表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インサイド・リポート・ゲーム  作者: 冬野未明
1/18

――Day1 05 : 26


 ――Pm 4 : 52

 

 対象X04(えくすぜろよん)、敷地の外に出る。

 周辺クリーニング、異常なし(オールグリーン)

 監視を続行。


 ――Pm 7 : 11

 

 対象、まっすぐ帰宅。その間に第三者との接触なし。

 全ての監視カメラ、及び盗聴器に異常なし。

 その他の装置へのハッキング痕跡は見当たらず。

 午後7時4分、対象者X05(えくすぜろご)から当対象への電話あり。


 ――Pm 8 : 09

 

 対象、冷蔵庫から(ポータル)の入った水を摂取。

 その後すぐ食卓でうつ伏せになって眠るのを確認。

 今から移送を始める。



 ――Day1 05 : 26

 

 周りが騒がしい。何かの金属が擦れるような耳障りな音……それに、人の話し声も。

 目を開けようとするが目蓋がやたらと重い。覚醒しきれてない頭に鈍い痛みが走る。体のいたる所が軋む。

 ……冷たい床。そこで急激に意識が現実へと戻ってきた。


「くっそ、開かないじゃないか!」


 最初に視界に入ってきたのは、扉のノブを掴んで激しく押したり回したりしている若い男の姿だった。その顔は焦りと苛立ちで酷く歪んでいた。


「落ち着かんか、(しょう)。いくらやっても無駄だ」


 その横で中年の、眼鏡をかけた小太りの男が彼を宥める。でもそれは逆効果のようで、若い男はさらに苛立ちを募らせて悪態をつく。


「うるせっ!! これで落ち着いてられるか!」


 いったい彼らは誰だ? ……まったく見覚えがない。それと全く知らない場所……その薄暗くも四角い空間に、妙な胸騒ぎと不気味さを感じる。

 周りに意識を向ける。四面の壁に一つずつ扉がある以外、辺りには物一つ置かれていない。そして部屋の中には今騒いでいる二人の他に、もっと人がいるのが辛うじて見てとれた。


「ここは……いったい」


 ……何で俺はここにいるんだ? そもそもここはどこで、この人たちは誰だ? 

 ……確か俺は家にいたはず。姉さんの帰りを待っていたら、急に眠くなって……姉さん?


「そうだ、姉さんは!?」


 慌てて起き上がろうとしてハッとなる。まだ寝ぼけていたのか、自分の肩に感じる重みにやっと気がつく。慌てて振り向くと、俺の肩にもたれ掛かって静かに寝息を立てている姉さんの姿を発見した。


「姉さん、姉さん!」


 姉さんの肩を掴んで揺らすと、ようやく姉さんが眠たげな目で俺の方を見てきた。


「……んっ、なに……和也(かずや)?」


 指で目を擦りながら俺を見上げる姉さんの表情があまりにもいつも通りで、一瞬状況の異常さを忘れそうになる。


「姉さん。ここがどこか、わかる?」

「……う~ん?」


 姉さんがゆっくりと周りを見回す。そして薄暗い明かりに照らされた部屋の姿を確認すると、姉さんは頬に手を当てて困った顔をした。


「あら……ここって、どこ?」


 やはりというべきか、姉さんも知らない場所のようだ。

 そもそも俺すら、ここに自分の足で来た覚えがまったくない。家の中にいたはずが、いきなり目を覚ましたらこんな所にいるんだ。それも姉さんまで……訳がわからない。


「姉さん、病院から電話した後のこと……覚えてる?」


 改めて見ると、姉さんはナース服を着ていた。仕事の途中で、着た服のまま、こんな所に来るのは明らかにおかしい。


「ん……和也と話して、着替えようと控え室に行って、それから…………それからは、思い出せないわ。和也は?」

「俺も家で姉さんを待っていたら、急に眠くなって……目が覚めたらここだった」


 これは一体何なんだ? 二人ともここに来るまでの記憶が綺麗に抜け落ちていて、今いる場所の見当もつかない。……こんなことがあり得るだろうか?


「よーう。起きたのかい、兄ちゃん」


 ふいに聞こえてきた横からの声に体がこわばる。咄嗟に姉さんの前に出て声がした方を見ると、壁に背を預けて薄ら笑いを浮かべている男が俺たちを覗き見ていた。


「まったく起きないもんだからよ。死んじまったのかと思ったぜ」


 くぐもった声。よれよれのパーカに不精ヒゲ。日焼けした細めの体にアフロ頭が印象的な男だった。中のシャツも皺だらけで、いかにも胡散臭さい感じが滲み出ていた。


「……誰ですか、あなたは」


 姉さんを庇うように立って、その人を睨みつける。すると男はその顔と印象とは似合わない白い歯を見せて笑った。


「まあ、そう警戒すんなよ兄ちゃん。俺も兄ちゃんたちと同じ、いきなりこんな所に来ちまった、被害者なんだからよ」


 俺たちと同じ……被害者? 何を言っているんだ、この人は? 状況が飲み込めなくて、さらに困惑が増していく。


「和也……?」


 姉さんが後ろから控えめに俺の手を握ってくる。

 その人肌の温もりを感じて、パニックになりかけた頭が冷静さを取り戻す。俺もそっと力を込めて姉さんの手を握り返した。


「大丈夫、姉さん」


 正直、何が何だかさっぱりわからない。あまりにも突飛な状況に頭が理解を拒んでいる。

 ……でも、俺たけじゃない、姉さんも一緒なんだ。俺が……俺がしっかりしなくては。


「おお、二人とも起きたのか! これで全員、目を覚ましたな」


 今度は最初に扉の前で騒いでいた男二人組みの一人の、中年男の方が俺と姉さんに話しかけてきた。その声につられて、今まで離れた場所からこっちの様子を見ていた他の人たちの視線が露骨に俺と姉さんに集まってくる。

 一人、二人……いや、もっといる。周りが暗い上に、姉さんのことで頭がいっぱいで注意を払えなかったが、俺と姉さんを除いても10人くらいは部屋にいることに気がづく。


「まずは状況を整理するとしよ」


 俺たちに話しかけてきた中年男が、部屋の真ん中辺りまで出てきて周りを見回す。そして重苦しい声で言葉を発した。


「どうやら我々は……誰かによって連れ去られて、ここに集められたようだ」


 連れ去られた……? 集められる? その言葉の意味を整理できてないうちに、突然聞こえてきた笑い声に意識を取られる。


「ははははははははっ!! それ、マジで言ってんの? 超ウケル~!」


 部屋中に響く女性の笑い声。視線を向けると、ギャル風の派手な服装をした女の人が腹を抱えて爆笑していた。

 その大きく開いた胸元が視界に入ってきて、一瞬目のやり場に困った俺は視線を逸らした。


「な、何がおかしいかね。現にどうやってここに来たのか、覚えている人は誰もいないじゃないか」


 話の腰を折ったのが気に入らないのか、中年の男が顔をしかめた。


「それに、ここにある扉は全部施錠されている。明らかに異常事態と見るべきだ」

「それじゃ、あなたはこれが集団拉致……そう言いたいってこと?」


 また別の人が話に混ざってきた。革ジャンにスキニージーンズを着た、髪を束ねた女性だ。

 女性にしては背が高く、体付きからして何かしら鍛えている印象を受ける。歳は姉さんと同じか、すこし上くらいだろうか。


「ふん、あれでしょ? 何かのやらせっしょ? ドッキリとか」


 さっきの派手な服装の女の人が肩を竦めておどけてみせる。それを見て完全に気分を害したか、中年の男がすこし震える声で言い返した。


「こんなドッキリがあって堪るか! 常識的に考えたまえ!」

「だ~って……あそこにいるの、二階堂優奈(にかいどうゆうな)っしょ? アイドルの」


 その指差す先には、俺にも見覚えがある金髪の女性が立っていた。人の輪から少し離れたところで、彼女は不安な表情を隠せないまま俺たちの方を見ていた。

 そしてそんな彼女を庇うようにスーツ姿の男が隣に立っている。他の人たちの視線が一気に集まってくると、その二人の顔が若干こわばる。


「一般人相手のドッキリとかでしょ、これ? 拉致とが、普通ありえないし」

「へーっ、マジ!? マジであの優奈ちゃん?」


 ギャル風の女の言葉に、さっきまで落ち着きのなく扉を開けようとしていた若い男の人が話に加わってきた。


「な~んだ、そんだったのか~。いや、マジびびったぜ」

「翔ちゃん、慌てすぎ。かっこわるーっ」

「いや、まあ、これは……あれだ! 盛り上げるためにわざとだよ、わざと」


 そのギャル風の女と若い男は元々の知り合いらしく、冗談を言い合っておちゃらける。それを見て中年の男がため息をつきながら話した。


「なんの同意もなしに、これだけの人を閉じ込めておくような番組があるわけないだろ……」


 確かにその通りだ。いくらなんでもこんな形のドッキリ番組があるなんて、俺も聞いたことがない。


「だったら何で芸能人がここにいんだよ? たまたま優奈ちゃんも拉致られたってのか?」


 若い男の問いに、また視線がアイドルの彼女に集まる。答えを求める視線の数々に、彼女は相変わらず強張った顔のまま震える声で話した。


「いえ……私たちもこんな番組、知りません」


 その言葉に少しは弛緩しかけた空気がまた凍り始める。その気まずい空気に耐え切れなくなったのか、さっきの若い男が浮ついた声で喋りだした。


「いや、普通に優奈ちゃんも知らないんじゃないの? ほら、ドッキリだしよ」


 その男の話にギャル風の女性も同調してきた。


「そうよ。それに仮に知ってっても、あたしたちにドッキリとばらしちゃダメっしょ、彼女の場合」


 だが、そう言っている彼らの声も明らかに震えていた。他の人たちの反応もあまり芳しいものではない。

 確かにこれが彼らが言うドッキリ番組の可能性もある。でも状況の異常さがそれで納得することを拒み、疑問を投げかけ続ける。本当はどんでもない事件に巻き込まれてしまったんじゃないのか……と。皆が沈黙する中、また中年の男が話しを始めた。


「とにかく、このままいても埒が明かない。各々簡単にでも自己紹介くらいはしてみるのはどうかね? そこから何かわかるかもしれないしな」

「自己紹介~? 小学生じゃないし、だっさっ」


 ギャル風の女が鼻で笑う。でもそれに割って入った声に次の言葉を遮られた。


「つまり、ここに集められた人同士、何かの繋がりや共通点がないかわかるかもしれないってことですね?」

 

 薄暗い部屋の中を凛として響く声。その声の主は、壁を背にして立っている制服を着た長い黒髪の女の子だった。


「あ、ああ……その通りだ」


 中年の男が多少面食らったような顔でズボンからハンカチを取り出して額を拭く。俺は何となく気になってその女の子の方を見つめた。


「和也、どうしたの?」


 俺の視線に気づいて、耳元で姉さんが聞いてくる。


「いや、あの制服……どこかで見たことあった気がして」

「ふーーん」


 姉さんが何だか面白くなさそうな鼻声を出す。

 ……思い出した。あの制服は確か隣街の学園のものだったはず。県境にあるうちの学園とは違って他県の学園だが、距離的にはわりと近いから何度か見たことがあったのを思い出す。


「まあ、自己紹介くらい何てことないんだからよ。してみようぜ?」


 俺と姉さんに最初に声をかけた、胡散臭い雰囲気のアフロ頭の男がその案に賛同してきた。それを機に他の人たちも頷くなりして同意を示してくる。


「……ふん。やればいいんでしょ、やれば」


 最初は鼻で笑っていたギャル風の女性も、周りの雰囲気に押されて渋々同意する。


「じゃ、ワシから右回りに自己紹介していこう」


 自分の案が採用されて気を取り直したのか、中年の男は意味深げな笑みを浮かべて俺たちを見回した。


「ワシは西山広人(にしやまひろと)だ。大学で犯罪心理学の教授をしている。ワシが覚えている限り、さっきまで大学の研究室にいたはずだが……目が覚めたらここにいた」


 そう言って眼鏡をかけ直した中年の男は、次にと自分の隣にいる若い男に目を配らせた。


「マジでやんのかよ……まあ、仕方ねぇ。おれは西山翔(にしやましょう)、大学3年生だ。テニスサークルの部長とかやってる。よろしくな」


 そう言いながら男はアイドルの優奈さんに向けてキザったらしいウィンクをしてみせた。それを見て、彼女を庇うように立っていたスーツ姿の男の顔が明らかに険しくなる。


「西山……? 二人は何か関係が?」


 革ジャンを着た女性から出た質問に、教授だと名乗った中年の男がばつが悪そうに頷く。


「ああ……ワシの息子だよ、こいつは」


 教授のその言葉に、大学生だという若い男の方も面白くなさそうに舌打ちした。


「それより翔、ちゃんとここに来る前のことを話さんか!」

「しらねぇよ。車でドライブしてたら急に眠くなって……目が覚めたらいきなりここにいたんだからよ」


 苛立ち気味の教授の声に、また大学生の男も悪態をつきながら答える。……あまり家族関係はよくないようだった。

 そして教授はわざとらしい深いため息を吐いてから、その隣に立っているギャル風の女性に視線を移した。


「あたし? あたしも大学3年生で、翔ちゃんと同じ大学でクラブも同じ。名前は秋吉真由(あきよしまゆ)。友達と遊んでから帰る途中でちょっとトイレに寄ったんだけど、そこで気ぃ失って……そん後の事はわかんないよ?」


 やはり翔と呼ばれた大学生の男と彼女は知り合いだったようだ。

 お互い関係のない人たちの集まりだと思っていたか、俺と姉さんもそうだし案外これは何かの繋がりがある人たちで出来た集団なのかもしれない。


「真由ちゃん? 真由ちゃんなのかい?」


 秋吉さんの話が終わるや否や、いきなり他の男が彼女に話しかけてきた。髪がだいぶ後退してハゲ気味の頭に流行りの過ぎた背広を着た、何となく街でよく見かける中年のサラリーマンを連想させる男だった。


「……おじさん、誰?」

 

 急に親しげに話しかけてきたその男に、秋吉さんが顔をしかめて聞き返す。


「僕だよ僕、覚えてないのかい?」


 薄ら笑いを浮かべて彼女に近づく男。その間を翔とかいう大学生の男が止めに入った。


「おい、おっさん、誰だよ馴れ馴れしい……。どっから沸いてきたんだ?」 

「あ……いや、知り合いがいたから嬉しくてつい……。というか、覚えてないのかい真由ちゃん?」


 大学生の男が睨みつけると、気の弱そうなサラリーマン風の男は愛想笑いを浮かべて弁解する。でも俺にはその笑顔が何だか卑屈に見えて、あまりいい感じはしなかった。それに見ようによっては、若い女性に言い寄る中年の酔っ払いに見えなくもない。

 それは他の人たちも似たように思っているみたいで、彼を見る周りの視線は冷淡なものだった。


「まあまあ。まずはあなたも自己紹介、お願いできますかな?」


 そんなやり取りの中、教授が割って入り話を元に戻す。それでようやく周りの視線に気が付いたのか、その男はハッとなって頭を下げてきた。


「ああ……紹介が遅れてすみません。私は坂谷正仁(さかたにまさひと)と申します。製薬会社の経理課に勤めておりまして……はい。その、仕事から上がってよく寄る店で一杯して、ちょっと眠ってしまったら……ここだったわけです、はい」


 始終こまめに頭を下げながら話をするその男を、つまらなさそうに見ていた秋吉さんが突然小さく声を上げた。


「あっ」


 それを聞いて、隣にいた大学生の男が彼女に聞き返す。


「何だよ真由?」

「……いや、何も」

 

 何となくばつの悪そうに答える秋吉さんをよそに、教授がその坂谷さんに話を振る。


「それで、この女性と知り合いのように言ってましたが……本当に知り合いですかな?」

「あ……それは、三年前くらいにちょっと会ったことがあって……それにしても、すっかり大人になったね……最初はわからなかったくらいだよ。本当に僕のこと覚えてないのかい、真由ちゃん?」


 坂谷さんは何だか言葉を濁しながらも、ちらちらと秋吉さんを見で問いかける。そしてその視線は、彼女の大きく開いた胸元に注がれていた。


「うっさい! 知らないと言ってるでしょ、このエロおやじ」


 その視線に気づいて秋吉さんが不快な感情をあらわにして怒り出す。

 でも、俺には彼女のその反応が何かを誤魔化す為のもののように思えた。


「……それじゃ、次の人の話を聞こう」


 何となく気まずくなった空気の中で、教授が自己紹介の続きを促す。そして一人の大男が半歩前へ進み出て口を開いた。


「ブライアン・スミス、アメリカの軍人だ。横須賀ベースに所属している」


 ……実は、最初から気にはなっていた。

 改めて近くで見ると、俺より頭二つ分は背が高い。日本人とは明らかに違う骨格から来る体格の良さと鋭い目付きが相まって、言い知れない威圧感のようなものを感じてしまう。

 現に彼の周りにいた人たちは自然と彼から一歩離れていった。


「非番でベースの外に出ていたが、バーで眠ってしまったようだ。次に目が覚めたらここにいた」

「あ、ああ……。そ、それじゃ次は……芸能人の方だといったかな? そこの二人も自己紹介してくれないかね」


 米軍だという男の話が終わってから一呼吸遅れて、教授は優奈さんとスーツ姿の男に話を振った。

 そして指定された二人はお互い顔を合わせて頷くと話を始める。


二階堂優奈(にかいどうゆうな)です。あの……アイドル活動をやっています」


 今さら名乗るのが照れくさいのか、優奈さんは上目遣いで俺たちを見てはボソボソと自己紹介を始めた。そんな彼女に代わって男の方が話を続ける。


「僕は彼女のマネージャーで、石垣浩介(いしがきこうすけ)と言います。ドラマの撮影で来たロケ地のホテルで明日のスケジュールの打ち合わせをしていましたが、急に意識を失って……目が覚めたら二人ともここにいました」


 何となくそうではないかとは思ってはいたが、やはり男の方は優奈さんのマネージャーだったようだ。


「ハッ! 本当に打ち合わせしてたのか、怪しいもんだがなぁ……?」


 マネージャーの石垣さんが話を終えると、隣にいた例のアフロ頭の男が鼻で笑い出した。


「……何が言いたいんですか」


 そのせせら笑いに石垣さんの表情が険しくなる。


「いや、別に何でもねぇぜ?」


 石垣さんが厳しい顔で睨みつけるが、アフロ頭の男は薄ら笑いを浮かべたままそれを受け流す。さっきとは違う嫌な緊張感が流れる中、その男は俺たちの方を見て話してきた。


「俺は羽野輝明(はのてるあき)ってんだ。フリーの記者をやってる。最近はたまたまネタを掴んでどっかのホテルに泊まったんだが、そこから運悪くここに来ちまったわけだ」


 そう自分を記者だと名乗った羽野さんが、意味ありげな視線を再び石垣さんと優奈さんの方に向けた。それにつれ優奈さんは更に不安そうな顔になり、石垣さんも苦虫を噛み潰したような表情になる。


「まあまあ……それで、そこのお嬢さんも自己紹介、頼めるか?」


 険悪なった雰囲気をまた教授が割って入る。そしてさっきの制服を着た女子の方に話を振った。

 彼女は相変わらず人の輪からは少し離れた場所で壁に背を預けて立っていた。


桜井音刃(さくらいおとは)、高校2年生です。最初は学園の帰りで病院に来ていました。後は皆さんと同じで、気を失って目が覚めたらここでした」


 ……妙に落ち着いていてよく通る声だった。一方それを聞いて何を思ったか、ふいに姉さんが彼女に話しかけた。


「病院って、どこか具合でも悪いの、桜井さん?」

「いえ。そういわけじゃ……ないんですが」


 姉さんの問いに彼女が言葉を濁す。そこにすかさず教授が話しに混ざってきた。


「まあまあ、別に個人的なことは詮索しなくていいだろ。あのお嬢さんにも事情はあるだろうしな」

「そう……ですね。でも具合が悪かったら、ちゃんと言ってね?」


 教授の言葉に姉さんは一応頷くも、その制服の彼女にも念を押した。


「あ、はい。……ありがとうございます」


 どこか面食らったような顔で答える桜井という女の子を見て、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 こんな非常識な状況で、あまりにも普通のことを言っている姉さんに逆に安心感を覚えたからだ。


「姉さんは相変わらずだね」

「だって、心配だから」


 耳元で小声で話すと、姉さんが少し困った顔で答える。元々心配性で世話焼きだった姉さんだが、看護師になってから更に磨きがかかってしまったようだ。

 ……俺がそんなことを考えているうちに、革ジャンを着た背の高い女性が自己紹介を始めた。


「次は私ね。私は堀江彩夏(ほりえさいか)、警備会社で働いてる。私の場合は派遣先から家に帰る途中で……そこから記憶がないわね」


 腕を組んで淡々と語る堀江さんはその落ち着いた声とは裏腹に、目だけは忙しなく周りを行ったり来たりしていた。

 ……まるで俺たちを観察でもしているかのように。


「それじゃ、今度はそこの看護師さんにも自己紹介してもらうか?」


 いよいよ教授が姉さんの方に話を振ってきた。握っていた姉さんの手に軽く力を入れると、姉さんも小さく微笑み返してくる。


「私は松永(まつなが)すみれと言います。近くの大学病院で看護師の仕事をしています。仕事が終わって、その帰りで気を失って……その後は、多分皆さんと同じだと思います」


 姉さんが話し終えると、さっきの翔とか呼ばれた大学生の男が身を乗り出しては姉さんに話しかけてきた。


「ゆっほ~~!? マジ美人じゃん、しかも本物のナースとか、す~っげいいね」


 ……不愉快だ。その軽薄で欲望丸出しの言葉に自然と顔が強張るのを自覚する。

 俺は姉さんを自分の後ろに退かせながら口を開いた。


松永和也(まつながかずや)です。高校2年生で、さっき自己紹介した松永すみれの弟です。……家でちょっと眠ってしまって、目が覚めたらここでした」


 弟くだりを強調しながらゆっくりと話す。大学生の男は俺の後ろに下がった姉さんと俺を交互に見て、これ見よがしに舌打ちをする。

 さっきの優奈さんに対する態度といい、今の姉さんに対する態度といい……こんな状況であの男は一体何を考えているんだ……ッ。


「これで全員の自己紹介は終わったようだね。それじゃ……」

「あ、ちょっと待ってください。まだ一人残ってますよ?」


 顎に手を当て、思案顔で話す教授の言葉を姉さんが遮る。


「ん? ……これで全部じゃないのかね?」


 眉間に皺を寄せる教授に背を向け、姉さんは何もないはずの壁際の方に近づく。


「……姉さん?」


 目を凝らしてよく見ると、その薄暗い部屋の片隅に小さな人影があるのが見えてきた。


「こ、子供!? ……何で、こんな場所に子供が?」


 教授が素っ頓狂な声を上げる。確かに姉さんの前には、背が俺の腰ぐらいしか届かなさそうな女の子が膝を抱えて座り込んでいた。

 そして少女の大きい目がゆっくりと俺たちを見回す。感情の乏しいその瞳はまるでガラス細工のようで、ちゃんとこっちを見ているのか疑問に思うくらい焦点が合っていなかった。

 だからか、その子に対する俺の初印象は歳相応の可愛さよりも不気味さが先行していた。


「あなたの名前、教えてくれるかな?」


 姉さんが少女の前で膝をついて座る。俺は咄嗟に姉さんを止めようと手を伸ばしかけたか、思いとどまってその手を引っ込めた。


「……ゆり。花の、ゆり」 


 しばらく姉さんをじっと見ていた少女がぽつりとそう呟く。


「そう、百合ちゃん……。可愛い名前だね」


 そう言って姉さんがゆっくり手を伸ばして少女の頭を撫でる。目を細めて姉さんにされるがままにいるその子を見て、俺は内心ほっとした。

 ……しかし、こんな小さな子供までここにいるのは明らかに変だ。一体この集まりは何なんだ。


「それで、君は一体何歳なんだ? ……ここにはどうやって来たか、覚えているのか?」


 頃合いを見計らったかのように教授が少女に質問を投げかける。しかし百合ちゃんは教授をじっくり見上げるばかりで何も答えなかった。


「……何か言ってみたらどうかね?」


 それを根気よく待っていた教授だが、相変わらず何も答えようとしない百合ちゃんにじれったさを感じたのか、すこし苛立った声で催促する。


「子供のことだし、何かショックを受けているかもしれません。あまり刺激しない方がいいと思います」


 珍しく強い口調で言い返す姉さんの言葉に、教授が不満げな声を出した。


「し、しかし、ちゃんと話を聞いてみないことには……」

「もういいだろ、教授さんよ……? 別に子供の言うことを一々聞く必要もねぇんじゃないか?」


 教授の言葉が終わる前に、それを遮って記者の羽野さんが横槍を入れてきた。教授は不服そうな顔だったが、それ以上その少女に何かを聞いてはこなかった。

 

 ――そして、俺たちがそんなやり取りをしていた時のことだった。


 薄暗かった部屋が一瞬にして明るくなる。すると、病的なまでに真っ白に彩られた空間がその全容を現した。そこに驚く間もなくスピーカー音が部屋中に鳴り響く。


「参加者の皆さま、インサイド・リポート・ゲームへようこそ」


 くぐもった耳障りな男の声……いや、男のものだと断定するにはスピーカー越しに混じる雑音が邪魔で、何とも言えない声だった。

 ……それより参加者って、俺たちのことを言っているのか? ……インサイド・リポート・ゲーム?


「ここに集まった皆さまには一つ、ゲームに参加してもらいます」


 徐々に周りの明るさに目が慣れてくる。それにつれてやっと頭も正常に働き出した。そこで初めて俺はあのスピーカーから聞こえる声が酷く不気味な、不愉快なものだと感じるようになっていた。


「……おい、なんか始まったぞ?」


 最初に沈黙を破ったのは大学生の男だった。それに続くように、それぞれが自分の意見を出してくる。


「やっぱ何かの番組っしょ? これ」

「あまりにらしいっちゃらしくて、興醒めだがな」


 秋吉さんの言葉に羽野さんがせせら笑う。拉致して監禁した人たちに、何かしらのゲームを強要する。確かによく耳にする定番みたいな設定だが、現実には寡聞にして知らない話だ。彼女の言う通り、何かの番組企画だと思う方が納得もできる。

 他の人たちも似たように考えているようで、さっきまでの張り詰めていた雰囲気がいくらか弛緩していくのが見て取れた。


「これから皆さまが参加するゲーム、インサイド・リポート・ゲームのルールを説明させていただきます」

「ほう……なるほど」


 隣で羽野さんが意味ありげに頷く。今の司会者(?)の言葉に何かあったのか? ……わからない。


「その前にあんたは誰だ!? 人を勝手に連れてきて……一体これはどういう了見かね!」


 教授が天井のスピーカーに向けて声を荒げる。だがしばらく待っていても何の答えも返ってはこなかった。それにつれ、部屋の中が奇妙な沈黙に包まれる。


「……そもそもよ。俺らが言ってることが、あっちにも聞こえるのか?」


 大学生の男の当たり前の疑問に、教授がハッとなって顔を赤らめる。そのとき、またスピーカー音が鳴り始めた。


「まずゲームクリアの方法……目的を話しましょ。このゲームをクリアするには、ゲームスタート時点から13日間生き延びるか、もしくは施設内にある正解の『出口』を特定し、そこから脱出するかのどちらかになります」


 ……穏やかじゃない言葉が混じってきた。生き延びる? この手のものについてくる、ただの常套句として使った言葉なのか、それとも……本当に?


「なんか雰囲気出てきたな?」


 能天気にもちょっと興奮気味になっている大学生の男に対して、優奈さんのマネージャーである石垣さんが難色を示した。


「いや、さすがに13日はちょっと……いくらなんでも」


 最後は言葉を濁したが、俺にもその言葉の意味は読み取れた。

 13日間も続く番組企画なんてあるわけがない……そう言いたいんだろ。これが何かのサバイバルゲームの企画とドッキリを混ぜた番組だとしても、ここにいる人たちにも各々生活や自分の仕事があるはずだ。事前同意もなしに2週間も時間を空けられるわけがない。


「出口って、あれのことじゃないかしら」


 警備会社の社員だと言っていた、確か……堀江彩夏さんだったか。彼女が指差す方向を見ると、四面にある扉の一つに『出口』と書かれた看板があった。

 ……どうやらさっきまでは周りが暗かったせいで見えなかっただけのようだ。


「でもあれって閉まってんじゃん? 出られぇよ」

「それによ。正解の扉って言うからには、出口が一つだけとは限らないんじゃないのか?」


 大学生の男と羽野さんが例の扉に視線を向けて意見を出し合う。そこに教授が言葉を挟んできた。


「しーっ、静かにしろ。……まずはあちらの話を最後まで聞くんだ」


 なぜか有無を言わさない高圧的な教授の声。それによって他の会話まで途切れる。そしてスピーカーからの音声が続いた。


「また、このゲームに参加する皆さまには一つの共通点が存在します。それは……秘密です」


 そこまで言った後、ふいにスピーカーからの音が切れる。


「…………はあ? ふざけてんのか!?」


 一呼吸遅れて、大学生の男が呆れ混じりの怒鳴り声を部屋中に響かせた。


「何だよそれはっ! ギャグのつもりかよッ!」

「しっ! 静かにしてろ、翔」


 続けて悪態をつこうとする大学生の男を教授が制する。それに抗議しようとする男、その時にまたスピーカーから音が出始めた。


「そう、秘密……ここに集まった皆さまは、決して人には言えない『秘密』を抱えている方たちです。それが世間に知られれば、それこそ身の破滅……社会的な死が待っているほどの秘密を、です」


 ……人間、誰しも他人には言えない秘密の一つや二つは抱えているものだと思う。でもこのスピーカーから聞こえる声の主が言っている秘密とは、多分そういう類のものじゃない気がした。

 彼の者が言ったように、決して他人に知られてはならない……もし世間に知られたら自分が立っている足場ごと崩れ落ちてしまうような、破滅へ誘う秘密。


 ――実は俺にも、そういうものに心当たりがある。でもそれは誰も知るはずもないことだ。すぐその不安にも似た恐怖を頭から無理やり打ち消す。


「そしてその秘密を自ら暴露することによって、皆さまはゲームクリアの手助けになるヒントを得ることができます」


 秘密の……暴露? それが、ここから脱出するためのヒントになると? 

 頭がまた困惑し始める。言葉は理解できるのに、その意味が、その意図がまるで見えてこない。そんな最中にもスピーカーの音は鳴り止まなかった。


「皆さまの秘密が何なのか。それは、皆さまが各々持っている端末を通じて確認できます」


 端末? 何を言っているんだ。そんなものがどこに……ッ。


「おい、何だよこれは……俺はこんなもの、持ってた覚えなんかねぇぞ?」


 大学生の男の呟きに皆の視線が彼に集まる。その男の手にはタブレット端末のようなものが握られていた。


「翔、それは……どこで拾った?」


 教授の問いに大学生の男が首を傾げながら言う。


「……知らね。ポケットの中にあったんだ」

「いつの間にか、懐に入っていたと?」

「ああ……多分」


 そのやり取りを見て、皆一様に自分の服を改め始めた。俺も自分の服を確認しようとしてふと手が止まる。


「これは……ッ」


 なんで、今まで気が付かなかったんだろ。自分の左手首に見たことのない腕輪が嵌められていた。

 もちろん、これは俺のものじゃない。自分では冷静でいたつもりだったが、目が覚めてから続く非現実的な状況に少なからず動揺していたようだ。


「和也、どうしだの?」

「姉さん……これ」


 俺は姉さんにその腕輪を見せた。そして姉さんの左手首にも同じものが嵌められていることに気がづく。


「姉さんも?」

「うん。外そうとしても外れなかったの」


 ……どうやら姉さんは、俺よりも先に腕輪の存在に気づいていたようだ。

 自分より姉さんの方がずっと落ち着いていたことに、何とも言えない恥ずかしさを覚える。それを誤魔化すように手首から腕輪を外してみようと試みる。でも光沢のない黒ずんだ色の腕輪はどこにも結合部がなく、サイズも手首にぴったり合っていて、強引に外すことはできそうにない。

 改めて他の人たちの方に視線を向けてみると案の定、皆それぞれ手首に俺や姉さんと同じような腕輪が嵌められていた。


「和也も端末、あった?」


 姉さんの声に我に返って自分の服を確認する。

 ズボンの後ろポケットにさっき大学生の男が持っていたものと同じ機種のタブレット端末が入っていた。その代わり、そこにあったはずの俺のスマホがなくなっていた。


「……あったよ。姉さんは?」

「私も」


 姉さんが自分の端末を俺に見せる。それも見た感じでは俺のと同じ機種に見えた。そして他の人たちも既に自分の端末を探し出してそれを手にしていた。


「でもこれ、電源が入ってないようですけどねぇ……」


 坂谷さんの呟きに自分の端末に視線を落とす。

 ……俺のも同じく電源は入っていなかった。だが、どこを探しても電源をいれるボタンが見つからない。


「くっそ、何だよ。故障じゃねぇのか、これ」


 大学生の男がまた悪態をつく。そしてそれに反応するかのように彼の端末が光り出してアラームの音が鳴り始めた。


「へぇ?」


 男の間の抜けた声とほぼ同時に、他の人達が持つ全ての端末から一斉に同じアラームの音が鳴り始めた。

 ……俺が持っている端末にも電源が入って、同じスタート音が鳴っていた。そして何回か点滅を繰り返した画面に、とある文字が映し出される。


『Prodítĭo』


 端末にはそれの会社名も機種も書かれていなかった。

 その代わり、何かの英文字……のようなそれが画面の中央に映っているだけだった。


「皆さまが手にしたその端末には、それを持っている本人の秘密が初めから内装されています。では、ご確認を」


 突然のスピーカーからの音声はその言葉を残してまた途切れる。そして意図しなくても、部屋にいる全員が互いにの顔色を伺うようにして視線を交差した。

 ……皆考えているのは同じだろ。もしこの端末に自分の秘密が入っているとしたら、誰にもその内容を知られたくない。集まっていた人の輪が緩み、お互い距離を置き、または人から背を向けて端末の中を確認し始める。


「…………」


 自分の端末を操作する。基本はスマホとそう変わらない、特別なことは何もないようなタブレットに見えた。ホーム画面にある『秘密』と書かれたフォルダを開く。すると『松永和也』とい名のファイルがあった。

 本当に……これに、それが入っているんだろうか……? さっき、あえて心の隅に追いやった不安が鎌首をもたげ始める。まだこれが何かのドッキリ番組で、笑える結末で終わる可能性がないわけじゃない。いや、そうでなくてはならない。でもこのファイルに本当にそれが書かれていたら……ッ。

 俺は震える指先で画面をタップしてファイルを開いた。


『松永和也、そして彼の姉である松永すみれとの関係について』


 その最初の一行を見たのと同時に俺はそのファイルを閉じた。


「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ………………」


 急激に跳ね上がった心臓の鼓動がうるさく聞こえてくる。周りの人の気配が遠のいていく。

 息が荒い。いったい誰が、どうやって、何故これを……知っているっ!?


「お、おい……冗談じゃねぇぞ……なんで、こんな……!」


 大学生の男がよろめいて力なく壁にもたれてはそう呟く。その壁と背中がぶつかる際だって大きくもない音で、俺は少しだけ周りに気を配れるようになった。

 そしてその小さい音に気を取られるほど、それほどまでに部屋の中は静寂に包まれていた。


「これは……ッ」


 教授は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。秋吉さんは開いた口が塞がらないまま固まっている。アイドルの優奈さんと、そのマネージャーの石垣さんに至っては顔から血の気が引いていた。


「和也……」


 姉さんが俺の手を握ってくる。その手はわずかに震えていた。それで姉さんの端末に入っていた秘密が何なのか俺はほぼ確信した。


「……姉さんも?」

「うん」

「……大丈夫だよ、姉さん」


 俺は姉さんの手を強く握り返した。

 何が大丈夫かなんて、根拠のない慰めだと自覚しながらも、そう言うしかなかった……少しでも冷静さを取り戻すために。


「う、嘘だ!! こんな……こんなっ!」


 突然、悲鳴にも似たヒステリックな叫びが部屋に鳴り響く。

 声の方に視線を向けると、坂谷さんが頭を抱えてうずくまっていた。


「なんで私にこんな……こんなことが!?」


 その取り乱しようが尋常じゃない。まるで人が変わったようなその姿に、どう対処すればいいか戸惑ってしまう。


「どうして……ッ。いったい誰が!?」


 焦点が定まらない瞳孔の開いた目で、独り言のように何かをぶつぶつ言い続ける坂谷さん。

 それを見てようやく……本当にようやく、これが現実のものだと自覚し始める。この状況はドッキリでも冗談でもない、まぎれもなく俺たちに降りかかった悪意であることを。


「こんなことをして、ただで済むと思っているのか!? 警察が黙っていないぞ!?」


 今度は石垣さんが天井のスピーカーに向けて怒鳴る。怒りのせいで彼の頬は小刻みに痙攣していた。


「そうよ、おかしいよ! あたしが何をしたってゆうのよ……なんで、なんでこんなことするのよ!?」


 秋吉さんが開かない扉に手の平を叩きつけながら声を荒げる。比較的に冷静に見える人たちもその実、焦りを隠しきれない様子だった。米軍だと言っていたスミスさんは忙しなく部屋の中を歩き回り、堀江さんも苛立ちげに舌打ちを連発している。

 もはや部屋の中は阿鼻叫喚、集団ヒステリックを起こしているような光景に変わっていた。


「何も不思議がることではありません」


 途絶えていたスピーカーから、その人の神経を逆撫でするような声が再び流れてきた。それを機に部屋中の騒動も一気に静まる。


「皆さまは知っていますか? 毎年日本だけでも8万を越える行方不明者が出ていることを。探索届けが出された数だけでも、それだけの人間が姿を消している。未確認を含めれば、その数はさらに増えるでしょう」


 その言葉と共にじわじわと湧き上がる不安。その先を……あいつに、これ以上喋らせてはいけない。そんな直感が俺の中で過るも、スピーカーからの音声は容赦なく続きを話してきた。


「ここに集まった13人程度の数、例えこの世から消えたとしても誰も気にはしない。もちろん警察などに期待しても無駄です」


 まるで陶酔したかのように語るその声は、なぜか確信に満ちていた。それは闇に、警察や世間への対応も既に成されていると言っているように聞こえた。

 ……ここまでの人数を眠らせ、拉致し、人知れず監禁する場所が用意できる相手だ。そういう根回しくらい既にやっているんじゃないだろうか……そんな絶望にも似た疑惑が徐々に形を成して確信に近いものに変わっていく。

 他の人達の事情は知らないが、俺と姉さんは二人だけの家族だ。親も身近な親戚もいない。仮に二人が同時にいなくなったとしても、世間からは急な引越しか夜逃げくらいにしか思われないのが関の山だろ。

 ……俺の中でますます膨れ上がる不安と疑念、それを止める術は見つからなかった。


「なぜだ……いったい何が目的だ!? 僕たちに恨みでもあるのか!? ……答えろ!!」


 石垣さんの絶叫にも似た叫び声。やがてスピーカーから答えが返ってくる。


「それは愚問です」


 簡潔な答え。それには、人を馬鹿にしているかのような響きを多分に含んでいた。


「なん、だと……ッ?」


 石垣さんが怒りをあらわにして、搾り出すような低い声で聞き返す。隣で不安そうに彼を見ている優奈さんの姿も、今の彼の目には入ってこない様子だった。


「なぜ皆さまが拉致、監禁され、このゲームに参加させらているのか……そのもっともらしい理由を説明すれば、あなた方は今の自分の境遇に納得できるんですか? ……できないでしょ。『何故』という疑問は所詮、現実逃避の自己満足でしかない」


 ……理屈として、彼の声が言っていることは正しいようにも聞こえた。

 拉致監禁され、わけのわからないゲームを強要されて、おまけに秘密という名の重大な弱みまで握られている。その行動にどんな理由があるにしろ、それを聞いたところで納得できるわけもない。だったら今はまずこの状況を現実の問題として受け入れるべきだ。

 ……でも、それでも、その疑問を頭から完全に消すことはできなかった。何故俺に、俺と姉さんにこんなことが起きたのか。あの声の相手は、何故こんなことをするのか。


「それではルールの説明、その続きを致しましょう」


 困惑が困惑のまま残り、それがまだ消化しきれてない状態でもスピーカーかの音声は淡々と話を続けていく。


「秘密の暴露、その仕組みについて説明しましょう。まず自らが抱える秘密を暴露するときは、皆さまが持っている端末を通じてそれを行えることができます」


 その言葉が終わるのと同時に、端末が何かを読み取り始めた。

 そして『秘密』という名前のフォルダ以外に何もなかったトップ画面に、『暴露』のアイコンが追加される。


「端末にある暴露アイコンで、皆さまの秘密は他の参加者を含め、その秘密に関わりのある全ての人物・団体・施設、そして世界中のネット上に転送される仕組みになっています。もちろん、その詳細を証明できる映像・画像・書類を含んだ資料全てがです」

「馬鹿な!? これは明白な人権侵害だ!! そんなことが許されて堪るか!」


 石垣さんが拳を固く握り締めて天井に向けて叫ぶ。だがスピーカーの音声は何も答えない。

 その代わりに、薄ら笑いを浮かべた羽野さんがそれを宥める。


「おいおいマネージャーさんよ……あんまカッカするなよ。今喚いてもどうしようもねぇだろ?」

「くっ……ッ!」


 石垣さんが口を閉じて声にならない呻きを漏らす。そして何もなかったかのようにスピーカーからの音声が続く。


「そしてその秘密を暴露することによって、参加者の皆さまはゲームをクリアするための手掛かり、ヒントを得ることができます」

「参加者の、皆が……」


 堀江さんが顎の下に手を添えて、呟くようにスピーカーの音声を復唱する。

 つまり参加者の一人が自分の秘密を公開すれば、他の人たちも全員そのヒントをもらえる……ってことか。


「または参加者の方がゲームから脱落した時、その秘密は自ら公開したときと同じく暴露され、残された参加者にも同じくヒントが与えられます」


 ゲームの途中で脱落したときは、自分の意志とは関係なくその秘密が暴露されてしまう……。

 握っている自分のタブレット端末に視線を落す。もし脱落すれば……これが公開されてしまうのか。


「ただし、例外もまた存在します」


 例外? いったい何のことだ? もう頭がオーバーヒート寸前だ。いい加減にしてくれと、心の中で愚痴をこぼさずにはいられなかった。


「参加者の脱落が、他の参加者の手によって引き起こされたものである場合です」


 参加者同士で、脱落させる……? このゲームには競争の要素もあるというのか?


「その場合、暴露の仕組みは今までと同じですが、ゲームのヒントは脱落させた参加者のみに与えられます」


 そこでスピーカーの音が途絶え、場に妙な沈黙の間が広がる。皆示し合わせたかのようにスピーカーがいる天井の方に視線を集めた。


「そしてこのゲーム、インサイド・リポート・ゲームで参加者の脱落とは即ち、参加者の死を意味します」


 周りの空気が急激に冷え込んだ。背筋にうっさらとした寒さが透き通る。

 脱落……それが何を意味するのか、考えなかったわけじゃない。でもはっきりそう言われるまで、そうだとは認めたくなかった。

 そして今でも……あまりにも現実感に乏しいその言葉をどう受け止めるべきか、困惑ばかりが増していく。


「そしてもう一つ、ゲームが行われる13日間、毎日午前6時にその日の暴露対象者が選ばれます。そしてもしその日に参加者の中から暴露が一回も行われなかった場合、その選定された対象者の秘密が日付が変わるのと同時に暴露されることになります。もちろん、本人の意思とは関係なく」

「なっ……!?」


 それを聞いて今まで沈黙を守っていた教授が呻き声を上げた。俺も全身から血の気が引いていくのを感じる。

 このゲームの主催者は、どうあっても俺たちの秘密を暴いて晒し者にしたいのか……ッ!


「最後に、皆さまが持っている端末と腕に嵌めているものについて説明しましょう」


 一種の放心状態で、言われるがままに自分が持っているタブレットと腕輪に視線を落とす。

 タブレットはともかく、この腕輪はいったい何のためのものなんだ……?


「その端末は暴露を行うとき以外は、基本的に受信のみとなっています。つまり暴露された他の参加者の秘密を受信したり、ゲームのヒントを受け取るためだけに存在するというわけです。そしてゲームのルールを再度確認するときにも」


 その言葉と共にまた端末が受信を始める。そして画面に『ルール』と書かれたテキストファイルが一つダウンロードされた。


「そしてその腕輪は皆さまの円満なゲーム進行のための道具です。その中には監視カメラと盗聴器、そして小型爆弾が仕組まれています」

「ば、爆弾!?」


 坂谷さんが素っ頓狂な声上げて驚く。それに続いて大学生の男も最初とは打って変わった引きずった声で呟いた。


「お、おい……いくらなんでも冗談がすぎるぜ……。え、映画の見過ぎじゃねぇの?」


 だがそれに構うことなくスピーカーからの音声は話を進めていく。


「安心してください。それはゲームが正しく行われているか確認するための装置です。余程のことがないかぎり、その爆弾が作動することはありません」


 聞くことによっては凄く曖昧な言葉だった。

 余程のことって、いったい何を基準に、どのようなことなのか。それに……本当にこんな腕輪の中に爆弾が仕組まれているのか? 

 あまりに実感が沸かなくて、自分の状況に対する現実感すら薄れてくる。その反面、おちゃらけたようにも聞こえるスピーカーの音声に苛立ちばかりが募っていく。


「ルールの詳細や違反行為に対しては、端末を通じてご確認してください」


 突然タブレットの画面が光る。そして画面の中央に、今まではなかった数字の羅列が映し出された。


『Day1 05 : 52』


 多分、これは今の時間だろ。……そういえば密閉された部屋の中にいるせいで、今が何時かはおろか昼か夜かさえもわからなかった。


「それでは午前6時を以って記念すべき初日の暴露対象者が決まるのと同時に、インサイド・リポート・ゲームを始めさせて頂きます」


 その言葉を最後にスピーカーの音が鳴り止む。そしてしばらく待っていても、それ以上スピーカーからは何の声も聞こえてこなかった


「おい? …………おいっ!?」


 大学生の男が叫ぶ。だがやはりスピーカーからの返事はない。


「ふざけてるのか!? 何なんだよこれは!!」


 悪態をつく彼を横目に、俺は他の人たちと同じく端末でルールが書かれたファイルを開いてその内用を確認する。


―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―


・今回のゲームクリア条件は、ゲームスタート時点から13日間生き延びるか、または正解の『出口』を特定して脱出するか、そのどちらかになる。


・参加者は全員それぞれ秘密を持っており、その秘密を暴露することによってゲームクリアの助けとなるヒントを得ることができる。


・自らの秘密を暴露するとき、参加者は必ず所持する端末を通じてそれを行う。それ以外の手段は認めない。


・暴露された秘密はその詳細とそれを証明する証拠と共に、ゲーム参加者及びその秘密に関係する全ての対象に向けて転送される。また、ネット上に隈なくアップされ、世界中に公開されることになる。


・もし参加者がゲームから脱落した場合、その参加者の秘密は自動的に公開される。そしてその秘密の内用とヒントは、参加者が自ら暴露したときと同様に他の参加者全員が知ることになる。


・例外として、参加者の脱落が他の参加者の手によって引き起こされた場合、秘密に対しては残っている参加者全員が知ることができるが、ヒントは脱落を引き起こした参加者のみが得られる。


・ゲームが行われる13日間、毎朝午前6時にその日の暴露対象者が選ばれる。その時点からその日に秘密の暴露が一度も行われなかった場合、選ばれた対象者の秘密が日付が変わるのと同時に強制的に公開される。

 暴露の対象者は、その人の端末を通じて本人にのみ知らされる。ただし他の秘密の暴露があった場合、暴露予定者の秘密は公開されない。


・ゲームを無事クリアした時、それまでに暴露されなかった秘密があれば、その秘密は今までと同様に秘密として残る。そして達成者には可能な限りでクリアの褒賞を要求する権利を有する。


<禁止事項>


・ゲームの参加者はどんな理由であれ、自分の秘密を他の参加者に漏らしてはならない。


・支給された端末や腕輪を意図的に壊す、または身から外す行為をしてはならない。


―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―ー―


 端末に目を走らせ改めてルールを確認する。そして最後の『禁止事項』」の項目で、俺は冷や汗をかいた。

 

『ゲームの参加者はどんな理由であれ、自分の秘密を他の参加者に漏らしてはならない』


 さっき俺は内容までは言わなかったものの、姉さんと互いの秘密が何なのか確認したも当然の会話をした。恐る恐る腕輪に目を落とす……だが、何も起こらない。


「はぁぁ…………」


 俺は小さく息を吐き出した。腕輪には監視カメラと盗聴器が仕組まれているとさっきの声は言っていた。

 あの声の主は、俺と姉さんのやり取りを見落としたのか? ……いや、そんな都合の良い妄想は捨てるべきだ。多分あれくらいの会話まではセーフってことだろ。

 ……そしていよいよ、この呪われたゲームが始まろうとしていた。


「午前6時になりました。では皆さま、このゲームを存分にお楽しみください」


 耳障りな長いブザー音が耳を打つ。そしてその音が止むのと同時に、部屋の四面にある扉からロックが外れるような音がした。


「けっ、楽しめったってよぉ……」


 眉間に皺を寄せた羽野さんが舌打ちをする。だがそれに反応する余裕がある者は誰もいなかった。


「扉、開いたのか?」


 大学生の男が恐る恐る扉の方に歩いていく。それを見て教授が慌てて彼に怒鳴りつける。


「翔! 勝手に触るな!! 何か仕掛けでもあったらどうする!?」

「お、おう…………って、さすがにそれはねぇんじゃねぇの? ノブを回せば毒針でも出てくるのかよ?」


 一瞬ビクッとした大学生の男だったが、すぐおちゃらけた笑みを浮かべて肩を竦めた。


「まったく、おまえってやつは……。まずはこれからどうするか、その方針を決めるのが先だろ」


 その親子のやり取りを横目に見ながら自分の端末を確認する。

 もう午前6時が過ぎている……それは即ち、今日の暴露対象者が決まったことを意味していた。


「………………ふぅ」


 自然と小さくため息が漏れてきた。幸い俺の端末に新しいメッセージは入ってなかった。

 つまり俺は暴露対象者に選ばれなかったってことだろ……少なくとも、今日のところは。


「姉さん?」


 姉さんの方に振り返る。彼女は不安と緊張で顔がやや硬くなってはいるものの、その表情に大きな変化はないように見えた。


「大丈夫よ」


 俺の言おうとすることを察したか、姉さんが微笑んでそう答える。姉さんも俺も、今日のところは秘密の暴露から逃れたようだ。それ思うとざわついていた心が少し落ち着く。


「嘘だ嘘だ嘘だ!! こんな……こんなっ……ッ!」


 突然の叫び声に皆の視線がその人に集まる。

 ……坂谷正仁。彼は片手に持った自分の端末を見て声を荒げていた。


「何が暴露だ! 何がゲームだ! 僕は……っ、何故だ――――!?」


 その取り乱しようが尋常ではない。揉めていた教授親子の口喧嘩も中断される。そして教授が恐る恐る坂谷さんに話しかけた。


「お、おい……あんた、どうしたのかね?」


 だが坂谷さんは何の返事も返さない。やがて首を垂らした彼は、暴れて叫んださっきとは打って変わって微動だにしなくなった。


「これ……ちょっとやべぇんじゃねぇの?」


 そんな坂谷さんの姿に、引きずった顔をした大学生の男がそう呟く。そしたら急にその坂谷さんが顔を上げた。


「いえ、私は大丈夫です」


 そう言ってきた坂谷さんの顔はとても大丈夫なようには見えなかった。

 どこか生気が欠けているような、感情が抜け落ちたような表情で、彼は急に『出口』と書かれた扉の方に歩き出した。


「お、おい、あんたっ!?」


 教授の制止の声に、『出口』の前で坂谷さんが俺たちの方に振り返っては言ってきた。


「皆さんもここから出ましょう。こんな訳のわからない悪戯に付き合ってはいけないでしょ、はい」


 ……イタズラ? これが悪戯だというのか。……それはあり得ない。このゲームの主催者は、俺たちを閉じ込めた犯人は……ここに集められた人たちがずっと隠してきた、何よりも知られたくないと思っている秘密を握って脅してきているのだ……その秘密がばらされたくなかったら、このゲームをプレイしろと。

 それが悪戯やテレビ番組のドッキリ程度で可能なのか? ……できない。それくらい、誰でもわかりそうなものだ。


「家で妻と娘が待っているんです。……だから、早く帰らないと」


 そう言って坂谷さんが『出口』のドアノブに手をかける。


「お、おい待ったんか!? 何の保障もなしにそこから出ちゃ危ないぞ!?」


 教授が必死の声で彼を引き止めると、坂谷さんの動きが一瞬だけ止まる。そしてまた俺たちにの方に振り返ってきた。


「いやいや、根拠ならありますよ? ルールに『出口』って書かれた扉から脱出できるって書かれていたじゃないですか……」

「それは……正解の出口から出たときの話だろ。その扉が正解である保障はどこにもない」

「まあこれが正解じゃなかったとしても、まずは確認してみませんと」


 そう言って坂谷さんが扉のノブを回した。そして教授の慌てた声が部屋中に響く。


「お、おい、待つんだ! 早まるんじゃない!」


 確かに出口が本物かどうかなんで、試してみないことには確認のしようがない。それこそスピーカーの声が言っていた例のヒントというをもらわない限り、直接確かめるしかないのだ。

 ……でも、教授が危惧するのと同じ不安が俺にもあった。もし間違った出口から出ようとしたとき、なんのペナルティーのないまま済むだろうか?


「大丈夫ですよ……昔こういう映画を見たことがあったんです。大概こういうのって、意表をついて最初にいた場所から脱出できるようになってるんですよ……ッ!」


 そう言いながら坂谷さんが扉を開く。すると彼の体の隙間から、扉の向こうの通路が見えてきた。

 ……見た目には普通の廊下と変わらない。ただ薄暗い蛍光灯で照らされているその通路は、男性一人がようやく通れる幅と高さしか持っていなかった。


「そうだ……真由ちゃんも一緒に来るかい? こんな薄気味悪いところにいちゃ、いけないよ……?」


 そう言って秋吉さんを手招きする坂谷さん。その彼の目を見て確信する。あれは明らかに異常だ。言葉で説明するのは難しいが、はっきり言って正気を欠いている人の目だと直感する。

 秋吉さんもそれを感じ取ったのか、戸惑いながらも後ずさりする。


「あ、あたしは……」


 それを見て、坂谷さんは彼女に伸ばしかけた手を引っ込めて俺たちから背を向けた。


「そうか……残念だよ」


 そう言い残して坂谷さんはズカズカと扉の中に入っていく。


「お、おい!?」


 教授の最後の声も無駄だった。そして遠巻きで見ていた俺たちが何か対応する暇もなく、坂谷さんは薄暗い通路の中に溶けていった。


「……どうするんだ、あれ?」


 羽野さんが教授に話を振る。彼が消え去った通路の方をぼーっと見つめていた教授が我に返って答える。


「あ、ああ……そう、だな……」

「追いかけなくていいのかい?」


 羽野さんの問いに教授も、そして俺たちも……誰もそれに答えることができなかった。

 もしもの危険を考えると、彼を追うのはあまりにもリスクが高すぎる……そう思ってしまうと、どうしても二の足を踏んでしまう。


「自分から勝手に出て行ったのよ? 自己責任だと思うけど」


 皆が押し黙る中、その沈黙を破って堀江さんがそう言ってきた。


「そ、そうかもしれないが……」


 教授が力なくそう呟いて、彼がいなくなった通路に視線を戻す……その時だった。巨大な爆発音が通路の向こう側から聞こえてきた。そして軽く地面が揺れ始める。


「お、おい、何だこれは……地震か!?」

「いや、これは……ッ!」


 大学生の男の言葉を教授が否定する。地面が揺れる前に聞こえてきた爆発音。これは多分……ッ!


「な、なんか崩れる音とか、聞こえない?」


 秋吉さんの言葉に皆が通路の方に耳を傾ける。……確かに遠くから何かが崩れ落ちてくるような音が聞こえていた。

 そしてその音は段々大きくなって、こっちに迫ってくる!


「おい、扉から離れろっ! 土砂崩れだ!!」


 羽野さんの声に全員慌ててその扉から遠ざがる。それに少し遅れて、けたたましい轟音と共に向こう側の壁や天井が崩れ落ちて崩壊し始めた。それは俺たちがいる部屋の一部にまで土砂を吐き出してやっと収まる。


「これは……ッ」


 さっきまで『出口』の扉があった場所に視線を向ける。土砂で道が完全に塞がって、もはや通路があったとは思えないほどの有様に変わっていた。


「…………冗談だろ?」


 大学生の男の呟きに誰一人答えを返さない。

 静まり返った部屋の中で、優奈さんの啜り泣く声がわずかに聞こえてきた。その小さな音で、ようやく現実へと理解が及ぶ……たった今、人がひとり死んだのだと。


「和也」


 姉さんが俺の手を握ってくる。その手は小さく震えていた。俺はそれを握り返しながら周りの人たちに視線を移した。

 呆然として自失している者、拳を握り締めている者、聞こえない声で何かを呟き続ける者。……皆が目の前で目撃した人の死を、どう受け止め処理するべきか戸惑っている様子だった。


「一日目早々に、最初の脱落者が出ました」


 ふいに、本当に不意をつかれて聞こえてきたスピーカーからの声にビクッとする。その音につられ、俺は天井を見上げた。


「彼……坂谷正仁はとある製薬会社に勤めている人物でしたが、その裏では会社の金を横領し続けてきた人間です」


 横領? ……あんな気の弱そうな人が? それが坂谷さんの秘密だったのか?


「そしてあろうことか、その横領した金で私腹を肥やし、酒と女にそれを散財するような度し難い人物でした。所帯持ちでありながら高校生との援交にまで走った、まさしく社会の汚物です」


 スピーカー越しの、どこか楽しげに語るその声に軽い苛立ちを覚える。

 あの声が言っていることが本当のことなら、確かにあの人は悪いことをしたし、法によって罰せられるべきだろ。

 でもあの声の人は……あいつは、それを自分勝手に裁量して裁いた……そんな傲慢が許されるわけがないッ!


「詳しいことは皆さまが持っている端末でご確認を。それでは」


 そしてスピーカーから音が止む。

 だが……さっきまでとは打って変わって、その音声に反応する者は誰もなく、ただただ静寂だけが部屋の中を包み込んでいた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ