Ep.0 ある日
分不相応という言葉がある。
身の丈に合わない、なんて言葉もある。
人間には、生まれ持った器がある。これは、事実だ。
そして、人生には無限の可能性が在る、と吟遊詩人はよく謳うが、この世界では人生は必ず一本道なのだ。
勝手が許され、自由に人生を歩めるのは、一握りの人間しかいないのだ。それこそ、『勇者』か『冒険者』くらいしか。
時に、この幼い農夫の息子は、傲慢にも、強欲にも、『冒険者』を、そして『勇者』をになりたい、と夢想した。
それは、幼子ならば、誰しもが夢見るような儚い空想。やがては大人へと至り、誰しもが気付いていく残酷な幻想だった。
しかし、二十九歳になり立派な農夫となった男は、未だにその夢を諦めきれていない。
夢を見る時間もいい加減終わりだというのに。
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小鳥の無遠慮なさえずりによって、トルマリンの意識はゆったりと覚醒していく。いつもより小鳥のさえずりがうるさいと感じるのはきっと、寒い寒い冬が終わり、暖かい春が来たからだろう。
トルマリンは、半分意識が覚醒していないのか、芋虫の様ににベットから這いずりながら出てくる。そして、ゴンと鈍い音を立てながら、埃被った板張りの床に頭から激突する。
ようやく、トルマリンは半目になって目をこすり、欠伸を一つ行うに至った。
そして、彼は木箱から、薄く簡素な灰色の服を取り出す。
これは以前、珍しく行商人がここらを通った時に購入した物で、頭からこの衣類をかぶり、長い袖に腕を通すだけで服としての機能をなすという、お手軽な服だ。発案者の名を捩り、この服はティーシャットと名付けられたらしい。
その機能性から、王都では専門店が立ち上げられる位には、普及しているのだという。
そんなティーシャットは、トルマリンにとって、ちょっとした貴重品で、お気に入りの品だ。
身支度をある程度済ますと、牛の胃袋で出来た空の水袋を持ち、近所の――とは言ってもそこまで行くには徒歩で十分くらいの距離にある――井戸に向かうため、樹皮で出来た薄い扉を壊さないようにゆっくりと開けながら、井戸に向かって歩き出した。
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しばらく歩いていると、件の井戸がトルマリンの目に映り込んできた。
少し、歩みを速めてトルマリンは井戸を目指す。
井戸にたどり着いたトルマリンはこれまで歩いてきた分の渇きを潤すために、まずは水を一掬いして、ゴキュリと飲み干す。
手が痛くなるくらいの冷たさである朝の井戸水もほってた体には丁度いい。
そのまま、気だるげな自分の身体に喝を入れるために、トルマリンは顔を洗おうと水に顔を近づける。
その時、トルマリンは見てしまった。この世で最も忌避する自らの顔を。
まず、痩せこけた自分の頬骨が嫌いだ。手入れが不十分なせいで伸びきり痛んでいる黒髪が嫌いだ。如何にも苦労人ぶった目の下のクマが嫌いだ。この世の不条理を悟ったように、分かりやすく絶望している口角と目じりか嫌いだ。それでも、生まれさえ違っていれば自分は出来ていたと主張する黒瞳の奥の光が嫌いだ。
そして、――そんな蔑視の対象である生まれと、黒髪黒瞳に対して感謝している、自らの心の浅ましさが大嫌いだ。
『だって、それが最大の言い訳になるものね』
声が、聞こえた。
それは、この世で最も聞きたくない女の声だ。
いつも、突然に現れて、脊柱を舐めるようにトルマリン鼓膜を震わせる、おぞましい声。
それでいて、心の底から安堵してしまうような、優しく、慈愛に満ちた声色。
「──ッ!!」
突然の事に絶句し、身体の節々が強ばるトルマリンを他所に、声は淡々と、紡がれていく。
『生まれも種族も黒髪も黒瞳も全部ぜーんぶ、貴方にとっては悲劇だものね』
「ちっ、ちがっぅ······」
掠れた声で、弱々しく否定するトルマリンだったが、声はそれを許さない。
『仕方がないって自分に言いたいんでしょう? しょうがなかったて慰められたいんでしょう? 頑張ったねって認められたいんでしょう?』
「お前に、俺の何がッ······」
『分かるわよ。当然でしょう? だって私は貴方のは──』
「黙れって、言ってんだろ!!」
無理矢理、振り絞った様な声でトルマリンは声を掻き消す。
夢の中で頬をつねると夢から起きられるように、この声は『黙れ』と一言言うと当たり前の様に掻き消える。
掻き消された声は、陽炎のようにゆらゆらと反響しながら、やがて世界から存在が消える。
拭えない疲労感と嫌悪感、そして不快感によって、荒くなった呼吸を整えるために、悪夢にうなされた子どものような形相で、トルマリンは桶に汲んでいた水を、自らにかけた。大げさに水を被ったせいで、身に着けていた服が薄灰色から濃い灰色に変化してしまったのだが、それをトルマリンが気にする様な素振りは見られない。
──いつもなら、こんなヘマはしない。きっと、春の陽気のせいで気が緩んでしまったのだ。
子守唄を歌うように自分に言い聞かせながら、トルマリンは牛の胃袋を右手で持ち、朝霜により冷えた井戸水の中に、手を差し込む。
牛の胃袋を沢山の冷水で満たし、トルマリンはその場を後にする。
やるべきことは、まだまだある。まずは、水を沢山詰めたせいで二回りほど膨張した牛の胃袋を自宅まで持ち帰り、水瓶に溜める。
そして、ほんの少しだけ水瓶から水を拝借し、一つまみの塩と共に安納岩と呼ばれる岩石で出来た水筒に注ぐ。
安納岩とは、神に供物を奉納するときにも使われる、耐久性・撥水性が高い素材である。トルマリンにとっては、数少ない父の形見だ。
そうして、一連の準備を終えたトルマリンは自らの職場である農作地に向かう。
そう、トルマリンの職業は農夫なのだ。といっても、自らの意思でこの過酷な職に就いたわけではない。
トルマリンの『天職』が、農夫だったのだ。
彼が住んでいる北西大陸では古来より、親の仕事は子が引き継ぐべし、という慣習がある。さらに、世の理を示したとされてある『聖書』という経典には、『職とは神が原初の民に直接命じられた使命である』という一文がある。
その原初の民に授けられた職の事を、人々は、天が与えし職という意味で『天職』と呼ぶ。
そして、『天職』は神聖な物であるから決して途絶えさしてはならない、という習わしから子は親の『天職』を継ぐことを、親からも世間からも強要される。
つまり、トルマリンは農夫の家系に生まれたというだけだ。
農作地に着くと、一も二も無く鍬を振るい、農地を広げる。そして、種を蒔き水をやる。
もうこの作業を行うのも、十四回以上になる。
トルマリンは、無心でそれらの作業をこなしていく。いつものように、この生活に終止符が打たれることを望みながら。