32 朝のくつろぎ
そっと目が覚めた。一呼吸すると『ヴァルム亭』の落ち着く香りがした。
背にすっかり馴染んだ寝床から起きれば、全身の疲れが抜けた爽やかさだ。
「んん――ふぅ……」
背筋を伸ばすと凝りの感触がぐりっと気持ちよく解れた。
顎に手を添えて頭の重さを預け倒す――首の内側がぼきぼき弾けて軽くなる。
反対側にも倒せばぼきばき骨がねじれた、つまりが取れたようで気持ちいい。
組んだ両手も掲げてぐっと伸ばして左右に踊る、硬さがほぐれて疲れが抜けた。
「ん……♡ おはよう……?」
こうして気持ちよく朝を迎えていると、そばでぴくっと犬の耳が立つ。
まどろみの中をぼんやり彷徨うニクがいた、よだれが垂れてる。
PDAを確かめれば――午前の六時過ぎか。
そこで思い出した、今日はパン屋の仕事を新人たちに回してお休みだ。
「……今日は仕事入ってないから、ちょっとゆっくりしないか?」
よって寝床に舞い戻った。
上質じゃないが清潔さだけは保証されてるベッドがいつにもなく気持ちいい。
「ん……いいよ? おさんぽは……?」
「もちろんいくぞ、今日は少し多めにやろう。よしよし」
枕を共にする犬の相棒はうとうとじっとり俺を見てる。撫でてやった。
手のひら一杯に犬と人の中間的な柔らかさをなぞると、起き上がりそうだったわん娘はにへっと緩んで。
「んへ……♡ 気持ちいい……♡」
とろけにとろけてジト目も細まり、またすうすう寝息が漏れた。
つられて眠気を感じた。頬をもちもちしてから解れたばかりの身体を預ける。
「……こっちの暮らしにすっかり慣れたな、俺とお前も」
「……ご主人とのんびりー……♡」
目の前で安らぐわん娘を見れば、この世界がどれだけ平和なのか良く分かる。
パン屋の仕事や臨時収入などもあってすっかり暮らしも落ち着いて、週に二日はぐだぐだできる余裕がある。
世紀末世界にいた頃の暮らしとはえらい違いだ。
武器を握り気を張り敵をぶち殺す日々とは真逆でのんびり過ごしてる。
稼ぐのに必死だった気持ちさえ、二度寝を決めるほど緩んでるのだ。
「……戦い続けて半年か、そういえば」
ウェイストランドで過ごした半年ほどはひたすら戦う毎日だったな。
敵をことごとくぶっ殺して、実戦を重ねに重ねて俺は今の自分を作り上げた。
ちょっとやそっとなまけたぐらいじゃ削ぎ落ちないほどの戦いの技術がここに染みついてる。
もちろんその背景には頼れる相棒たちがいてこそだ――あいつら今頃こんな風にのんびりしてるのかな?
*ぴこん*
また浅い眠りにつこうとしているとメッセージの着信を感じた。
誰だ妨げるものは。脳にぼんやり霧がかかりつつチャット欄を立ち上げると。
【おはよういちクン。もう起きてるかな?】
いつもどおりのミコからのお言葉だった。
生活リズムを把握してるんだろう、こんなお目覚めのやり取りが日課だ。
ちなみにあいつはいつも朝早く起きて、みんなのために朝ごはんを作ってるらしい――まるでお母さん。
【二度寝するとこだった】
少し考えた後、見事にすやぁ、とやってるニクの写真つきでそう送った。
【ニクちゃんぐっすりだねー……よだれがじゅるりしちゃってる……】
【いつも周りに気を張ってくれてるからな。これくらいぐっすり休んでくれた方が安心できる】
【ふふっ、そうだね? 今日もパン屋でお仕事?】
【今日はごらんのとおりお休みだ。そっちは?】
【わたしたちは朝ごはん食べてお仕事の準備中だよ。エルさんが商業ギルドの人達の頼みで調査しに行くって】
【そりゃご苦労なことで。何調査するんだ?】
【半年ぐらい前、郊外に突然現れた遺跡が気になるから調べてほしいっていうんだけど……たぶん、転移してきたものだと思うの】
【なるほど、俺が絡んでるやつか。だったらそうだな、ストレンジャーの手を借りたいってときは遠慮なく呼んでくれ】
【うん。お願いしてもいいかな?】
【当たり前だ相棒。1分で支度してそっち向かってやるよ】
どうもミコたちは今日もお仕事らしい。
しかし「突然現れた遺跡」か。言葉の感触からして転移物の感じがする。
どうであれストレンジャーが必要なら駆けつけてやるさ、そう伝えると――
【ふふっ、いちクンは頼もしいなあ♡ 何かあったら連絡するね? それから】
そうメッセージが流れたところで不意に画像が送られてくる。
【今朝のお風呂上がりです♡ 次会うまでこれで我慢してね?】
おそらくどっかの脱衣所、暖かく湯気が立つ桃色髪のお姉さんがいた。
手で目元を隠しながら熱のこもった笑顔を作ってる。
更にもっちり重たそうな白肌ボディを片手で隠し、隠し切れない大きな胸の形を指数本が遮ってた。
僅かに映る下半身はぶっとい太もも(以後ぶとももと命ずる)がいっぱいで、白くひらひらな紐パンが隠れて――エロ自撮りだこれ。
「またかよ……」
最近はいつもこうだ、今や隙あらばきわどい写真を送ってくる。
まるで届くたびに自撮り機能の扱い方が洗練されてる気がする。
最初はけっこうドキドキした、性的な意味で。
しかし最近はこれがミコの性欲が積み重なる証に思えてきて、別の意味でドキドキしてる――つまり俺がやばいってことだ。
【毎度こういうのなんで送って来るのって聞いたら怒る?】
【……これで十枚目だね♡】
【なんのカウントだ!?】
近頃の相棒はプライベートだと性欲全開だ、極めて生命に対する危機を感じる。
うすら迫る恐怖に眠気もかき消されてしまったが。
【くふふ♡ お母さんですよー♡ イチ君ちゃんと起きてるかしら? 先生は今からお仕事です♡】
またなんか来た、シズク先生が画像を送ってきてる。
鏡の前でやるタイプの自撮りで、鮮やかな赤髪の女性が布面積少なめの黒下着姿で長身をアピールしてる。
ずっしり重たげな胸やら尻やらをなまめかしく強調した上で、舌なめずりした大人の表情が狐の尻尾もろとも――エロ自撮りだこれ。
「……いやあんたもかよ!?」
二度目の自撮りはともかく、向こうはなんか勝手にママを名乗ってやがる。
ママみとエロの押し付けは果たして共存していいんだろうか。
【おはようございます、いい朝ですね! 今日は仕事お休みです!】
何も見なかったことにして元気に返した。
どう返せっていうんだ馬鹿野郎、こちとら二度寝気味で飯もまだなんだぞ。
【あらあら♡ 元気なお返事ねー♡ また遊びに来てくれるのを待ってるわ、いつでもいらっしゃい♡】
どうにか自撮りとママの押し売りコンボからの言及は避けられたみたいだ。
くそっ、エロ自撮りを朝から二度押し付けられるとかもはや災難だ。
【イチ様ぁ♡ ミコ様とラブホいったらしいっすねえ♡ うちも行きたいっす~♡】
と思ったらロアベアからも着信が――畜生! エロ自撮りだ!!
屋敷のお部屋を丸ごと使って、太ももが乗っかる黒ニーソだけのメイドボディがブリムつきの生首を抱きかかえてる。
腕と生首でも隠し切れない柔らかむっちりさだが、被写体はもう一人いた。
布面積が危ないドレスから太ももの付け根ぎりぎりを晒し、見えかけの胸をどんと持ち上げくすっと笑うリム様大人バージョンだ。
「なにやってんだよお前ら」
見計らったかのようにとんでもないもん送りやがったこの野郎。
俺のPDAは不正なアクセスによって監視されてるんじゃないのかと疑った。
というかなんでラブホの件知ってんだ!? エロ自撮りよりもそっちが重要だ!
【オーケー、とりあえず被写体については置いといてなんでそのこと知ってる?】
【この街ってリーゼル様たちによって監視されてるんすよねえ。それでイチ様がミコ様連れてどこかにお出かけになられたんで、調べに行ったらうちの友達のいるラブホだったっす!】
よくわかった、素行がバレてるしロアベアの友達いやがったぞあのホテル。
【弁明させてもらうけどパフェ食べれるってうきうきしながらついてったらパフェ食べれるラブホでした】
【イチ様らしいっすねえ。ミコ様それ見越して連れてったんじゃないっすかね】
【騙しやがったなあの野郎!!!】
【じゃあ今度うちとパフェ食べに行くっすよ!】
【チェンジで】
【そんな~ あっこれ今日の自撮りっす、どうかお納めくださいっす】
【頼んだ覚えない上に隣の芋はなんだ】
【予告状みたいなもんすねえ。ちなみに撮影はクロナ先輩っすよ】
【何やってんだお前の先輩!?】
こんなにうれしくない朝自撮りは初めてだ。
朝からカロリー過多だ。自撮りは送られるわママできてるわラブホバレるわ屋敷変だわで眠る隙も埋まった。
ウェイストランドにいた頃より女性陣に貪られてる気がする、悪夢だ。
【単眼美少女コンプした朝の一コマ】
と思ったら今度はタカアキからもきた。
言葉をそれだけ添えて、ベッド周りを単眼美少女フィギュア一個分隊相当に囲まれたサングラス顔の王者がいい顔で人生の絶頂期を振りまいてる。
とりあえずもう眠気も吹っ飛んだ。ニクをそっとしたまま部屋を飛び出て。
「おいタカアキ」
恐らくハーレムを営んでいるであろう幼馴染の寝床をノックした。
すると案の定どたどたと足音がして。
「お、どした? 単眼美少女気に入ったんか?」
寝巻にサングラス姿の被写体がいい顔でやってきた、何やってんだ馬鹿野郎。
「人が悩んでるときにトドメ刺すような真似しないでくれ……」
「マジで今朝からどしたん……? 話聞こうか? やな夢でも見た?」
「まずさっきエロ自撮り三人連続で送られた」
「お? 朝から自慢か? 単眼の子いる?」
「いねえよ。それと俺にママができた」
「朝いきなりママができたって何があったんだよお前」
「あと近いうちに俺死ぬかも……」
「マジでどしたん? ミコちゃんとラブホいったの知り合いにバレた?」
「なんで知ったような口を叩けるのか今すぐ答えてくれ」
「いやロアベアちゃんが教えてくれたから。ところでラブホって一人で使えるらしいけどマジ? それなら俺も行ってみたいんだけど」
「ロアベアァ!! あの野郎何してやがる!?」
だらだらする休日は終わりだ、朝から情報量が多すぎるんだよ!!
幼馴染に単眼美少女まみれの理想郷に退散させながら戻ろうとすると。
「おはよーございます☆ ふふふー、朝から元気ですねイチ君は!」
ばぁんとドアが開いて元気いっぱい、今日も一日なんでもやりそうな球体関節系のヒロインが現れた。
大き目な胸をドレス風衣装にばいんばいんさせつつ、長い水色髪を整えたアグレッシブお姫様は今日も目がキラキラしてる。
リスティアナのダイナミック起床だ、これでもうゆったりはできないだろう。
「……ん……おはよ……」
「ニクちゃんもおはよーございます! みんなで朝ごはん一緒に食べに行きませんかー?」
「今日はイチと一緒にぐだぐだするつもりだったけどまあいっか、お兄さんも付き合うぜ」
あまりの元気ぶりに部屋からニクがのろのろたたき起こされてる。
まあいいか。その底なしの元気で朝の自撮り三連をかき消してくれ。
「あー……うん……おはようリスティアナ、朝飯ならトウマさんとこの朝定食がいい」
「和食ですね! 私大好きですっ! って、どうしたんですかー? 朝からお悩みなような顔してますけれど……?」
「そこまで察してくれてどうも、でもお互いのためにお気になさらず」
「えー、私気になっちゃいますよー?」
「知らぬが仏の一例だ、ノータッチだいいな? 待ってろ着替えてくる」
「やっぱ朝飯はあの食堂だよな。今日何食うよ、俺朝からがっつり食いてえ」
「こっちはシンプルな卵焼き定食な気分。もちろんご飯は大盛だ」
この元気なお姫様のいいところは無邪気で人畜無害な様子だ、今のところは。
二度寝を忘れて準備をしにいった――今日は和食だ。
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