4.王女はぼやく
「フローラ、やっぱりここにいたのか」
柔らかな笑みを浮かべて東屋に姿を見せたのは、フローラと同じ亜麻色の髪と翡翠の瞳の青年、フェルベルク王国王太子ルーカスである。
「あら、お兄様」
妄想から引き戻され、フローラはパチクリと目を瞬かせる。
エルナが座っていたのとは反対側の椅子に腰掛けながら、ルーカスは、フローラの纏う空色のドレスに目を留めた。
「可愛いフローラ、今日は陽射しもあって暖かいけれど、そんなに肩を出していては冷えてしまうよ」
「あら、このくらい平気よ。それより、どう? 大人っぽく見えるかしら?」
「そうだね、フローラは今日もとても可愛らしいよ」
普段、令嬢達に笑顔は振り撒いてもお世辞はめったに口にしないルーカスだが、妹に対してだけは褒め言葉を惜しまないというのは、社交界ではわりと知られた話である。
どちらかと言うと気の強い、ハキハキした性格の姉を3人持つルーカスは、5歳離れた妹をそれはそれは可愛がっていた。ちなみに、フローラを可愛がっているのはルーカスだけでなく、すでに他国に嫁いだ3人の姉と、彼らの両親も同様である。一家揃って末の王女を溺愛しているというのは、社交界どころか一般市民の間にまで、王家の微笑ましいエピソードとして知られていた。
兄からの褒め言葉に、フローラはやや気落ちしたように溜息をこぼした。
「お兄様に褒めて頂くのは嬉しいのだけど……どうせなら、『可愛い』ではなく『綺麗』と言われたかったわ。わたくし、もう15歳なのよ?」
フローラのぼやきに、ルーカスは思わずといった様子で苦笑を洩らす。
「そうか、それはごめんよ。でもね、僕にとってフローラは、幾つになっても可愛い妹なんだ。そして僕は、可愛い妹が風邪をひきはしないかと心配だよ」
「もう、お兄様ったらすぐそうやって子ども扱いなさるんだから……。でもそうね、今はまだ何か羽織っておこうかしら」
フローラがそう言い終えると同時に、エルナがベージュのショールをフローラの肩にふわりと掛けた。
「仕事が早いね。エルナはフローラのお茶に付き合っていたのだろう? 僕に遠慮せず、給仕を終えたら席に戻るといいよ」
「畏れ多いことでございます」
エルナの返答には一切の躊躇いがない。エルナは、王太子から話しかけられたというのに頬を染めることもなく、流れるような手つきでティーカップに紅茶を注ぐと、静かにルーカスの前に置いた。
「あれ、悲しいなぁ。エルナは、フローラの誘いは受けるのに、僕の誘いには応じてくれないの?」
悲しいという言葉とは裏腹に、エルナを見つめるルーカスの表情はどこか楽しげだ。エルナは形の良い眉をほんの一瞬だけ寄せると、「謹んでお受けいたします」と優雅に一礼して元の席についた。
ルーカスとエルナのやり取りを横で見ていたフローラは、自然と頬を緩ませた。どの令嬢に対しても紳士的に接するルーカスが、このように冗談を言う相手はエルナだけなのだ。もちろん、他の侍女相手にも軽口を叩いたりはしない。兄がエルナをどう思っているのか訊いたことはないし、「エルナを王太子妃に」というフローラの妄想はエルナ当人には全く相手にされなかったが、まんざらあり得ない話でもないのでは、と思っているのである。
ルーカスは満足げに微笑むと、再び妹へ顔を向けた。
「ところでフローラ、地理の授業をサボっただろう。先生が嘆いていたよ。姫様は地理だけ不真面目だって」
フローラは途端に笑みを引っ込め、眉を下げた。
「わたくし、どうにも地理のお勉強が苦手で……。ちっとも面白さがわからないの」
「まぁ、今日はユリウスが帰って来る日だし、先生も特別に大目に見て下さるだろうけど。それにしても、外国語の勉強は得意なのにねぇ。もう隣接三国の言葉はそれなりに使えるんだろう?」
「と言っても、簡単な読み書きと日常会話くらいだけれど。外国語のお勉強はとっても楽しいわ!」
フェルベルク王国は、大陸の内陸部に位置する中堅国である。国土の3分の1を山地が占めるこの国は、かつては目立った産業もない小国だったが、およそ30年前に良質なアクアマリンの鉱脈が発見されてからは、人々の暮らしも徐々に豊かになりつつある。
そんなフェルベルク王国は、3つの国と国境を接している。隣接三国と呼ばれるこれらの国々はいずれもフェルベルク王国と同規模の中堅国であり、長年にわたり友好関係を結んでいる。近年においても、フローラの3人の姉達がそれぞれ隣接三国の王族に嫁ぎ、その関係を磐石とするのに一役買っていた。
今回のユリウスの留学先であるアシャール王国は、フェルベルク王国の西の隣国の、さらに西方に位置する大国である。
フローラは、将来自分が外交官の妻になるのだと認識して以来、積極的に外国語の習得に取り組んできた。ユリウスが外国に留学するのに合わせて、フローラもその国の言葉を学ぶ、といった具合である。幸いにも、才能があったのか楽しむ姿勢が良かったのか、語学の天才と称されるユリウスには及ばないものの、フローラも順調に周辺国の言語を習得しつつあった。
「ユリウスが留学してから、アシャール語の勉強も始めたのよ! ユリウスが帰ってきたら、アシャール語で話しかけて驚かせようと思っているの」
フローラは楽しげに語り、再び視線を庭園の向こうの廊下に移した。
「ユリウスは今日の昼頃には帰国する予定と聞いているよ。帰国したらすぐに、国王陛下に帰国の報告をしに来ると言っていたけど……まだ来ない?」
「ええ、まだなの」
謁見の間へと通じる廊下を見つめたまま、やや気落ちした声でフローラが答える。
「心配しなくても、もう直に来るさ。父上との謁見が済んだら、可愛い婚約者に会いに来るはずだよ」
くるくると表情を変えるフローラに小さく微笑んでから、ルーカスは不意に目を細めた。口元には微笑をたたえたままだが、目は笑っていない。
「それはそうと、ユリウスと言えば、さっき不穏な言葉が聞こえた気がするけど? 婚約破棄するとかなんとか」
途端に、フローラは悪戯が見付かった子どものように肩を縮こまらせた。