Ep.1 泥酔
柔らかい斜陽を一心に受け、トルマリンの意識はゆっくりと覚醒していく。
昨日、夜遅くまで酒を飲んでいたことが祟って、彼の身体と瞼は鉛のように重い。
「ふぁ……あー、はたまはいてぇ。ひのーのひすひたな……」
二度寝を求め、怠惰に沈んでいく性根に鞭を打つ。
冬が開け、春が到来したとはいえ、早朝はまだまだ凍てつくように寒い。
二度寝を求め、怠惰に沈んでいく性根に鞭を打ち、ブルリと一つ、身体を震わせ上体を起こしたトルマリンは辺りを見渡し、眠い目をこすりながら呟いた。
「ほほは、ほほは?」
トルマリンの目には、いつもの質素な暮らしからは想像もできないような光景が広がっていた。
温かみ溢れるアイボリーホワイトの壁、そしてその壁を彩る金細工。
絢爛さと清楚さを見事に同居させた赤黒い深紅の絨毯。
正面に見える、黒色樫と思わしき木材で作られている重厚な扉。
左右にも、黒色樫と思わしき木材で作られている扉が見える。しかしこちらは、先程の扉とは違い、シンプルな作りだ。
そして、天井からぶら下がっている派手やかな灯りを灯す涅色を基調としたシャンデリア。
庶民よりも生活水準が低い農夫であるトルマリンですら、高級だと分かる品々。そしてそれが惜しげもなく使われた部屋で寝ていた自分。
一息遅れて状況の異様さを察したトルマリンは、これまた高級そうな毛布を投げ捨て、ベットから飛び降りる。
「あっ……?――ブッ!」
一瞬の浮遊感の後、不思議な感覚に襲われ、トルマリンは頭から地面に激突した。
鈍い痛み、そして鼻孔をくすぐる生臭い鉄の臭いにトルマリンは顔をしかめながら、自らの身に起きた状況を把握しようと必死に頭を回転させる。
「――ッ!なんはこへ はらだはうほはなっ……そうひえはっ |ふひょうもおはひぃくなっへ《くちょうもおぼつかなくなって》……!」
トルマリンの身に起きたことは、如何せん説明がしにくい。
手で地面を突いて立ち上がろうとすると、地面があると思った場所に地面は無く、そのまま虚しく手は空を切りバランスを崩し、肩から思い切り転倒する。
足で地面を踏みしめ立ち上がろうとすると、あると思っていた場所に地面は無く、やはり足は空を切り膝を強打してしまうのだ。
芋虫の様にうごめきながら何とか仰向けになることに成功したトルマリンは、そのまま大の字になって息を整えようとする。
「ハァ……ハァ、フー……ハァ、ハー、ヒュー……。|ほんかふてひにどふなってんは、こへ《ほんかくてきにどうなってんだ、これ》」
困惑に喘ぎながら、トルマリンは右手を天にかざす。
そして――
「はは……。 |はひてどおなっへんだよ《まじでどうなってんだよ》……」
トルマリンは自分の幼くなった腕を見て、さらに困惑の渦に飲み込また。
自分の腕には、何度も皮が剥げ、そのたびに堅くなっていった手の平も、脂肪なんてものは無くただ無骨な筋肉に皮膚が巻かれていただけのグロテスクな上腕も無かったのだ。
腕の太さと筋肉の付き方から見て十代前半あたりだろうか。
「|ようはいかしてるっへこほか《ようたいかしてるってことか》? はは、|そんなおほぎばなひじゃあるまいし《そんなおとぎばなしじゃあるまいし》……」
自分の口から出たのか、と自分自身が一番笑い飛ばしたくなる仮説だが、もしそうだとすると、今までの身体が動かせなくなった謎に説明がつくのだ。
手足は成長期になると急激に伸びるため、今までの意識に身体が追い付かない。そのため、今まで通りの意識で今まで通りに身体を動かそうとすると、意識と結果の間に大幅な差異が生じることとなる。
それに比べて頭部は余り成長しない。そのため、身体が後退しても今までの意識とほとんど差異がないから、身体に意識が順応してきている、という訳だ。
「まあ、そんはバカみたいなことはるわけないか……」
身体と意識との差異に気を付ければ、段々と動けるようになってくる。まだ、歩くなんてことは出来そうも無いが、這って進むくらいの事は出来そうだ。
口調に至っては最も顕著で、意識するだけで今までとほぼ同じ様に喋れるようになってくるのだ。
「てことは、あのアホみたいな考えはは本当はっはてことか? いや、でも一体誰が何の為に……」
状況が見えれば、頭も冴える。トルマリンは頭を総回転させ、何故自分がこうなっているのか、という疑問に対して考えを巡らせていく。
その上で、最もカギとなりそうな出来事とは――
「やっぱり、俺が昨日飲み過ぎた時だよな。酔い潰れてからの記憶が無い。いや、そもそも昨日の事なのか? 」
トルマリンが酔い潰れた理由は、実に単純で自らの誕生日を祝う為というのと、夏の終わりに蒔いた小麦が冬の大寒波によりその半数以上が駄目になってしまったことに対しての自棄酒だ。
それと、唐突にトルマリンに酒の呑み比べを申し込んで来た少年のせいでもある。ローブを目深に被っており、顔を伺い知ることはできない。
年は十五歳くらいだろうか。王国法で、やっと酒が呑めるようになった口だとトルマリンは勝手に納得した。
大人ぶったガキだな、と思いつつも、勝てば飲み代を全額負担してくれるそうなので、トルマリンはその勝負に乗った。
少年は見た目によらずかなりの酒豪で、軽くジョッキ五杯を呑み干したのだ。負けじとトルマリンも、ジョッキ六杯を呑み干ほす。と、そこまでは覚えているのだが、意識が朦朧としてきて、そこから先をトルマリンは余り覚えていない。
浮いた酒代で酔い醒ましの根草を適当に身繕い、フラフラになりながら帰路に着いた記憶がうっすらと残っているので、トルマリンは呑み比べには勝ったのだろう。
「んで、今この状況と······世話ねぇぜ。野菜、大丈夫かな······」
何よりも怖いのが、自分が一日以上寝ていたかもしれない、という事だ。
あれほど酒を呑み、悪酔いしたのに加え、こんなよくわからない場所に寝かせられても尚、意識は無かったのだ。その可能性は十分にある。
「おや、お目覚めですかトルマリン君」
凛としていて、筋の通った声がトルマリンの名前を呼んだ。
自分へと掛けられた唐突な言葉に、トルマリンは戦慄する。
すぐさま声が聞こえた方向を振り返ると、――先程、扉を開けて入ってきたのだろう――重厚な方の扉の前に一人の男が佇んでいるのが見えた。
その男とは、顔の左目辺りを墨に浸したような黒の布で覆っていた。右に残る金色の隻眼と、短く切りそろえた鮮やかな灰色の髪が特徴的な、細身で足の長い中年男性だった。
男は一定の歩調でトルマリンへと近づき、やがての眼前にまで迫ると、男は左膝を深紅の絨毯に付け、右膝を折り傅くような形で深々と、トルマリンに対して頭を下げた。
「三日前の夜以来ですが改めて。私は四公領地が一対、北西のフリクラル領を統べるフリクラル家現当主レンドロード・フリクラルと申します。
――さて、トルマリン君。契約の件についてですが、細かい埋め合わせと今後について話し合いましょうか」
何故、自分はこんな事になっているのか。
一先ず、その張本人と思わしき者からの説明は受けれそうだ。