15.王女は目撃する
読み終えた便箋を丁寧に封筒に戻し、フローラは深い溜め息をついた。
一緒に刺繍をしていたエルナが、手を止めて気遣わしげな視線を送る。
「……昨日まで王都を離れていたのですって。地方の観光地などをご案内していたそうよ」
誰を、とは口にしなかったが、エルナにはもちろん伝わった様子だった。
ロズリーヌと薔薇園の東屋で遭遇した翌日、フローラは朝一番でユリウスに手紙を書いた。会って話したいと、ただそれだけを書くのに文字が乱れ、5回も書き直した末に完成した手紙は、その日の内にバルツァー公爵家に届けられた。
いつものように、すぐにあるものと思っていたユリウスからの返事は、けれど、翌日になっても、さらにその翌日になっても届かなかった。
最初の3日は、朝目を覚ましてから夜眠りにつくまで、ユリウスからの手紙を待ってソワソワと過ごした。気を紛らわせようと、好きな語学の勉強や読書の時間を増やしてみたが、集中力はすぐに途切れた。ちなみに、アシャール語の文字を目にするのはどうにも気が乗らず、ユリウスのお土産の小説は、栞を挟んで本棚に仕舞い込んだままだ。
ユリウスと直接話をして気持ちを確かめる。そう決めたことでかろうじて浮上していたフローラの気持ちは、1日また1日と過ぎるにつれて落ち込んでいった。
そうして1週間が経ったこの日、待ちかねたユリウスからの手紙が届けられた。
微かに震える手で取り出した便箋には、見慣れた几帳面な字で、ロズリーヌを案内するため昨日まで王都を離れていたこと、そのために返信が遅くなったことへの謝罪、そして明後日であれば時間を取れるということが、丁寧に、淡々と記されていた。
「明後日まで時間が取れないのですって……。それまでどうやって時間を潰そうかしら。刺繍は確かに無心になれるのだけど……」
ぼんやりとした視線を刺繍道具に投げかけて、フローラが呟く。
にわかに肩と目に疲れを感じ、どうしても刺繍を再開する気にはなれなかった。
「姫様、少し休憩されてはいかがですか? 熱い紅茶と、何か甘い物をご用意致しますわ」
「そうね……甘い物を食べたら元気が出るかも……あ、そうだわ!」
パチンと手を叩き、フローラはすでに立ち上がっていたエルナを振り仰ぐ。
「カフェ・ブルームにホットチョコレートを飲みに行きましょう! もちろんエルナも一緒によ。今日の午後……では、さすがに急すぎるわよね。明日の午後でお願いできるかしら?」
「かしこまりました。すぐに手配致します」
いくらか明るさを取り戻した主の表情に、エルナは安堵の笑みで応え、きびきびと仕事に取り掛かるのだった。
***
翌日の昼下がり、フローラはエルナと共にカフェ・ブルームの特別席にいた。
フローラがお忍びで通う店の1つであるカフェ・ブルームは、王都の市街地の中心に位置する。市場など庶民で賑わう区域と、富裕層向けの高級店が立ち並ぶ区域との中間辺りにあるこの店には、貴族や裕福な商人だけでなく、贅沢気分を味わいに訪れる庶民の姿もちらほら見られた。
元は富裕層向けに作られたカフェとあって、店内の内装には高級感がある。木製のテーブルや椅子は艶のある落ち着いた色合いで、椅子の座面には渋い赤色の布が張られている。店内の照明は暗めだが、明るいテラス席もあり、日差しが柔らかく風が爽やかなこの季節には特に人気のようだった。
フローラ達の通された特別席は、店内の最奥に設けられた半個室の席である。ここだけは椅子の代わりにソファーが置かれている。
フローラがお忍びで訪れるようになってから、フローラのために作られた席であり、店の横手に新たに設けられた出入口から人目に触れずに入店できるという、非常にお忍び向きの仕様になっている。
なお、フローラが使用しないときは一般客にも開放されており、デート利用の客を中心にとても人気があるのだと、カフェのオーナーが嬉しそうに語っていた。
他の席との仕切りに利用されている木製の透かし彫りの衝立は、外からの視線を遮りつつ、中からは店内の様子が窺えるという絶妙な造りである。他の客からの視線をあまり気にせず過ごすことができ、かつ店内の賑わいを感じることもできるこの特別席を、フローラは気に入っていた。
「苺というのは予想どおりだけれど、うん、予想以上の美味しさね。チョコレートの甘さと苺の酸味がよく合っているわ」
グラスの底に沈む苺の欠片を、柄の長いスプーンで掬いながら、フローラがうっとりと感想を口にする。
カフェ・ブルームの名物とも言えるホットチョコレートは、甘さ控え目のチョコレートドリンクの中に、旬のフルーツを甘く煮たものが入っている。
フローラは昨年の春もカフェ・ブルームでホットチョコレートを飲んだが、もう少し早い時期に訪れたためか、苺ではなく柑橘類が使用されていた。それももちろん美味しかったのだが、やはり苺とチョコレートの組み合わせには及ばないのではないかと思うフローラである。
「エルナはこのお店は初めてだったわよね? どうかしら?」
フローラは、向かいに座るエルナがホットチョコレートのグラスに口を付けたのを確認し、期待を込めて尋ねた。
今日のエルナは、侍女として給仕をする予定はなく、王女の友人としての同行ということで、いつもの侍女服ではなく、外出用のドレスに身を包んでいる。侍女服といい勝負のシンプルなデザインながら、深い緑色のそのドレスは、エルナの落ち着いた雰囲気によく合っていた。
「ええ、とても美味しいです。もっと甘ったるいものを想像していたのですが、苺の酸味のおかげか、甘すぎることもなくて。ほんのりとリキュールが香るのも良いですね」
エルナの反応に、フローラは満足げに微笑んだ。自分の好きなものを親しい人に気に入って貰えるのは嬉しいことだ。
思い切って王宮を出て来て良かった、とフローラは思う。
いつもなら、前日に決めて出かけたりなどしない。王族が外出するとなれば警備などの準備に時間と手間がかかることを知っているからだ。けれど、今回ばかりは、ユリウスに会えるまでの2日間を、王宮で普段どおりに過ごせる気がしなかったのだ。
ホットチョコレートの甘さと温かさのおかげで、グラスの中身が半分になるころには、フローラの心もいくらか穏やかさを取り戻したようだった。
肩の力を抜き、見苦しくない程度にソファーの背もたれに体を預ける。
ようやく周囲に気を配る余裕が生まれたフローラは、衝立の飾り彫りの隙間から、ぼんやりと特別席の外に目をやった。
店内は、8割ほどの席が埋まっていた。その多くが身なりの良い客で、数人の婦人のグループや、デート中と思しき男女の客で賑わっている。心地の良いざわめきが特別席にまで伝わってきて、フローラの気持ちもつられて高揚するようだった。
ゆったりと店内を見渡していたフローラの視線は、自然と、明るいテラス席に引き寄せられ、そして、ある1点で止まった。
その瞬間、ふっと、フローラの周囲のざわめきが消えた。
そこにあったのは、見慣れた黒髪とアイスブルーの瞳。
向かいに座る後ろ姿は、見覚えのある栗色の巻き髪。
それぞれの前には、ホットチョコレートのグラスが置かれている。
栗色の巻き髪の女――ロズリーヌが優雅な手つきでグラスを持ち上げ、口を付ける。
グラスを置き、何かを喋る。しかしその声はフローラにまでは届かない。
続いて、黒髪の青年――ユリウスがグラスを手に取り、ホットチョコレートを口に運んだ。
ユリウスの喉が上下し、唇がグラスから離れる。それらの動きが、やけにゆっくりと感じられた。
そして次の瞬間、フローラは息をのみ、凍りついた。
ユリウスが、甘いものの苦手なはずのユリウスが、ホットチョコレートを飲んで、笑ったのだ。
その綺麗な笑顔は、彼の目の前に座るロズリーヌに向けられていた。ロズリーヌだけに。
微かに震えるフローラの手の中で、冷えたホットチョコレートから甘く重苦しい匂いが立ち上った。




