『綺麗』と言われたい王女と『可愛い』と言いたい婚約者(3)
夕涼みの夜会は定刻に始まった。
事前の申し合わせのとおり、フローラはカミロのエスコートでホールに入場した。
カミロは楽しそうな笑顔を絶やさず、そのエスコートも十分にスマートなものだったが、フローラはどうにも落ち着かない気分だった。
(あのとき……ロズリーヌさんをエスコートするユリウスを見たときも落ち着かない気持ちになったけれど……今の方がもっと落ち着かないわ……!)
一段高く設けられた王族席から会場を見渡し、黒髪の長身を探す。普段どおり一人で参加しているユリウスの姿はすぐに見つかった。
見つかると同時に、アイスブルーの瞳と目が合う。けれど、社交用の微笑を浮かべるユリウスの内心はうかがえない。
(早くダンスの時間にならないかしら……)
歓談の間、フローラは王族席を自由に離れることができない。けれどダンスの時間になれば、王族席から降りて行ってユリウスと踊ることができる。落ち着かない気持ちでいることを、一刻も早くユリウスに伝えたかった。
やがて楽団がワルツを奏で始め、ダンスの時間の到来を告げた。
さっそくダンスに向かおうとしたフローラだったが――。
「フローラ姫、僕と踊っていただけますか?」
カミロが甘やかな笑みで手を差し出してくる。
(やっぱり、そうなるわよね……)
溜息を笑顔の下に押し隠し、フローラは「喜んで」とカミロの手を取った。
カミロがファーストダンスを申し込んでくるだろうということは予想できていたし、その場合には受けるということも事前にルーカスと打ち合わせ済みだ。おそらくルーカスを通じてユリウスにも伝わっているだろう。
普段、王宮で行われる夜会では、フローラはまず兄ルーカスと、続いて婚約者ユリウスと踊るのが常だった。慣れない状況にまたもや落ち着かない気分になるが、もちろん顔には出さず、カミロと踊り始める。
カミロはさすが一国の王子だけあって、ダンスの技量もなかなかのものだった。そつなくフローラをリードしながら、会話を交わす余裕まである。
踊りながら、
「昼間のフローラ姫もとても素敵だったけど、ドレスアップした姿はますますお綺麗ですね」
などと、フローラへ賛辞を送ることも怠らない。今度はフローラも、
「ありがとう。カミロ様はお世辞がお上手ね」
と微笑みを返すことができた。昼間は不意打ちをくらって動揺してしまったが、心の準備ができている今は、落ち着いて対応することができる。
(綺麗と言われればもちろん嬉しいのだけど……思っていたのとは少し違ったみたい。それにわたくしはやっぱり……)
くるりとターンしながら、壁際にこっそり視線を走らせる。ユリウスとほんの一瞬目が合ったような気がしたが、すぐに視界から消えてしまう。
「お世辞じゃないんだけどなぁ」
拗ねたような声に顔を上げると、眉を下げたカミロがフローラを見つめていた。
うっ、と返答に詰まっている間に一曲目が終わる。
礼をして離れようとしたフローラの手をぎゅっと握り、カミロがにこりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねぇフローラ姫、もう一曲いいでしょう?」
「えっ」
ぐいと手を引かれ、そのまま二曲目のステップになだれ込む。
(同じ相手と続けて二回踊るのは……)
その相手と親しいことを周囲にアピールする意味合いがある。フェルベルクとエルモソーラとの友好関係を示す効果がないわけではないが――。
(ユリウスとだって二回続けて踊ったことはないのに……)
焦るような泣きたいような気持ちにかられながら、ターンの合間にユリウスを目で追う。こちらに向けられたアイスブルーの瞳が、いつも以上に冷え冷えとして見えた。
珍しい王女の行動に、周囲の者達からもちらちらと視線が寄せられている。
そのことに気づいてしまい、フローラはいたたまれない気持ちになる。カミロの顔を見ることもできず、ひたすらカミロの服のボタンばかり見つめながら二曲目を踊った。
そうしてようやく二曲目が終わっても、カミロはフローラの手を離そうとしなかった。
嫌な予感に、笑顔が引きつりそうになる。
三曲続けて踊るのは、相手が婚約者か配偶者の場合だけだ。カミロと踊るのはありえない。
カミロが甘い笑みを浮かべて口を開こうとしたときだった。
「失礼致します。フローラ王女殿下、次は私と踊っていただけませんか?」
静かに、けれど決然と割り込んできた声に、フローラは小さく肩を震わせた。
「ユリウス!」
振り向けば、ユリウスが恭しく手を差し出している。その手を取り、フローラはホッと表情を弛めた。
ユリウスはそのままフローラの腰を引き寄せ、その顔に整った微笑を乗せてカミロに向き直った。
「カミロ殿下、貴国と我が国との友好関係をお示しいただき感謝申し上げます。我が国のご令嬢方も殿下とのダンスを心待ちにしておりますので、お疲れでなければお相手いただけますとありがたく存じます」
カミロはほんの一瞬、不愉快そうに片眉を上げてユリウスを見たが、すぐに笑みを浮かべ、「フローラ姫、楽しい時間をありがとう」と言い残してダンスの輪から抜けて行った。
フローラとユリウスは顔を見合わせ、揃ってほぅと息をつく。
そのまま、どちらともなく自然に、音楽に合わせてゆるやかにステップを踏み始めた。
しばらく無言で、楽団の音色とユリウスのリードに身を委ねる。身長差で言えば、より背丈の近いカミロとの方が踊りやすそうなものなのに、身に馴染んだユリウスとのダンスは誰と踊るよりも心地よい。
「ありがとう、助けに来てくれて」
すっかり肩の力も抜けた頃、ゆったりとステップを踏みながらお礼を言えば、ユリウスも表情を和らげた。
「フローラ様がお困りのようでしたので。……というのもありますが……私も、その、嫌だったので」
そう言うユリウスの目元はほんのりと赤らんでいて、フローラは小さく目を瞠る。
(もしかして、焼きもちをやいてくれていたの……?)
そう気づいた途端、フローラは顔に熱が集まるのを感じる。
「あのね、わたくしも、ずっと落ち着かない気持ちでいたのよ?」
「ええ、わかっています。ですが……。フローラ様、もしもお疲れでなければ、お願いがあるのですが」
ますます目元を赤くし、ユリウスは眉間に皺を寄せる。
「このまま私と、三曲続けて踊っていただけませんか?」
ぱちくりと目を瞬いてから、フローラは顔いっぱいの笑顔でうなずいた。
「もちろん!」
*
三曲続けて踊り切った後、フローラはユリウスに手を引かれてテラスへと移動した。
休憩を取るためと、人々の目から逃れるためである。カミロと二曲続けて踊った後、それに対抗するように三曲踊ったフローラ達に対しては、周囲から驚きと微笑ましさの混じった視線が向けられていた。
テラスに向かう途中、まだ兄と踊っていないことに気付いたが、慌ててルーカスの方を見ると笑顔で手を振っていたので、きっと問題はないだろう。
「さすがに少し疲れたわね」
言いながらテラスに設置されたベンチに腰を下ろす。ユリウスが今更ながら申し訳なさそうに眉を下げたので、「大丈夫よ」と笑顔で応えた。
カミロと踊ったのと合わせると、五曲連続で踊ったことになる。さすがに疲労感は否めないが、それよりも心地よい高揚感が勝っていた。
ユリウスが貰ってきてくれたぶどうジュースに口をつけ、ようやく一息つく。
「楽しかったわね。一時はどうなることかと思ったけれど……」
星空を見上げながら言うと、隣に腰掛けたユリウスもまた、同じ空を見上げて「ええ」とうなずいた。夜の涼しい風が頬を撫でる。
「それに嬉しかったわ。ユリウスがその……焼きもちをやいてくれて」
ドキドキしながら思い切って言うと、ユリウスはグラスを持ったまま動きを止めた。
「……それは、フローラ様のあんな顔を見せられてしまっては……」
ユリウスの口調はいつもどおり落ち着いているが、どことなく悔しげだ。
あんな顔……というのは、東屋でカミロから「綺麗」と言われたときの表情を指しているのだろう。あのとき以外は、ちゃんと取り繕えていたはずだ。
「あ、あれはびっくりして……。その、嬉しい気持ちがあったことは否定しないけれど、でもわたくしはやっぱり……」
言葉を切り、そっと息を吐く。
「わたくしが二十歳くらいになったら……ユリウスにも言ってもらえるのかしら」
呟くような声に、ユリウスがハッとこちらを振り向く気配があった。顔が赤いのを自覚しながら、おずおずとユリウスの方に首を巡らせる。
ユリウスはわずかに見開いていたアイスブルーの瞳を、すっと細めた。
「フローラ様がお望みなら、今すぐにでも」
「えっ」
予想外の答えに、フローラは目を丸くする。ユリウスはフローラの前で表情をほとんど変えない上に、口数も少ない。例の婚約破棄騒動後は、それ以前に比べれば自分の気持ちを口に出すようになったが、それでも甘い言葉を囁かれたことはない。
「ユリウス、もしかして酔ってる?」
ユリウスが持つグラスにちらりと目をやる。フローラと同じぶどうジュースとばかり思っていたが、実はワインなのかもしれない。ところがユリウスは、
「いえ、これはフローラ様と同じくぶどうジュースですので」
と、怪訝そうに眉を寄せる。
「じ、じゃあ試しに言ってみてもらおうかしら?」
半信半疑で挑むように言えば、ユリウスは無言でうなずき、グラスを置いてフローラの前にひざまずいた。フローラの手を取り、じっとフローラを見上げる。
「フローラ様、お綺麗です、とても」
薄く形の良い唇がそっと手の甲に触れ、離れていく。涼やかなアイスブルーの瞳がフローラを映した。
頬を真っ赤に染め上げ、フローラは言葉を失う。
綺麗だと言われることにずっと憧れていた。
その言葉を好きな人から言われるのがこんなに嬉しいことだなんて、思ってもいなかった。
感動でぷるぷると震えるフローラを目にしたユリウスの眉間に、不意に皺が刻まれた。はぁ……と困ったような吐息が漏れる。
「……フローラ様、そんなに可愛らしい反応をなさらないで下さい……」
「かっ……」
聞き捨てならない言葉に、フローラは我に返る。
「や、やっぱりわたくしは『綺麗』ではなく『可愛い』なのね……」
お世辞を言われて舞い上がってしまったことに気付き、しょんぼりとうなだれる。
するとユリウスは、珍しく慌てた様子で「いえ」と否定した。フローラの手を握ったまま、隣に座り直す。
「お綺麗だと言ったのも本当の気持ちです。ただ……それ以上に、フローラ様は私にとって、その、可愛らしい方なので……」
隣を見上げれば、先ほどまでの涼しげな顔と打って変わって、ユリウスの目元は赤く染まっている。
ぱちくりと目を瞬き、フローラはおずおずと問いかける。
「……わたくしが二十歳になっても、やっぱり『可愛い』なの?」
「可愛いです」
目元を赤くしたまま、ユリウスが囁くように答える。
「では三十歳になっても?」
「もちろん」
「四十歳になっても? もしかしたら太ってしまうかも」
「それでも」
「……わたくしが、しわしわのお婆ちゃんになってしまっても?」
「フローラ様がおいくつになっても、どんなお姿になられても変わりません」
大きく温かな手が、宝物を扱うようにフローラの両手を包み込む。
アイスブルーの瞳は、温かな光を宿してフローラを映す。
「私が可愛いと思う女性は、生涯ただ一人、フローラ様だけですから」
フローラは息をのみ、瞬きも忘れてその瞳を見つめ返した。
(ユリウスの言う『可愛い』って……)
家族を含め、幾度となく言われてきた『可愛い』の言葉。そのどれとも違う。同じ言葉なのに、ユリウスの口から紡がれるとき、それは違う意味になるのだということにフローラは気付く。
胸がいっぱいで、うまく言葉にならない。
潤んだ目で見つめれば、目元を和らげユリウスがうなずく。溢れる想いそのままに、フローラは「わたくしも」と微笑んだ。
これにて後日譚はおしまいです。
最後までお読み頂きありがとうございました!




