『綺麗』と言われたい王女と『可愛い』と言いたい婚約者(2)
一行は王宮の建物内部を一通りめぐった後、庭園を散策し、フローラお気に入りの東屋で休憩を取ることになった。
エルナが給仕の準備を整えるのを待ちながら、フローラはルーカス、カミロと共に円卓につく。ごく当然のように隣に腰掛けたカミロに、フローラは遠慮して立ったままのユリウスを示した。
「殿下、彼もご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか? ユリウスはわたくしの婚約者ですの」
言うとカミロは、初めて興味を持ったかのようにユリウスに目を向けた。
「ああ、あなたがフローラ姫の。へえ……」
口元には笑みが浮かんでいるが、その目は値踏みするように眇められている。ユリウスは優雅に一礼すると、表情一つ変えることなくその視線を受け止めた。
そんなユリウスを上から下まで眺めやり、カミロはにこりと整った笑みを浮かべた。
「もちろん構いませんよ。どうぞ、ユリウス殿」
あとはもうユリウスに興味を失ったかのようにフローラに向き直った。
「それよりもフローラ姫、僕達、年も近いのだし、もっと親しくお喋りをしませんか? 僕のことはカミロと呼んでくれたら嬉しいな」
「えぇと……」
夕焼け色に輝く瞳に至近距離で見つめられ、フローラは反射的にちょっぴり上体をのけぞらせる。お姉さんの余裕などすっかりどこかへ行ってしまい、内心たじたじである。
「では……カミロ様?」
「様もいらないんだけどなぁ……」
まぁいいか、と呟いてから、カミロは笑みを深くした。コテン、と可愛らしく首を傾ける。
「ねぇ、フローラ姫。フェルブルクの思い出に、一つお願いがあるんですけど」
「お願い、というと……?」
「今夜の夜会、どうか僕にフローラ姫をエスコートする栄誉をお与え頂けませんか?」
「エスコート!?」
思ってもみなかったお願いに、フローラは思わず声を裏返す。
「あの、でも、わたくしのエスコートはいつもお兄様が……」
助けを求めてルーカスに目をやるが、ルーカスはにこにことした笑みを崩さない。
「フローラがいいなら、いいんじゃない? 僕がエスコートしなければならない決まりはないんだし、カミロ殿下は賓客でいらっしゃる」
想定外に兄から突き放され、フローラは心の中で悲鳴を上げる。
(お、お兄様、どうして助け船を出して下さらないの!? それに、どうしてそんなに楽しそうなのよ!?)
兄には頼れないとわかり、フローラはきりりと表情を引き締めた。
「でも、わたくしには婚約者がおりますので」
「あぁそうか、フローラ姫のエスコートはユリウス殿が務めるご予定なのですね」
「えっ、いえ、そういうわけではないのですけど……」
フローラは途端に口ごもる。
王宮主催の夜会においては、王女であるフローラのエスコートはいつも、同じ王族であるルーカスが務めている。たとえ婚約者であっても、一貴族にすぎないユリウスがフローラをエスコートすることはない。
カミロの目がきらりと輝いた。
「だったら僕にエスコートさせて頂きたいなぁ。構いませんよね、ユリウス殿?」
ユリウスに目を向け、笑顔で小首を傾げる。
ユリウスはほんの一瞬の間の後に、「どうぞ私にはお気遣いなく」と整った微笑で返した。
「ほら、ユリウス殿もいいって。それでも駄目?」
「うぅぅ……」
ルーカスに続きユリウスにまでそう言われてしまっては、フローラはもはや断る言葉を持たない。
(もうっ、ユリウスったら、わたくしが他の殿方のエスコートを受けても構わないというの!? 嫌だ、と一言言ってくれたら……)
もどかしい気持ちでユリウスを睨みかけて、フローラははたと思い至る。
(もしかしたら……あのときのユリウスもこんな気持ちだったのかしら……)
それは今から二ヵ月ほど前のこと。アシャール王国の侯爵令嬢ロズリーヌのエスコートを頼まれている、という話がユリウスから出たとき、フローラはごくあっさりと、「わたくしは構わないわよ」と答えたのだ。
あのとき、ユリウスはどんな表情をしていただろうか。少しの間無言でいて……それから眉間に皺を寄せていたような気がする。
もしかしたらユリウスは、フローラが「嫌だ」と言うのを期待していたのかもしれない。フローラが一言そう言いさえすれば、ユリウスはロズリーヌのエスコートを断ることができたに違いない。というより、ユリウスの立場では他に断る術はなかったはずだ。
今もまた、ユリウスはたとえ「嫌だ」と思っていたとしても、それを言える立場にはない。相手は他国の王族であり、一方のユリウスは、王女の婚約者とはいえ一介の貴族にすぎないのだから。
(だから断るとすれば、わたくし自身がきっぱりと断るしかないと思うのだけど……)
実際には難しい、とカミロの期待に満ちた目を見ながら思う。この状況で断れば、さすがに角が立ちすぎる。エルモソーラとの友好関係に無用な波風を立てることは避けるべきだ。
(そうね……ロズリーヌさんのときだって、アシャールとの力関係を考えれば、結果的には許可するしかなかったはずだわ。許可した上で、本当は他の女性のエスコートなどしてほしくはないのだと、ユリウスにだけ伝えるべきだったのかもしれない……)
実際には、あのときのフローラはまだユリウスへの恋心を自覚しておらず、そんな発想は頭を過ぎりもしなかったわけだが……。
そんなことを思いながら、そっとユリウスに目をやる。アイスブルーの瞳はいつものとおり冷たさを感じさせるほどに凪いでいて、その内心をうかがうことはできない。
(わからなければ聞けばいいのだわ。そして、わたくしの気持ちも伝える。後でちゃんとユリウスとお話するわ。もう、すれ違うのは嫌だもの……)
そう心に決めてから、フローラはカミロにエスコートを受けると返答した。
それからしばらくの間は和やかな歓談が続き、話はエルモソーラの話題に移っていった。
「アリーナお姉様のお元気そうな様子がお聞きできて良かったわ!」
カミロから姉アリーナの近況を聞き、フローラは顔をほころばせた。
アリーナ本人とも時々手紙のやり取りはしているが、普段身近にいる人から聞くと、また印象が違う。カミロの話からは、姉がすっかりエルモソーラに馴染み、着々と次期王妃としての地位を固めつつある様子がうかがえた。夫や他の王族との関係も良好のようだ。
「フローラ姫のことは、いつもアリーナ義姉上からお聞きしていたんです。とっても可愛らしい方だって。だからフローラ姫にお会いするのをとても楽しみにしていたんですよ。でも……やっぱり、聞くと見るとではずいぶん違ってたなぁ」
「えぇと、それはどういう……」
もしや、がっかりさせてしまったのでは、とフローラは少々気まずくなる。アリーナは嫁ぐ前、年の離れた妹をそれはそれは可愛がってくれていた。エルモソーラでも同じ調子で、フローラのことを少々大袈裟に「可愛い」と吹聴していることは容易に想像できた。
するとカミロはフローラの手を取り、いっそう甘やかに微笑んだ。
「フローラ姫がこんな綺麗な方だったなんて」
そう言われ、ちゅっと手の甲に口付けを落とされて、フローラはぴしりと固まった。
(き、きれい……!?)
頭の中でカミロの言った「綺麗」という言葉がこだまのように鳴り響く。
(今、わたくし……綺麗って言われたの……!?)
『綺麗』。
それはもう長い間、フローラの中で「言われてみたい誉め言葉第一位」の座に君臨し続けている単語である。
フローラは王女ということもあり、お世辞も含め容姿に関して褒められる機会は多い。けれどそのどれもが「可愛い」とか「愛らしい」といったもので、「綺麗」とか「美しい」という褒め言葉とは無縁だった。どうせお世辞なら一度くらい「綺麗」と言われてみたいものだわ……などとフローラは少々不満に思っていたのである。
みるみる頬を紅潮させるフローラに、カミロは楽しそうに瞳をきらめかせた。
「ああ、ごめんなさい、ついこんな陳腐な褒め言葉を。フローラ姫ほどお美しい方なら、言われ慣れてますよね」
「あ、いえ、実は初めて言われて……」
ぽやんと上擦った声で答えると、カミロは大袈裟に目を丸くした。
「ええっ、まさかそんな。フローラ姫の婚約者殿は視力に何か問題が? ああそれとも、難があるのは口の方かな?」
カミロが煽るような笑みをユリウスに向ける。
ユリウスは淡々とした声で「ご心配痛み入ります」とだけ答えたが、その表情を確認する余裕などすっかり失っていたフローラなのだった。
*
その後間もなく、東屋でのお茶会はお開きとなった。
顔を赤くして上の空になってしまったフローラを、ルーカスがすかさず「そろそろ夜会の支度を始める時間じゃないの?」と部屋に戻し、カミロを客間まで案内して、ユリウスとルーカスの二人はルーカスの執務室に戻ってきていた。
翌日カミロを見送るまでの段取りを再確認し終えると、ルーカスがユリウス以外の文官や従者を下がらせた。友人として砕けた話をしようという合図だ。
「それで?」
促されてソファに腰を下ろしながら、ユリウスが水を向ける。
「いやぁ、噂どおりの社交的な王子様だったね。あれで十四歳とは末恐ろしい」
「ああいうのを社交的とは言わないと思いますが」
にこにこと笑顔のルーカスに対し、ユリウスの表情は渋い。
「はは。フローラがいかに可愛らしいとはいえ、さすがに僕も驚いたよ。急に我が国への寄り道を決めたことといい、アリーナ姉上から何か吹き込まれでもしたかな? フローラと婚約者の様子を見てこいとかなんとか……」
ユリウスはわずかに眉間に皺を寄せる。
約二ヵ月前の婚約破棄騒動は、ルーカスの判断により、外部はもちろん双方の両親にも伏せられている。とはいえ、ルーカスは二歳年上のアリーナと仲が良く、個人的に手紙をやり取りしている。例の騒動がルーカスからアリーナにこっそり伝わっているというのは充分に考えられる話だった。
「それにしても、真っ赤になって慌てるフローラも可愛らしかったなぁ。それに引き換えお前はつまらないな。珍しい顔が見られるかと期待したのに」
「……俺で遊ばないでもらえますか」
楽しそうなルーカスに、ユリウスは小さく溜息をついて見せる。
「まぁ、あんな場面でも表情を変えないというのは、お前の強みなんだろうけど。でも、何も言わなくて良かったの?」
ルーカスが翡翠の瞳をきらめかせ、ユリウスの目を覗き込む。ユリウスはアイスブルーの瞳で静かにルーカスを見返した。
「俺の婚約者に気安く触れるな、とでも? たとえ思っても、あの場で口にするわけにはいかないでしょう」
「思ってはいたんだ?」
「当たり前です」
「心配にならない?」
「なりません。エルモソーラにはすでにアリーナ殿下が嫁がれています。フローラ様の婚約者をカミロ殿下にすげ替える政略的な必要性は全くない」
「まぁね。でも、フローラがカミロ殿下に心変わりしてしまったら? うちの両親はフローラに甘いからね。フローラが本気で望めばありえないことではないよ」
「フローラ様はそのような不義理をなさる方ではない」
「うん、まぁそれはそのとおりなんだけど。でもフローラ、『綺麗』と言われてのぼせてたじゃないか。『綺麗』って言われるのに憧れてたからなぁ。なのにお前が言わないもんだから」
「……あなただって言わないでしょう。『可愛い』ばかりで」
「だってさ、本人には悪いけど、フローラはどう見たって『綺麗』より『可愛い』なんだから。……というかお前、フローラに『可愛い』すらろくに言ってないだろう。口下手もほどほどにしないと、今度こそ愛想をつかされても知らないぞ」
少々呆れのこもった目を向けられ、ユリウスは眉間の皺を深くした。わずかに言い淀む。
「……そんなに簡単に言えるわけないでしょう。あなたの言う『可愛い』とは、意味が違うんですから」
しばし真顔で目を瞬いてから、ルーカスは晴れやかな笑みを浮かべた。
「……へえ。それならなおのこと、本人に伝えるべきだと思うけどな」
ユリウスは、ルーカスの笑顔から気まずげに目を逸らす。
「……落ち着いたらちゃんと伝えますよ。フローラ様とすれ違うのは、二度とご免なので」
呟くような返答に、ルーカスが満足げに頷いた。




