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Le Dernier Cadeau-2

 二度目の帰国は新緑の季節、四月の終わりだった。

 桜の季節が終わるかどうか、という時期に私は一人、東京へ降り立った。今回は急いで帰国したことと、航空券の値段でチケットを決めたため、大阪ではなくて成田空港に着いたのだった。

 私がパリにいたこの一ヵ月間。

 父は順調に回復していると母が言っていた。術後の経過もよく、放射線療法などの治療は必要なものの、近いうちに自宅療養も可能と言われていたほどだった。

 週末にはパソコンからスカイプで電話をつないだりもした。小さなモバイルパソコンを姉が病室に備え付けてくれた。個室だったこともあり、時間と曜日が決められていたが、何度か父の顔を見て電話で話すことができた。

 顔を見るたび、父がやさしく、おだやかに、そして元気になっていることを嬉しく思いながら、私は私の生活を楽しんでいた。

 パリにはパリならではの悩みもある。

 水道水がかなり硬水で、カルキの含有量も多くて、髪の毛が日本にいたときよりも、確実に痛んでいくのがよく分かる。

 それから、レジでお会計をするのにやたら並ぶこと。洋服を買ったりすると、本当に行列にならばないとお会計もできないこと。たまにフランス語が未だに通じなくて困ること。病院での待ち時間が長いこと。

 そんな毎日の些細な出来事で悩める自分が、ちょっと愛しくもあった。

 日本にいた私は、そんなことに悩んだり怒ったりする余裕もなかった。日本で最後に洋服を買ったのはいつだろうか、とさえ思うほどだ。本当に仕事と体を癒すことしか考えられない毎日だったと思う。

 そう思うと、今の私はなんて人間らしい生活をしているのだろうかとしみじみ思う。

 ある日、エレベーターに貼り紙がしてあった。フランス語で書かれたその紙には“今晩は私の誕生日パーティですので、うるさくしますが許してください。今日だけは多めにみてね”と書かれていた。五階に住む人のようだ。

 確かにその日は本当にうるさくて、多分マンション全体がディスコにでもなったかのような気さえした。貼り紙がしてあったからなのか、苦情を言った人もなかったようだ。

 その晩、私は耳栓をしてみたけれど、下の階から響いてくる人々の動作の音と、かすかに聞こえる音楽が耳障りで、結局あまり眠れなかった。

 日本だったら、貼り紙そのものに苦情を言われて、騒ぐどころか、きっと誰かのいたずらと思われて、パーティもろくにできないのかもしれない。よくマンションの掲示板に連絡事項とか注意事項が貼ってあって、ゴミはきちんと分別を、とか、宅配ボックスは共用ですので早めに荷物を出してくださいとか書いてあったと思う。パーティやります、と書いているのはこれまで見たためしがない。

 五階に住む女の子のパーティが終わり、太陽が東から昇ってきたとき、日本からの電話が鳴った。

母だった。

 母は電話の向こう側から、お父さんの意識がなくなりそうで、危篤状態ぎりぎりのところになってしまったの、と冷静に、でもやさしく落ち着いた声で私に伝えた。

 意識があるうちに、お父さんに会いに帰ってきて。

 と、母は私に言った。

 言われなくてもそうするつもりだった。

 父が無事に回復してくれることを、パリからずっと祈っていたのに、それは届かなかったようだ。私の些細な毎日の悩みの中に、父の病気が重くなることは正直入っていなかった。少しだけ予想外の展開だと思った。

 でも今の私は冷静だった。

 さっそくインターネットで航空券を探して購入した。休みが取れるかどうかは関係ないと思っていた。実際前回帰国したときも、社長が理解のある人で、家族のそばにいるべきだとすすんで日本に帰してくれた。

 きとく、という言葉を耳にして、一瞬、父と時間を過ごすのが、これが最後のチャンスになるかもしれないという考えが頭をよぎった。

 月曜日に会社に行って事情を説明すれば、火曜、水曜で私が留守の間の対応を決めて、水曜日の夜のフライトで帰れそうだと思った。

 最終的に社長から、ゆっくり帰ってお父さんとの時間を大切にしなさいと言われ、私は約十日間の休みをもらうことができた。

 多分日本にいた頃の私は、自分の仕事と自分の体のことでいっぱいで、父が危篤状態だと聞いても、どうしていいか分からず一人で泣いていただろうと思う。あの頃は自分が生きることが最優先だった。それで手一杯だった。

 でも今の私はこうやって家族のことだとか、自分の人生のこととかを考える余裕ができた。パリにきて初めて、自分自身が生きていることが実感できるようになったと思う。

 あっという間に水曜日が来て、私は東京へ向かう飛行機に飛び乗った。

 父がフランスという国に足を踏み入れたことは一度もない。せめてパリの風景、私が見たり聞いたりしているこの街の香りや息使いを届けたいと心から思った。

 小さな空き瓶に、パリの香りを詰めることにした。

 パリには色んな香りがあると思う。市場の香り。野菜や果物が放つ香り。青臭かったり、まぶしいほどさわやかな香りだったりする香り。チョコレートの甘い匂い。車の排気ガスの匂い。地下鉄のちょっとこもった空気の匂い。大聖堂の中の、ちょっとひんやりとした匂いに、古代の香りがする美術館の匂いも悪くない。

 でも、私がパリの香りで一番好きな香りは焼きたてのパンが立てる、あまくて香ばしくて、やさしい香りだった。

 街の香り、と家の前で小さな空き瓶にパリの空気を詰めてみる。

 そして、空港に乗る前に、バゲットコンクールで優勝をしたこともあるパン屋で、焼きたてのバゲットを買った。父が物を食べられる状態にないことを、私は知っていた。

 それでも、私の大好きな香りを父に届けたかった。

 バゲットは紙の袋に入れて持ち帰ることにした。

 日本にいた頃の私は、生活の毎日に香りが生きていることを知らなかった。知らなかったというよりは気づいていなかったのだと思う。きっと日本のパン屋だって、いい香りのするバゲットを焼いていたのかもしれないと思う。もしかすると、当たり前すぎて、パンの焼ける香りを大切に思ったことすらなかったのかもしれない。

 今の私だからこそ、こうやって毎日を大切にできるのだと思う。 

 シャルルドゴールド空港までは友人が車で送ってくれた。

 私のスーツケースには着替えが数日分と、空気を詰めた瓶だけが入っていた。

 パリと日本は本当に近いと思う。

 距離とか時間にすると、韓国や台湾、香港に負けてしまうが、日本とパリを結ぶ飛行機は毎日何本も出ている。私が予約したフライトは夜二十三時にパリを出て、翌日の十八時、つまり夜には日本につくことができるフライトだ。

 会社勤めだった頃、日本を夜二十二時前後に出て、明け方のパリへ着くフライトで何度か出張したこともある。この飛行機だと、まるで夜行バスに乗った感覚でパリに行くことができるのだ。夜、成田から飛行機に乗って、目が覚めたらパリの空港に着くのだから。

 先月の飛行機は大学生くらいの卒業旅行と思われる若い人が大勢乗っていた飛行機だったけれど、4月の飛行機は仕事帰りか、休みをとって旅をしている人たちが乗っていた。

 エコノミーの細いシートに身をゆだねながら私は眠った。

 父に待っていてね、と祈りながら、ただひたすら眠った。

 目が覚めたら、私は日本に着いているのだ。


<続>

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