歩く人たちの後を追って俺も足を動かす。
「和也、大丈夫? 疲れてる?」
隣で姉さんが心配そうに俺の顔を覗いてきた。俺は努めて笑顔を作って答える。
「大丈夫だよ、姉さん」
……嘘だ。あまり知覚はないが、相当神経が磨り減っていて精神的にも疲労が溜まっているんだろ。俺の思考や行動に意図しない遅れが出ている。
でも、それは別に俺に限ったことじゃない、姉さんだって同じのはずだ。弱音なんて吐けるものではなかった。
スタート地点まで戻って、今度は『出口』の向かい側の扉を通ると、すぐそこにスミスさんが立ちつくしていた。
動かない彼を見て、大学生の男が調子よく話しかける。
「おい、どうしたんだ? 何かあったのか?」
「……また階段だ。今度は下に繋がっている」
俺達の方に振り向かないまま、スミスさんがそう答える。
その巨躯に隠れてよく見えなかったが、彼が体をずらすと扉の先には確かに下に続く階段があった。
「また階段……ですか」
石垣さんがうんざりした声でそう呟いた。
「まあ、これも後で行ってみればいいじゃん。まずは、これだな」
大学生の男が軽い足取りでスミスさんの横を通り過ぎて前に出た。その先には通路全体を塞ぐ横開きの扉があった。
「今までと形が違うわね」
堀江さんの言葉通り、今までは押したり引いたりするタイプの扉だったのに対して、これは明らかに違うタイプの扉だった。
何故この扉だけ形が違うんだ……?
「開けてみればわかることさッ!」
大学生の男が引き戸を両手で掴んで力を入れると、扉は耳障りな摩擦音を撒き散らして徐々に開いていく。
「お、おいっ!? 何を勝手に……!」
教授が彼の行動を咎めようとするが、その言葉が終わる前に扉は完全に開かれた。そして中の姿が俺たちの目に入ってきた。
「食堂……でしょうか?」
優奈さんがそんな感想を口にする。広いホールには給食用の長い食卓が幾つか置いてあって、まばらに置かれた椅子がそれらを囲んでいた。
奥の方は厨房と思わしき場所に繋がっていて、ここからでも中の様子が少しだけ見て取れる。
「って、なんか調子抜けだような~」
大学生の男がため息混じりにぼやく。それに同意するかのように堀江さんも苦笑を漏らした。
「まあ、居て当たり前ではあるけでね」
事務室で見た資料の通り、ここが病院だったなら確かに食堂くらい在って然るべきだ。
でも今までの二つのエリアで見てきた部屋は随分と散らかっていて乱雑した空間だった。それと比べれば、この食堂の中は多少汚れてはいるものの、相当綺麗に整頓されている印象だった。
「たっく、またこれかよ……」
うんざりした声で大学生の男が食卓の真ん中に置かれているペットボトルを拾い上げる。
「……まあ、別にいいっか」
だが彼はすぐそのペットボトルを食卓の上に戻して奥の方へ歩き出した。
「おい翔っ! あまり一人で勝手に動き回るんじゃない!」
「大丈夫大丈夫。今まで何もなかったんだから、そんなビクビクする必要なんかねぇって」
教授の怒鳴り声に軽い調子で答えて、大学生の男が厨房の中に入っていく。そして入るなりすぐ厨房から身を乗り出して俺たちに呼びかける。
「皆、こっち来てみろよ! またあったぜ『出口』」
皆が早足で厨房に駆けつけると、厨房のさらに奥の方には大きな鉄の扉があった。そしてその上の壁にはデカデカと『出口』と書かれたプレートが貼りついていた。
「ここは、何かの倉庫か……?」
扉に付いている嵌め殺しの窓から中を覗き見る大学生の男に、教授が近寄って彼に聞いてきた。
「何か見えるか?」
「…………いや、暗くてよく見えね」
教授の問いに、少しの間を開けてから大学生の男が答える。そんな彼を横に退かして石垣さんが割り込んできた。
「ちょっと失礼」
「お、おいっ」
強引に大学生の男と入れ替わって、石垣さんが窓ガラスから扉の中を食い入るように覗きみる。
そのすぐ傍で、不安な表情を隠しきれない優奈さんが石垣さんと『出口』の扉を交互に見ていた。
「何だよ、たっく」
押し出された大学生の男が不満たらたらの感じの声でぼやく。そして何気なく周りを見回していた彼の視線が、とある物の前でぴたりと止まった。
「冷蔵庫か?」
厨房の片隅にある鉄の箱。家庭用に比べて遥かにサイズの大きいをそれを、大学生の男は取っ手を掴み……開いた。
「おいおい、すげーな」
開いた冷蔵庫の中から冷気が吹き出す。男の体に遮られて中身はよく見えないが、中に明かりがつくところをみると、その冷蔵庫にも電気が通っているようだった。
「おい、これ見てみろよ!」
大学生の男が声を上げると、今まで『出口』に気を取られていた他の人たちが一斉に彼の方に、正確には冷蔵庫の方に視線を向けた。
「何? 動いてんの?」
秋吉さんの問いに、大学生の男は冷蔵庫の中から何かを持ち出して俺たちの方に振り返った。
「どうだ、すげーだろ?」
自慢げの顔で彼が見せてきた物、それは両腕に収まりきれないほど多くの缶詰だった。
「え、何にそれ」、「その中にあったのか?」、「いくら入っている?」
秋吉さん、教授、スミスさん。ほぼ同時に発せられた三人の声が厨房の中を飛び交う。
「落ち着けって。ほら見てみろよ、こんなにあるぜ?」
大学生の男が冷蔵庫の前から体を退かすと、中には数え切れないほどの……少なくとも百個以上はありそうな缶詰の山が見えた。
そして横の棚には例の、水の入ったペットボトルが所狭しに詰め込まれていた。
「こ、これは……」
石垣さんも驚きで開いた口が閉じられないといった様子でそう呟く。それほどまでに目の前の光景は印象的で……また魅力的なものだった。
それもそのはず、これでもう最低限の水と食料が確保できたも当然だからだ。それだけでゲームクリア条件の一つの、13日間生き残るという目的はほぼ達成される。
もちろん全ての問題が解決したわけではない。でも当面の問題として飲みものや食べるものが確保できたという事実は、少なからず心に余裕を持たらせてくれるものであることは確かだった。
「…………ごくっ」
誰かの唾を飲み込む音が聞こえた。
……そういえば、目が覚めてから随分と時間が経つ。それに今まで水以外は何も口にしてない。端末から時間を確認すると、もう午前11時を回っていた。拉致されてから最初の部屋で目を覚ますまで、どれくらい時間が経っているかはわからない。
でも仮に昨日の夕方に拉致されたとして、少なく見積もっても昨日の夕飯と朝を抜いて、もう昼にさしかかろうとしているのだ。空腹感を感じるのも仕方のないことだった。
「そういや腹減ったなぁ。……これ、食っちまおうぜ?」
そう言って大学生の男は缶詰を一つ、冷蔵庫から取り出して無造作に開けた。
マグロの缶詰だろうか。蓋を開けた瞬間、香ばしい魚と油の匂いが食欲を刺激してくる。
「お、おい翔! 勝手に開けるんじゃないっ! それに……それが安全かどうかもまだ知らないんだぞ?」
割り箸も何もないまま大学生の男が缶詰の縁に口をつけようとすると、教授が慌ててそれを取り上げようとする。
「まったく、またかよ……今さら毒なんかあるわけないだろ?」
一歩後ろに下がって教授の手を避けて、大学生の男はそのまま缶詰に口をつけた。そして吸い上げるように缶詰の中身を口の中に入れる。
それを見て、他の人たちも自然と唾を飲み込んだ。
「おい、俺にも寄越せ」
そう言ってスミスさんが一歩前に出てきた――その時だった。
「うおぅ……くうッ、おおおぉぉぉぉぉぉぉっっ!?」
いきなり大学生の男が激しく体を痙攣しながら両手で自分の喉を押さえ苦しみ出した。彼が持っていた缶詰が床に堕ちて転がり、その中身が床に飛散する。
「うおっ、うおっ、うおおおぉぉぉぉッ!」
喉が詰まったかのような断末魔を上げて覚束ない足でふらつく男。そんな彼に教授が慌てて駆け寄る。
「おい翔、どうしたんだ!? 大丈夫か? ……翔っ!?」
だが男は返事はおろか、体の痙攣が増していくばかりだった。彼のひん剥いた目玉が上を向いて、段々と目の焦点すら合わなくなる。
「ほ、ほんとに……食べものに、毒が……ッ!?」
今にも泣きそうな顔の優奈さんが口元を押さえて絞り出すようにそう呟く。俺も開いた口を閉じることすら忘れてその光景に見入っていた。
……本当に毒が、あの缶詰の中に入っていたのか?
「翔っ、返事をしろ! ……翔っ!?」
大学生の男を抱き抱えて教授が叫ぶが、その呼びかけに返事はなかった。
そして皆の間に嫌な沈黙が広がり始めた瞬間、突然大学生の男が目を見開いてケロッと起き上がった。
「……なんてな? なんつってな?」
したり顔でキザに笑う大学生の男。それを見て他の人たちも悟る。
「おいおい、心臓が止まるかと思ったぜ……」
羽野さんが乾いた声でそう吐き出した。そして目尻に涙を浮かべていた優奈さんが指でそれをふき取りながらひとり呟く。
「良かった……本当に、良かった」
だが反対に、それを非難する人も出てくる。
「何も良くなんかない! 冗談にしては悪質すぎる!」
石垣さんが声を荒げて大学生の男に文句をを言ってきた。そこに堀江さんも同調する。
「そうね、軽率すぎるわ。こういう状況でそういう冗談をするのは」
「すんません~。この親父があまりにもしつこいもんだからさ~。まあ、これで食べ物には何の問題もないってことでいいんじゃね?」
あまり好意的とは言えない視線の数々に、大学生の男はへらへら笑いながらいい訳にもならない弁解を述べる。
そしてそれに呼応するかのように、今まで呆然とした顔でいた教授が怒り心頭になって彼に食って掛かった。
「翔っ、いい加減にしろ! 今がそんなふざけた真似をしている場合か! いつまで貴様はそんな子供じみたことを繰り返すつもりなんだ!?」
「わかった、わかったよ。たっく、うるせえな……」
早口で捲くし立てる教授を、大学生の男が面倒くさそうに手を振ってあしらう。そして開けっ放しの冷蔵庫の中から水のペットボトルを取り出した。
「おっ、すんげ冷たいじゃん」
彼は満足そうに口の端を吊り上げると、冷蔵庫の中からそれをもう一本取り出した。
「おい翔っ、ちゃんと話を聞かんか!」
「はいはい、聞いてます聞いてます……おい真由、お前も飲むか? すっげ冷たいぞ?」
「ホントに? じゃ、あたしも」
「ほらよっ」
大学生の男はペットボトルを一本、秋吉さんに投げ渡した。そして彼自身も手に持っていたペットボトルの蓋を開けて勢いよく喉に流し込む。
――そして彼は、何ひとつ喋ることなく床に崩れ落ちた。
「………………え?」
倒れた大学生の男を見て、ペットボトルを持った秋吉さんの手が止まる。そして何とも言えない空気の中、妙な沈黙が流れる。
「またですか……」
その沈黙を破って石垣さんが呆れ声で大学生の男を見下ろした。そしてもう怒る気も失せたか、教授までも深いため息をつく。
「翔……お前は一体、何をやっているんだ……」
「そ、そうだよ翔ちゃん。さすがに二度目は受けないって」
ちょっと引きずった声で秋吉さんも彼に呼びかけるが、大学生の男は何の返事も返さない。
それを見て何を思ったか、羽野さんが微動だにしないその男に近づいて腰を落とした。
「…………死んでるぜ、この兄ちゃん」
倒れている男の手首を掴んでから十数秒。俺たちにの方に振り向いて、羽野さんが静かにそう告げた。
「あ、あなたまで何を言い出すんですか……ッ!」
少し遅れて、石垣さんが苛立った声で羽野さんに抗議する。でも羽野さんはいつものふざけた顔とは違う厳かな表情でゆっくりと首を横に振った。
「……本当なの?」
「ああ……死んでる」
再度確認する堀江さんに、羽野さんが短くそう答える。俺は倒れている大学生の男に視線を向けた。
……あれが、死? 本当にあの人は死んでいるのか?
……信じられない。何の前触れもなく、あんなにあっけなく、悲鳴一つ上げないまま、人は死ぬのか? あんな簡単に……?
「うそ、でしょ……? ホントに翔ちゃん、死んでるの?」
そう言っている秋吉さんの声は震えていた。そして羽野さんの隣で何かを確認していたスミスさんも口を開けた。
「もう息がない……脈もな。それと口からわずかにアーモンド臭がする。これは毒物中毒だ」
毒物? 何の毒物を……まさか、さっき食べた缶詰に毒が? それとも……?
「退けっ!!」
いきなり大声を上げて教授が羽野さんを横へ押し出した。そして大学生の男の前に膝を突くと、彼の体を掴んでは激しく揺らす。
「おい翔……冗談だろ……ッ? 嘘だよな!?」
だが死んだ人間が返事を返せるはずもない。そして時間が経つのと比例して、教授の顔も見る見る歪んでいく。
「おい!! 何とか言ってみろ! ふざけるな! おい、翔ぉぉぉ―っ!?」
教授が彼の肩を激しく揺らす度、それに合わせて男の体も糸の切れた人形のように揺れ動く。教授の悲痛な叫びが部屋中に響く。
それを聞いて、本当の意味で自分が今……人の死を目の当たりにしていることを実感した。
「う、嘘でしょ……。ね……ねったらッ!」
わなわなと震える声と体で秋吉さんが大学生の男を呼びかける。だが聞こえるのは教授の喚き音だけ。
……そのときだった。ふいに最初のヒントの文章が頭の中を過っていく。
『強欲な者らよ、その分を弁えよ』
……本当に翔っていうあの男が毒によって死んだのなら、原因は二つに一つ。缶詰か、ペットボトルの水か、そこに毒が入っていたと見るべきだろ。
でも先に食べた缶詰は、しばらくは何ともなかったように見えた。もちろん遅効性の毒ってのもあると聞く。だが倒れた男が最後に口にしたのは、冷蔵庫の中にあったペットボトルの水。そして部屋ごとにあった水を、あの男はぬるいとか言って捨てた。そして冷蔵庫の冷えた水を選び、それを口にした。
『強欲な者らよ、その分を弁えよ』
最大13日間このゲームが続く以上、最低限の飲み物や食べ物は必要だ。でもあの男はもっと良いものを……と欲を出した。
そこに思い至って、俺は慌てて秋吉さんの方に振り返った。そして見た、今も彼女が握っている水の入ったペットボトルを。
「それ、捨ててください!」
「えっ? な、なによ……?」
俺の荒い声に、秋吉さんが戸惑いの表情を浮かべる。そして他にも俺と同じ考えをした人が存在していた。
「あっ、な、なに!?」
堀江さんが秋吉さんが持っていたペットボトルを奪い取る。そして戸惑う彼女から強引にその蓋をもひっぺかしてそれに栓をした。
「何すんのよ、あんたっ!」
「……死にたいなら、止めはしないけど?」
苛立ちのこもった声で睨んでくる秋吉さんを、堀江さんが厳しい顔で見つめ返す。
「そうだな。それが一番臭いぜ」
羽野さんも立ち上がって話に混ざる。そして横で男の遺体を抱えて泣き崩れている教授を表情のない顔で見下ろした。
「な、何がよ……っ」
「あの男が最後に口にしたのが、さっきまで貴方が飲もうとしていた水と同じものだからに決まってるじゃないですかっ」
未だ理解できてないような秋吉さんに、石垣さんが少し苛立った声で補足する。彼の腕にしがみついている優奈さんは、男の遺体を見て声にならない涙を流していた。
それてやっと状況が飲み込めてきたらしく、秋吉さんの顔が見る見る固くなっていく。その視線が自分の手元と堀江さんが持っているペットボトルを往復し始めた。
「いや、確かにあのペットボトルもだが……缶詰も安心はできねぇな」
羽野さんが冷蔵庫の中にびっしり詰まっている缶詰の山を見てそう呟く。それで他の人たちの顔にも悩みや葛藤めいたものが浮かぶ。確かに一番怪しいのは冷蔵庫にあるペットボトルの水だが、缶詰とて安全だという保障はどこにもない。
……でもだからって、この先ずっと何も食べないで耐えられるのだろうか。そんなことを一瞬でも考えてしまうのはどうしようもなかった。
「和也」
姉さんが俺の肩に顔を乗せて手を絡めてくる。姉さんの体温を身近で感じて、緊張で固くなっていた体が少し解れる。
「本日の、二人目の脱落者が出ました」
突然部屋の中に鳴り響くスピーカーの音に皆が驚きビクッとする。そして恐る恐る天井を見上げた。
「西山翔。彼は大学でテニスサークルに所属してますが、実はそれは名ばかりの、いわゆるヤリサー集団のリーダをやっていた人物です。そして彼自身も強引な手段で女性をサークルに連れ込み、そこから抜け出せなくなるよう仕向けてきた。女性を性欲の捌け口としか思わない、変態性欲者でした」
ヤリサー……聞いたことはある。確か社会問題としてニュースなどで何度か取り上げられていた。
「毎日のように乱交を繰り返し、それに飽き足らず麻薬にまで手を出して何人ものの薬物中毒を生み出してきた。そして自分たちが連れ込んだ女とのセックス動画をネット上に掲示し金を得る。そのくせ何の良心の呵責も感じない、生まれながらの性根が腐った人間が今、死にました」
スピーカーからの声は淡々としたもだった。だが同時にどうしようもなく明白な悪意が言葉から滲み出ていた。
まるで人が死んでいくのを楽しんでいるような、そんな狂気に満ちた声を、俺は……俺たちはどうすることもできないまま、ただ聞いているしかなかった。
「次のヒントが送られました。それではゲーム続きを、どうぞお楽しんでください」
そしてスピーカーからの音声が途切れ、部屋には教授の啜り泣く音だけが残る。その教授の姿を一度目で追って、俺は自分の端末を開いて更新されたヒントを確認した。
『生とは、さらなる罪の積み重ねであるならば。それを恐れぬ者よ、手を伸ばしてそれを手中に収めるべし』