お大尽(三十と一夜の短篇第24回)
このような場所までわざわざ足をお運びなるとは、酔狂な方でございますね。何もない独り者の気楽な長屋住まいに何のご用でございましょう。
はて、吉原の幇間なら大層祝儀をもらっているから隠居しても豪儀に暮らしているかと思っていたと仰言るので?
莫迦言っちゃいけませんよ。皆さん、あたしより花のような太夫や格子と楽しみたいといらっしゃるのですからね、幇間なんてものは添え物でございますよ。それに吉原で一端の粋人を気取って遊びたいなら、パリッとした装をして、物惜しみをしちゃなりません。職人でも袢纏なんて埃っぽい仕事着のまま来るな、羽織を着てこいと、若い衆から取り次ぎもしてもらえやしません。
幾ら心は錦でも、お客様の前で襤褸を着て太夫の後を付いてまわったり、お座敷に上がったりするわけにゃあまいりません。こちらも羽織や小袖を仕立てて綺麗な装でいなくちゃなりません。「張り」ってものがございます。幾つも衣服をしつらえて、迎える旦那衆を引き立てるような渋味のある恰好、たまには奇天烈な姿をしてみせました。悪戯で粗相され、下ろしたてがおじゃんになる宴席だってございました。扇子や手拭いなどの小道具は幾つ持っていても足りないということはございません。
それにいただくご祝儀が多ければ多いほど、こちらもしわい真似はできません。不粋と言われちゃおしまいの商売ですから。
ははぁ、旦那は吉原での遊び方指南の読本をお書きになっていらっしゃるので? あたしの所に来るのは筋違いというもので、直に吉原に行って見聞きしてきた方がよろしうございます。あたしはこの通り隠居しておりますから、昔話しかできません。
それでもいいとは、こりゃまた異なことを仰言います。
あたしが吉原にいた頃の、粋人と言われた方々の遊びを書いて残したいのでございますか。今時の遊び方が野暮ったいから、昔の粋な遊びを伝えたいと、そう仰言る。
失敬いたしました。涙が出るほど笑っちまった。ああ、可笑しい。
そりゃ無理ってものでございます。今と昔は違いまさあ。
今はどこのお大名だって、地獄の沙汰も何とやらの金子の遣り繰りが大変で倹約一方。そんなお大名に胡麻を擂るどころか金子をお貸しするのを口実つけてお断りしようと頭を悩ませている商人が、やたらとお金の掛かる吉原で華やかに過せるもんじゃごさんせん。
昔は寺だのお屋敷だの、大した普請が沢山舞い込んでおりましたが、それもあらかた片付きました。江戸は火事が多うございますから、材木屋や大工は年中どこそこで普請と仕事がありますが、ご存知の通り、お大名のお屋敷やお寺さんは広くて庭に木が植えられて、水を引いて池まで作っていらっしゃる。火が出て燃え広がるのは、人が寄り集まって暮らす町屋の方でございます。長屋や商家を建て直して、千両箱が並ぶ勘定にゃなりゃしません。
浅葱裏や気の短けぇ職人や博打で儲けた野郎が、初回、裏を返す、三度目で馴染みとなってやっと床入りと順序を踏まなければいけないのがもどかしくって、予め三回分の金さえ払えばいいのだろうと、無理を言うのを受け入れなきゃならない楼が出てきたって聞いております。遊び慣れない若旦那や浅葱裏に知恵を付けたり、祝儀の相場を教えてやったりしていた、あたしみたいな幇間はますます仕事がなくなるってもんでございます。
遊女だって気に入らない客は袖にするし、仕方なく相手をしなきゃならない時でも笑ったり話し掛けたりしませんし、顔を背けたままでいるような「張り」を通す女だっておりましたよ。そこをなんとか和ませようと話を振ったり、遊女の持って回った言い方の嫌味に気付かぬ客に脈はなさそうだと耳打ちしたりして差し上げるってのが、幇間ってものでございます。
吉原では遊女が機嫌を取るのではなく、お客様が遊女の気を引くもんでございます。それを金を払っているのだから好きにさせろと無理強いをするのは不粋、野暮の骨頂でございましょう。
儲けた旦那衆が節分の豆を撒くように、金の粒をばら撒くような遊び方は二度とないでしょうし、それを懐かしいたぁ思いませんよ。金をばら撒いて、それを拾おうとあたふたする者たちを見て笑うのと、金を払っているのだから客の機嫌を取ってもてなせと強面で言うのは同じでございましょう。
馴染みの遊女を持つたぁ金子の要ることでございます。節句だ、祭りだ、花見、月見、――月見は十三夜と十五夜の両方ございます――だと紋日と呼ばれる日があって、こういった祝いの日の中には仕着日といって、遊女たちは格に応じた衣装を見繕うのが決まりでございました。また、季節の衣更の日だって似たり寄ったり、それまでの手持ちを着回すなんぞできません。「見栄」と「張り」の為に、遊女は自分の分に合った小袖、振袖、打掛をこさえます。馴染みが少ない遊女は借金かかさばるのを承知で楼主に頼みますし、贔屓の旦那衆がいる遊女はそれこそ大喜びで立派な衣装を誂えます。妹分や抱えの禿にも一緒に練り歩くのだから、揃えたいとねだられますから、一人二人の馴染みがいるくらいじゃ遊女は衣装を作れませんて。
そいで祝いの日に馴染みの旦那方は、どんな着こなしをしているかと登楼なさいますし、その際には一緒に座敷に上がる者たちにも祝儀を渡してやらなければなりません。太夫や格子といった遊女に妹分や禿、遣り手、幇間、若い衆、三味線で景気付けをしてくれる芸者連中、相伴に与ろうとほかの部屋の遊女や下働きまで挨拶に上がろうとします。遊女は華やかなようでも、楼で与えられる飯はお粥と香の物くらいですから、ここでご馳走してもらわなければ身が持たぬと膳の物の注文を申し付けます。ここで祝儀やおねだりを惜しむようでは見損なわれます。こちら側だって、お馴染みさんに散財させ過ぎて二度とおいでいただけなくなったら元も子もありゃしませんから、何事もほどほどにしておりました。
「粋は身を食う」たぁホントのことでございます。「見栄」を張り始めたら、天井知らず。道楽に金が掛かるのは道理でございますが、それで身上潰したら笑い者になってしまいます。
人が人として生きていきたいのは、遊女も同じ。女郎じゃない、上臈なんだと、売り買いされるだけの物ではないと「張り」を持って過すのがせめてもの「意気地」ってものじゃありませんか。
さてね、あたしが直に見聞きしたことじゃありませんが、昔あったと伝え聞いているお話がございまさあ。
元禄の十五年っていいますから、今から八十年くらい前のことでございます。そうそう、赤穂浪士の討ち入りの年でございますよ。その年の夏にあったっていう出来事です。
出羽国は北村山の尾花沢に鈴木八右衛門、屋号を島田屋、俳句を嗜んでいて俳名を残月軒清風と名乗られた紅花商人がおりました。松尾芭蕉ともお付き合いがあったご仁と伺っております。その鈴木清風が夏に尾花沢から紅花を多くの馬に積んで江戸まで運んできました。紅花といったって、摘みとった花をそのまま運んでくるんじゃありません。染め物や化粧に使えるようにと手間暇かけて紅餅にしています。棘のある花を朝露を含んでなるべく柔らかいうちにと、女子衆が指を傷めながらせっせと摘み取った紅花を、洗って揉んで丸めて、しっかりと乾かしたものが紅餅というそうです。もっともわたしは伝え聞いているだけですから、売れる品にするにはもっと細けぇ段取りがあるんでしょう。
ところが、江戸の問屋たちは鈴木清風が持ち込んだ紅餅を買い取ろうとしない、皆で示し合わせて、今年は要らないだの、ただ同然の値なら買い取ってやってもいいだの、小馬鹿にした口ばかり。
鈴木清風、出羽国からはるばる荷駄を運んできたっていうのに、道の奥の田舎者と侮って、今年は買わぬと問屋全部で言い続ければ折れてくるだろうから、言い値で安く買い叩こうとしているのだと察しました。
鈴木清風は江戸の辻々に札を貼りました。
「今年の荷開きの紅花は、何処の問屋様にても御不用の趣、さりとて江戸まで運びし荷を再び奥州まで持ち帰るのは名折れ。来る七月二日の午の刻、品川海岸にて、紅花全部焼き捨て申すべく候。いずれ様もご検分勝手たるべし。出羽国島田屋八右衛門」
問屋たちはただのはったりと、高を括っておりました。ところが七月二日の昼に、品川の浜で、山と積まれた紅花に火を付けて、全て焼いてしまったのです。
これで困ったのは江戸の問屋連中でございます。買わぬと言っておれば泣きついてこよう、そこで安く仕入れようとしていた当てが外れましたのですから、あっという間に紅の高騰となりました。布地を染めるのにも、役者や女の化粧にも紅は欠かせません。高札のお陰で恨まれるのは鈴木清風ではなく、問屋たちでございます。
問屋たちが逆に泣きついてくるのを、鈴木清風は慌てることなく迎え入れました。品川の浜で焼いたのは、少しばかり紅の色を付けた鉋屑や古い綿、遙か尾花沢から運んできた大事な紅餅をどうして燃やせましょう。紅餅は大事に倉庫にしまい込んでおりました。これはもう問屋連中の負けでございます。鈴木清風は問屋が通常よりも何倍もの値を付けてくるのを、売りさばき、見事巨万の富を得たのでございます。
しかし、これで儲けたと喜ぶばかりでなかったあたり、この紅花大尽の偉い所でございます。
「尋常な商いで得た金子ではない」
鈴木清風はそう言って、およそ三万両を吉原に持ち込みました。そして、その三万両で大門を締切って、三日三晩吉原で過したのでございます。
吉原の入口は大門一つ。ここを締めれば、ほかの者は入れない、貸し切りでございます。
清風本人ばかりでなく、連れてきた島田屋の番頭やら奉公人、馬子たち全員となっても、遊女二千人に人数は及びますまい。代わる代わる挨拶に回ってきたところで、あっという間に三日経ってしまいまさぁ。それじゃ遊んだ気になりゃしません。
きっと馴染みのお楼に流連て、吉原に住む全ての者に祝儀と休みをくれてやったのでしょう。遊女たちは、婀娜な姿に見せようと高々と髪を結って、玳瑁の簪を差して頭が重い、痛い、夏でも華やかに重ね着をして飾り帯を付ける毎日を送っているのでございます。馴染みの客たちに文を書いて、この日に来てくれたら嬉しうござんすわいなあなと、客を回してなるべく登楼の日がぶつからないよう、算段をしているんでございます。鈴木清風の旦那は、それをしないで済む日を籠の鳥の女衆にわずかでも与えたのでございますよ。
粋とはこういうものじゃござんせんか?
それに鈴木清風は流石に紅花を商うお人じゃございませんか。吉原では女は紅を注し、工夫を凝らした衣装をまとう、巡り巡って紅を使うご贔屓様とへんげします。そこにお金を落とすたぁ、損をしているようで、得が流れてくるようなものでございませんか。
え? 三浦屋の高尾太夫が仙台侯を振ったのは、鈴木清風に惚れていたからかですって?
確かに伊達の殿様を振ったと伝わる高尾太夫の間夫の名前は島田某と読本なんかで書かれていますがね、旦那、勘定はできますかい?
いくらなんでも時代が違っておりますよ。あたしは赤穂浪士の討ち入りの年、元禄十五年の夏と申しました。仙台侯が吉原の太夫とどうのこうのと言われていたのは万治高尾のことでございましょう? 万治ときたら元禄よりずうっと前の元号です、確か、慶安とか明暦の次くらいで、元禄よりも三、四十年前でございます。万治の頃の高尾太夫がそれまでお職を張り続けていたら、年増を通りこしてしまいますよ。勿論三浦屋には名前を継いだ太夫がいたかも知れませんが、万治の頃の太夫とは別人でしょうや。
どうですか? 鈴木清風が紅花大尽と呼ばれていたから、いかにもありそうだと伝えられた作り話でございます。あたしが若い頃に聞かされたんです。
良くできているのですから、がっかりしないでくださいませんか。面白くっていい話ってのはそうそう転がっちゃいないですよ。もしからしたら、これとそっくりそのままではなくても、似たようなことがあって、どんどん尾ひれが付いていったのかも知れませんさ。今となっちゃ八十年前のことなんざ、無学なあたしにゃとんと見当が付きません。
吉原じゃあ、何が嘘か真か、真か嘘か、明らかにしようとなんてするのは無駄でござんすよ。
あたしとしちゃ紀文や奈良茂の吉原での見栄の張り合いよりか、ずっと面白い話だと思っております。
何が粋かと気にしたら、それが野暮ってものでござんしょう?
参考
『お江戸吉原ものしり帖』 北村鮭彦 新潮文庫
『山形縣 史蹟人物と沿線名所』 早坂忠雄