――Day2 23 : 41
そして部屋に戻った後、俺たちはいくつか方針を決めた。
まず現状の再確認として、今この施設内で行ける場所は全て調べ尽くしたと言ってもいい。でも脱出の助けになりそうなものは何も見つからなかった。そして最初のスタート地点の『出口』を除けば、残された『出口』は二つ。でもどこが正解の『出口』かは未だわからない。
だから今後の動きについては、ひとまず様子を見てから動くことにした。消極的になってしまうが、今のところ状況が変わるのを待つ以外に方法がないのも事実だった。
ただ、そうなると問題なのは当面の生活だ。食料が全くない以上、できるだけ体力の消耗は避けた方がいい。
俺たちは姉さんの部屋をベース拠点として、一つの部屋に固まって休憩を取ることにした。別々の部屋に散らばっていては、いざという時に対処が難しくなる。
だから俺と姉さん、桜井の中で一人が起きて外の様子に気を配り、交代しながら仮眠を取ることにした。
最初は俺が見張りをして三人が仮眠を取り、やがて桜井と交代して今度は俺が仮眠を取る。
……やはり知らずのうちに色々疲れていたんだろ。一度目を閉じると、すぐさま睡魔が襲ってきた。
そしてある程度の時間が経った頃、俺は自分を呼ぶ声に目を覚ました。
「……くん……松永君。起きて、松永君」
「あ……ッ……ん……」
重い瞼を何とかして開けると、目の前に女の顔がクローズアップしていて一瞬ドキッとする。それが桜井の顔だだと理解するのに少しの時間を要する。
「……どうした、桜井?」
返事をしながら俺は軽く周りを見回した。姉さん達はもう起きていた。
……どうやら俺が一番寝坊をしてしまったらしい。
「外の様子がおかしい……何かあったかも」
緊張を含んだ桜井の声に、頭が急激にクリアになっていく。
外に注意を向けると、何か争うような声……みたいなのが廊下から聞こえてくる。それが徐々に俺たちのいる部屋の前まで近づいてきた。
「浩介さんっ! 待って! そんなことしたら本当に……」
「それじゃ、お前は自分の番が来るまでずっと指を咥えて待っているつもりか! 僕はそんなの御免だぞ!」
部屋の前を通り過ぎる声でその正体がはっきりとする。声の主は優奈さんと石垣さんだった。
「だからって……あっ、待って!」
廊下に響く慌しい二人の足音。それにつれ、言い争う声も俺たちのいる部屋から徐々に遠ざかって聞こえなくなる。そして俺たちは互いに顔を見合わせた。
「さっきの声、優奈さんとそのマネージャーさんだよね? ……どうするの?」
最初に口を開けたのは桜井だった。姉さんも彼らのただならぬ会話に思うところがあるのか思案顔になっていた。
百合ちゃんの場合は相変わらず無表情な顔で佇んでいるだけだったが。
「……俺たちも行ってみよ」
俺がそう告げると姉さんと桜井も頷いて答える。そして俺たちが部屋から出ると、優奈さんたちの姿はどこにも見当たらなかった。
「どうやら下の方に行ったんじゃないかな?」
辺りを見回しながら姉さんがそう言ってきた。続いて桜井も口を開く。
「でも、どうするの? 二人を探して」
「わからないけど……何だかよくない感じがする。まずは二人を探さないと」
自分の行動に明確な目的があるわけではないことは自覚している。
でも何も知らないまま気を揉んでいるようりは、直接確かめる方が遥かにマシだと思えた。
「わかった」
桜井の返事を最後に、俺たちは急ぎ足で下の階に続く階段を下りていった。そして通路に響く二人の声ですぐ彼らの居場所を探し出すことができた。
……食堂、それも厨房にある『出口』の前で、優奈さんと石垣さんの姿を発見する。
「離せって! 優奈っ、お前も覚悟を決めろ! 僕と一緒にここから出るんだ。こんな馬鹿げたことに、いつまで付き合ってられるかっ!」
石垣さんが自分の腕を掴んで離さない優奈さんを振り解こうと暴れながら叫ぶ。それでも優奈さんは懸命に彼の腕にしがみ付いてそれを離さない。
「どうしたんですか、二人とも!?」
俺の声に驚いて二人が同時に俺たちの方を見てきた。そして石垣さんは気まずそうに、すぐさま視線を逸らす。
「松永さん……ッ!」
助けを求めるような目で優奈さんが俺の名前を呟く。そこに吐き捨てるような口調で石垣さんが話してきた。
「別に、あんたらとは関係ないだろ。……僕たちはここから出るんだ。もうこんな茶番に付き合って堪るかッ!」
そう言い放った石垣さんは、俺たちはもちろん優奈さんにも目線を合わせようとしなかった。
「そんな、危険ですよ! 何かあったらどうするんですか!」
「どうせ『出口』はここと病室にあるので二つだけなんだ……二分の一の確率なら、十分勝算はある」
姉さんの心配する声に、石垣さんは口の端を吊り上げてそう答える。そんな彼の不安と焦りで揺れ動く目を見て確信した。
今、彼は……狂っている。
「無茶だ! 何の確証もなしに出て、取り返しがつかないことになったらどうするんですかっ! 冷静になってください」
そう言って一歩前に踏み出すと、俺が前に出た分、石垣さんも後ろの『出口』の方に下がって俺を睨みつけてきた。
「うるさい黙れっ! もう調べるところは調べ尽くしたんだ! でも……どうだ? 何もないじゃないか! もう時間の無駄なんだよ……僕は、僕はもう、ここでお前たちみたいにちんたらやっている暇はないんだよっ!!」
血走った目で怒鳴り散らす石垣さんを見て、もはや言葉だけで彼を落ち着かせる段階はとうに過ぎてしまったことを悟る。
どうすれば良いのか……俺の中で焦りばかりが募っていく。
「浩介さん……っ」
そんな彼を心配して今にも泣き出しそうな優奈さんの顔は、自分ではどうしようもできない現状に対する悔しさと、彼への愛情や哀れみがごっちゃ混ぜになって現れていた。
「……あなたも彼と一緒に出るつもりですか?」
黙って成り行きを見ていた桜井がそんなことを言い出した。そして優奈さんが何か言う暇もなく、石垣さんが彼女の代わりに答える。
「当たり前だっ! 僕は優奈のマネージャーなんだぞ? 彼女は僕が必ず守る。だから、この狂ったゲームから一秒でも早く脱出するんだ……ッ!」
「別に、あなたには聞いてませんけど」
半目になって皮肉を言う桜井の声も、絶え間なく何かをぶつぶつ言っている石垣さんの耳には入っていない様子だった。
「優奈、僕と一緒に行こう。もうこんなところ沢山だろ? 早くここから出て、君が好きだったパフェの店にでも行こう。ああっ、その前に事務所に寄って社長に謝らないと駄目だな。何日も無断でスケジュールをすっぽかしたらな……」
相変わらず要領を得ない石垣さんの語りは、優奈さんに向けての言葉のようで、その実ただの独り語にしかならいように見えた。
そんな彼の姿に、優奈さんはとうとう口元を押さえて声にならない涙を流す。
「あれ? なんで……泣いているんだい、優奈?」
心底不思議そうな顔で石垣さんが首を傾げる。そして優奈さんの涙を指先で拭いながら言った。
「まあ仕方ないさ……こんな気味の悪い場所に閉じ込められていたんだ。気が滅入るのは当然だよ。でも、もう大丈夫だから」
そして石垣さんが『出口』の扉の取ってを掴む。それを見て俺も思わず叫んだ。
「ちょっと待っ……ッ!!」
だが俺が最後まで言い切る前に、扉は完全に開かれた。そして中から冷たい風が吹き出してきた。
「さあ、行こう優奈。……早く帰ろう」
優奈さんに手を伸ばす石垣さん。それを優奈さんが悲しそうな目で見つめる。
「駄目だ、優奈さん! その人は今、正気じゃないっ! 早まっちゃダメだ!!」
俺の叫びに石垣さんの顔が一瞬不機嫌なものに変わるが、もう俺たちのことは外野と決め込んだらしく、すぐ優奈さんに視線を戻した。そして優奈さんの視線が、俺たちと石垣さんを交互に行き来する。
……その永遠とも思える一瞬が過ぎ、やがて優奈さんが目を閉じた。そしてゆっくりと目を開けて俺たちに言ってきた。
「私……彼と、一緒に行きます」
「そんな!? 待って、優奈さんっ!」
姉さんの呼びかけにも、優奈さんはただ申し訳なさそうに微笑みを浮かべるだけだった。
「だって……浩介さんを一人にはさせられませんから」
その微笑が、何故かひどく悲しみに満ちているように見えたのは目を錯覚だろうか。
そして彼女は石垣さんの手を取って、『出口』の中へと足を踏み入れた。二人の姿が徐々に暗い部屋の中に溶けて消えていく。
「優奈さんっ!」
彼女たちを止めるべく俺が足を動かした途端、今まで開き切っていた扉が急に動き出して一気に閉まった。
そして扉が施錠される無機質な金属の音が鳴る。
「優奈さん? ……優奈さん!?」
閉まってしまった扉を力の限り叩きながら二人に呼びかける。ノブを掴んで回してみるが、硬く閉ざされた扉はびくともしなかった。
「……えっ?」
そこに新たに聞こえてきた、けたたましい音。
何かのフィルターが稼動するときのような騒音に、俺は扉に貼り付けられた窓ガラスから中を覗いた。
でも部屋の中は暗闇が広がっているだけで、二人の姿は確認できなかった。そして急に霧が掛かったようにガラス面にモヤが発生して、完全に中の様子が見えなくなる。
「くっそ! どうなっているんだッ!」
そこでふと気がつく。扉を触っている自分の手に、ヒヤッとした冷たい感触が伝わってくることに。
「まさかここ……冷凍庫、なのか……?」
一歩後ろに下がって周りを見渡す。何の印もないが、食堂と備え付けの厨房、そこにある倉庫みたいな部屋、そして今の現象……ここが冷凍庫と見て間違いないように思えた。
「か、和也っ!?」
姉さんの声に答える暇はなかった。俺は厨房を飛び出て、食堂に置いてある椅子から丈夫そうに見えるものを引っつかんだ。
そしてまた厨房に戻り、扉の窓ガラスを目掛けて思いっきり椅子の足の部分を叩き付けた。
「……くっそっ!」
でもガラスはビクともしなかった。破るのはおろか、ヒビすら入らない。そして扉越しに中からくぐもった声が聞こえてきた。
「おい、どうなってるんだ……開かないぞ? くっそ、開けろよ! いったい何がどうなってるんだよ……っ!?」
石垣さんのうろたえた声に、俺は扉に拳を叩きつけて叫んだ。
「石垣さん、優奈さん! 聞こえますか! ……返事をしてくださいっ!」
でも中から返事は返ってこなかった。
どうすればいいのか……もしこれが冷凍庫で、中で冷凍装置が稼動しているのだとしたら、このままでは二人はいずれ凍え死ぬことになる。
それに何をどう弄くったかわからないが、空気が冷却される速さが尋常ではない。もうこっち側の扉の表面まで凍え初めていて、長くは扉に手を触れていられないくらいの冷たさになっていた。
「桜井、二階に行って他の人たちを呼んできてくれ、早くっ!」
「わ、わかったっ!」
桜井が走って食堂を出て行く。俺は絶望的になりそうな気持ちを押し込んで、扉のガラス部分に椅子の足を叩き続けた。
「くっそ……何なんだよ、これは……ッ。誰か……誰か、助けてくれー!」
中から石垣さんの絶叫が聞こえてくる。でも声が出せるうちはまだ大丈夫のはずだ。それに比べ、優奈さんの声がさっきから全然聞こえてこない。
彼女は大丈夫だろうか……頭が不安と焦りで一杯になっていく。
「おいあおい……どうしちまったんだ? 真夜中になに騒いでるんだぁ、ガキ供?」
食堂の扉が乱暴に開かれ、息の荒い桜井と不機嫌そうな顔の羽野さんが入ってきた。
「桜井っ、他の人たちは?」
「他には……羽野さんしか、誰もいなかったよ? ……多分、他の人たちは別の場所にいると思う……ッ」
桜井が息を整えながら途切れ途切れに話した。
羽野さん以外誰もいないなんて……堀江さんや秋吉さん、スミスさんたちは一体どこに……ッ。
「それで、これはいったい何の騒ぎ……って、誰か入ったのか?」
相変わらず不機嫌そうな顔で頭を掻いていた羽野さんが『出口』の前に立っている俺と、俺が手に持っている椅子を見て状況を察したのか、そう聞いてきた。
「中に優奈さんと石垣さんが! 二人が入って扉が閉まって、中は冷凍庫みたいで……とにかく、扉を壊すの手伝ってください!」
自分でも言葉がじどろもどろになっていると自覚するが、焦る気持ちで上手く言葉が出てこなかった。
「ちっ! あの野郎……とうとうやっちまったかっ」
悪態をつきながら羽野さんが急ぎ足で俺の隣にきては扉に手の平を置く。
「おいおい……この分だと、中はどんでもないことになってるぞ……。おい兄ちゃん、このガラスは破れそうにないのか?」
「はい……さっきから、ずっとやってるんですが……ッ」
何かの特殊な材質のガラスなのか、相変わらず傷一つ付かないガラスを俺は恨めしい目で見る他なかった。
「それじゃ扉に体当たりでもしてみようぜ……せいのーで行くぞ、いいな?」
「はい!」
そして二人で扉から少し離れ、合図と共に扉に体をぶつける。だが鉄で出来た扉がそうそう壊れるはずもなく、重い物がぶつかる鈍い音を響かせるだけだった。
それでも諦めずにその作業を繰り返すが、扉にぶつかった肩と腕が痛むだけで扉も金具も健在のままだった。
「……ダメだな、こりゃ。まあ、予想はしていたことだが」
痛む肩を押さえて羽野さんが動きを止める。そして俺の方を見て話した。
「兄ちゃん、そのくらいにしとくんだな。もう……それ以上やっても無駄だ。体を痛めるだけだぜ?」
「っ……そんなことッ!?」
俺は思わず大声を上げて反発したが、羽野さんは静かに首を横に振るだけだった。
ジワジワと絶望感が込み上げてくる。自分の無力さに歯を食いしばる。目の前で人が死んでいくのに、俺には……ただそれを見ているしか方法がないのか……ッ。
「た、助けてくれ……誰か、助けて……。僕は……死にたくない……死にたくないんだ……っ!」
中から聞こえてくる石垣さんの声。それを聞いて、俺は横に置いてあった椅子を拾い上げて扉の窓ガラスに叩きつけた。
「和也……ッ」
姉さんの声が聞こえる。でも俺は振り下ろした椅子を再び肩の上まで持ち上げて、またガラスを目掛けて叩き付けた。
「兄ちゃんよ……いくらやっても無駄だぜ? そんな脆い椅子程度で壊れる代物じゃないことくらい、兄ちゃんだってわかるだろ?」
……ああ、俺も知ってるさ。今まで散々やったんだ、これくらいで壊れるわけがないと、頭では十分理解している。それでも……止められるものか。
「俺は、諦めませんから」
まだ彼らは生きているんだ。駄目だからって……もう方法がないからって手を休めたら、目の前で命を見捨てることと変わらない。そんな事をして堪るかッ。
……椅子の足が砕けて、他の椅子を持ってきて、またそれを叩きつける。椅子を持った手が鬱血するが構わずそれを続ける。
そうしている最中、急にガラスに掛かった靄が拭われた……人の手によって。
「優奈……さん?」
手の大きさや形からして、それが石垣さんではなく優奈さんの手だとわかった。俺は椅子を投げ捨て、思いっきり扉を叩いて彼女を呼んだ。
「優奈さんっ! 大丈夫ですかっ、優奈さん!?」
一度拭き出した窓ガラスに、すぐ新たに靄が掛かってその表面がぼやけてくる。そのガラスの表面に、指先で文字が書かれ始める。
『あ り が と う』
鏡文字でそう書かれた字は、すぐさま靄に飲み込まれ見えなくなっていく。そしてガラスには、さっきと同じように靄だけが残った。
「優奈……さん……ッ」
急に震え出した足に腰が抜けて地面にへたり込む。その場にいる誰もが口を噤んで沈黙した。
姉さんは両手で口を押さえて啜り泣いて、桜井は壁にもたれ掛かって天井のある一点を見上げていた。部屋の隅で煙草を咥えている羽野さんは、火がフィルターに燃え移ろうとしているのにも気がづかないまま……そんな俺たちの姿を、百合ちゃんはただ無言で見つめていた。
だがそうしている間も時間だけは正確にその時を刻んでいく。やがて冷凍庫の中からうるさく響いていた機械の作動音が止む。そして施錠された扉が開く無情な金属音が聞こえてきた。
「…………」
未だ力の入らない体に鞭を打って何とか立ち上がる。扉を開けると冷凍室から冷たい空気が吹き荒ぶ。
中に足を踏み入れて辺りを見渡す。そして奥の方で優奈さんたちの姿を発見した。
「優奈っ……さん……」
二人に呼びかけようとしてすぐ、俺は口を噤むしかなかった。冷凍庫の反対側にある扉の前で、寄り添うように床に座り込んで目を閉じている二人は、まるで眠っているかのように穏やかな表情をしていた。
ただ……身動き一つしないまま、だったが。
「そんな……ッ」
後ろで姉さんの唖然とした声が聞こえた。俺の横をすり抜けて羽野さんがその二人に近寄る。
「……死んでるな。急激な温度変化によるショック死か、それとも低体温症を起こして凍死したか……まあ、そんなところだろぜ」
何とも言えない顔をしで、羽野さんが淡々と状況を整理する。俺は優奈さんにもう一度目を向けた。
石垣さんの手を握ったまま亡くなった彼女は、苦しみの中で死んだとは思えないほど安らかな顔をしていた。まるで……最初からこうなることがわかっていて、全てを受け入れたかのような……そんな印象すら抱かせるほどに。
「どうやらこの扉はダミーのようだな。はめ殺しで見てくれだけの扉だ。こんなものに釣られるとは、情けねぇぜ」
亡くなった二人の横にある偽の扉を、羽野さんが手の甲で叩いては舌打ちする。でもその冷静さが今の俺には無情に腹立たしく思えた。
「それにしても……よく入ったわね、松永君」
後るから桜井が近づいてきて、俺にそんなことを言ってきた。
「……なにが?」
「ここの罠、また作動するとは思わなかった?」
彼女の言葉にやっと気がづく。扉が開く音を聞いて何も考えないで入ってきたが……桜井の言う通り、またさっきの仕掛けが作動しないという保障はどこにもなかった。
「今はそんなこと、どうでもいいよ……っ」
でも俺は強引にその会話を打ち切った。
一々何かを考えることが紛らわしく感じるほど、頭が思考すること自体を拒否していた。ただ目の前でまた人が死んだ……その事実だけが重く俺の肩に伸し掛かってくる。
そしていつものように、心の準備ができる間も与えないまま、天井のスピーカーから例の薄気味悪い音声が鳴り響いた。
「また、新たな脱落者が出ました」
俺はスピーカーのいる天井を見上げる気力すら沸かなかった。下を向いたまま、黙ってその不愉快な声に耳を傾ける。
「二階堂優奈、清純なイメージで売れてる人気アイドルでしたが……その実、彼女はただの嘘つきでしかない」
その話す内容に思わず顔を上げる。心が急激に冷え込むのを感じた。一体、何を言おうとしてるんだ、あの声は。
「彼女は今まで何度もあった恋愛疑惑に対して、恋人はいないと否定し続けてきましたが、裏では自分のマネージャーと付き合っていた……それもデビューして間もない頃からずっと。そしてあろうことか、そのマネージャーと関係を持つまで仲が発展していたにも関わらず、自分を支持するファンたちに嘘を吐き続けた大嘘つきの偽善者……それが二階堂優奈という女の正体です」
「やめろ……ッ」
搾り出すような、小さく聞こえづらい声が口から漏れてきた。もうあの声が言うことを、これ以上聞きたくない。
そう願いながらも、当然スピーカーからの音声が止むことはなかった。
「石垣浩介。彼は大手芸能事務所のマネージャーとして雇われていた人間ですが、業界ではご法度である担当アイドルと恋愛関係になった人間です。それは今の担当である二階堂優奈だけに限った話ではない」
その新しく知らされる真実に、またこれから語られるであろう何かに俺は酷く怯えた。
これ以上、あの声は俺たちに何を教えようとするのか……その恐怖にも似た感覚が、ジワジワと足元から伸びてきて体中に絡み付いてくる。
「そう、彼は以前から自分が担当していた何人ものの芸能人と付き合ってきた。それだけじゃなく、彼は違法カジノにも手を出して多額の借金を背負っていた。その返済の為に、過去の関係をネタに付き合っていた女芸能人たちを強請って金を得ていたクズ……それが石垣浩介という人間の本当の姿だ。それは二階堂優奈に対しても同じ。アイドルとして彼女が得た収入は、そのほとんどが彼の財布を膨らませる為に貢がれていた。もはや彼は女の敵としか言いようがない社会悪、そのものです」
「止めろ――――――っッ!!」
耳を塞いで絶叫する。もうこれ以上あの悪魔の言葉を聞きたくなかった。その一心で叫んだ。
淡々と潮笑うかのような口調で語るスピーカーの声には、人に対する確かな悪意が潜んでいた。そして知った。あのイカれた犯罪者は、俺たちが抱えている問題を秘密と称してはいるが、それは聞こえのいい間違いで、その秘密が即ち罪だと言いたいだけなことに。
だからあの声の主は喜々として俺たちを罰しようとする。何故なら彼にとって俺たちは罪を犯した咎人で、その罪には相応しい罰が与えられるべきだと信じているから……俺にはそうとしか思えなかった。
周りから姉さんや桜井の慌てた声が聞こえてくる。俺に駆け寄って身を案じてくれるその声が、言葉が、表情が……何故か遠くの出来事のようにぼやけて見えた。
……目を閉じる。心の中に渦巻くの色んな感情の波。その中で一番鮮明な感情が一つだけあった。
それは……憎悪。俺はこの瞬間、始めて犯人に対する明確な怒りと殺意を覚えた。